ベルクソンとは

※かつては「ベルソン」か「ベルソン」か、みたいな話がありましたが、これは「ベルクソン」です。耳で聞くと、「べるそん」ぐらいに聞こえます。それがどうした、って種類のつまらない話であります。


 アンリ・ルイ・ベルクソン(Henri Louis Bergson)は、1859年10月18日(火曜日)に生まれ、1941年1月3日(金曜日)年に死去したフランスの哲学者です。父はユダヤ系ポーランド人で音楽家でした。母はイギリス人です。ベルクソンが英語に堪能である理由の一つはこれです。7人兄弟姉妹でした。
 やがて家族はイギリスに移りますが、アンリはパリに残って勉学に励みます。古典語にも数学にも優れた成績をおさめる優等生でしたが、結局、哲学の道を選ぶことになります。1878年には、パリの高等師範学校(普通の大学とは異なる「グラン・ゼコール」の一つ)に入学します。リセないし大学の教員(文学部・理学部)に進むエリートコースでした。同級生には、同じく哲学論文を残しながら政治の世界に進んで統一社会党(1905)を率いたジャン・ジョレスなどがいます。


同級生たちと。○に囲まれているのがベルクソン。
ちなみに後列右から三人目のいかついのがジョレス。
白服をはさんで七三分けがデュルケム(Doucet図書館での資料によるとそうなんですがどうでしょう)。
なんだかベルクソンは他の同級生に比べて上品げに見えるような気も。


 よく、当時の教授連がカント哲学の信奉者であったのに対してベルクソンは反発していた、という話が語られますが、実際のところは微妙ですし、どういう種類の反発であったのかもはっきりしません。

 『シュヴァリエとの対話』で晩年のベルクソンがそんなことを言っているのは事実ですが、ベルクソンがじかに教壇で目にした教員について「これはカント主義者だ」と断定できるひとは挙げにくいでしょう(ブートルーですら、べたべたのカント主義者ではありませんから)。ただし、ラシュリエに強く影響された例えばリアールなどは、経験論や進化論的認識論を否定しつつ認識のアプリオリを語る点では、カント的と言えます。カント主義者が多くみられたのは、ベルクソンが過ごした学校の教授連の間であるよりも、もっと広く、同級生を含む同世代の思想家の間であったと見るのが適当のように思います。注意すべきですが、当時の思想界でカント哲学は特にその道徳論、つまり神学から出発するのではなくて、理性の側から出発する(カントはそこから神学に接近していくのですが)道徳論、いいかえればキリスト教にべったりくっつかなくてもよい「世俗的」道徳論において、当時の共和主義者に強くアピールしていました。「カトリック勢力の道徳論への対抗軸としての、カント哲学」という構図があるわけです。断定はできないものの、カトリックに深くコミットする弟子シュヴァリエの証言は、そういうバイアス込みで読んだほうが無難なのかもしれません。

 対して、ベルクソンが英語圏の思想、特にスペンサーに強い影響を受けたことは、これは端的な事実として認めることができます。彼自身が、著作や書簡で繰り返し述べていることですから。ただし一つ注意すれば、「スペンサー哲学」とは、決して単なる「社会進化論」に尽くされるものではありません(それは特に日本で見られる一面化です)。スペンサー哲学とは、まず基本的に、経験論です(彼はJ.S.ミルのよき友人でした)。もの自体の認識としての形而上学は不可能である、という点で、経験論です。その上で、我々に認識可能な事象を、進化論的な観点から統一的に把握することが彼の課題であり、そのために彼は心理学(脳生理学をも含む)、生物学や社会学などの実証科学を渉猟していくわけです。実際、彼は自分の著作を当時の生物学者たちにチェックしてもらって出版したりしています。科学性を非常に重んじる思想家でした。
 だからベルクソンは、最晩年の『思想と動くもの』序論で、若いときの自分にとって、現実をその細部にわたってきちんと認識する「精確な」哲学のモデルとして、スペンサーという存在に惹かれていたのだ、と語るわけです。通俗化された社会進化論は、ここでは何の関係もありません。

 「カントへの反感」と「スペンサーへの共感」というデータから逆算する限り、若いベルクソンの確信は、ごくおおざっぱに言って、「経験に与えられる実在には、思惟の側から構成できない過剰がある。」といったことなのではないかと思います。以後の著作は、この確信の具体的な展開として見ることもできるでしょう。


 ベルクソンは、1881年にアグレガシォン(教授資格の国家試験)に合格します。
 この試験は、論述とともに、与えられたテーマについての講義をもその場で行ってみせねばならない、大変な試験です。講義テーマは、籤のようにして審査長の帽子から選ぶようで(詳細をご存じの方はお知らせください)、審査長ラシュリエの帽子の中からベルクソンが選んだのは、心理学の価値を述べよ、というものでした。それでベルクソンが行ってみせた講義は、当時の心理学全般について批判的なものだった、それで不興をかってアグレガシォンではトップを取れなかった、という話も受け継がれていますが、もちろん実際に証拠が残されているわけではありません──ただ、不興をかったというのは、ベルクソン自身の回顧によります。


ジュール・ラシュリエ(1832−1918)
ラヴェッソンの弟子でありながら、カントに深い影響を受けつつ独特の観念論を論じる。
高等師範学校教授、視学総監などを歴任。次の世代に大きな影響を与えた。


 少し補足しておきますと、当時「心理学」とは、それはいったい独立した学問であるのか、哲学の一部分であるのか、そうではないのか、そのような議論が特に熱心に語られた学問でした。
 古くからの哲学側の立場としては、「内観」という固有の方法を通じて、「魂」ないし「精神」のあれこれの能力(感覚、知覚、注意、意志、記憶、等々)を記述するような「心理学」がありました。時にその種の心理学は、形而上学へと展開していく出発点の働きも担っていました。
 それに対して、19世紀の中頃から、生理学ないし脳生理学に基づきながら、「魂」といった実体を想定することなしに、外的な観察や実験から「心」を扱おうとする「心理学」(ドイツで発達した実験心理学)、あるいは要素的な心理状態の「連合」から上位の能力や「私」といったものが構築されてくるのだ、といった「心理学」(この発想はすでに18世紀以来、イギリスで発達してきています。連合主義的心理学と呼ばれるようになります)がありました。
 その後の著作から想像すると、ベルクソンはそれら従来の「心理学」のいずれにも不満だったように思われます。身体に還元されない「心」の実在、個々人の心理の独自性、持続の中で生成していく「心」の有機的なありさま、それらが語られていないわけです。ただ、そうした論点をはっきりと述べるには、本格的な著作での綿密な検討が必要でした。


 第二位とはいえ(そもそもアグレガシォンに合格するのは、哲学や古典語などの各分野でそれぞれ、年にほんの数名です)ともかく彼はこうして教壇に立つことになります。最初はアンジェのリセに赴任します(1881年)。当時はブートルーの哲学講義ノートがひそかに受け継がれており(狭い世界ですから、当たり前です。ラシュリエのノートについても同じような継承があったようです)、ベルクソンもそれをもとにして講義をしていた、と語っています。リセでの「哲学」にはそれなりのカリキュラム・プログラムが定められていますから、それでよかったのです。ただし、ベルクソンは講義ノートを読み上げるようなスタイルはとらず、見た目は即興のように講義を行ったともいいます(しかし近年出版されている彼の講義録を見ると、それは見事なものです)。また、教壇で教員がより自由に自説を述べて構わない、という制度上の緩和もこのころ行われています。単に過去の思想を繰り返すだけではなく、それぞれの思想のオリジナリティが評価される時代が始まりつつあったとも言えるでしょう。ただしベルクソンの講義録において彼の独自の思想が示されるのは、主に90年代になってからだという印象です。80年代の講義はむしろ旧来のカリキュラムに忠実であり、そこに「ベルクソン哲学」ないしその萌芽を見ることには大きな危険があることでしょう。

 83年には、クレルモン・フェランのリセ、ブレーズ・パスカル校に移ります。当時一般にリセと大学との関係は密接で、教員同士も繋がりが深く、ベルクソンも大学のほうで講師をしてもいます(はっきりしませんが、同僚の数学教授と微積分学についてやりとりがあったともいいます。もともと数学にも秀でていたベルクソンですが、彼の微積分好きは古いものです)。
 そしてこのころ、ゼノンのパラドクスを扱う中で、後年「持続」といわれる時間概念についてその端緒をつかんだと言われています。またこの時期には、ルクレティウス抜粋の教科書(彼は古典語にもまた深い学識を有していました)、イギリスの心理学者の著作の翻訳などを出版しています。心理学といえば、このころからベルクソンは催眠術に強い興味を持っており、彼自身、催眠術の実験を同僚たちと試みています。


ベルクソン、27歳ごろ。


 リセの教員が正式な大学(ファキュルテ)の教授となるには、博士論文が必要でした。ベルクソンも博士論文の執筆をはじめます。いくつかのパーツを書いては貯めていく、というスタイルで仕事は進んだようです。1888年に完成した博士論文は『意識の直接与件についての試論』(邦訳では『時間と自由』の書名がより知られています)と名付けられ、提出されました(翌年出版)。当時は副論文として、哲学史的なテーマでラテン語の論文をあわせて提出する決まりでした。それが『アリストテレスの場所論』です。
 この88年にはパリのリセ、ルイ・ル・グラン校に赴任します。パリに戻ってくるというのは、ベルクソンがまがうことなきエリートコースに乗っているということを意味します。その後、コレージュ・ロラン、それからアンリ4世校というパリの名門リセの教員として講義を行っています。この時期からすでに、ベルクソンは「哲学の新しい星」だといった評判が(ある種の疑念とともに)ささやかれていました。

◆1889  Essai sur les données immédiates de la conscience
◆1896  Matière et mémoire, essai sur la relation du corps à l'esprit


 当時の哲学業界でのアカデミズム的権威の頂点は、ソルボンヌ大学です(今日でもきっとそうなのでしょう)。
 ベルクソンは94年にはすでに最初の立候補を行いますが、落選します。この後、何度か立候補を試みますが、結局彼はソルボンヌ教授にはなれませんでした。高等師範学校でしばし教鞭をとったのち、彼はもう一つの知的権威であるコレージュ・ド・フランスの教授となります(先だって代講をつとめていましたが、正式に教授となるのは1900年でした)。「ギリシャ・ローマ哲学」のポストです。革新的な哲学者として知られる彼ですが、同時にその古典の素養がただならぬものであったことが伺えるでしょう。
 1904年に同僚の社会学者ガブリエル・タルドが死去すると、その後任として「近代哲学」のポストに移ります。代講を立ててもらう年を含みながら、コレージュ・ド・フランスでの講義は14年まで続けられました。その後、ポストは維持されましたが、ベルクソン自身の講義は行われていません。1920年10月には、彼は当局に辞職を申し出ています。



コレージュ・ド・フランスでの講義前の様子(をおそらくいくぶん戯画化して描いたもの)。壇上にいるのがベルクソン。
席を確保させた貴婦人がやってきたところ。実際にこんな雰囲気だったのかどうか。


 コレージュ・ド・フランスでの彼の講義は非常に評判で、多くの聴衆を集めるものでした。誰でも聴講は可能だった、ということもあります。
 しかしソルボンヌと異なり、コレージュ・ド・フランスの教授は制度的な「弟子(学生)」を持ちません。直近の弟子はおそらくエドュアール・ル・ロワ(代講も行い、後任でした)ということになるでしょうが、しかし狭い意味での派閥は作られませんでした。むしろそのことで、哲学界に限らず、文学や絵画その他、文化全般に広く影響力を持った、というのが、ベルクソン哲学の一つの特徴だと言うべきでしょう。そこには、彼のこのような制度内での位置も関係していたのかもしれません。
 また実際、当時のソルボンヌは、どちらかと言えば合理主義や科学主義への傾向が強く、ベルクソン哲学はその点でもいくらか危険視されていた──反合理主義者、反科学主義者として──とも思われます。ベルクソン自身はそうした評判を不本意に思うのですが、世間は彼の真意をきちんとは受けとめませんでした。


 90年代から、ベルクソンは哲学の業界ではそれなりに知られた人物でした。先に出たル・ロワや、ペギー、それからサンディカリスムで知られるジョルジュ・ソレルたちは、この時期からベルクソンの講義に顔を出していたようです。

 ベルクソンは、論争を好まない人物でした。弱気なのではなくて、いくら議論で勝ち負けを競ったところで、最後には正しいことは正しいと認められるものだ、哲学とはそういうものだ、と彼は思っていたのでしょう。しかし90年代の末に、ル・ロワが論争をおこしてしまいます。もともとは、実在の生成変化を強調するベルクソン哲学を批判した、ジャコブという論客への反論として議論が始まったのですが、ベルクソン自身が望まないところで、激しい論争が始まってしまったのでした。
 問題とされたのは、永遠不変の真理を捉えるはずの哲学というものを、ベルクソンが破壊してしまったのではないか、という点、そしてまた何より、科学的認識の価値を否定して、何かわからない非合理主義を説いたのではないか、という点でした。つまりは、ベルクソン哲学とは、これまでの哲学や科学の否定であり、「生」や「直観」を後ろ盾にしたアナーキズムの唆しではないのか、というわけです。理性の価値を掲げる合理主義者、そして科学者たち(ブランシュヴィック、ポアンカレたち)が、反論の声を挙げます。対してベルクソン側で(ベルクソン自身を代弁するかのように)論陣を張ったのは、先のル・ロワであり、またある程度においてブロンデルでもありました。宗教的には、カトリックです。著名な批評家ブリュンティエールがカトリックに改宗し、実証主義者や科学主義者に対して「科学の破産」というフレーズを投げつけた直後でもありました。こうした社会的背景が、話を厄介なものにします。この19世紀末、フランスの世論は、ドレフュス事件をきっかけとして、キリスト教に基礎を置いた従来の保守派と、世俗的(脱宗教的)科学を背景とした改革派に、二分されます。政教分離をめぐっての、いわゆるイデオロギー的な、生々しく激しい論争が繰り返される時期です。

 きっとベルクソンは、そうした面倒な論争から距離を置きたかったのでしょう。直接的な介入はなされません。ユダヤ系でありながら、ドレフュス事件に関しての同時代的発言・活動のあとがほとんどまったくない、というのも示唆的です(回顧はあります。なおこのベルクソンの態度を、ドレフュス派としてボルドーで活発に活動を行った同時代のデュルケム──彼はやがてソルボンヌに抜擢されます──のそれと比較してみてもいいでしょう)。

 哲学と科学との関係をどう考えるか、というテーマについてベルクソンがこの時期残した著作は、有名な『形而上学序説』(1903年)ですが、彼自身がこの論文をどう自己評価しているかは難しい問題です。直観と分析、形而上学と科学とをずいぶんきっぱりと対立させる側面の目立つ論文ですが、これはそもそもが促されて書かれたものですし、フランス語では雑誌への発表後、長らく入手困難なものでした。他言語には翻訳され、日本でもこのドイツ語訳ないし英語訳に拠りつつ「これこそはベルクソン哲学の精髄だ!」と扱われた論文ですが、しかしこれを収録する最晩年の論集『思想と動くもの』(1934年)では、この論文は、発表年の逆順にしたがって、終わりの方に置かれています。加筆訂正もありますが、ともかくもたぶん、彼はこの有名な論文を自らの思想の精髄をそのままに示すものとは単純に思ってはいなかったのでしょう。この『思想と動くもの』には、二つの長い序論が与えられ、むしろそこにベルクソンの本音が出ているように思います(この序論は、自らへの批判と誤解に対して書かれた、ベルクソンにおいては珍しいテクストの一つです──そしてそこでは、形而上学と科学の二分法などについて、より精確な見解が示されています)。

 ただ、1907年に出版された『創造的進化』は、その反響において圧倒的でした。当時の生物学的な知見を総動員しながら、物質に還元されない「生命」の実在を説き、突然変異や淘汰だけでは説明できない生命の内的な発動性(「エラン」という語で彼が言いたいのはまずそのことです)と、そうした生命の進化全体が持つ意義を語るこの著作は、各国語に翻訳されながら、世界的な反応を呼び起こしたのです。
 当時、フランスではダーウィニズムはあまり支持を得られていなかった(遺伝学的見地がまだ十分に成立せず、むしろダーウィン説は実証的な根拠に乏しい仮説とされていたのです。振り返るとこの時期はむしろ「ダーウィニズムの黄昏」の時期でした)のですが、そんな中で正面から「進化」を語ることには小さくない意義がありましたし、その「進化」が単に摂理的な目的論に従うのではなく、それ自身で自らの進路をそのつど切り開いていく「創造的」なものである、というベルクソンの思想は、今の私たちが思うよりもずっとインパクトのあるものであったはずです。永遠不変のイデアを説きたい哲学者にとってはもちろん、実在を「理性」の枠で合理的に把握しようと努める哲学者にとっても、ベルクソンの学説はとても過激で攻撃的なものに見えたことでしょう。不変のイデアなどは人間が便宜上こしらえたものに過ぎず、そしてこの人間の知性は、生命進化の中で生じてきた認識様態の一つにすぎないとされるからです。とうとう本音を言ったな、この非合理主義者め、と思う論敵がいる一方で、既成の枠組みを絶えず破っていく「生命」の創造性、という思想に魅了される人々もいました。実際、「創造」という言葉が「生命」と結びつけられるのは、この1907年の著作以後のことです。こうした概念がどうしてそこまでひとを魅惑するのか、それは今日でも興味深い問題だと思います。


厳しい批判者の一人 バートランド・ラッセル

「生命は二つのルートで進化した。
一つは知性で、そのルートの末端には人間がいる。
もう一つは本能で、こちらの末端には昆虫とベルクソンがいる」
とか述べたと伝えられています(正確な記録文書は存在しません)。

ちなみにベルクソンはホワイトヘッドとは友好的な関係を維持していました。


 ブームは日本にも及びます。新カント主義的な認識論から、実在そのものを把握する形而上学への道を模索する西田幾多郎は、カント哲学を越える手がかりを与える思想家としてベルクソンに注目し、明治末にはその学説を紹介していました。数年後、大正初期には、専門の哲学者をこえて、「生命」のフレーズとともにずいぶんとベルクソンが語られる時期がやってきます。


◆1900  Le rire
◆1907  L'évolution créatrice


 1914年、ベルクソンはアカデミー・フランセーズ会員に推挙されます。会員が「不死なる者」と称されるこの伝統ある団体にベルクソンが加わることに関してはいくらかの論争がありました。反ユダヤ主義者である右派は反対キャンペーンを行います。また同じ年には、バチカンからベルクソンの著作を禁書目録に含める決定がなされました(だからといって信仰者がそれを読むことを止めたわけではありません。もう20世紀ですからそんな時代ではありません。ただし、カトリック側からの批判は継続されます)。
 ともあれこうした微妙な力学の中で、しかしベルクソンはフランス哲学を代表する一人としてすでに認められています。実際、1910年代から彼はイギリスやアメリカに招かれ、講演を行っています。相当の反響があったようです。また彼はこの年に、以前から会員であった道徳政治学アカデミーの議長にも選ばれています。
 7月末、第一次世界大戦が勃発しました。早期に終結すると思われた戦いは長引き、これは人々の思想にも影響を与えないわけにはいきませんでした。ベルクソンは、道徳政治学アカデミー議長として、9月に「消耗する力、消耗しない力」という短い演説を行い、ドイツの物質主義に対するフランスの精神的優位を唱え、戦争がフランスの勝利に終わることを力説しています(これは日本にも早くから紹介されています)。彼としては珍しい政治的コミットメントと言えます(そんなベルクソンを、例えばロマン・ロランは反戦主義者の立場から批判していました)。
 戦線の膠着化の中で、アメリカへの参戦を求める活動が始まります。ベルクソンはそのための大使の一人として、1917年に渡米し、ウィルソン大統領とも会談を行っています。哲学者ベルクソンの政治への関わりについては、まだはっきりしない点が少なくありません。

 18年1月、延期されていたアカデミー・フランセーズへの正式な入会が行われます。入会に際しては、新任者は前任者(死去に伴って新しい会員が選ばれる仕組みです)を称える厳粛な演説を行い、続いて、既存会員がこの新任者についての紹介的な(時にユーモアを含んだ)演説をするのが常です。ベルクソンが若い頃ほとんど唯物論者であって、図書館員なのに床に放置されていた本に注意を払わずにたしなめられた、等々のエピソードの「もと」は、この折のドゥミックによる歓迎演説であるようです(1941年の『思想』ベルクソン特集号で翻訳を読めます)。


 戦後、ベルクソンはコレージュ・ド・フランス教授を正式に辞しますが、国際連盟の「知的協力国際委員会」(ユネスコの前身)議長を務めるなど、公的に多忙な生活が続きます。


知的協力国際委員会の風景。矢印がベルクソン。
新渡戸稲造とも面識をもちました。

 1924年、ベルクソンを最初のリューマチの発作が襲います。この病は死ぬまで彼を苦しめることになりますが、上記の委員会についても職を辞するしかありませんでした。このころから手紙などに、健康状態のために返事が遅れて申し訳ない、欠席するが許して欲しい、といったフレーズが目立ってきます。だんだんと身体の自由が失われていきます。
 1928年にはノーベル文学賞が与えられます(選出が27年、実際の授賞式が28年だと思うのですが、正確な日付をご存じの方はお知らせ下さい)。
 言っときますが、文章がきれいだったからじゃありません。哲学者として偉大だとされたからです。ノーベル哲学賞があるわけじゃないですよ。

◆1919  L'énergie spirituelle
◇1922  Durée et simultanéité


 『創造的進化』執筆の前後から、彼は次の著作への模索を始めていました。芸術、道徳、宗教といった、それまで主題的には扱っていなかったテーマをめぐって、手探りのような考察が長く続きます。
 ベルクソンが求めたのは結局、生命進化の源泉となる存在、つまりは神についての哲学であったわけですが、あくまで経験に即して哲学を立てようとする彼にとっては、宗教家の著作、宗教学・社会学の諸研究をひろく考察検討することが必要でした(スペインの神秘主義者の著作をじかに読むために、スペイン語の勉強を始めたという話は有名でしょうか)。『創造的進化』でも「神」の問題はわずかではあれ語られており、その曖昧さと非キリスト教的な性格が、彼の著作が禁書扱いとされる原因ともなったのでした。ことは実にデリケートです。そして上記のような公務の忙しさもあり、健康上の問題もあり、彼の考察が『道徳と宗教の二源泉』としてまとめられるのは結局1932年のことでした。思考の大筋が定まり、実際に執筆が始められたのは、おそらく1928年頃からなのではないか、という研究もあります。
 若いうちから、いささか不本意な形で執拗な攻撃の対象となり続けてきたこともあり、ベルクソンは自分の思想が誤解されることに強い危惧を感じていました。『二源泉』も、ごく内密なかたちで執筆され、ごく親しい者だけに、それも直前になって原稿を見せる、という具合でした。今度はまさに道徳や宗教に関わる著作ですからなおさらです。

 突然とも言える『二源泉』の出版は、大きな驚きをもって迎えられました。ざっと読む限り、そこには、キリスト教への強い共感と高い評価が記されていたからです。宗教界からの反応は小さくありませんでした。ただ、この点について私の考えは別のところで少し書きましたから、ここでは省略します。結論的には、晩年のベルクソンは、個人的にはキリスト教に強く惹かれながら、しかし洗礼は受けませんでした。また、「哲学者」としてはなおさら、キリスト教をその基本的な教義とともに受け入れて話を進めることはありませんでした。こうした振る舞いは、私たちに彼の哲学観について多くのことを考えさせるように感じます。


晩年のベルクソン


 1934年に、最後の著作『思想と動くもの』が出版されます。これまで発表した論文と講演を集めたものですが、先にも述べたように、冒頭には二つの序論が添えられています。日付は1922年となっていますが、いくつかの箇所、注は、出版直前に加えられたもののようです。そこでベルクソンは、自分の思想の歩みを振り返り、これまで自分に対してなされてきた批判に対して正面から反論を試みています。まとまった形でのこのような語りは、最初で最後、と言ってもよいでしょう。想像ですが、ベルクソンは自分の遠くない死を予感しつつ、「これだけは言っておきたい」という気持ちでいたのではないかと思います。

 1937年にベルクソンは遺言書をしたためます。正式に公刊されなかった手記や講義録、手紙などを死後発表することを固く禁じたものです。哲学者として述べるべきことはすべて公にした、と彼は言います。それがその他の資料によってかえって歪められるのを怖れたのでしょう。また、遺言書では自らの信仰上の立場も示されています。カトリックに強く惹かれながらも、しかしもし自分が改宗すれば、ナチスなどによって高まりつつある迫害下におかれたユダヤ人の状況に何らかの悪影響があるのではないか。そんな懸念も記されています。

 第二次大戦が勃発し、パリは占領下におかれます。ナチスから提示された特権を拒み、ベルクソンは1941年の1月3日(4日と述べる資料もあります。おそらくは3日深夜〜4日未明、ということだと思われますが、正確な情報をお持ちの方はお知らせを。)に肺充血のためこの世を去りました。葬儀はひっそりとしたものだったと言われます。


現在、パリ郊外に置かれているベルクソンの墓。妻ならびに娘と共に眠っています。


◆1932  Les deux sources de la morale et de la religion
◆1934  La pensée et le mouvant




パンテオンにある碑文(と言うのかな)

「アンリ・ベルクソン。1859−1941
その業績と生涯がフランスと人類の思想とに名誉を加えた哲学者に」


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