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太平洋戦争日本の海戦について















ミッドウェー海戦について
1942年6月4日に起きました。
日本航空母艦4、戦艦2、巡洋艦3駆逐艦12(機動部隊のみ) 米 航空母艦3、巡洋艦8、駆逐艦15 ミッドウエー島の飛行場の航空機です。
日本 南雲忠一中将 米 フレッチャー少将です。

日本軍は、ミッドウエー島を占領、ここに水上機基地をを建設し、ハワイとアメリカの連絡を盗聴および前線哨戒基地を作る目的で上陸部隊を送りました。上陸部隊より先に、空母4隻を中心とする機動部隊がミッドウェー近海に行き、ミッドウェー空襲のために第一次攻撃隊200機を発艦させ、ミッドウェー島に打撃を与えますが、第一次攻撃隊より、「第二次攻撃隊発艦ノ要アリ」という電報が届き、敵艦隊用に残しておいたもう半分の艦載機の武装を、兵装転換で全て魚雷から爆弾に変えました。しかし、発艦となったときに利根偵察機から「敵空母発見」の報が入り、空母赤城の艦橋は混乱しました。第二航空戦隊(空母飛龍、倉龍)司令長官の山口多門長官は、敵機に攻撃されてはいけないと、「攻撃隊発艦ノ要アリ」という信号を送ってきましたが、南雲司令長官はそれを無視し、兵装転換命令を下しました。そして、転換も終わりいざ発艦!というときに、山口長官の予想道り、敵急降下爆撃機20機が現れ、しかも直援の零戦も低空におりていて、一瞬にして3空母(雲の下に居た飛龍を除く)が被弾、炎上しました。残った飛龍は、すぐさま攻撃隊を発艦させ、2波にわたる攻撃で米空母ヨークタウンを大破させますが、強力な対空砲火で多くの搭載機を失い、飛龍も夜間攻撃の予定だった第三次攻撃隊を用意している途中に、米爆撃機に爆撃され、飛龍も沈んでしましました。しかし、ヨークタウンは付近に待機していた潜水艦「伊168」に撃沈されました。敗因は、主に「慢心」とされています。
慢心、ダメ、絶対、ですね。
これにより、日本海軍は精鋭の第一機動部隊と多くの搭乗員を失い、残り3年の地獄の戦いに突中していくのでした。

                   他説 ミッドウェイウェイ海戦

ミッドウェイ海戦で、兵装転換中に爆撃されたとありますが、他説で、「ミッドウェイ海戦で負けた理由は、兵装転換ではない。普通、敵機がいつ来るか分からない時に兵装転換なんてしない。それに、魚雷だって、当時はすごく貴重で、航空母艦に搭載できる魚雷は爆弾より大幅に少ない。日本は攻撃機は多いが、その半数は偵察用だ。それに、赤城の写真だって急降下爆撃機に襲われる際、写真には航空機は甲板には写っていない。」というのがミッドウェイ他説です。

第1次ソロモン海戦について

第1次ソロモン海戦は、1942年8月9日に起きました。
日本 巡洋艦8、駆逐艦1 米・オーストラリア 巡洋艦5、駆逐艦6
日本 三川軍一中将 米 クラッチレー少将
損害 連合軍は4隻沈没 3隻損傷

米軍反攻の第1歩としてガダルカナル島上陸があり、ガダルカナル島をめぐって半年ほど死闘をくりかえします。第1次ソロモン海戦は、長期戦の始まりだったのです。
ガダルカナル島に連合軍艦隊が停泊していたため、ニューブリテン島、ラバウル基地から急行列車のように南下してきた日本、第八艦隊は米泊地に攻撃をします。
オーストラリア軍に対しての艦砲射撃の直前、レーダーを持った連合軍駆逐艦にきづかれましたが、時すでに遅く、日本軍は発見されると同時に射撃を開始しました。連合軍側が油断していた事もあり、次々と連合軍側が撃沈されていきます。連合軍を撃滅した日本艦隊は、このままガダルカナル島や輸送船団を砲撃しようとしましたが、敵空母艦載機の襲撃を恐れ、ニューブリテン島に帰投してしまいました。しかし........
この時、米機動部隊は逆に日本を恐れて遠くへ退避していたのです。戦後、「この時に砲撃していれば...」とよく言われますが、それは戦後わかったことなので仕方がありません。


第2次ソロモン海戦について

第2次ソロモン海戦は、1942年八月25日に起きました。
日本 航空母艦3、戦艦2、巡洋艦4、駆逐艦17 米 航空母艦2、巡洋艦4、戦艦1、駆逐艦10
日本 南雲忠一中将 米 フレッチャー中将 (少将より昇進) 
損害 日本 航空母艦1隻沈没 米 航空母艦1隻沈没です。

日本軍は、何回にもわたり、半壊滅状態のガダルカナル島に、輸送船で応急兵力・救援物資を送りましたが、ほとんどが途中で撃沈されてしまうのです。そこで陸軍兵1500名をガダルカナル島に上陸させて、同島の敵飛行場を占領する作戦にでました。しかし敵艦隊がガダルカナル島付近にいると予想されたので、日本軍は、ガダルカナル沖200カイリに2つの航空母艦(空母)部隊を配置して、敵襲に備えます。1つは姉妹艦の航空母艦瑞鶴、翔鶴です。翔鶴・瑞鶴は、ミッドウェー以来、数が少なくなった大型航空母艦です。他は小型航空母艦部隊(龍驤)です。ミッドウエーのときに、敵艦隊と敵飛行場を同時に攻撃しようとしたため、搭載機が足りなくなって、敗北したと考えた司令部は、今回は航空母艦を2隊に分けて、1部隊は敵航空母艦用、もう1部隊はガダルカナル島攻撃用に振り分けました。
小型航空母艦部隊は、敵航空母艦が発見できなかったため、ガダルカナル敵飛行場を攻撃しようとして搭載機を発艦させてしまいました。しかし、搭載機の留守中に運悪く敵航空母艦サラトガ搭載機が飛来したため、龍驤は、沈没しました。この海戦は、中途半端に終わってしまいました。日本軍ってついてないですね....


第3次ソロモン海戦について

第3次ソロモン海戦は、1942年11月13日〜14日に起きました。
日本 戦艦2、巡洋艦4、駆逐艦15 米 戦艦2、巡洋艦5、駆逐艦11
日本 阿部弘毅少歳 米 カラガン少将 損害 日本 戦艦2沈没、駆逐艦3隻沈没
米 巡洋艦二隻、駆逐艦7沈没です。

ガダルカナル島の米軍飛行場を戦艦霧島、比叡が艦砲射撃をすると米軍飛行場の倉庫や燃料タンク、管制塔などが次々と破壊されていきます。これに気を良くした日本軍は2ヵ月後、再度、艦砲射撃を企図して、戦艦二隻は狭い水道へ侵入しました。これを守るため航空部隊から水雷戦隊が南下してきました。ガダルカナル島北方に来た2戦艦は、火災を起こす三式弾を用意して接近します。ところが米巡洋艦隊日本艦隊を阻止するために進撃して来ました。日本軍は、三式弾から通常弾に詰め替える時間などはありませんでした。三式弾は、甲板を撃ち破るほどの威力はありませんが、火災を起こすことはできます。この弾で、米巡洋艦アトランタを撃ちました。米小型駆逐艦は、日本戦艦ギリギリまで迫って、機銃や魚雷を撃ってきます。この駆逐艦には、副砲で応戦しました。しかし、護衛の水雷戦隊のおかげで米駆逐艦3隻を沈められました。けれども、味方からの誤射もあり、比叡は沈没してしまいました。そして翌日に、ここをぬけて、再びガダルカナル島に向かおうとしたとき、戦艦霧島に米戦艦ワシントンの砲弾が次々と命中し、霧島はは沈みました。しかし、米戦艦部隊にも相当な被害があったそうです。その後、残された水雷戦隊は一失報いようと、米駆逐艦を次々と沈めました。

この2日間で日本軍は二隻も金剛型戦艦を失ってしまいました。残った同型艦は、金剛、榛名です。


レイテ沖大海戦について

レイテ海戦は、1944年10月24日〜26日に起きました。
日本 搭載機のそろっていない航空母艦、巡洋艦青葉以外全艦艇
米 航空母艦11 護衛航空母艦18 戦艦12 巡洋艦17 駆逐艦70 護衛駆逐艦11潜水艦13
日本 小沢中将 米 ハルゼイ大将
損害 日本 航空母艦4、戦艦3、巡洋艦10、駆逐艦17隻沈没
 米 航空母艦1、護衛航空母艦2、駆逐艦2、護衛駆逐艦1、魚雷艇1沈没です。
日本艦隊 小沢艦隊、西村艦隊、栗田艦隊です。
米艦隊 ハルゼイ機動部隊、護衛航空母艦部隊数隊、戦艦部隊(ハルゼイ機動部隊護衛)などです。

栗田艦隊
栗田艦隊は、戦艦5隻、巡洋艦12隻、駆逐艦15隻 計32隻の大艦隊です。
この艦隊は、ブルネイを出港し、レイテ島を目指しました。パラワン水道付近に来ると、アメリカ潜水艦に待ち伏せされて、旗艦の巡洋艦愛宕、摩耶が沈没、高雄が大破してブルネイへと回航ました。シブヤン海に入ると、米航空母艦機が飛来、空襲しました。この影響で、戦艦武蔵が沈没、巡洋艦妙高が大破、コロン方面に退避します。駆逐艦4隻も、大破したり、大破した巡洋艦を護衛したりして、艦隊から外れます。サマール沖海戦では、米護衛航空母艦1隻、駆逐艦数隻を沈めるも、米航空母艦機によって、巡洋艦部隊はほぼ壊滅してしまいます。残った艦艇は、戦艦4、巡洋艦4、駆逐艦8隻 計15隻までに数を減らしてしまいました。再びレイテ島に向かおうとしたとき、栗田長官が作戦中止命令を発しました。(生還したのは9隻)これは太平洋戦争最大の謎として終戦後に疑問に思われるのでした。

小沢艦隊
小沢艦隊は、小沢司令長官率いる囮艦隊でした。
その陣容は、「幸運の空母」瑞鶴や、千歳、千代田、伊勢、日向、最新鋭軽巡洋艦の大淀や駆逐艦でした。この艦隊の目的は、てきのハルゼー機動部隊を誘い出し、栗田艦隊の進撃と助けることでした。しかし、ハルゼー部隊以外にもこの海域には機動部隊がいくつも展開していたのですが、当時の日本軍は知る由もありません。
小沢艦隊は、「敵機動部隊発見」の報を受けると、ほとんどの艦載機を発信させました。
しかし、百数十機しかない艦載機は、撃墜あるいは敵艦隊を発見できず全滅しました。
そのころ、小沢艦隊もハルゼー機動部隊に襲撃されて、開戦からほぼ無傷で生き抜いてきた瑞鶴も撃沈されてしまいました。しかし、伊勢と日向は艦長の見事な指令でなんと爆弾、魚雷を「全弾回避」していたのです。しかし、その他の艦は殆どが沈没か損傷していました。しかし、確かに「囮」という任務はたっせいしたのです。しかし....栗田艦隊はてったいしてしまったので、完全に無駄死にになってしまいました。

西村艦隊
西村艦隊は、戦艦2隻を中心とする戦艦部隊です。西村艦隊は、始めは栗田艦隊と一緒でしたが、旧式戦艦2隻(扶桑、山城)がいたので、栗田長官は、レイテ湾での合流を目指しました。しかし、レイテ湾に向かう途中、米駆逐艦が現れ、魚雷を撃ってきました。しかも米駆逐艦の後方から、米魚雷艇が何隻もやって来て魚雷を発射してきます。さらにその向こうに米巡洋艦、戦艦が待ち伏せしていました。この集中砲火と雷撃によって、扶桑と山城は艦橋が倒壊したり、真っ二つになって撃沈されました。この回線の物凄さは、艦隊これくしょんの時雨も口にしています。


坊の岬沖海戦

あの有名な戦艦大和が沈んだ坊の岬沖海戦は、1945年4月7日に起きました。
日本 戦艦1隻 巡洋艦1隻 駆逐艦8隻 米 航空母艦機386機
日本 伊藤整一中将 米 ミッチャー中将 です。

アメリカ軍が沖縄に上陸してからは毎日のように特攻機が九州の基地から発進しています。特攻というのは敵艦又は敵機などに体当たりすることです。ついに水上特攻として戦艦大和が沖縄に出撃するときがやってきました。作戦内容は沖縄に停泊中の米艦隊に艦砲射撃、駆逐艦による雷撃で米艦隊を撃滅してから陸に乗り上げて砲台とする。いない場合は敵兵に砲撃を加える。という内容でした。しかし出撃途中で沈められてしまうことは言うまでもありません。坊の岬付近でアメリカ偵察機b29 2機が大和上空に飛来しました。その数時間後にアベンジャー雷撃機40機が飛来、雷撃してきました。次にヘルダイバー爆撃機が爆弾を落としてきました。こんなことを繰り返しているうちについに14時23分戦艦大和は沈みました。

                                                                             終



上の写真は、戦艦大和、武蔵、長門、陸奥、航空母艦赤城、瑞鶴、翔鶴、飛龍、加賀、愛宕型巡洋艦二隻、秋月型駆逐艦二隻、陽炎型駆逐艦二隻が編成された連合艦隊です。

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真珠湾攻撃について

とても有名な真珠湾攻撃は、1941年12月8日に起きました。
日本海軍は、航空母艦六隻、戦艦二隻を中心とする機動部隊です。参加した戦艦、航空母
艦の名前は、戦艦霧島、金剛、航空母艦赤城、飛龍、蒼龍、加賀、瑞鶴、翔鶴です。
日本 南雲忠一中将 米 キムメル大将です。
日本海軍の爆撃機、雷撃機、戦闘機は、全機合わせて360機です。 損害は、日本 29機損失、 特殊潜水艇5隻撃沈、米 戦艦4(撃破4)、その他2隻撃沈、駆逐艦多数撃破です。

実際は、撃沈された戦艦でも、引き上げられて修理された戦艦ばかりなので、沈んだのは戦艦3隻、巡洋艦2隻だけです。

 山本五十六長官が、真珠湾攻撃を考案した時、数々の反対意見がありました。それは、もし敵艦隊がこちらに気づいて撃沈されたらどうするとか、航空機だけで敵艦船を沈められるかなどの意見がありました。 しかし、山本長官は航空機こそがこれからの海戦の主力となることを知っていたのです。

作戦内容はこうです。
空母6隻から航空機を発艦させ、ハワイ真珠湾の米艦隊を攻撃、撃滅させる。しかし、もし日米交渉が成立したなら、航空機発艦後であっても、作戦中止させる。又、特殊潜航艇6隻によって支援攻撃も行う。
という内容です。

日本空母は、ハワイの北方200カイリに迫り、無線を封鎖し、早朝に第1次攻撃隊第一波の航空機約360機を発艦させました。 編隊がハワイに向かうとき、ハワイの方角が分からなくなりましたが、何とかハワイのラジオ放送をキャッチでき、真珠湾を目指すことが出来ました。 攻撃開始時、予定では一番初めに雷撃機が突撃する「強襲作戦」か急降下爆撃機が一番最初に突撃する「奇襲作戦」かのどちらかにするはずだったのですが、信号の見誤りにより、雷撃機と爆撃機が両方一緒に突撃してしまい、予定より突撃が5分早くなりました。
しかし、それにより、敵艦隊と陸上基地を一緒に攻撃したため、米軍は混乱に陥り、やっと離陸した米戦闘機、ウォーホークも零戦に簡単に落とされてしまいました。初めの攻撃は、雷撃隊の魚雷が敵戦艦に命中したのにより始まりました。そして次に、急降下爆撃隊(250キロ爆弾)による急降下爆撃と、高高度爆撃隊(800キロ爆弾)の高空爆撃も始まりました。米軍は、対空砲火による射撃で応戦しましたが、なかなか当たらず、しかも対空砲が少ない飛行場では、零戦隊の機銃掃射に加え、急降下爆撃機までが低空に下りて機銃掃射をし、余裕がある時には後方機銃までが飛行場射撃をしました。一方、雷撃隊と高高度爆撃隊は、次々に米戦艦に命中弾を与え、8隻のうち3隻を撃沈、5隻を大破させました。
第一次攻撃隊第一波が去ったあと、第2波攻撃隊が到着し、残りの戦艦を撃沈しました。
この空襲で、一番惜しまれるのは、空母が居なかったのと、宣戦布告が不手際で攻撃30分前に通達する筈が、攻撃1時間後通達になってしったことです。                    



マレー沖海戦について
 
.マレー沖海戦は、1941年12月10日に起きました。
起きた場所は、マレー半島沖です。 日本 松永貞市少将  英 フィリップス中将です。
日本は、中型攻撃機95機、九八式陸上偵察機2機、英 戦艦2、駆逐艦4です。
損害 日本は4機損失英は戦艦2隻沈没
日本の上陸部隊は、マレー半島に上陸するためにマレー半島に向かいました。英東洋艦隊は、これを攻撃・阻止するためにシンガポールより北上しました。日本潜水艦が敵艦隊を発見したため、偵察機2機が航空母艦から発艦しました。やがて敵艦隊の位置がはっきりしたため、爆装32、雷装51の中型攻撃機が発艦しました。爆弾の命中率は14パーセント、魚雷の命中率は43パーセントでした。初めに巡洋戦艦レパルスに500キロ爆弾1発が当たり、プリンスオブウエールズにも爆弾3発、魚雷数発が当たりました。その後にレパルスに爆弾15発があたり両艦は沈み、作戦は大成功でした。これは洋上を航海中の戦艦を航空機に沈められる歴史上発の例となりました。ちなみに、戦艦 プリンスオブウエールズが沈み、渦巻きが終わった頃にやっとイギリス空軍の戦闘機バッファロー5機が到着したそうです。この海戦で航空機の重要さは、でいっそう注目されました。

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