醤油業近江屋での落命

 

 龍馬・中岡遭難の地 近江屋跡 現京阪交通社      土佐稲荷社 旧土佐藩邸前

  土佐藩用達の醤油業、近江屋(井口新助宅)に福井から帰った龍馬は、風邪のため床に伏していた。慶応3年11月15日夕方中岡慎太郎が来訪した。同席していた岡本健三郎(土佐藩士)・峰吉(中岡が下宿していた菊屋の長男)が使いなどで外出したあと、「十津川の郷士だが、才谷(龍馬の偽名・才谷梅太郎)先生が在宅なら面会したい」と言って名刺を出した。その時、龍馬の従僕、山田藤吉(相撲とり上がり)が楊枝を削っていた。藤吉は、怪しまず名刺を持って2階に上がった時、その郷士が藤吉の後ろから、いきなり一太刀・二太刀と斬りつけ、その場で藤吉は倒れた。:この時の状況については、色々な説がある。以下同じ。

  ドタバタとした音を八畳間で聞いた龍馬は、「ほたえな!(騒ぐな)」と言った。間髪を入れず襖が開き刺客が現れ、「才谷先生しばらく」と言った。一瞬、二番手刺客が抜刀、龍馬は座ったまま横なぎの太刀で前頭部を斬られた。龍馬は、床の間の刀を取るため手を伸ばしたが、右の肩から背まで斬られ、三太刀目は、鞘のままで受け止めたが、さらに、額を断ち割られた。

  一方、他の刺客が、「こなくそ」と言って中岡の後頭部に斬りつけた。中岡も刀を取る間もなく、11カ所も斬られて倒れた。刺客は、中岡の尻に刀を突き刺し「もうよい」と言って去っていった。

  暫くして、龍馬は、気絶から醒め「俺は、脳をやられた。もういかん」と中岡に言った。龍馬は、医者を呼ぼうとして階段の所まで這ったが力尽きた。新助が土佐藩に急報した。医者の診断で、龍馬と藤吉は翌16日に、中岡は17日に死亡、その間、中岡はその時の様子を語った。時に龍馬33歳、中岡30歳、藤吉19歳であった。

坂本龍馬・中岡慎太郎の墓  京都東山霊山護国神社

  慶応3年11月18日(17日夜の説もある)三人の葬儀が行われた。海援隊・陸援隊士・土佐藩・勤王派志士に見送られ、その日は冷たい雨であつたにもかかわらず数千人の人々が見送ったという。山田藤吉の墓は、向かって左隣にある。

     

            坂本龍馬                    中岡慎太郎

龍馬の墓碑「坂本龍馬紀直柔之墓」、裏に、慶応三丁卯十一月十六日闘死となっている。中岡の墓碑は「中岡慎太郎道正之墓」となっている。 注;(丁卯=慶応)