<<阪神大震災 わたしの記録 1995.2.11>>

平成7年1月17日午前5時46分、阪神地方をM7.2の直下型地震が襲った。
3週間経った2月11日に交通機関もまだズタズタの中、被災地を訪れてみました。(所要時間9時間)
(注)決して被災地を物見遊山で訪れたものでないことを、明言しておきます。写真は23枚あります。
また東灘区ではカメラを向けることさえはばかられ、写真は撮りませんでした。


[No.1]

阪急宝塚線の中山駅を下ったところのビル。構造的にも問題があったと言われる。 (いわゆるゲタ履きビル)


[No.2]

当日初めて見た惨状。なんとなく「 筋交い 」が入っていない印象を受ける・・・。


[No.3]

阪急西宮北口付近。今津線の東側はほぼ壊滅の状態。ここはごく最近になって再開発が始まった。


[No.4]

住吉にて。一階部分がつぶれている。老人は、一階で生活をという優しさが あだとなって、多くのお年寄りが亡くなった。


[No.5]

三ノ宮にて。神戸は海と片方は山に挟まれた帯状の地域にひらけた市街地で、山に当たった 地震波は増幅され、大きな被害を受けた。別の断層の存在が一部の学者のあいだでささやかれたが、その後の人工地震による調査の結果否定された。


[No.6]

三ノ宮からフラワーロードをすこし下った所。真ん中の白いビルが傾いている。


[No.7]

三ノ宮にて。黒いビルの三階部分がつぶれている。最も堅牢であるべき銀行の建物で問題視された。


[No.8]

[No.9]

三ノ宮にある神戸新聞会館。老朽化したビルで、内部は壊滅の状態。駅前広場でこのビルを見ながら悲しい思いにかられたことが思い出される。


[No.10]

三ノ宮では、すでにビルの撤去作業が始まっていて、たいへんほこりっぽかった。建設機械の姿が恐竜のように見えた。


[No.11] 三ノ宮にて。

[No.12]


[No.13]

[No.14]

[No.15]

[No.16]


[No.17]

長田区内の惨状。さすがにこの辺まで来るとほとんど人がいない。


[No.18]

長田区にある西市民病院。上層階がつぶれているのがわかる。かなりの人々がとじこめられたが、全員無事に救出された。

[No.19]

木造家屋は瓦屋根の下の赤土が露出して、一層悲惨に見える。重い瓦屋根がきらわれ、その後の家屋はほとんどカラーベストなどの軽量のものが好まれた。

[No.20]

長田区の蓮宮通付近。火災のため薄黒く焼けただれてゴミの山のように見える。

[No.21]

元町まで戻ってくると三ノ宮や長田区の惨状がウソのように思える。買い物のために歩いているのではなく交通機関が寸断されているので、皆ひたすらに歩いている。

[No.22]

三ノ宮センター街。

[No.23]

三宮にある神戸勤労会館。ここで毎月のようにある研究会をやっていたのでショックを受ける。 このビルはその後も長く使用不能であった。