最後の女神

それは、希望のない歌だった。
希望。
希望、か。
希望とは何だろう。
溺れる者がつかむワラだ。

雪はいまは降っていない。
あたりは一面の白だが、空の色が暗いせいだろうか、白いという言葉から連想される清潔さは感じられない。
目の前のバス道は雪が除けられて、アスファルトがのぞいている。
そのアスファルトも、うっすらと白く化粧をほどこされている。
風が吹いていた。さあああっと、土煙ならぬ雪煙が道路を掃くように過ぎっていく。
バス停には小さな囲いがたてられ、ガラス戸がはまっている。
バスは1時間に1本。それも朝のうちの話で、昼間は2時間半に1本しかない。 目の前の黒い瓦屋根ばかりが続く町は、雪にうずもれて冬眠しているようだ。事実、お城も資料館も春まで閉鎖されている。
私はギシギシと不吉な音をたてるベンチに背をもたせかけた。
寒かった。
靴はごく普通のズックで雪国仕様ではなく、靴下は厚手のものを履いていたが、侵食してくる水分には無抵抗だった。 私はバスを待っていた。バス停にいるのは私一人。イヤホンをつけてディスクマンのスイッチを入れる。希望のない歌が始まった。突き放すような歌い方で、歌手は歌っている。希望はなくても生きていかなくてはいけないのだと歌っている。
私はスイッチを切った。何かほかのCDを持ってはいなかっただろうかと、旅行かばんのファスナーを開いた。
一番上の替えのセーターが丸くふくらんでいた。

ちょうど350mlのコーラの缶のようなものが中に入っていた。だがコーラでないことはたしかだ。オレンジ色をしている。私はそれを取り上げて、しげしげとうちながめた。
大正ロマンのような着物の女性の絵が描いてある。
白雪、燗自慢、お燗機能付、ワンプッシュ式。ポッとなるもの、ありがとう。
ほかにも色々と文字が書いてあるが、私は近眼でよく分からない。 色白の横顔の女性が指を組んで頬にあてている。

私は燗酒は飲まない。これを入れたのは、私が燗酒を飲まないことを知らない、ただ酒好きとだけ承知している人。
私は缶に大量に書いてある文字を判別しようと、ためつすがめつした。とりあえず、缶を逆さにして中心部を押し込み、缶をもどして数分待てばよいらしい。原理も書いてあったが、まあ何でもいい。
私は指示に従った。確かに缶が熱くなってくる。
そろそろいいだろうかと缶を取り上げ、上部のリングプルをひっぱってふたをあける。安定が悪く、いくらかこぼれおちた。顔に近づけると、燗酒のにおいが鼻をついた。苦手なにおいだ。 酒のみは酒が旨くて飲むのではない、彼らは酩酊状態を期待して飲むのだ。と、言った御仁があるらしい。それも真実にはちがいなかろうが、私は旨くない酒を飲むくらいなら素面でいるほうがましだと思う。本物の酒飲みではないのだろうな。

私は酒を少しずつ飲んだ。
酒はすぐ冷め始めた。味のほうは、おもったより悪くなかった。寒さも手伝っているだろう。
飲むのは好きだが量は飲めない、ほとんど下戸にちかい私はすぐ頭がぐらぐらしはじめるのを感じた。この状態でバスに乗るのは危険かも知れない。
だが、この町には私を受け入れてくれる家はない。旅館もホテルもむろん、ない。JRはとうの昔に廃線になっている。 私はほてった頬を冷やそうと、ガラス戸を開けて雪道に出た。
道は白く、まっすぐにのびていた。
右へ進めば、戸をたてて、何者も受け付けないと宣言しているかのような町のなかへ。
左へいけば世界の果てへ。
道は白く、やがて灰色になり、わずかの距離で溶暗のなかに沈み込んでいく。道路の両脇には薄汚れた雪のバリケードがそそりたっている。
もう一度、右を見る。同じく溶暗に沈む道、だが人家のなかを縫う道のほうが、私をぞっとさせるようだ。
私を拒む道。
左は私を誘う道。
誘われるままに進めば…

私は身震いを一つした。
バスが来た。
私は旅行かばんをひっつかんでバスに乗った。バスの窓から見ると、バス停の囲いのなかのベンチにオレンジ色の空缶がぽつんと置かれたままになっていた。 バスはのろのろとではあるが確実に進み、海へ続く道を逸れて、ここよりは少し暖かいだろうとなり町へ向かっていく。
私はバスに感謝した。燗自慢に感謝した。
バス道は存外に狭い。広い道をそのまま進めば、海にあたる。窓の外を雪が舞い始めた。鉛色の波荒い海。
もういちどディスクマンのスイッチを入れる。希望のない歌は、それでも生きろと私に語り掛けている。
町を外れるときに、小さな影が見えたような気がした。燗酒の贈り主かも知れない。
生きろ、と私に命じたのか。

はい。
私は小さくうなずいた。
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