戸島貴代志 著
『創造と想起──可能的ベルクソニズム──』
杉山直樹

 「強さ」についての書物である。
 この「強さ」は、単純性と透明性、そして自己についてのある種の盲目によって特徴づけられる。効率性の計算や「ギブ・アンド・テイク」のエコノミーといったことに一切とらわれることなしに、自然に、平然と、自らをその有限性という「場所」において生き抜くこと。著者が語ろうとする「強さ」とはひたすらにそのことである。それは時にあまりに楽観的で、滑稽や狂気にすら似たものにもなろう。しかし、飛躍と創造というものがあるとすれば、それはこうした生においてでしかない。

 こうした「強さ」は、自らについてわざわざ語り立てたりはしない。ただ自らをその強靱さにおいて示す──しかしいかなる語りも届かないまでにこの上なくありありと示す──それだけである。だがそれを損なう罠はいたる所に用意されている。生をそのままに引き受けないことから期待と幻滅が生じ、あるいはルサンチマンが沈殿していく。哲学においても同様であり、自らの「場所」を正しく引き受けて開始されたはずの思惟が、知らずしらずのうちにその「場所」を対象化しつつ──それを著者は「場所論」化と呼ぶ──自らを中立性の空虚へと根こぎにしてしまうことは稀ではないのだ。この種の罠を見越し、踏み越しながら、あらためて「強さ」について考えること、これが本書が引き受ける課題のすべてである。

 そのために著者が取り上げるのはベルクソンとハイデガーであった。著者自身「まえがき」と「結語」において「無謀」と述べているが、この二人の哲学者を選ぶこと、そして両者を対比し、しかもこう言ってよければベルクソンの側に軍配を上げること──こうした試みは、今日の我々哲学研究者の内外に構築されている暗黙の地勢図からすれば確かに大胆と見られよう。存在の問いをめぐる思索の恐るべき「深さ」を通じて我々の哲学をほとんど不可逆な形で更新したあのドイツの哲学者に対して、フランスの哲学者はあまりに古風で、単純素朴で、かつ現代の窮境に対して無感覚なまでに楽観的と見える。だが著者は「まえがき」からこうした構図をきっぱりと否定する。そのような見取り図は、「ベルクソンの哲学に対する或る無理解と、ハイデガーの哲学に対する隠された過度の要求」の所産に過ぎない、というのである。本書における著者の見通しの規模と、試みられる考察の歩幅の大きさはすでに明らかであろう。本書を読もうとする者はまずもって、この歩幅を共有せねばならない。言うまでもないが、この歩幅は、解釈上の杜撰さを意味するのではない。ベルクソンの「純粋知覚」と「純粋記憶」の存在身分をめぐっての考察(七〇頁)や、「時間の空間化」の可能性の条件を問い返すことで何か気の利いた批判を述べ得ると思い違える論者への応対(八九─九三頁)は、必要最小限の言葉で記されながら極めて鋭利かつ正当な考察であるし、『存在と時間』の問題構成内部において「方法的」概念として機能させられた「不安」概念に関しての叙述(一〇一─一一三頁)についても同じことを言い得よう。詳細な注釈はいくらでも可能だ、だがそれによって不幸なアキレスのように歩みが滞ってはならない、跨ぎ越せるものは端的に跨ぎ越せばよい──そんな弁明すら惜しみつつ、著者はベルクソンの「強さ」とハイデガーを捉える罠についてのみ言葉を費やしていく。紙数の限られたここでは、いくぶん錯綜する本書を貫く太い基本線だけを、思惟の「場所」と「場所論」的思惟という二つの特徴的な概念に沿って紹介しておきたい。

 思惟の「場所」──その名に値する思考は、ある必然的な呼び求めによって一定の「場所」に据え置かれ、それを全面的に引き受けながら展開する。この「場所」とは、ベルクソンにとっては「純粋持続」や「進化」であり、前期ハイデガーにとっては死を前にしての「不安」であったが、著者の見立てでは、いずれの哲学者においても問題となっているのは、結局「有限性」の徹底的な肯定、延期も留保もなき引き受けと耐え抜きであった。しかし誰もが知るように、「死」や「不安」を語るドイツの哲学者、後には技術的な「集め立て」としての存在の貫徹に「困窮・窮境」を見るハイデガーに対して、ベルクソンは「無」や「死」が喚起する「問題」のそもそもの虚構性を語り、同じく技術文明の「狂乱」的な危険を語りながらもそれを自らの背後で単なる「道具・機関」となし得るだけの神秘的生命の創造性を語っていた。前者においては「死」や「窮境」が外部なき全体的閉域をなす(それはやがて弁証法的に「極端な脱我・無我」や「別の元初」を導いてくる)傾きを持つのに対し、後者においては、有限性への徹底的な没入がかえってその有限性をそのまま内部から破り更新していくかのようなのだ。言うまでもなく著者は、ベルクソンのこうした独特の「強さ」の側に、与している。では、何が両者を分けてしまったのか。

 「場所論」的思惟──最初に述べたように、以上のような思惟には常に微妙な危険がつきまとう。眺めようとする誘惑、自らを見ようとする誘惑、自らの「場所」そのものを主題化しようとする誘惑。「場所」的思惟は、こうして「場所論」的思惟に転回していく。「存在の問い」を初めて駆動したはずの根源事象である(生きられた)「不安」は、存在論的考察内部の一要素としての(語られた)「不安」とすでに両義的な、しかしあり得べき宥和関係に立っていた。だがその後の、「窮境」がある種弁証法的に求めてくる思惟は、当の「窮境」を「窮境としての(窮境を欠くという)窮境」として語り立てることで、自らの本来の「場所」からすでに微妙な隔たりを取ってしまってはいないか。その語りは、当の「場所」の「出口」を自らひそかに閉じてしまう種類のものではないのか(特に一四七頁以降)。

 これが、ハイデガーが陥った罠であり、ベルクソンがその素朴な単純性によって乗り越えてしまっていた罠である。そしてまたそれは、「対立的無の場所」の奥に「絶対無の場所」を語るあの西田もまた陥った罠であり、ストア派を気取りながら、死を平然と迎える農夫を前に動揺と転回を余儀なくされたあのモンテーニュが陥っていた罠でもあり、柳田が語る「山の人生」がそもそもあずかり知らぬ種類の罠でもあった。ハイデガーとベルクソンを扱う本論には、四篇のそれぞれ短くはない補論が添えられているが、モンテーニュやニーチェ、柳田たちを扱いながら、著者が常に同じテーマを語っていることは明らかである。繰り返せば、自らの「場所」をその窮境とあわせて完全に引き受けるがゆえに、過剰な「場所論」化に向かうことなく、主題化を知らぬ透明性と計算を知らぬ盲目性によって特徴づけられながら、しかしだからこそ逡巡なくただ単純に行為し、あくまで単純に創造を果たしていく、そうした生の「強さ」こそが著者の関心を呼ぶ事柄なのである。本書はそれ自体、そのような生を自らの「場所」と引き受けようと紡がれた試みなのだ。

 もちろん疑問は生じる。著者は『創造的進化』のベルクソンを特権視し、『道徳と宗教の二源泉』、特に人類に警告を発するベルクソンに上記の意味での反省的な「場所論」化の動向を見るが(そこに本書が選択的に「可能的」ベルクソニズムを語る理由があるわけだが)、果たしてこの切り分けは正当なものだろうか。また「不安」を『存在と時間』すべてを支える根本気分と見ることは、基礎存在論の試みをいささか過剰に実存主義的な仕方で理解することに繋がらないだろうか。

 そして何より評者が気がかりなのは、「語ること」という事象についての扱いである。中期以降のハイデガーの語りを、すべて「…についての語り」として、それ故に語られる事象からの対象化的疎隔化と理解することは正当だろうか。本書で繰り返され、ある意味で議論全体を支配しているあの「語ること」と「示すこと」との対立は、どれほど根源的なものなのであろうか。そして結局、本書が語る「言葉」の場所はどこにあるのか(二〇八頁)。著者も結局ずいぶん語っているではないか、などと愚劣な反問をしているわけではない。語る者をメタレベルに遊離させない語りとはいかにして可能か、言語にも「強さ」が可能であるとすればそれはいかにしてか。著者はそれこそ、自ら身をもって示すしかない事柄であると言うだろうか。

(理想社  二〇〇七年)