川瀬雅也著
『経験のアルケオロジー』
(勁草書房、2010年)

 かつてアリストテレスはempeiriaをして、事象の原因の認識を伴わない、その意味ではごく非十全な知と見なしていた。empericusという形容詞をその通り名に含む哲学者の学説は、西洋の長い歴史で幾度も蘇ってきたが、それはいわゆる「懐疑論」──カントに言わせればそれは、哲学の領土を脅かす遊牧民だ──の資格においてであった。このように経験とは、ある種の哲学に対してはしばしば厄介な相手であったし、今日でもおそらくそうである。単純な話であって、ものごとの始原(アルケー)を求めつつ、ものごとの整い合わさり(ロゴス)を辿ろうとする志向にとって、経験とは、問いの暫定的な出発点ではあれ、解答そのものが与えられる現場だとは限らない。いや、それならまだましであって、最も粗野な経験論なら与えるであろう「これ、これ、そしてこれ…」という報告は、その先への遡源的志向そのものを最初から挫折させかねない。となれば、経験こそはアナーキーでロゴスなき混沌であり、アルケーを欲する哲学的問いかけを冷淡に拒む審級なのだ、と思われても無理はないのである。
 対して「経験のアルケオロジ−」と題された本書の目的は、近代以降独特の仕方で縮減されつつも同時にその哲学的賭金を競り上げられてきた「経験」という概念そのものを再検討に付し、それを改鋳することに存する。それ自体ロゴスであるような経験、それ自体アルケーであるような経験──古風な経験概念の持ち主にとっては逆説的と響くに違いないこうした「経験」を取り戻すこと、「経験」そのものに学びつつ、その哲学的意義を掲げ直すこと。そのために本書は、フッサールをはじめとする現象学者、そしてさらに、一見時代遅れとも感じられるベルクソンまでをも召喚することになる。その他にも、本書はメルロ=ポンティ、ハイデガー、ヘルト、アンリといった哲学者の所説を、ごく明晰な筆致で描き出す。もちろん、ただのカタログなどではない。本書は、「経験の構造」「経験の源泉」「経験の深層」とそれぞれ題される三つのパートから成るが、あれこれの哲学者はあくまでここに用意された問題構成に即して幾度も呼び出され、その都度、それぞれの積極的寄与分をいわば収穫されていくのである。
 さて、上記三つのパートはそれぞれが次の課題を担わされている。(1)まず最初に、従来「経験」とは対立するものとして捉えられていたもの、すなわち論理や意味、範疇や理念性を、「経験」へと再統合し、あるいはまた、そうした統合が可能になるようなものとして「経験」概念を改鋳しなければならない。「経験」をして、外から論理形式を与えられるのを待つ素材としてではなく、むしろそれ自身のうちから論理を析出させ、自ら意味を宿していくものとして、捉え直さねばならない。(2)続いてその上で、そのように拡張された「経験」一般が成立し得ている本質的かつ具体的な条件を、当の「経験」において探らねばならない。(3)さらに加えて、可能であれば、以上のすでにしてアルケオロジックな歩みにとっての、最終的な到達点を指示しなければならない。
 このようなわけで、第一部では、アプリオリの経験ならびに経験のアプリオリを語るフッサール(第一章)、親密な有意味性の圏域を可能にするところの習慣的身体や、理念性へと我々を開くところの表現作用を論じるメルロ=ポンティ(第二章)、そして日常的世界の分節から論理までを生の経験から発生させるベルクソン(第三章)が取り上げられる。
 「経験」概念にこうして十分に包括的な拡がりを与え返した上で、第二部は、そうした「経験」一般の可能性の条件を絞り込んでいく。一言でいってしまえば、その条件とは、時間地平である。経験論は時間論へと収斂させられていく。第四章ではフッサールならびにメルロ=ポンティがもう一度呼び出され、時間に無縁とされてきた「理念」の存在までもが時間の側から──「遍時間性」や「推定的総合」の概念を通じて──再規定される。また第六章では、未来を目指しての過去と現在との総合であるところの「再認」を主な舞台として、ベルクソンにおいてもやはり、少なくとも日常的な経験の成立には、時間的構造が深く関与していることが確認される。経験とは常に時間的経験であり、現出は常に時間形式における現出だ、と言い得る水準がひとまず確保されるわけである。
 だが、この第二部で最も重要なのは、その中央に置かれる第五章であろう。理念まで含めて、経験対象の存在は時間的なものとして規定された。他方、経験主体の存在も、フッサールによれば「原印象」を起源とするいわゆる「縦の志向性」の時間的統一としてひとまず確保された。しかしなぜ、そのような経験主体は世界へと開かれているのか。この開けと時間とはどのような関係にあるのか、またそれはいかなる時間か。それが問われない限りは、「事実、どんな経験も〈時間的〉という形容を許容する」といったおよそ使えない話にしかならない。そこで著者は、『知覚の現象学』のメルロ=ポンティを経由して、(そのアイデアの主要な源泉である)ハイデガーのカント解釈に向かう。概要は知られたものである。産出的構想力が、感性と悟性との「共通の根」の位置に設定される。そして超越論的問題構制においてそれが果たす最初の本質的な働きは、純粋時間の地平を外へと立てながらそれを受容する「脱自的-地平的」超越に存する。自らが開いた地平(それは将来に主導されつつ過去ならびに現在という諸次元へと分節される時間のことでもある)によって自ら触発されるという意味での「自己触発」が、感性的触発を追って可能にし、同時にまた悟性の諸総合をもまた可能にしている。経験の条件としての時間とは、カントにおけるような既成の形式である以前に、このような自己触発的かつ地平設立的な超越の運動のことなのである。ここにおいて、なぜ経験をめぐってその主体とその対象、自己と世界の両者が、分かちがたく与えられてくるのかが了解されてくる。
 さて、なぜこの第五章が特に重要なのかと言えば、本章での整理こそは、第二部「経験の源泉」に続いて、さらに第三部「経験の深層」が立てられるその不可欠のステップをなしているからである。ここで我々は少なくとも二つの問いを手にすることになる。それは第一に、フッサールの内的時間意識の理論に登場してくる「原印象」の位置づけに関わる問いである。過去把持・未来予持の地平が発生してくるそのいわば原点に置かれるこの「原印象」は、では、それ自身として、はじめから当の地平内部に繰り込まれた事象だとして済ませられるものなのか。そうではなく、「原印象」とは、時間地平とそこにおける現出様式に対して根本的に異質な位相にあるのではないか。そして第二に、世界における諸現出を可能にしているのが「超越」の運動なのであるとして、この「超越」そのものの現出は諸対象の現出と同じ様態においてであってよいのか。それともそれには独自の、またさらには「超越」に先立ちつつそれを可能にしている現出あるいは自己提示の様態が備わっているのではないか。本書第二部は、以上の問いを整えるために、多様な諸経験に対しての可能性の条件を、ひとまず「時間」へと集約する役割を担わされている。こうして、一見逆説的な展開に思われることだが、いったん見いだされたと思われる「経験の源泉」のさらに奥に、「経験の深層」と呼ばれ得るものをめぐっての問いが設定されることになるのだ。第三部が扱うのはこれである。
 とはいうものの、現出の地平としての「時間」という「経験の源泉」のそのまた深層に存在するものに関して、本書は一義的な解答を与えるわけではない。第三部は第七章から第十章の四つの章から成るが、フッサールからヘルトに到る第七章ならびに後期メルロ=ポンティを扱う第八章に対し、アンリを扱う第九章は明らかに異質であり、第十章ではその異質性へとベルクソンが接合されていくことになる。ただし大筋は明らかだ。ここで共通して問題になっているのは、先に示された経験の可能性の条件としての「地平」内部にはもはや含まれない経験、先行的な地平なしに与えられる事実なのである。
 本書がクリアに描くヘルトや後期メルロ=ポンティの所説をここで反復してみせる必要はあるまい。最低限の確認だけをしておけば、ヘルトは、「生ける現在」の「脆さ」を語りながら、原印象の言うなれば自己過去化、「自己を過ぎ去るにまかせる」という事態と、そこで作動する「自己共同化」という時間的統一(そこには自我の原構成と共に、間主観性の原可能性が垣間見られる)の重なりのうちに、究極の原事実を見る。メルロ=ポンティは、「感覚する(見る・触る…)こと/されること」の決して現実化されないままでの一致、つまりは緊密に結ばれつつも相互の差異を排除できず、むしろその差異によって結ばれているとも言えるような、両者の絶えざる非合致の戯れを、根源的存在そのもののうちに認める。ただいずれにしても、こうして「経験の根底」に見いだされるのは、(自己)同一性を不可能にするような「差異」であり、「脆弱性」であり、そこで強いられる自己のいわば絶えざる掴み損ね──しかし自己を時間へ、そして世界の存在へと開いていくその帰結においてはこの上なく豊穣な掴み損ね──である。
 しかしひとも知るように、アンリの所説は以上とは異質なものだ。彼は端的に、地平を経由するハイデガー的な自己触発概念を二次的な位置に差し戻し、そこに見定められた「超越」をそもそも可能にしている「本質」として、「内在」概念を提出する。いわゆる時間が可能にする経験とは、本質的に言って、「隔たり」を解しての対象的経験に留まるのであり、それを可能にする手前の場所に、自己を自己として、原受動性において、隔たりなきままに受容する情感性の次元なき次元、すなわち真の意味での自己触発という事実が突き止められるわけである。
 ただしかし、アンリの「内在」概念は時間や世界をただ排除して終わるものではない。この詳細はアンリ研究が必ずや取り組まねばならないはずのものだが、本書は次の二つの点に関して、少なくとも考察の方向を適切に整えている。第一に、時間地平において隔たりのうちに現出する対象的自然とは異なるものとして、ビラン的な「努力」の必然的かつ直接的な対項=抵抗としてそれ自体情感的に与えられる自然=「コスモス」「生世界」をアンリは口にすることになるが、これをどう理解すべきかという問題。評者の関心から付け加えてよければ、努力や意志、自由や投企の可能性の条件として内在=原受動性が遡行的に立てられる──「努力」の存在論的条件とは、それ自体は努力ならぬ「努力の感情」である──という論点はアンリが諸著作で反復変奏するものだが、その上で逆に、原受動性から能動的努力が実効的なものとして立ち上がってくる発生的方向での基礎付け関係自体はどう理解できるのかという問題がそこには常に残っている。そこには、「アプリオリ」としての原受動的内在が、まさに「我なし能う」との関連において、単なる形式ではなく実質的なアプリオリ、可能性ではなく現実性のアプリオリであることの証示、その「いかに」をめぐっての問題が残されているのではないか。そして第二に、『顕現の本質』ですでに情感的絶対者に関してもその内的な「生成devenir」「歴運historial」を口にしていたアンリは、自己触発を「自己自身への永遠の到来」といった表現で語り直していく。単なる無時間性ではない。そこで問題になっているのは、過去へ流れ去っていくことなく留まり続けるという逆説的な時間、しかしそれによってこそ私の行為の反復可能性が支えられている独特の時間、止むことなく自ら成長し豊穣化していくような時間である。しかし、「生命の時間」とでも名付けられようこの時間性を、どう了解すればよいのか。
 最終章では、この第二の問題への一つの手がかりとして、「時間」から「純粋持続」を区別していたベルクソンがもう一度呼び出される。ベルクソンの「持続」概念こそは、問題背景はもちろん異なりつつも、目下問題になっているような独特の時間性──まずもって地平構成的であるわけでもなく、把持・予持の形式であるわけでもなく、むしろ絶えず自分のもとに留まり続けながら、しかもそのことによって成長増大を果たしていく時間、「現出の地平」や「超越」という言葉などを介しては適切に表現できないような原時間的事実として読み直すことができるものなのではないか。本書は、考察をこうしたところにまで導きつつ、暫定的な終点に到ることになる。
 先に述べたように、最終部となる第三部は、最終的な解答についてはそれを留保したままである。実際、ヘルトと、アンリ(そしてベルクソン)は相当に異質である。そしてまた逆に、「経験の深層」のレベルにおいてすら、メルロ=ポンティとベルクソンとをつなぎ直す可能性はまだ断たれてはいない。『見えるものと見えないもの』はベルクソンを存在論的には素朴なポジティヴィスムとして処理しているように見えるが、同書には「世界の肉」とベルクソン的持続を連接する謎めいたノート(VI, p.320-)が収録されていることをも我々は知っているからだ。密かな対話は続いているのであって、となれば、諸思想家の布置はさらに錯綜し得ることだろう。
 そうした錯綜の可能性の中でも、特に著者が積極的に結びつけようとしているアンリとベルクソンとの関連をめぐって、評者なりの印象を述べておきたい。現象学が開いた問題系を背景に、本来的には何ら地平構成的ではない時間、ただただ質料的な自己豊穣化の過程としてベルクソンの純粋持続を(アンリとの連続性において)捉え直すという解釈方向は、評者自身もその意義を理解し、少なくない共感を覚えるところである。ただ、ベルクソンの持続は、現象学的な解釈の下に置かれてなおそれでも、彼が「生」そのものの本質的事象として見据える分岐的進化や脱個体的な繁殖といった事象に露わなように、やはり自己多様化、自己差異化の概念(しかも「脆さ」といった否定的観点からではなく、むしろ生自身の積極性として理解されるそれ)、さらには生殖性・繁殖性の概念なしには十全に理解できないのではないだろうか。あえて言えば、この割り切れなさがやはりベルクソン哲学に固有の問題性なのだと思う。だからこそ、「生命の時間」というタームでアンリとベルクソンを結ぶことが可能だとして、しかしその場合問題になっている「生命」(あるいは後期アンリが好んで語り始める「生誕」等でもよい)が何のことであるのかはそれとして正確に問われねばならないのではないか。アンリ自身がベルクソンについては、奇妙なまでに僅かな、それもほぼ否定的な言及しか行っていないだけに、これは相当の繊細さを要求する作業になろうことは自明のこととして、ともかくも今や、我々の視界の一方の端にはエックハルト的な、もはや「何故」なき生の充溢と湧出が控えているわけだが、しかしベルクソンが控えるもう一方の側、その遙かな遠方には、別の仕方でもはやアルケーを顧慮せずに生きる遊牧民の影が相変わらず揺れ動き続けているかもしれないのだ。おそらく、ここで見渡すべき範囲は狭いものではないのであって、実際、ごく安易な蛇足であることを承知で問うなら、本書第三部の問題圏に無関係ではないはずの他の哲学者たち──すぐに想起されるのはデリダの名だが、本書の問いを豊穣化し得るのはむしろアンリと暗黙の対話を早くから行っていたと思われるレヴィナスの介入だろう──は、本論の関心に照らされた時、何を語り得ただろうか。いずれにせよ「経験の深層」なるものをめぐっては、問題はさまざまの方向へと拡がらずには済まないことだろう。
 冒頭「はしがき」で明言されるように、本書の第一の課題は、「経験の起源の探求」というテーマのもとで、以上見てきたような哲学者たちの所説を位置づけ直すことに存している。この課題は、現象学を軸に据えての二十世紀思想史の一つの試みとして、相当に高い水準で達成されたと言ってよいだろう(そしてその文脈に組み込まれながら切り出されてくるベルクソン哲学の相貌も、実に鮮やかなものである)。この我々の粗雑な紹介では示せなかったが、思想家間での安易な同一視や類型化は丁寧に避けられ、それでいて著者が設定した枠組みは有効に機能している。しかしそれゆえにこそ、こうも言わなければならないように思われるのだ──著者によって示された哲学者たちのさまざまの主張は、当の枠組みの内部で、やはり互いの間に軋みを引き起こしているのであって、そのために本書は、さらなる考察と、おそらくは避けがたい選択を迫ってくる一種の問題集、そしてまた暫定的例解集のごときものにもなっているのだ、と。もしここで一切の折衷主義が不可能であるならば、どのように答えていくべきか。「経験のアルケー」とは結局、何に存するのか。それは著者のみならず、本書の「アルケオロジー」の歩みを辿ってきた読者にも改めて課されてくる問いとなるはずである。
(杉山直樹)