池野家のルーツ

三河にルーツ?

子供の頃から、池野姓が周りにほとんど見られなかったのを不思議に思っていた。実家の菩提寺である、天台宗金剛樹院(山形県羽黒町手向)の住職の話によると、私のご先祖は、1622年(元和8年)に徳川家譜代大名酒井忠勝が初代庄内藩主として、出羽国庄内へ移る際に一緒に来たという。酒井忠勝は庄内藩主になる前に3年間、信州松代の藩主を務めているが、ご先祖が酒井氏とともに庄内に来たとすれば、もともと酒井氏がいた三河国に私のルーツがあることが考えられる。

金剛樹院の過去帳に池野姓が登場するのは元禄を過ぎてからである。私が確認した当家の最古の位牌は延宝3年(1675)のものである。このことからいくつかの謎が生じてくる。ご先祖が、元和8年(1622)に酒井氏とともに庄内に来たとすれば、この間の数十年の空白は何を意味するのか。また、なぜ羽黒山に住むようになったのか。酒井氏の家臣だったのならその間、庄内藩の城下鶴岡に住んでいたと考えられる。藩政の初期は、御家騒動やキリシタン弾圧などもあり、政情不安定な時期でもあった。ご先祖もなんらかのトラブルに巻き込まれて、羽黒山に移ったことも考えられる。

羽黒山との関係

江戸時代、ご先祖は羽黒山の医者をしていた。当時は漢方医学である。天保15年(1844)購入の薬箪笥が残っている。元禄2年(1689)に羽黒山を訪れた松尾芭蕉は、『奥の細道』のなかで、「当寺、武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かかげそひて、僧坊棟を並べ、修験行法を励まし、霊山霊地の験効、人貴び且つ恐る。繁栄とこしなへにして、めでたき御山といひつべし。」と、当時の山の繁栄ぶりを記している。このとき芭蕉を厚くもてなしたのが羽黒山の別当代会覚阿闍梨(天台宗高僧)である。延享元年(1744)歿のご先祖の位牌にある戒名「権大僧都阿闍梨法印自楽印峯義」からも、羽黒山との強い繋がりが伺える。明治10年(1877)、明治政府は漢方医学を禁止した。この頃までご先祖は医者をしていたと思われる。

家紋

池野家の家紋は丸に蔦で、金剛樹院にはご先祖が寄進した家紋の欄間が残されている。

位牌

池野家の位牌の中には、300年以上に渡る約30人のご先祖の戒名や歿年月日等を記した十数枚の木の札が収められている。中には俗名が記されたものもある。札には一枚につき二人(表裏に一人ずつ)のご先祖の戒名、歿年月日、年齢などが記されている。既に記入されているものに紙を貼り、別のご先祖のものが上書きされているものもある。

インターネットによる調査

NTTのオンライン・タウンページで調べてみると、愛知県には池野姓が多く見られ、池野の地名もあることがわかった。インターネット上では、家系図を調べている方々による様々な情報が公開されている。インターネットがもっと普及すれば、こうした調査に興味を持つ人も増え、情報交換も盛んになるだろう。たまたま見つけた家系図メーリングリストに参加したおかげで、次のような情報が入手できた。

指数で山形県がトップというのは私には意外だった。現在の山形市を中心とする内陸地方に池野姓があるのは知っていたが、庄内地方では珍しい姓だからだ。二つの地域は江戸時代の初期を除いて、別々の藩だった上、親戚があるという話も聞いたことがないため、関連性はないと考えていた。

いずれにせよ、家紋が丸に蔦池野姓の方は、私とルーツを同じくする可能性が非常に高いと思われる。

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Last Update: 01/10/22