檜垣立哉著
『子供の哲学 産まれるものとしての身体』
(講談社新書メチエ、2012年)


 檜垣氏の書物はいつも、その核心においてチャーミングだ。いや、率直に言っておく。私自身、氏があれこれの哲学者に関連して示す独特の読解に同意し、それに深く納得させられたというケースは、あまり多くない。かきくどくように反復される氏の「ではないか。」に対しても、「まあ、そうかもね。」程度の相槌を打ちながらその先を読み進めていく、というのが常である。過半は私の不勉強と小心さのせいだろうが、例えば西田やフーコーに切り込んでいく際に、そこでわざわざ「生命」の語を掘削機のごとく用いようとする氏の意図がよく見えなかったのも事実である。ただ、そういったこととは別に、氏の書き物にはページを繰らせていく何か、書き手の真摯さに必ず伴うあの言いようのない魅力がある。実際、檜垣氏ほど自らの真摯さを無防備なままでだだ漏れにしつつ書く著者は、稀だと思う。いい迷惑である。そのように生まれてくるチャーミングな仕事を前にしては、読みの強引さや論理展開上の飛躍をあっさりと指摘しそれで「評した」と言ってみたところでどうにもならないではないか。こちらの側が試されてしまう。そもそも、檜垣氏はいったい何を言おうとしているのか。
 それがかなりはっきりした姿で捉えられてくるようになったのは、私にとっては、とりわけ『賭博/偶然の哲学』(河出書房新社、2008年)以後だ。またそれより相当先だってのことだったと思うが、レヴィナスを扱うあるシンポジウムで『全体性と無限』第四部「顔の彼方」──すなわち主として「エロス」と「生殖」を扱うあの実に謎めいたパート──の重要性を氏は強調していた。檜垣氏がそこに何を見透かしていたのかは追って明らかになっていくわけだが、その時からすでにその読解方針自体は基本的に正しい、少なくとも氏は何かを正しく掴んで見せてくれている、と感じられた。が、私の杜撰な回顧を続けてもしょうがない。私たちは昨年、本書『子供の哲学』を手にすることになった。また時期を同じくして、はるかに浩瀚な『ヴィータ・テクニカ』(青土社)も一冊のかたちに纏められている。セットで読まれるべき書である。しかし『ヴィータ・テクニカ』のほうには、「テクネー」というテーマの複雑さに応じての話題の拡がりはあるものの、どうも外的な要請に合わせていささか無理に書かれているような気配もなくはない……。それに比べてみれば、氏が抱えてきた主題は、むしろこちらのコンパクトな『子供の哲学』で一つの集約点を得て、簡明な表現を得ているように思われる。つまり、生命に対する〈無責任への責任〉とでも言うべきものが問題なのだ。
 それは、規範を構成するものではない。無責任を負う、というのは普通に考えて不条理だからだ。しかしそれはこの不可能性の事実的追認であることもできない。「人間」的な水準においては、無責任すら責任の不在という通路からしか語り得ず、「べき」の文法内部で自己否定を行うことによってしか「べき」を消せない、したがって結局消せはしない、だろうからである。こんな水準で語り続けるというのはなかなか厄介なことだ。通常の倫理が語られるわけではない。そんなものが停止するべき〈無人地帯〉についての思考を氏は試みている──倫理の非倫理的な基底を明かそうとして、あるいは非倫理的であることの倫理を描こうとして。

 さて、本書の構成については檜垣氏自身が序章末尾で概略を与えているから、より内容に立ち入るかたちで全体を辿ってみる。最初の章では、「この私」とは何者であるかというテーマから始めて、デカルト、アンリ、ハイデガーの所説が検討され、そこにおいて生物学的身体、生まれ死んでいく身体の存在が常に排除されていることが指摘される。冷淡に読めば、相当の諸前提を共有しない限り、これは、何とも無茶な言いがかりだ──生物学的?おお、肉よ……。ただ、それについては後回しにして、まずは聴こう。檜垣氏が確保しようとする論点をざっと列挙すればこうしたものになろうか──「この私」の固有性は身体から、そしてそれに不可分の情動性(affectivité)から理解されるべきこと(アンリの寄与分)。ただしこの身体は生まれるもの──しかし神に対する受動態勢のことではなく(デカルトやアンリの誤認)、単純に言って別の身体から産まれるもの──であること。私の固有性が未来という次元に深く関わるものである(ハイデガーの寄与分)としても、それは私の世界の究極的な地平をなす「私だけの死」ではなく、私の死を結局は伴いつつも逆説的に当の私を「他」の中へと継続していく「生殖」「私における他の懐胎」から規定されるべき未来性であること(ハイデガーに対するレヴィナスの優位)。この点、先の情動についても同様であること。「不安」が問題なのでない。
 続く第二章で固められるこれらの論点は、さらに第三章・第四章で、西田とレヴィナスをその積極的な可能性において扱う中で敷延されていく。入り口は「他者」論だが、檜垣氏が際立たせていくのは、共時的・対面的な他者との関係よりも、それに密接かつ微妙に絡みはしながらも(エロス的関係)、しかしいっそう深い非連続性を私の中に刻み、しかしかえってそのことで垂直の逆説的連続性へと私を巻き込んでいく関係──すなわち子を孕むこと、子を産むことの根源性である。そして、はっきり生殖論を述べるレヴィナスにおいてばかりか、西田の「汝」論にもこの議論を一定程度見出せると檜垣氏は言う。「自分自身の底」に見られる「絶対の他」、自己がそれによって生まれまた殺されるこの「絶対の他」の他性を、世代的通時的に解釈する余地もあるからだ(この読みは第六章で採り上げ直される)。単純化するが、「この私」、そしてそれに対する絶対的他者(たち)を、まさに相互の絶対的非連続性において次々と産み出していく/産み出させていく/連続性、檜垣氏があえて「いのち」と名付けるものの〈非連続の連続〉が、「人間」的な生=ビオスの根底に、据え置かれていくわけである。
 残る二つの章では以上の観点を踏まえ、特に「子供」という存在を中心とした考察が行われる。「子供」が引き継ぐものの非「人間」性、ならびに当の継承の非直線性と限定不可能性が指摘され、そこから「私の」子供、といういかにも人間的な所有概念に基づいた描像への批判が行われるという大筋である。こうして我々は自分の根底で、もはや自分ならぬものが、通常のコミュニケーション図式など無視して容赦なく宿り産まれつつあることを知らされ、しかもこの自分自身が、自らにおいて産出されていく他者への愛という根本的な情動に貫かれていること、あるいはむしろその未来への情動によってこそ自分たり得ているということを、知らされる。さらに最後の数頁で氏は、そこまでの全体とは滑らかに連接しないものの、時系列の錯乱の中で、あらゆる他者を、そしてこの「私」自身をも(なぜなら「私」もその根底に他を抱えることによって「私」であるのだから)、皆すべてを「子供」と捉えるという「夢想」にまで歩み出す。〈子供で―あること〉を基本範疇とした存在論の可能性が、展望されるわけである。

 哲学者たちの所説をパッチワーク的に活用することで新たな光景の発見ないし構築を試みるというスタイルは、それ自体、氏の著作のチャーミングさの重要な構成要素だ。「その読みは忠実ではない、乱暴に過ぎる」といった種類のとり澄ました指摘を重ねることはもちろん、できる。だがそれは氏も承知済みだし、そんな論評は、氏が考えようとしていることを無視し、聞き流し、産み流すことにしかなるまい。そういう対応はまあ賢明な、だがやはり、愚行だ、と思う。私はここでそんなことをしたくはない。だから、もっと粗野な話をする。まず、議論においてむしろ夾雑物のごとく感じられた点について。「所有」論との絡みである。
 しばしば思うことなのだが、「私の」という表現がすでに「所有」を、それも近代市民社会なるもの(?)固有の私的所有概念を表示するものであって、それをこそ批判しなければならないといった語りは、必ずしも筋のよいものではない。憶測だが、少なくない哲学教師が授業の便利な題材として次のような話をしてはいまいか──「私の身体」と言うがそもそも「身体」とは「私」が所有し自由に処分できる物件だろうか。「私の命」と言い「私の死」と言うがそもそも「命」や「死」とは、以下同文、等々と。確かに問題のそういった示し方は、何らかの教育的・導入的な意義を持つものにはなろう。だが、その程度のことだ。単純に考えて「の」等の属格表現は、はるかに多様かつ複雑な了解を担う。「私の癖」「私の持病」「私の両親」「私の故郷」、その他何でもよい、それらの「の」のどこに、近代的な所有概念が重ね得るというのか(なお、例えば移植技術に支えられて成り立った言説体制が「私の臓器」という「の」にそれを重ねる可能性を現実のものとしたのは事実だし同種の拡張はまだあり得るが、私は今、そういう話以前のごくひらたいことを言っている)。「私の子供」についても同様であって、例えば「『私の』子供という所有形容詞は、無意味であり、近代の誤謬を象徴するものでしかない」(193頁)と檜垣氏は言うが、そんな貧しい所有の文法だけで「子供」の存在を捉えている親ばかりだとしたらむしろ私は驚く。近所の神社をぶらぶらする。絵馬がたくさん下げられている。眺めながらあれこれのことを思いはするけれども、それらに書かれていることが基本的に示しているのは、子供が授かりものであること、まさしく先在する人間たちに対する他者、新たな到来者として遇されていることだと思う。「元気で優しい子になりますように」とだけ記す親が、どうして子供を「所有物」の文法内部で捉えていよう。そこにあるセンチメンタルな定型性を批判の対象にすることもできようが、しかし私にはそうした言葉が単に蒙昧で下らないものだとは思えないのだ──檜垣氏が惹かれたという地蔵盆の風習がおそらくそうではないのと同程度には。また親権が所有権とは異なること(まさに近代以後において)、これも自明ではないか。所有の言葉が通用しようもない領域、「非所有であるべきもの」(157頁)を確保するための繊細な──と言うのは、この「べき」を口にできる地点がまさに問題だから──批判が必要だということ自体は私にも(たぶん)わかる。だが、それと「子供」の話とは、重なっていない。本書が一つ試みているかに見える「私の子供」批判は、相手のいない、ただの空振りだと思う。

 「夾雑物」と言った。実際、檜垣氏の議論のポイントはそこではないだろう。そこに目を奪われてしまうなら、本書を読む愉しみは終わりだ。むしろ氏が述べたいのは、「所有」関係ではないにせよともかく特定の個体間にのみ「親─子」の繋がりが設定されてしまう、その限定の不自然さであり、その繋がり自体の曖昧さであり、とりわけ「親」という存在を限定することの無根拠性なのだろう。しかしここから檜垣氏が導きたいのは、「人為的構築しかない」という類の話ではない。第一に考え、見据えるべきは、まさに同定や限定を拒み続ける何か、構築や意味づけを逃れる残余であり過剰であるような何かだけが満たしている平面が実在し、それが「子供」を現実的に産んでいる、このことである。それ自体無意味で不定形の、その意味で「質料的」な存在の、果てしなく無意味な反復と繁殖性。我々の足下には常にこの流砂のごとき無意味性の基底が存続しており、我々自身、その折り畳み以外のものではない。思弁や夢想ではない。そのような基底が剥き出しのかたちで現れるのがまさに「生殖」の場面であり、そこに関与するのはぎりぎりのところで質料的な身体、あるいは質料性における身体、それだけであって、それが担うのも最終的には無意味性の継承に尽くされるはずだ。そのことを無視して、リスク計算などの枠の内部で語られる議論は「端的につまらないのではないか」(24頁)。
 まあ、そうかもね……。確認するまでもないが、「個/子」が血の共同体だの民族だの母なる自然だのに支えられ云々、といったどうしようもない話に退行する危険からははるかに遠いところで檜垣氏が思考していることは保証済みの事柄に属する。氏の好む「質料的・物質的」の語の内実は正直よく分からないが、その語が動員されるのも、一つにはその種の話を遮断するためだろう。その上で、氏の議論には、埋めがたいいくつかの飛躍があると見える。全体の流れを見ても、「子供」を思考するはずが、第三章から「産む」(親の)側の話になり、やがて産み産まれるリレーの話になり、しかし末尾近くではあらゆる他者が私の子供と言えるのではないか、とまで言われ、しかし最後に「まとめよう」と言いつつ、今度は誰にでも関わる生と死の「分有」を語る氏の意図は、非常に掴みづらく、何ともまとめにくい。飛躍しているからだめだ、とは言わない。ぴたりとまとまった書物のつまらなさというものもある。「ではないか。」と繰り返しながら氏はきっと、自身を経由点として思考の多種多様な交配と繁殖を実地に試みているのだろう。しかし、そんな檜垣氏にうっかり孕まされていてもしょうがないので、以下、素朴な指摘ないし問いを二つ、さらなる偏差と変異のために用意しておきたい。
 まずやはり気になるのは、「生物学」の扱いだ。現代のそれは、デカルトの時代のような単純な機械論とは異なると言われる。ヴァージョンアップした現代の生物学を前にして、アンリやハイデガーは相変わらずの無視を決め込み、身体の質料性や生物学的に論じ得るはずの生殖の問題をも別のものにすり替えてしまっている──第一章での所見である。だがそれはどうだろう。現代の生物学の全貌も詳細も見通していない私が言ってもしょうがないけれども、今日の分子生物学、進化論やクラディスティクスはその叙述に「私」だの情動性だのを必要としているだろうか。遺伝経路の交錯など当たり前である。こうした枠組みの中で「人間」を扱うなら、それに何の特権も存在しないのは初めから当然であり、人格的個体性や規範性といったものも、機能主義的観点からの説明の対象にしかならない(還元が容易だと言う用意はないが、志向としてはそうだろう)。つまりは、人間主義なるものを解体しようとして、あるいは身体なき主観概念を解体しようとして現代生物学に訴えるならば、それはそれで構わない(誤解されてはいけないので言うが、私自身は、この自分が別個の魂を戴かないただの「機械」なのだと言われても、特段困らない)。だがその場合には檜垣氏が保持したい「情動性」「他者への愛ないし肯定」といったものすら、ずいぶんと「人間」的なもの、スピリチュエルなものとされてそれで終わるのではないか。反対に、情動性を含めてのこの私なるものの特殊性を言おうとすれば、三人称的な生物学的言説をどこかねじ曲げながら利用するしかない。氏はいつもそういった場面になると17世紀が知らなかった「自己組織化」「オートポイエーシス」「システム論」「複雑系」等の一時流行したタームをちりばめて乗り切ろうとするが、そこに言われる「自己」の性格をしっかりと詰められないのなら、それは結局空約束とならないのだろうか。雑なアナロジーとしてならともかくも、例えば情動によって規定される私の固有性──解体ないし脱構築されるべきものとしてもひとまずそれは必要だろう──を位置づける道筋の委細は、何ら明らかではないのだ。付け加えるが、レヴィナスを論じる中で氏は、「単純に肉体的とのべるわけにもいかない」(129頁)事象が問題なのだと言い、そしてまた、子供に関して「たんに生物学的な因果性しか論じていない」(137頁)ような理解を斥けようと言う。ここで憐れにも斥けられる肉体や生物学とは何であり、他方で氏が称揚する身体性、生物学性とは何なのか。私は困惑する。私なりに想像できることはたくさんあるが、あえて突き放して言う──ここにはどう見ても基本概念の規定に関わる甘さがあり、それは本書を基本的なところで脆いものにしてしまっているのではないか。デカルト以来の哲学を転倒するというのであれば、デカルトがガッサンディに言い放つあの「おお、肉よ(o caro...)」がもはや罵倒にならないような「肉」概念を、もちろんアンリからではなく、別の現代生物学か何かから、ともかく構成せねばならない。これは避けがたい。しかし具体的な解答は本書中に見出せない(「テクネーとしての自己」という奥行きあるアイデアを語る『ヴィータ・テクニカ』がここでは是非とも追加参照されるべきだが、それでも私のこの感想自体は変わらない)。
 もう一つの点──本書では主に第五章で提出される論点、つまり個体は「必ず死ぬものとして産まれる」というテーゼについて。これは「個体は生殖が可能であるがゆえに死ぬというべきではないだろうか」(179頁)とも言い換えられるものだが、私には、このロジックは理解できない。個々の形質に関わる遺伝とは別に、タイムスケールを異にする「おおきな遺伝」があり、そしてそれが檜垣氏が提示したい「いのち」のリレーなのだが、そこにおいては個の生誕と等根源的に、個の死が前提されているというのだ。エロスの裏面での、タナトスの継承。もちろんこれは、前期ハイデガーの呼び戻しではない。死への先駆こそが個体化するのではなく、個体は別のルートから産まれながら、そこにおいてすでに死に差し向けられている、という話だから。しかしなぜここで「死」が登場するのか。ほとんどの人々と同じく、この私もやがて死ぬだろうものであること、そのこと自体に異存はない。だが氏の哲学的テーゼが一群の生物の繁殖形態において見られる事実の恣意的な一般化などではない、と言い得るなら、それはなぜか。──いや、私を殺すものがあれば、それは私ならぬものと言われるべきではないか。であるなら、死ぬことはいつも他者によって(子供によって)殺されることではないか。産むことは死ぬことと切り離せないのではないか。──まあ、飛躍はあるけれども、そうかもしれない……。ただ「夢想」ないしSFでよいのなら、私には反対に、あらゆる「個」の永続、あるいは復活をすら認める用意がある──もし檜垣氏が各所で持ち出す「無限」を本気で受け止めるなら、きっとそこではあらゆることが可能であり現実であるはずだろうから(心配しないでください、ちょっと夢想しているだけです)。しかし第六章の檜垣氏は、西田の言葉を利用しつつ、個に死をぴったりと寄り添わせるどう見ても問題含みのロジックのほうを選び、それを「子供の哲学」の骨組みに使ってしまうのだ。いったいなぜなのだろう?「個体の死とはどうしたところで常にただの事故死だ」とでも述べて、「死」を「子供の哲学」の文脈から切断しておいてはいけないのだろうか?

 ──われながら何というエロスを欠いた〈評〉。檜垣氏のチャーミングさにはやはり「かなわない」。いつもそうだが、感謝しながら、何とも申し訳なく思う。私のほうで聴き取って十分に反復できるには到らない、言わばめくるめくノイズのごとき書物だったが、そもそもノイズこそは自然の到るところに響きながら、あらゆる旋律、あらゆるリフレインを胚胎しているはずのものだろう。まだまだ多くの音が覆われている。私のこの鈍い耳には、もっと多様で繊細なチューニングを施さねばならないようである。
 一つだけ蛇足を。本書を読みながら私はずっと、プラトンが『饗宴』でソクラテスの口を介してディオティマ(言うまでもなく女性であり、巫女であるからには「人間」の領域の外に接している)に語らせるエロス論を思い起こしていた。「すべての人間は、身体の面でも、魂の面でも、懐妊の状態にある」(206C)とソクラテスに告げることから続けられる不思議な語り、死すべきものの生殖とは不死の愛すべきものに叶わんとしての営みなのだ、というあの語りである。もちろん「イデア」の語は檜垣氏の受け入れるものとは思えない。しかし所有ならぬ「分有」や「妊娠」を同様に語る檜垣氏の本書を読みながら、氏はひょっとして徹底的に此岸的な〈もう一つの、エロスとその彼方についての饗宴〉の座を設けようとしているのではないかと想像せずにはいられなかった。もし仮にそうなら、ごく奥の、隅の方でよいので、私にも一つ、席を用意しておいていただければありがたい……。
(杉山 直樹)