年譜

西暦

年齢

年譜

1877

0

7/2、南ドイツ、シュヴァーベン州ヴェルテンベルグの小都市カルプ(Calw)に牧師ヨハネス・ヘッセと妻マリーとの間に第二子として生まれる。

1881

4

両親と共にバーゼルに移る。父はここの伝道館の仕事に従う。

1886

9

一家カルプに戻る。

1890

13

神学校受験準備のため、ゲッピンゲンのラテン語学校に入学。

1891

14

神学者となるため、シュヴァーベンの国家試験を受けて合格。このためヴェルテンベルクの国籍をとり、秋、マウルブロン神学校入学。

1892

15

春、神学校を脱走、退学。シュテッテンの精神療法をする牧師ブルームハルトの所に預けられるが、自殺未遂。

1893

16

カンシュタット高校入学。一年足らずで退学。エスリンゲン書店員となったが3日でやめ、父の助手としてカルプ出版協会で働く。

1895

17

カルプのペロット工場の見習い工となり、塔の時計の歯車を磨く。

1895

18

秋に時計工場をやめて、テュービンゲンのヘッテンハウアー書店の見習い店員となり、ゲーテ、ついでドイツ・ローマン派文学をよみ、詩や散文を書き始める。

1899

22

最初の詩集『ローマン的な歌』ついで『真夜中過ぎの一時間』を出版。リルケに賞賛される。 
秋、バーゼルのR-ライヒ書店の助手となり、販売及び古書部担当。

1901

24

バーゼルから最初のイタリア旅行に出る。

1902

25

『詩集』をカール・ブッセ監修の『新ドイツ抒情詩人』中の一冊として出版。 
4/2母マリー死す。

1904

27

『郷愁』を出版。 
9歳年上のマリーア・ベルヌリと結婚。ボーデン湖畔ガイエンホーフェンの農家に住む。

1905

28

長男ブルーノー誕生。

1906

29

『車輪の下』を刊行。

1909

32

二男ハイルナー誕生。

1910

33

音楽家小説『ゲルトルート』刊行。

1911

34

三男マルティン誕生。画家ハンス・シュツルツェンガーと共にインド旅行(シンガポール、南スマトラ、セイロン)をする。

1912

35

一家をあげてスイスのベルンに移住。

1914

37

第一次世界大戦が始まり、ヘッセはベルン領事館の兵役検査のため出頭したが、健康が兵役に不適当として免除される。ベルンの「ドイツ捕虜保護機関」のため献身的に奉仕、慰問新聞・図書の刊行、発送のため働く。しかし、極端な愛国主義者的言辞に反対する考えを発表、平和主義を唱え、『おお友よ、その調子にあらず』の後、さらに『再びドイツに』を発表をするやドイツ全土の新聞によって売国奴と罵られ、新聞雑誌からボイコットされる。ロマン・ロランから「ゲーテ的態度」と賞賛の手紙来る。

1915

38

『クヌルプ』刊行。

1916

39

父ヨハネ・ヘッセ死す。末子マルティンの重病、妻の精神病の悪化と入院。ヘッセも度重なる苦悩のため、ルツェルンの養寮所で精神科医ラングの治療を受ける。 
『青春は美わし』刊行

1917

40

『デミアン』を数ヶ月で書き上げる。

1919

42

『デミアン』をシンクレーアという匿名で発表。 
ルガノ郊外のモンタニョーラに一人住む。水彩画を描き始める。

1922

45

『シッダルータ』刊行。

1923

46

マリーア夫人と正式離婚。スイス国籍をとる。座骨神経痛とリューマチのため、チューリッヒに近いバーデン温泉で湯治。

1924

47

女流作家リーザ・ヴェンガーの娘ルート・ヴェンガーと結婚。

1925

48

南ドイツを朗読訪問し、その後ミュンヘンにトーマス・マンをたずねる。

1927

50

ルート・ヴェンガーと離婚。『荒野のおおかみ』刊行。

1930

53

『知と愛』刊行

1931

54

ニノン・アウスレンダーと結婚。ヘッセ夫妻はカサ・カムッチの家から、ハンス・C・ボードマーがヘッセ夫妻のために建てた新居に終生住む。

1935

58

『メルヒェン』刊行。

1937

60

『新詩集』刊行。

1939

62

ナチス政権下でドイツでのヘッセの作品はこの年から1945年まで「望ましからぬ文学」とみなされ、紙の配給を停止された。

1941

64

ヘッセの本がスイスで刊行され始める。

1942

65

これまでの全詩集を『詩集』としてスイス版で刊行。

1946

69

評論集『戦争と平和』刊行、ロマン・ロランに捧げる。 
この年から、ヘッセの作品は、ドイツでもフィッシャー書店のあとをついだズールカンプ社から出ることになった。

1950

73

ヴィルヘルム・ラーベ賞をブラウンシュヴァイク市より贈られる。

1955

78

西ドイツ出版協会から「平和賞」を贈られる。

1956

79

ヘルマン・ヘッセ賞が西独カールスーエ市に設けられる。

1962

85

8/9、モンタニョーラの自宅に死す。数年来の出血性白血病による。近くの聖アボンディオ教会に葬られる。

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