《 To Heart 》 俺らの街角早春賦

(1)目覚めの朝、いつもの朝

 薄いカーテンからもれた朝日が部屋の中を静かに照らす。そのオーロラの様な光の幕が慈しむように絨毯を撫でる。昨日までここを満たしていたピリとした冬の緊張感は薄れ、冷たい空気と暖かい空気が何層にも重なり合い、この部屋の中を漂っていた。窓の外では木々の芽も喜びに膨れ、小鳥達がもうすぐ訪れる季節の噂に胸をときめかしていることだろう。
 ぼんやりと覚醒しつつある意識はこのやすらぎに似た安堵感にいつまでも包まれていたいと告げてきていた。まどろんでいた。
「……ん、……ひ……ちゃ……」
 窓の外からかすかに聞こえる町の声ですら今は心地よい音楽のように感じてしまう。
「……ろ……ちゃん、ひ……き……、はや……ゃう」
 女の子の声か、たぶん誰かを呼んでいるんだろう、何度呼んでも出てこないところを考えると、相手はよほどのグズかのろまだな。……あれ?
「浩之ちゃん! 浩之ちゃん! 早く起きないと遅刻しちゃう!」
 あっ! 俺は反射的に跳ね起きると時計を見た。8時22分。グズは俺だった。
「やばい、レッドゾーンぎりぎりだ」
 捨てるようにパジャマを脱ぐと、制服を着込む。学ランのボタンを全開のまま洗面所へ飛び込むと、目の周りだけ洗い、ザッと髪をとかす。さっきの声がまだ俺をせかし続けてる。わかってるよ。廊下を駆け抜け靴に足を突っ込む。
「いってきます」
 返事の返ることのない家にひとこえ叫んで、俺は玄関を飛び出した。
「浩之ちゃん早く早く!」
「お前も俺なんかかまってないで先に行ってりゃいいだろ、あかり」
「だって……」
 さっきから俺を呼び続けていたのは『神岸あかり』、毎朝、毎朝、頼みもしないのに迎えに来る。そんでもって遅刻しそうになるとは表から大きな声で俺を呼びやがるのだ。小学校入学以来もう10年近く続いている行事で近所の間でも名物になってしまってる。
「それにしても、『ちゃん』付けはやめてくれ。16にもなって恥ずかしいぜ」
「だってちっちゃい頃からそう呼んでるんだもん」
 少し目をふせてあかりは言う。あかりは背が俺の肩ぐらいしかないので、うつむかれると表情が俺から見えにくくなってしまう。おさげだけがやたら俺の目に映える。
「でも浩之ちゃん、もうちょっと早く起きて朝御飯くらい食べなきゃだめよ、ただでさえおばさん仕事で家にいないんだから」
 あかりはこんな風になにかと俺の世話を焼きたがる。未だに小学生の頃と同じ感覚でいるに違いない。今までのとてつもなく長い付き合いのせいか、他の誰よりも気心が知れ、俺も心安く接することができる。多分あかりはこの世で2番目に俺のことを解ってくれるやつだ。それは心地よくもあり、うざったくもある。
「やっぱり、おばさん家にいて欲しいでしょ?」
 と俺の顔を覗き込んできた。まっすぐ俺を見るあかりの顔は、ちょっと目尻の下がった大きな瞳をしていて、鼻と口が小さくちょこんとついているという感じだ。しかし顔全体の均衡が取れているから、その大きな目がチャームポイントとなって、とても愛らしい。おっとこいつはあかりには内緒だぜ。髪は後ろで2つに分けてゴムで止めてあるというシンプルなものだ。こいつがこの髪をほどいたところなんかここ数年見ていない。縛った髪が肩のあたりまであるが、この髪型のせいか実際より少し年下に見える。しかし近所のおばさん連中によると、「あかりちゃんは大人になるときれいになる」そうだ。うーん、にわかには信じられないが……。
「……浩之ちゃん、ねえ……」
 あかりが少しほほを赤くしている。いけね、あかりの顔をじぃっと見つめていたみたいだ。なに意識してんだよ。
「別におふくろが家にいなくても平気に決まってんだろ」
「それならいいけど……」
 少し残念そうな顔をする。へいへい、ばれてますよ、本当はちょっとさみしいですよ。んでも、ここで「さみしーよーん」などと男が言えますかってんだ。
「あかりっ、学校までダッシュだ!」
 俺は図星指された腹いせも込めて、突然走り出した。まあ実際走らないと間に合わない時間なんだが。
「あっ待って! 浩之ちゃん!」
 あかりも胸の前に両手で鞄を抱え、置いてかれないようにあわてて追いかけてきた。
 そんないつもの朝の光景。

 閑素な住宅街をぬけ、角を曲がって大通りへ出ると学校は坂の頂にて4棟からなる白い体躯を見せる。もう少しだ。ここでちょっと後ろを振り向く。息が上がってあかりがしんどそうだ。しょうがねえなぁ歩くとするか。
 あと100mぐらいで校門というところで、前を悠然と歩く見慣れた後ろ姿を見つけた。当然俺は知らんぷりを決めて横を通りすぎようとした。それなのに。
「はろはろ、いつも仲がよろしいねぇお二人さん」
「おはよう、志保」
 ……朝からふざけたことぬかしたのは『長岡志保』だ。志保はシャープな顔立ちをしているのに、ぱちっとした目がくりくりとよく表情を変えるので愛敬がある。さらにスパッと切ったショートカットがこいつのすっきりとした性分を引き立てている。また女だてらに妙に背が高くてスラッとしている。それでいて、出るところは出ている。うーん、悔しいがスタイルはいい方だ。
「じゃあな」
「ちょっとちょっと、待ちなさいよヒロ。どーして私が余裕してるか聞かないの?」
 眉をひそめながら言う。素っ気なくするには理由がある。こいつは口が悪い。と言うか、ある事ない事そこらへんに言いふらして廻る悪い癖がある。
「お前の話をまともに聞くとロクなことがない」
「ちょっとぉ、それってどういう意味よっ!」
 今度は口を尖らしている。どうもこうも、こいつはいろんなネタを『志保ちゃんニュース』とか呼んでよく周りに言いふらしている。それがどこからそんなネタを仕入れてくるのかと謎なくらい、どうでもいい事からみんなをビックリさせる事までたくさん集めてくる。しかし困ったことに内容の9割がガセなのだ。これのおかげで迷惑をこうむらなかった奴はいない。聞き流してしまえばすむのだろが、残りの1割が本当に特ダネだったりするんで、頭っから否定できないところが恐ろしい。俺自身も今まで何度だまされたかわからない。周りからは密かに『歩く東スポ』と呼ばれている。
「志保、教えて」
「いよっ、よくぞ聞いてくれましたっ!」
 うっ、あかりもよけいなことを……。あやつめ喜色満面、とたんにパッと花が咲いたような顔になりやがった。とんだトラブルメーカーな志保だが、この屈託のなさからか、みんなのムードメーカーでありけっこう人気者だ。また性格が反対であるあかりと気が不思議に合うらしく、中学校でいっしょになって以来ずっと二人は親友なのである。と、言うことは俺も中学からの腐れ縁てことになるかな。
「今日、実は臨時職員会議があって、先生朝のHRに来ないのよ」
「本当?」「嘘に決まっている」
「じゃあヒロ、あんただけ走っていきなさいよっ!」
 ちょっとカチンときたらしくツンとした顔で言った。俺は最初からそのつもり。
「それじゃ君達はゆっくり行って遅刻でもしてくれたまえ」
 俺は小走りで校門へ向かった。
「浩之ちゃん待って」「ヒロのバカ、べーだ!」
 ふん、そんな眉つばものの情報に振り回されるほど俺は暇じゃないんだよ。
 それから俺は志保や追いかけてこようとするあかりを置いてけぼりにして、校門を走ってくぐろうとした。その時、
 どーーーーーーん
 と、前を歩いていた女の子に後ろから体当たりをかましてしまった。
「お、おい、大丈夫か!?」
「…………」
 その子はぺちゃっと座り込んだまま口も利かず、呆然とこっちを見てる。髪が地面につきそうなくらい長い。
「ケガなかったかい?」
「…………」
 反応がない。立てないくらいどこか痛いのだろうか。ちょっとやべぇかな。
「立てないくらいなら、保健室までおぶっていくよ。さあつかまって」
 と、俺が手を差し伸べると、彼女はその手に掴りすうっと立ち上がった。
「立てるのかい? はぁーっ、一時はどうしょうかと思ったよ。マジにケガない?」
「…………」
「……あっ、かばん拾うよ」
 放り出されたままのかばんを拾い上げた。幸い中身はぶちまかされずにすんだみたいだった。パンパンパンと汚れをはらうと彼女に手渡した。
「…………」
 清楚なお人形さんみたいな、きれいで無駄のない顔立ちをしている。ドレス着て小さい口唇に薄紅を差してアンティークな椅子に座っていたら貴族御用達のフランス人形と言っても通用するような気がする。……でもなんだかボーーーとしているなぁ。
「スカートも少し汚れてるよ」
「…………」
 うーむ、ここまでしてもいいのだろうかと思いつつも、彼女のスカートの裾やおしりについた砂ぼこりを手ではたいて落とした。パンパン。おしりが柔らけー。しかし彼女はその間なにをするでもなく、俺のすることをぼんやりと目で追っていただけだった。
「ねぇ、本当にケガない? 保健室行こうか?」
「…………」
 ここで初めて彼女が何か言おうとしてるのに気が付いた。うーん、小さな声だからぜんぜん気が付かなかったよ。
「…………」
「なになに、……ぼうとしていた私が悪い? いや、前もよく見てない俺が悪い。……え? ケガないかって? 俺より君の方こそ心配だよ。……私はなんともない? よかった、ほっとしたよ」
 どうも俺が矢継ぎ早にポンポンしゃべるもんだから、返事をするタイミングを失ってしまってたらしい。……変わった人だな。
「じゃ俺行くわ」
 そう言って俺は先に校舎に入った。
 下駄箱で上靴に履き替えてると、
「見たわよヒロ」
 と、志保とあかりも玄関にやって来た。
「来栖川財閥のお嬢様にタックルなんて、やることがすごいわね」
 志保の目が「いいもん見せてもらいやしたぜ旦那」と言いたげにきらきらしてる。
「はぁ? 今の人のことか?」
「はぁ? あんたあんな有名人知らないの? 2年A組、来栖川芹香、あの来栖川財閥の跡取り娘よ。私たちパンビーは口もきけないくらいのお嬢様なんだから」
 へぇ知らなかったなぁ。なるほど、あのかっとんだ程におっとりしてるのは育ちのせいかもね。
「鉛筆からロケットまでの来栖川コンツェルンと言えば日本国内にとどまらず、地球規模で展開する、世界でも有数の……」
「別におめぇんちのことじゃねぇだろ」
「……(怒)」
 ……オホン。続きをどうぞ。
「まあ有名なのはそれだけじゃなくてね、あと見ての通り何考えてんだか解んない所とか、あとまあ趣味が色々ね……」
 ん、志保のやつ言葉を濁したぞ。
「なんだよ、はっきり言えよ」
 ここでHR開始のチャイムが鳴ってしまった。
「まあいいや。早く行こうぜ」
 俺は話を切り上げて二人に早く行こうとうながした。
「大丈夫だって。志保ちゃんを信じなさーい」
「解った、解ったよ、信じてやるよ」
 ここまで来たら仕方ない。俺達3人は1−Cの教室の前まで一緒に行き、クラスが同じである2人と別れて俺は1−Aの教室へと向かった。そして教室に入ろうとドアをがらっと開けた。
「藤田浩之、遅刻」
 んがっ、担任が出欠を取ってやがる。おいおい、話が違うぜ。志保っ、今日は職員会議で先生遅いんじゃなかったのかよっ!

 チャイムが鳴る。すると教室は一斉に騒がしくなる。1時間目の準備をするやつ、机を離れて友達と話をするやつ、トイレへと走っていくやつ、色々いる。HRが終わった。ぐでっと机につっぷしている俺に華奢な男が一人近寄って来た。
「おはよう、浩之」
 男の名は『佐藤雅史』、小学校以来の俺の親友だ。雅史は俺とは違いサッカー部に入っていて、毎日朝練で学校に来るのがとても早い。こいつはこれでも一年生でレギュラーになった我が校サッカー部期待の星なんだぜ。穏やかな性格で普段はほんわかとしているが、いざピッチに立つとキリとして俺が見てもかっこいいと思ってしまう。
 小さいときは体が弱くガリガリだったから、中学校でサッカーを始めると聞いたときはマジで心配したんだが、今では随分とたくましくなってしまった。しかし顔が人よりも随分小さく、やさしい温和な表情をしているため、小学校の頃は女の子と間違えられることもしょっちゅうだった。そういうせいもあるのか、雅史は見た目と比べてむちゃむちゃ着やせする。さっきは雅史の事を華奢な男と言ったが、実は見た目と裏腹に俺と同じくらいがしっとした体でバネのある筋肉をしているのだ。顔はガキの頃のままだがな。見た目と中身のギャップの激しさは全校一だろう。また性格がひかえめなくせしてひょうひょうとした所があり、俺でさえ未だにこいつの全容を把握しきっていない。
「よー、雅史」
 俺は机に突っ伏したまま生返事をする。
「そうだ雅史、今朝先生たち臨時職員会議あるって聞いてなかったか?」
「今朝? 会議なら今日の放課後にあるそうだよ。新浜先生(サッカー部の顧問)が今日練習に出れないって言ってたから」
 がくーっ、張りのない体からさらに力が抜けていく気がした。
「あ、先生で思い出した。中村先生がさっきから呼んでるよ」
 教壇の方を見ると我がクラスの担任で在らせられる中村先生がにやーと笑いながらおいでおいでをしている。うぅ、やだなぁ。
「じゃあお勤め頑張ってね」
 へいへい。先生のもとへ行くと、「藤田、家政婦さんと茶坊主どっちがいい」と聞いて来た。どっちも嫌です……。
「……茶坊主をやります」
「よろしい、じゃあ早速行こうか」
 黒ぶち眼鏡の分厚いレンズの奥に細い目がにこりとする。
「えっ、今からですか?」
 そうだと、言いながら中村先生は教室を後にしたので俺もそれに続いた。少々強引な先生なんだがこの人には頭が上がらないんだ。
 うちのクラスでは遅刻した者にペナルティーが科せられるんだが、ペナルティーは『家政婦さん』と『茶坊主』のどちらかを選択できる。『家政婦さん』とは社会科準備室の掃除の事で、世界史を教えている中村先生の教材なんかが置いてある部屋を放課後に掃除するのだ。『茶坊主』とは先生が授業で使う大きな世界地図や地球儀なんかを教室に運ぶ事だ。『家政婦さん』はごちゃごちゃと物がある社会科準備室を念入りに掃除し、備品なんかをきちんと整理しなければならないため、1時間以上もかかる重労働なのだ。一方『茶坊主』は一日多くて4,5回ほどの労務なので楽なんだが、他のクラスどころか他の学年にまで自分が遅刻したことを宣伝することになるのですっごく恥ずかしい。これは『家政婦さん』の比ではない。普段は『家政婦さん』を選択するんだが、今日は早く帰って見たいテレビがあったんだ、仕方ない。
「藤田、どうだ最近あいつらは来ないか?」
 先生はいつも白衣を着ていて、ボロボロのサンダルをつっかけている。そして、ひょろひょろととても背が高く、いつも寝癖の付きまくった頭をしているので、白衣を着た椰子の木を連想してしまう。
「……あれ以来ないぜ」
「それはよかった」
 俺は山のような教材を抱えながら先生と1時間目に世界史の授業がある教室へと歩いていった。中村先生がドアをがらっと開けて教室に入ると視線が一斉に俺に集中する。は、恥ずかしい……。くすくす笑うやつ、意外そうな顔をするやつ、蔑む様な目をするやつ、反応は色々だ。他にも噴き出しそうなのを真っ赤な顔になってこらえてるやつがいるな……て志保じゃないか! 1−Cかよここは! よりによってあいつのいるクラスとは、最悪だ……。おい、なにがそんなに嬉しいんだよ、こっ、こっちを見るな。嬉々とした目が俺に向けられたまま離れねえ。志保がいるってことは……あっいたいた、あかりはしゅんとして済まなそうな目でじっと見てる。気にすんな、おめぇが悪いんじゃねぇよ。あのバカのせいだよ。
「長岡っ、噴き出すなら外でやってくれ」
「だぁって先生っ、あははははは」
 中村先生の言葉が引き金となって、志保のやつ大声で笑い出しやがった。俺は逃げるように教室を出るとドアを閉めた。まだ笑ってやがる、廊下中に響いてるぞ。俺はこの場で切腹したくなるほど恥ずかしかったが、いい辞世の句が浮かばなかったので、走って自分の教室へ帰った。

 そんなこんなで1時間が終わった。相当のダメージだったらしい、さっきの授業の内容ぜんぜん憶えてないぜ。くそっ、茶坊主の続きだ1−Cへ行くか……。俺が1−Cへ入ると中村先生は次に1−Aへ教材を運ぶよう言った。それに返事をすると俺は教卓へ行かず、まっすぐ志保の座っている机に向かった。
「やい志保、今朝はお前のせいで会わなくていい目に会ったぞ。どうしてくれる」
「なかなかかっこ良かったわよ、ヒロ。ぷぷっ」
 こいつまだ笑おってのか? てめえのデマのせいじゃねえか。
「だいたいなぁ!」
「浩之ちゃん! 志保だって悪気があったんじゃないから……」
 志保の側にいたあかりが語気の荒くなった俺を制した。
「……だいたいなぁ、臨時職員会議は今日の放課後だ。朝っぱらから、んな大事な話するわけねぇだろ」
「ほーんと、おかしいね。あはは」
 全然気にも留めてねぇ、なにお気楽なこと言いやがる。
「おかしいわねって、おまえなぁ!」
「あのね、あのね、浩之ちゃん。今日うちの担任の先生、家の事情で朝のHRに来れないって連絡があったの」
 ……まったく。俺の怒りゲージが上がりそうになると、すかさずあかりがクールダウンさせようとしやがる。
「……すると、臨時職員会議があるという事と、担任が朝遅れるという事がいっしょくたになったというわけか……」
「今回のは自信あったんだけどなぁ。いやー、ごめんごめん」
 ポンポンと右手で自分の頭の後ろを叩く。全然反省している態度じゃないぞ。これっぽっちもすまないと思ってないな。
「おおかた職員室の入り口で立ち聞きしたのを裏取らないで、自分勝手に解釈したんだろ? お前みたいなおっちょこちょい、人の3倍は気を使って人並みなんだから、もっと注意しろよな」
「ちょーっとヒロ、だまって聞いてりゃ言いたいこと言ってくれるわね。自分が遅刻したの人のせいにする気? あんたがもっと早く家出てればすむことじゃない!」
「俺が言いたいのはなぁ、俺が1−Cに入った時なんであんなにでっかい声で笑ったかって事だよ」
「おかしかったから笑っただけよっ。悪い?」
「悪いわっ、おまえがバカ笑いしなかったらそれほど恥ずかしくもなく済んだんだ。だいたい志保は思ったことをすぐやっちまうが。それが周りの人間にどんな迷惑になるかいっぺんでも考えた事あるか?」
「ぐぅ……、なによ、そんなこと言う事ないじゃない」
 ようし、もう少しでこいつをへこます事が出来るぞ。……ん? 誰だよ学ランの裾引っ張んのは。
「浩之ちゃん、もうすぐ授業が始まっちゃうよ。ね?」
 あかりが俺の顔を覗き込んでくる。じーっと俺の目を見る。
「うっ……しょうがねぇなぁ。あかりに免じて許してやっか」
 ふう、あかりに毒気を抜かれちまったい。
「ありがとう浩之ちゃん。志保も次の授業の準備しようよ」
 志保はフンと横を向いてしまった。俺は大きな世界地図と地球儀を持つと自分の教室へ帰るべく、1−Cを後にした。教室を出るとき振り返ると、志保はつーんと横を向きながら目だけがチラチラこっちを見ていた。あかりは叱られた小犬が甘えるタイミングを見計らっているような顔をしていた。うーん、昼休みぐらいになんか理由つけて俺んところに来そうな気がするな。

 こうして窓際で机に伏せていると、ガラスをすり抜けた日差しが昼飯を食い終わった俺に当たる。学ランをいっぱいに満たした暖かさは肩に背中にゆっくり染み込んで来る。胃袋が満足感に浸っているせいか緩んだまぶたが緞帳(どんちょう)のように静かにしかし確実に降りようとする。ここは体が欲求するままにこの身を任せるのがあるべき姿でしょう。おやすみ。
「浩之ちゃん、起きて」
「……ん」
 この呼び掛けによって、睡眠と覚醒の狭間にある真綿に全身を包まれたような浮遊感は地上へと引き戻されてしまった。
「なんだよ、あかり。人が気持ちよく寝てたのによ」
「うん……、お願いがあるの。……一緒に来て欲しい所があるの」
 俺が邪険な返事をしたせいか、あかりはちょっと「怒っちゃったかな……」という表情をした。俺の機嫌を逆撫でしたかと思ったんだろ。違うよ、もう怒ってない。まあ、昼休みになんだかやって来そうな気がしてたしな。予想通りということで。
「しょうがねぇな、ついてってやるよ」
 俺の言葉を聞くと、あかりは少し嬉しそうな顔をした。
「ありがとう、浩之ちゃん」
 教室を出るとき俺は小さいビニール袋を丸めたやつをポーンとごみ箱へ投げ込んだ。あかりがそれをじっと見ていた。別に悪いことはしてないぞ、ごみ箱にはちゃんと入ったんだからな。俺達は自分たちの教室がある東館を出ると、中庭を囲むようにしてある渡り廊下を歩いた。空気がまだひやっとするが、日差しがぽかぽかと暖かい。今日は窓際で昼寝をするに絶好の日和だ。
「浩之ちゃん、今日もお昼はパンだったの?」
「……ん? まぁそうだけど」
 まあ、弁当作ってくれる人が家にいないんだからな、しょうがないよな。
「おばさん、帰ってくるのいつ?」
 なんでおふくろの話題になるんだ? 話題に脈絡がないぞ。
「んー、来週の中頃ぐらいにいっぺん帰ってくるそうだぜ」
 とりあえず答える。
「おばさん、すごいキャリアウーマンだもんね」
 キャリヤウーマンと言えば聞こえは良いが、その実は元気だけが取り柄の仕事の鬼だ。そういや、もう半月程も会ってないような気がする。
「家の事ほったらかしだけどな。もうほとんど一人暮らし状態だ」
「浩之ちゃん、ご飯とかちゃんと食べてるの?」
「それを言うなよ。せめて雅史んちみたいに姉ちゃんがいたらよかったのにな」
「わ……」
 あかりは何かを言おうとしたが、ちょっと目を伏せ途中で口をつむんだ。話してるうちに渡り廊下を抜けると俺達は北館に入った。日陰に入ったせいか急に寒くなった。あかりがなにやら考え事をしている。
「それにしても、今日はすげー腹減っちゃて、いつもはパン3つのところが5つも食っちまった。朝一番にエキサイトしたせいかな」
 ちょっと話題をふってみるか、なんとなく間がもたない。
「……志保、午前中ずっとしょんぼりしてたよ」
 あかりは俺の横を階段を登りながらぽつりと言った。俺のネタふりはあまり効果がなかったみたいだ。それにしてもあいつがしょんぼりするようなタマか? 見間違いじゃないのか?

 階段を登り切ると俺達は3階へとたどり着いた。そこは俺にとって入学以来3回しか行ったことのない図書室だった。あかりは5時間目に必要な本を借りに来たそうな。
「ねぇ『三島由紀夫の作品と生涯』て本なんだけど、浩之ちゃんもいっしょに捜して欲しいの」
「ミシマか、そんなもんすぐに見つかるだろう……。わかったよ、じゃああかりは日本文学を捜せよ。俺は伝記のコーナーを探すからよ」
 とは言ったものうちの学校の図書室はとても広く蔵書も多い。広さは北館の3階フロア全部使い天井は4階までの吹き抜けだ。蔵書も新しい学校のくせに充実しており特に郷土関係はすごいものがある。今では手に入らない貴重な文献もあり、ワイドでディープなラインナップとなっている。しかしまぁ大半の連中はここのすごさには気付かないで、俺みたいにほとんど足を運ばないか、来てもずっとしゃべくっているヤツばかりなんだな。
 そうこうしてるうちに俺は一列探し終えたんで、次の列に移ろうとした。そこで意外と言うか突然と言うかちょっとビックリするような光景を見てしまった。
 女の子が一人ぽつんと立っていたのだが、その娘が声を殺してすすり泣いていたのだ。その娘は床の一点をじっと見詰めて、耐えても耐えきれない涙がぽたりぽたりと雫となり床に哀しい湖を作っていた。栗色の長い長い三つ編みが腰まで届いていて、縁なしフレームの眼鏡をしていた。
「うっ……、うっ……」
 微かな鳴咽が喉から絞り出されていた。どうして泣いてんだろ。しゃくりあげているのか肩が小刻みに震えていた。俺は固まってしまったかのようにその場に立ちすくんでしまった。しばらくそんな状態が続いたが、女の子の肩に力が込められると涙は彼女の右腕によって拭い取られた。眼鏡を掛け直すと、今まで下を向いていた顔をぐっと持ち上げ、きゅっと口を結んだ。泣き止んだみたいだな……ってこれはヤバイ、早くこの場を去らなくては……。俺は踵(きびす)を返すと気付かれないようにその場を離れた。誰だって一人で泣いてる所なんか見られたくないもんな。こういうとこは男も女も関係ないと思うぜ。……しかしなぜ泣いてたんだろう。俺の心に陰を落とす。
 とは言ったもの俺もあの列の本棚には用事があるので、ぐるっと反対側に回り込んでさっき女の子が泣いていた場所へと戻った。しかし彼女はまだそこにいて、伝記のコーナーで何やら探しているようだった。結果として俺は彼女に近付かざるを得ない状況となってしまった。しかしまぁ、近付いたついでというか、俺は本を捜す振りをして脇目で彼女を見てみた。目鼻立ちの造型がくっきりしていて、小粒ななりだがキリとしている。目元が涼しい印象を受けるのは切れ長のせいか? そして肌がけっこう白く、きめが細かいように見える。首が細く長いので、三つ編みのせいもあってか、うなじが際立って目に焼き付いてしまう。それに今気付いたんだが、けっこう胸がでかい。それは見事としか言いようがない感じだ。雑誌のグラビアを飾っているビキニを着た巨乳アイドルなんかを彷彿とさせられてしまう。セーラーの胸元から見え隠れする2つの丘陵のふもとがけっこうドキドキさせられるものがある。白のビキニなんか似合うんじゃないかな。
 くるっと女の子がこっちを見た。俺はあわてて視線をそらす。ちょっといぶかしそうな顔をしたが彼女はまた本を探しだした。俺もまじめに探すとするか、三島だったな、ミシマ、ミシマと……。やっぱりないな、伝記のコーナーにはないぜ。あかりの所へ行こうかと思ったとき、彼女がつま先立ちになり、なにか本を取ろうとしているのに気付いた。ちょっと女の子には無理な高さだな。俺は彼女のゆらゆら揺れる指先が触れようとしている本をひょいと本棚から抜き取ると
「これかい?」
 と彼女に見せた。
「え!? あ……その……」
 びっくりしている。まぁ無理もないか。しかし彼女はすぐに言った。
「これやない。『芥川竜之介』と違ごうて『有島武郎』や」
 おや? 大阪弁か。生で聞くのは初めてだな。
「あ、こっちね」
 有島の伝記を取って渡すと俺は
「君、転校生?」
 と聞いてみた。すると彼女は突然キッと俺を睨みつけ、
「うちは最初からここの生徒や! そないに関西弁が珍しいんか?」
 きつい口調で言い返された。あっ、しまったこの娘はこういう事聞かれるのが大嫌いだったのか。
 返答に窮している俺を尻目にフンと背を向けるとすたすた彼女は行ってしまった。あーあ、最初は小さな親切だったのに。
「浩之ちゃん」
 おわっ! いつの間にかあかりが俺の背後に立っていた。い、いつからそこに居たんだよ。
「保科さんと知り合い?」
「今の娘、知ってんのか?」
 じーっと、あかりは俺の目を見る。なぜか視線を逸らす俺。
「……同じクラスの人。『保科智子』て言うの。うちのクラス委員で学年委員長もやってる」
「委員長さんか、未来の生徒会長候補ってやつだな」
 俺の言葉は聞いているのかいないのか、あかりはうつむいてしまった。どうしたんだよ。
「ちょっと来て」
 そう言うとあかりは急に俺の服の袖を掴んでずんずん歩き出した。そして日本文学の所に引っ張り込むと、
「あれ取って」
 と、一番上の棚にある一冊の本を指差した。なんだそんな物も取れねぇのか、まぁちょっと待ってろ。俺は少し離れた所にあった踏み台をガラガラ押してくると、
「ほれ、これで取れるようになっただろ」
 と、あかりに言った。
「…………」
 あかりは何か言いたげだったが、踏み台を昇ると目的の本を手にした。初めからそうしてりゃいいんだよ。……しかし、その後あかりは教室に戻る時までずっと下を向いたまま一言もしゃべらなかった。変なあかり。

 平べったい鞄にペンケースと数冊のノートを放り込むとパチンと留め金を留めた。今日のお勤めも終了だ。
「浩之、もう帰っちゃうの?」
 雅史も鞄とスポーツバックを抱えながら教室から出ようとしていた。
「なんだか、もったいないな。浩之も何かクラブに入りなよ。そうだサッカー部に入ったら? 浩之なら大丈夫だよ」
「いいよ、んなかったるい事してらんねぇよ」
「でも浩之は僕にサッカーを教えてくれた師匠なんだから、絶対いい線いくよ」
「いつの話してんだよ。お前、俺を買い被りすぎだっつうの。いいよ俺は」
「うーん、じゃその気になったら遠慮なんかしないで言ってよね。いつでも大歓迎だからさ」
 大歓迎はお前だけだって。それに俺は遠慮なんかしていない。
「じゃな」
「また明日」
 俺と雅史はお互いに右手を上げると、雅史は部室へ、俺は昇降口へと歩き出した。
 雅史は事ある毎に俺をサッカー部に誘う。しかし俺にクラブ活動をする気はない。よしんば入ったとしてももうすぐ2年になるという時期じゃ遅すぎる。
 下駄箱で靴を履き替えてると、突然後ろから肩をポンと叩かれた。
「よっ」
 それはいつもの元気な志保だった。いや違うな。ニマーと顔がにやけてる。こいつがこういう顔をする時は何か企んでいると相場が決まっている。
「キュロットに今日新しいゲームが入ったのよ。どう、私と勝負しない?」
 キュロットとは駅前商店街にあるこの辺じゃ一番大きなゲーセンのことだ。
「まさか私の挑戦から逃げるつもりじゃないでしょうね?」
 眉毛がピンと跳ね上がる、猫のしっぽみたいだ。
「やるのか、やらないのかはっきりしなさいよっ。戦わずして逃げるのは卑怯者のする事よ。それでもあんた男? そーっ、これで明日の『志保ちゃんニュース』の一面は決まりねっ。『1−A藤田浩之、可憐な美女の挑戦に尻尾まいて逃げる。』明日から『シッポちゃん』て呼んであげる」
 ああっ! そう先走ってポンポンしゃべるなっ。誰が『可憐な美女』だ。誰が『シッポちゃん』だ。よーし、受けてたってやる。
「よくも俺を卑怯者呼ばわりしたな。絶対泣かしてやる。覚悟しろよ」
「ふふーん、望むとこよ!」
 昼下がりの午後はまだ暖かを残し、木々を揺らす風は柔らかく俺達にそよいでいた。しかし俺と志保は真夏の太陽のごとく熱くなり、学校を出ると、2人そろって鼻息荒く、足をドンドン踏み鳴らし、ぎゃーぎゃーわめきながら長い坂道を下っていった。目指すはキュロット、決戦場。

 さて着いたぞ、キュロットだ。ここは駅前の商店街の中でも一番賑やかで大型店舗がひしめき合ってる所だ。大手スーパーや電器店、レコード屋、カジュアルショップにファーストフードの店なんかがずらと軒を並べている。俺達の前にあるゲーセンもその一つだ。
「ヒロ、負けた方がヤックでおごるのよ」
 意気込みも十分に志保が言ってきた。ヤックとは『ヤクドナルド』のことで仲間内では御用達のハンバーガーショップである。しかし今回勝負するゲームは俺の得意分野。いただかせてもらいます。
「この前の『CDシングルオリコン1位あて勝負』ではおいしい思いをさせてもらったからな。どれ、今日も馳走(ちそう)になるとするか」
「くっくっくっ……」
 むむ、志保のやつ不敵な笑いを漏らすじゃねぇか。
「で、勝負はどのゲームだ」
「これよ、これ」
 派手な電飾に飾られたエントランスをくぐると、志保は入り口のすぐ近くに置いてある一台の筐体を指差した。『アルペン ボーダー』おおっ、スノボーの体感ゲームじゃないか。こ、これは初めてだな……。隣に置いてある『電車でシュッポッポ』なら得意中の得意なんだが……。
「ぶるってんのヒロ? じゃ私からするかんね」
 でっかい画面の前にあるスノボーにひょいと立つと、チャリーンとクレジットを投入した。コースの選択画面が表示されると、志保はボードを傾けて初級を選んだ。
「タイムの速い方が勝ちよ、いい?」
 レディーゴウの合図と共に画面のボーダーはゆっくりと斜面を下りはじめた。なんだか志保のやつさまになってるな。このゲーム初めてじゃないな、こいつ。ゲーム自体は制限時間内にコースを完走するのが目的のゲームで、チェックポイントを通過する毎と、ジャンプとかした時に何か技を出すとその制限時間が延長される仕組みになってるみたいだ。ここは志保のプレイを観察して、コースを少しでも覚えておこう。
「やっほーっ」
 志保のやつ気持ち良さそうにボードを右に左にと操っている。幾つかのフラッグを縫うように滑っていくと急なカーブが現れた。オーバースピードだ。フェンスに激突するぞ!
「えぃっ」
 志保がボードの片側へ思いっきり体重を乗せると、画面のボーダーはジャジャジャーとすごい雪煙を上げ、エッジをきかせてカーブをクリアしていった。おお。そこからは勾配が急になりグングンスピードが上がっていく。こぶだ! ジャンプか?
「よっ」
 ボーダーがジャンプするタイミングに合わせて志保もピョンとボードから飛び上がった。するとボーダーはジャンプしながらえびぞりになって、後ろ手にボードを掴んでしまった。そして奇麗に着地。
「お、おい志保。今の技なんてんだ……」
 そう言いながら俺ははっと息を呑んだ。志保が着地する時、制服のプリーツスカートがヒラッとなびいたのが目に映ったのだ。……そういやうちの学校、スカートの丈が短かったな……。右に左にスイングするキュッとしまったお尻とヒラヒラゆれるスカートが俺の網膜を激しく刺激する。フリフリ。ヒラヒラ。フリフリ。ヒラヒラ。な、なんかドキドキしてきたぜ。おっジャンプしたぞっ。俺の視線はさっきとはまったく違う一点に注がれる。
「はっ」
 志保が激しく腰をツイストさせると赤を基調とするスカートが幼稚園児がくるくる回す傘のようにフワーと広がる。パ、パンツは見えなかったぞ。もう釘付けだ。ボーダーがボードをプロペラのように左右にひねったのは視界の片隅をかすめただけだったのは言うまでもない。……気が付くといつの間にか周りはギャラリーだらけになっていた。ほとんどの人間は視線を下の方へ向けていた。こら、みんなあっち行けよ。見るんじゃねぇよ。……でもこいつみたいにかわいい娘がスカートひらひらさせてたらみんな見るよなやっぱり。
「やーりーっ。2分15秒43! 自己ベーストーっ」
 え、もう終わったの? つまんねぇの。
「見てた? 見てた? 最後に倒れてた木の上をガーッと滑っちゃったけど、上手く行ったの初めてっ」
 いや、見てた事は見てたけど違うとこだった。ゲームの事なんか頭からすっ飛んでたよ。志保は、よほど嬉しかったのか、ピョンピョン飛び跳ねながら小躍りしてるぜ。そんな志保を見て周りのやつら、鼻の下がだらんと伸び切ってしまってる。……今、俺もそんな顔をしてるかもしれん。いかん、いかん。
「さっ、ヒロの番だよっ」
「へ?」
「『へ?』じゃないでしょ。勝負するんでしょ?」
 こんな大勢の前ですんの? 俺このゲーム初めてするんだぜ。……こうなったらビギナーズラックを祈るしか……。
「おっ、今度は男の方がするみたいだぜ」
 ギャラリーの一人がこう呟いた。へなへな、やめてくれよ……。
 …………
 さーっと人の波が引いていく。俺の血の気も引いていく。
「あのカップル、男の方がゲロ下手だったなぁ」
 ……俺達はカップルなんかじゃないやい。デュエリストだ。……と言った所で胸の赤い薔薇を散らされたのは俺の方で間違いない。コース半分の所で大転倒タイムアウト。途中何回転んだか覚えてない。
「やったー。バリューセット、ゲーット」
 ああ、俺はもうだめだ。目の前が真っ暗になって行く。俺は世界一だめな人間だ……。どこか遠くへ旅に出たい……。
「ほら、約束通りヤックに行くよ」
 俺の腕をぐっと掴んで引っ張って行こうとする。
「……志保。お前あのゲームどっかで練習しただろ」
「さぁーっ。なんの事かしら?」
 白々しくとぼける。しかしすぐ勝ち誇った顔に戻ると、
「勝負は勝負よ。ヒロも男だったら覚悟を決めたらどう?」
 ……この前の『オリコン勝負』で負けたのが余程悔しかったんだろうな。万全の態勢というわけだったのか……。よし覚悟完了。
「解ったよ。奢ってやるよ」
「奢ってやるじゃなくて奢らせていただきますでしょ?」
 フフンと笑いながら志保が言った。
「バカほど食ってデブっちまえ」
 俺はぼそっと言い捨てた。
「なんか言った?」
「なんにも」
 俺達はヤックに向かった。
 志保は俺の奢らせていただいたテリヤキバーガーを頬張りながら小1時間ほど独演会を催した。今日の出来事や、仕入れたばっかりの噂話、それに昨日見たテレビの事や、話題のアイドルの事など、よくまあしゃべる事。ちゃんとバーガー噛んでから飲み込めよ。ここでは俺はもっぱら聞き役に回っていたんだが、話の途中で志保がふとこんな事を漏らした。
「昼休みなんかあったんでしょ? あかりがえらく落ち込んで帰ってきたわよ」
「俺も解か……」「それでさぁ、昼休みのことだったんだけどー……」
 志保は俺の返事なんか聞こうともせず、また一方的におしゃべりを始めてしまった。それにしても昼間のあかりと同じ事言ってる。お互いに心配しあって良い友達だな。ヤックの前で志保と別れて家路に就くと辺りはもう夕暮れの中だった。陽が沈むと途端に風は冷たく切れ味の鋭い刃物に変わった。日中溢れかえっていた陽気の回帰は明日の朝の訪れまで待たねばならないようだった。

 家に着くと俺は学ランをソファーの上に投げ出だし、着替えもそこそこにテレビのスイッチを入れた。あれ? 何か忘れているような、……なんだっけ。ああっ、そうだよ! ドラマの再放送があったんだ。も、もう一時間以上も前に終ってる……。急いで帰ったら見れるもんだからビデオにも撮ってなかった……。ゲーセンなんか行くんじゃなかった。なんのために『茶坊主』の刑まで受けたんだよ。……やっぱりあいつに関わるとろくなことがない、志保のばっきゃろー。

第2章『午後の日差しは暖かく』に続く


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