(2)午後の日差しは暖かく

 俺は空を飛んでいた。真っ黒い夜の空をたった独りで飛んでいた。楽しい気分はまったく無かった。俺は「もし捕まれば殺されてしまう」という恐怖感を抱き、それから逃れようと必死になって手と足をバタバタと動かし飛ぼうとしていた。誰が? なぜ? という疑問は湧かなかった。「とにかく逃げるのだ」俺の思考能力はこの思いだけで完全にオーバーフローを起こしていた。
 夜の闇が口から鼻からと肺に入り込み、どす黒いタールのように俺の肋骨の内側にこびりついていった。息苦しい。だが、もがけど、もがけど前にはまったく進まず手足には虚空を切る感覚のみが伝わった。眼下には遙か下に薄汚い街が地面にへばりついていた。……落ちても死ぬな。もはや引くこともできないとはな……。逃げるんだ早く、あいつらが来ちまう。捕まったら殺されるに違いないんだ。ほら、解るだろ? あいつら血眼になって俺を捜してる。誰が? ……いや、早く逃げよう、捕まっちまう。……くっ、なんでこんなに飛ぶのが遅いんだよっ! 心には焦燥感だけが積み重なり、増大する恐怖が俺の精神をミチミチと音を立て押しつぶそうとしていた。
 そのうち息絶え絶え、一本の高い木立にたどり着いた。逃げ切ったと思い俺は安堵の気持ちで木のてっぺんに夢中でしがみついた。しかしその刹那、背後から俺を殺そうとする者達の接近を再び感じ、俺は絶望感と共に、追い立てられるように空中へと身を躍らせた。木から木へと俺は逃げ続けた。逃げる、逃げる、逃げ続ける。
 疲れて右足が動かなくなった。すると動かなくなった足が重りとなってそこから地面に引き込まれようとした。俺は意を決すると、右足を引きちぎって地表へと投げ捨てた。ミリミリと肉が引き剥がされ、ブチブチと筋がねじ切れた。この感覚が胸の中でグチュグチュと渦を巻く。吐き気がする。でもこれで落ちなくてすむ。そうだ、俺は何としてでも逃げなくてはならないのだ。……なんてことだ、今度は左手が動かなくなった。俺は左手をちぎって捨てる。腕のちぎれる感覚が脳に伝わる。気持ち悪い……。左手を捨てるとすぐに右手と左足が動かなくなった。慌てて俺はこの手と足をちぎって捨てた。右手は口にくわえて引っこ抜いた。肩の関節がゴキュと音を立てて抜けた。俺は芋虫のように体をうねらせながらでも飛ぶのを止められなかった。
 もう逃げるのは止めてしまえという思考が脳裏をかすめる。しかし逃げるのを止めることは直ちに死を意味する。俺はどうすればいいんだ。こんな思いをしてまでも逃げ続けるべきなのか? この場で死んでしまうべきなのか? どっちを選べばいいんだ。 逃げだ、逃げだ、死だ、死だ、逃げろ、死ね、逃げろ、死ね、逃、死、逃、シ、ニ、……死! もういい! やめてくれ! もうたくさんだ! どっちも俺はいやだっ! どうしたらいいんだよ! 誰か俺を助けてくれよ! 誰か俺を救ってくれよ!
「ひ……」
 誰? 呼んでいるのか? 俺を呼んでいるのか!?
「ひろ……」
 どこから呼んでる? 教えてくれ! あんたは誰だ? どこにいる! 俺を助けてくれるのか!? おーい! 俺はここだっ。俺を助けてくれ! 助けてくれっ!! 助けてくれっ!!!
 ジリジリジリジリ!
「はっ!」
 目覚し時計の激しいベルの音が地獄から俺を現世の世界へと引っ張り込んだ。目を見開くと、まだ混乱している頭を振りつつ、ぐるりと周りに視線を巡らした。カーテンの閉められた薄暗い室内。レコード店でもらったアイドルのポスター。物置と化している埃の積もった勉強机。床に転がっている年期が入って色のくすんだクッション。しばらく片づけをやってないため隅々に散乱しているマンガ、服、ゴミ。……ここは確かに俺の部屋だ。さっきまで飛んでいた夜の空はここにはなかった。あれは夢だったんだ。気が付くと手のひらにべったりと汗をかいていた。時計の針は7時45分を指していた。もう朝だったのか……。
「ふう、やな夢見ちまった」
 俺は大きく息をついた。先の出来事は夢だと確認できた。しかし手足の毛細血管の中にはさっきの引きちぎられた感覚が残っていた。恐怖感も汗を吸ったパジャマと共に背中に張りついていた。俺は両の手のひらを顔の前までもたげると、それで頬をパンと打った。頬の皮にぴりと痛みが走る。この位では悪夢の影を拭い去る事はできなかった。……しょうがないシャワーでも浴びるとするか。上半身を起こしパジャマのボタンに手を掛ける。……最後に俺を呼んだのはいったい誰だったんだろう?ふと、悪夢の最後で聞こえた声を思い出そうとした。女の声だったのは憶えてるが……。
 深く考えるのはやめておこう、精神衛生上あまり良くない。俺の知ってる奴に夜中見た夢を起きてすぐ枕元のノートに書き取る、という生活をしていて気が狂いそうになったのがいる。夢を記録するという行為自体は、自分の想像なんか及ばないほどの突飛な発想に満ちた世界を脳に記憶できるようになって、すげー楽しいんだが、本来忘れなくっちゃいけない夢の内容が全部頭の中に残ってしまって、夢の世界での出来事と現実の世界での出来事がゴッチャになるんだそうだ。例えば学校で友達に会った時に、「あれ? 前こいつに会ったのは現実だったっけ、夢だったっけ?」と思うようになるんだそうだ。そうなると次は「今体験している今日の朝は今日何回目の朝なのだろう? そして、今こうしてるのは現実なのか? 夢なのか?」となるそうだ。「ホッペつねったら痛かった」夢なんか経験してたら現実か夢か確認する方法がないそうだ。ビルの屋上から飛び降りて、夢かどうか確認したくなるらしい。俺も気を付けなくっちゃな。それにしても変な夢だったなぁ、夢診断したらどんな結果になるだろうか……。解る人は後で教えて下さい。俺はベッドからもそもそ這い出ると、シャワーを浴びるべく下の階へと降りていった。
 ふうーっ、朝から熱い湯を浴びると頭の中もしゃきっとするな。低血圧の俺にはちょうどいいぜ。よし体も拭いたし、頭も乾いた、さて、パンツ、パンツっと。……いけね上の部屋に忘れて来ちまった。取りに行くか。俺は脱衣所を出て、玄関へ通じる廊下を歩いた、階段は玄関の脇にあるんだ。
「浩之ちゃん、いつもより早いけど、呼んでも起きないから入っちゃうよ」
 ドアのノブが回転するとカチャっと開き、その隙間からあかりの姿がひょっこり現れた。滅多にない事だが、外から呼んでも俺が起きない時は最終手段として直接叩き起こしてくれるよう頼んであるのだ。それでもあかりはきちんとチャイムを鳴らしひと声かけて入ってくる。呼び鈴を聞き落としちまった、シャワーのせいだな。まあ、そういう事もあるわさ。
「おっ、悪りい、悪りい。朝シャンしてたんだ。もうちょっと待っててくれ。……どうかしたか?」
 あかりがたれぎみの大きな目を真ん丸に開いたまま固まっている。どうしたんだ? おーーい、大丈夫かー。まだ動かねぇ。おいおい。こいつ、どこか一点を凝視してるぞ。どれどれ……。どわーっ、俺すっぽんぽんじゃねえか! そうだよ、パンツ取りに行く途中だったんだ。急いで股間にてブラブラしている自分のビックなジュニア(私感あり)を隠した……、がもう遅いよな。
「ひ、ひ、ひ、ひろ、ゆきちゃん、わた、わたし、私先行ってる、ね。じゃぁ」
 硬直のとけたあかりは一瞬でゆでだこのように真っ赤になり、先のセリフを言うと、ぎくしゃくと回れ右をして、カクカクカクと玄関を出ていった。ロボットのおもちゃみたいだ。バタンとドアが閉まると、しばらくしてドテッとこける音がした。
「おーい、あかりーっ。大丈夫かーっ」
 俺はドア越しに声を掛けてみた。
「大丈夫だーーよーーーーーっ」
 最後の方は声がとても遠くから聞こえた。たぶん返事しながらダッシュで逃げて行ったんだろな。うーん、あかりにすべてを見られてしまった……。参ったなー。いくら一緒に風呂に入った事があるたって、あれは幼稚園の頃だもんなぁ。あの頃とはいろいろな所がいろいろと違ってるからな……。へくしょっ。服着て俺も学校行こっと。……どうせ見られるならちゃんとムイとけばよかった。

 さて、俺はいつものように家を飛び出し学校へ向かった。この辺は新興住宅地であるせいか、街の片隅にけっこう自然が取り残されている。こうして走りながらでも周りを見るとだんだんと季節が移ろっていく様子が伝わってくる。しばらく姿を見せなかった雀達があっちの木こっちの木とちょこまかと飛び回っているのが目に映った。視線を下に向けると近所の猫が日の当たる塀の上で大きく伸びをしてる。おー、ビヨーンとよく伸びるなぁ。木の芽がここ数日で急に膨らみ始めている。蕾の裂け目に白や桃色の色彩を覗かせてくれている木もあり、花の咲く季節が足早に駆け寄ってくるのを感じてしまう。
 坂道を駆け上がり校門をくぐっても春の息吹きは途絶える事はなかった。塀にそって植えられているたくさんの桜の木。これらの蕾もポンと音を立てて弾けんばかりにその身を膨らませていた。重みで枝が垂れ下がってるぜ。続いてこれら桜の脇にある一本の梅の木へと視線を移した。気の早い奴だな、もう咲いてるよ。高さ2mちょいのずいぶん古い梅の木だ。枝を左右いっぱいに広げていてとても立派だ。なんでもこの学校を建てる前の敷地にあったのを、切り倒すのは忍びないという事でここに移植したらしい。紅い花を枝という枝にいっぱいに付けて、老いてなお我が世の春を謳歌している様子が李白の世界を感じさせて幻想的だ。
 どーーーん! あいてっ! ガチャ! ばさばさ。おー痛てぇ……。尻餅ついちまった。なんなんだよ……。よそ見のしすぎか? 何にぶつかったんだ……。俺は顔を上げると自分がぶつかった物体を見届けようとした。
「あっ、先輩……。来栖川先輩じゃないか」
「…………」
「……え? あ、おはようございます。じゃなくて! ケガしてないかい?」
 やっちまった。昨日と同じ事をしちまったよ。俺の目の前で、深窓の令嬢という言葉をこの上なく体現しているこの来栖川芹香先輩が俺の目の前でぺちゃっと女の子座りしている。俺が突き飛ばしてしまったからなんだが……。スカートからのぞく白いひざ小僧が眩しい。
「ひざ擦りむいてないか? お尻打ってないか? 手をついた時捻ったりしてないか?」
「…………」
「……もしもし?」
 先輩は一見すると感情の表出が全くない能面のような印象を受ける表情をしている。今も座り込んだままなんの反応もない。このひとは自分の心より外の世界には関心がないのだろうか? ましてやこんな俺なんか眼中にないのかもしれない。……違う、違うぞ、彼女は俺を見ていてくれている。その証拠に俺の姿が先輩の瞳の中に映っている、澄んでとてもきれいな瞳に……。吸い込まれそうだ。この世界は彼女の瞳を透すとどんな光彩を放つのだろう。
「…………」
「え? 俺の方は大丈夫だよ。この通りピンピンだよ」
 先輩の小さいさくらんぼのような口唇がほんの微か震える。声なんか全然聞こえないんだが、なぜかこの人の言っている事が解ってしまう。不思議だ。それにしても自分の事よりも相手の事を必ず先に気遣う人だ。すごく優しいひとなんじゃないかな? この人は。来栖川財閥のお嬢様だったら普通はもっと自信家で高慢ちきでオホホホてな感じになると思うんだが、そんな所が微塵もない。……変わったひとだな。
「さあ、つかまって。立てるかい?」
 俺は先に立ちあがると、手の砂を払ってから手を差し出した。先輩はちょっと俺の方を見ると、俺の手につかまり立ち上がった。先輩の指は細く長く、ちょっと冷たかった。昨日と同じく彼女は立ち上がったままだったので、俺も昨日と同じようにスカートについた埃を手で払った。はい、今日もお尻柔らかかったです。すいません。でも埃を払うためには仕方なかったんだ、このひとを汚すようなまねは絶対にしてないからな。ところで鞄はどこ行った? ……あっちゃー、先輩と俺の鞄、ふたが開いて中身をぶちまけてしまってるよ……。拾わなくっちゃ。
「…………」
「え? 昨日もこんな事がありましたねって、ごめん、一度ならず二度までも。俺が注意力散漫なせいだ」
 俺は大急ぎで二人の鞄の中身をかき集めるとお互いの鞄に押し込んだ。先輩の持ち物の中には、きれいに使い込まれた教科書やノートに混じって図書館で借りてきたような古い本が数冊あった。パチンと留め金をとめると先輩に鞄を渡した。
「…………」
「え? こんなことになったのは私が梅の木に気を取られていたせいだって? いやいや悪いのは俺の方。だから気にしないでくれ」
 彼女もこの梅の木に気を取られてたのか、なんだか親近感が湧いてきたぞ。
「……俺もこの木に見とれていたんだ。同じだね。昨日といい、今日といい、なんか運命を感じるね」
 軽口のつもりで使った『運命』という言葉を聞いた途端、先輩はなにかに感電したみたいに体をビクッとさせた。
「……ちょっ、ちょっと、来栖川先輩? おーい」
 それから何度呼んでも先輩は反応を示してくれなかった。仕方ないので俺は一言断ってからこの場を後にした。一度ちらと振り向いて見たら、来栖川先輩は全然動いてないみたいで、さっきのままの姿勢でいた。

 なんとか遅刻だけはまのがれて、俺は1時間目の教科書を机の上に並べていた。おや? ペンケースを出そうと鞄を開けたら、見慣れない黒い本が出てきたぞ。ちょっと厚い本で、牛革に金糸をあしらった装丁を施された古い本だ。手に取ってみたらと程良い重量感と、しっとりとした手触りがとても心地よかった、でも革と古い紙のにおいがちょっと臭い……。もちろん俺の本じゃない。来栖川先輩のものだ。さっき鞄の中身をばらまいたときに紛れ込んでしまったんだろう。返しに行こうかと思ったが始業のチャイムがすでに鳴ってしまったので、次の休み時間まで預かっておくことにした。
 ……しかしここだけの話、あの先輩が普段どんな本を読んでいるか興味が湧かないか? イメージから言って、リルケの詩集とか武者小路実篤とかかな、意外なところで藤本ひとみだったりして。いやこんなに古い本だからシェークスピアの原書とか。来栖川家の跡取りなんだから経済学の本という線もありうるな。なんだかワクワクしてきな、すいません先輩ちょっと読ませてください。……1ページめくる、……2ページめくる、……読めない。これは英語でも、中国語でも、スワヒリ語でもない……。あえて言えばラテン語……かな? こんなの先輩読んでんのか? あ……所々に挿し絵がある。何重もの同心円の中に、星とか月とかの天体や、正三角を上下二つ重ねたような幾何学模様とか、他になにやら文字みたいなもの、がぎっちりと書き込んである。そんな図がいくつも載ってるぞ。この本は挿し絵に描いてある図の解説書らしい。他にも挿し絵はないのかな? ……あった。黒山羊のお面をかぶった男の人だ。……えーと、み……見なかったことにしようかな……ははは。あ、付箋が貼ってある。先輩がなんか書き込んでるぞ。
 『返魂、死者召還』
 パタン! 俺はこの黒い本を閉じ、速攻で机の中に突っ込んだ。授業が終わったら早く返そう、すぐ返そう。志保が昨日言おうとしたのはこの事だったのか……。
 授業が終わると俺は足早に来栖川先輩の教室へと向かった。雅史に教えてもらった2−Aの教室に着くと、こっそりのぞき込むように教室の中を見渡した。なんか上級生の教室って緊張しないか? 俺はクラブ活動をしてないから、上級生に慣れてないんだ。……先輩いないようだな。誰かに聞くか? あのひとの良さそうな人に聞いてみよう。
「あのすいません。来栖川先輩はいませんか」
 訪ねると気さくに答えてくれた。
「来栖川さん? あの人、まだ来てないよ。……今朝会った? うーん、あの人授業の途中からやって来たり、いつの間にかいなくなるのしょっちゅうだからな。お嬢様の考えてることはサッパリ分からないからね。またどこかであやしげな……はっ!!」
 突然この人は後ろを振り向くとキョロキョロと周囲を確認した。ひどく慌ててる。
「……ほーっ、よかった。いなかった。……ああ悪かったね。あの人の話題をすると、知らない間に背後に立っていて、心臓が飛び出るほどびっくりすることがあるからね。人知れずこの世から抹消されたらかなわないからね。ははは」
 ……冗談だと思うが、この人、目が笑ってない……。
「解りました。ありがとうございます」
 俺は礼を言うと来た道を引き返した。先輩どこにいるんだろ?
「ひょっとしたら……。いやまさか」
 俺は駆け出すと廊下の角を曲がり校門の方が見えるところへと行った。そして2階の窓から上半身を突き出すように乗り出すと、今朝彼女にぶつかった場所を確認した。紅梅の木が朝と同じように幽玄をたたえながら咲いていた。先輩は見あたらない。
「いないのか……」
 自分の思い違いだと判断し、乗り出している半身を引っ込めようとした時、突風が吹くと梅の枝を大きく揺さぶった。枝から振り落とされてしまった紅い花びら達が一斉に周りの空気を朱に染め上げた。俺も埃混じりの風のあおりを喰らって思わず目を細める。風はいつしか旋(つむじ)となり、梅の木を巻き込むように紅い土煙をあげた。その螺旋もやがて力を失い大気へと還っていった。その時、紅梅の花びらでできた渦の中より浮かび上がるように何者かが現れた。彼岸の住人ようなまったく生気の感じられない面もち、しかし背筋の伸びて凛とした佇まい(たたずまい)は神秘的な雰囲気を漂わしていた。紅梅の精だ。紅梅の精がいる。
「……あれ? 来栖川先輩だ……」
 紅梅の精霊ではなくて来栖川芹香先輩だった。今朝出会ったのと同じ場所に彼女は佇んでいた。やっぱり朝からずっとあそこにいたんだ。俺は小走りで1階に降り、昇降口を抜けると先輩の元へと向かった。
 小走りのまま駆け寄っていくと、気配を感じたのか先輩はゆっくりと俺の方を振り返った。視線が俺の心にすうと入る気がして一瞬びびる。
「せ、先輩。お、俺間違って先輩の本持って行ってしまったんだ」
 黒い皮表紙の本を彼女に手渡した。
「…………」
「……今朝この梅の木が教えてくれた? なにを? ……今日は先輩にとって運命が変わる日だって? そんなバカなことが……。なになに、俺もこの梅の木の呼びかけが聞こえた人間の一人だって? まさか……え? じゃあ朝どうして校門からわざわざ遠回りしてまでここを通ったのかって? ……う、うーん」
「…………」
「……え? 俺がなにを言ったとき梅の木の言ってることがホントだと思ったって? ……おーい、センパーーーイ」
 電池が切れたみたいにまた反応を示さなくなってしまった。目の前で手をひらひらさせてみたけれど梅の木の方を向いたままだった。俺は彼女の足下に置かれていた鞄の上に例の本をおくと、自分の教室に帰ることにした。俺、先輩になんか言ったか?

 教室に帰ると雅史がやってきて、
「あかりちゃんがなんか捜してたみたいだよ」
 と言った。なんだろう? 次の授業が始まる前にちょっと行ってみるか。椅子から腰を上げると自分の教室を抜け、あかりのいる1−Cへと向かった。まぁ、隣の隣、の教室だからすぐなんだけどな。廊下を歩いていると1−Cの教室からすぅと3人の女子が出て行くところに出くわした。その3人の女子は俺の姿を認めるとちょっと驚いたが、すぐさま澄ました顔になって俺の横をすり抜けていった。が、すり抜ける時、彼女たちの口元が一瞬ゆがんで見えたような気がした。教室の扉を開けると、……誰もいなかった。教室の明かりも消されていた。うらさびしく、寂寥感を感じてしまった。体育か教室移動みたいだな。出直すとすっか。
 というわけで次の授業が終わるともう一度あかりの教室へと出向いてやることにした。1−Cに入るとあかりの席に向かう。いない。志保の席を見る。いない。教室にいないぞ。……もういいや、なんか用がありゃあかりの方から来るだろう、帰ろっと。だが帰ろうとした時あかりの隣の席に見たことがある女子が座った。腰まである長い三つ編み、白い肌、縁なしフレームの眼鏡、巨乳。保科智子、委員長さんだ。俺があっと思って見ていると、向こうもこっちを向いて目が合う形になってしまった。彼女もちょっとびっくりしたような表情を見せたんだが、すぐキッとした目になって、フンと正面、黒板の方を向いてしまった。
「C組になんか用か」
 言葉に険が入ってるように聞こえるのは気のせいだろうか。
「あか……神岸に用があるんだ、どこにいるか知ってるかい?」
「うちが知っとってか、やって?」(私が知っているか、だって?)
 あまりよく解らなかったが、「私が知るわけないだろ、ぼけぇ」と言われた気がする。なんだか嫌われているような。
「いや、席が隣だから知ってるかと」
「あほらし、席が隣や言うだけで神岸さんの行動を管理しとかなあかんのか?」
 きっつー。やっぱり昨日のこと怒ってんだな。ちょっと謝っておくか。ちょっとは機嫌も良くなるだろう。
「そんなに怒んなよ。昨日は変なこと聞いて悪かったな」
「なんのこと?」
 彼女はトントンとさっきの授業で使ったらしい教科書の端をそろえて机へしまった。
「昨日の図書室のこと」
 委員長はくるっと俺の方に顔を向け、俺の顔を凝視する。しばらくしてまた正面の方を向き机の中からノートやら出し始めた。
「あんた、おせっかいやね」
 淡々と彼女は言い放った。そんなつもりはないんだが……。俺の頭の中では、図書室の人気のない所で独り泣いていた君の姿が何度もプレイバックするんだよ。
「用のうなったら、はよ自分の教室にかえりや」(用がなくなったら、早く自分の教室に帰りなさい)
 委員長は机から教科書やらノートを机の上に広げ始めながらそう言った。ぐすん……。帰ろう……あっ!
 きれいなパステルカラーの1冊のノートがあった。それを彼女は両手で押さえ込むように隠したが、俺は見てしまった、ノートの中に赤いマジックで大きく「死ねよバーカ」と殴り書かれていたのを。おそらくほとんどのページが同じような語彙で埋められているのだろう。委員長は目を大きく見開き、口をぎゅっと結び、肩をわなわなと震えさせていた。
「委員長?」
「むこぅ行って!」
「でも……」
「うちのことなんか、かまわんとって!!」
 大きな声で怒鳴られてしまって、俺はびっくりしてしまった。クラス中の視線が俺達に注がれた。ここから早く去ったほうがいいみたいだ。委員長はわなわな震えながらまだあのノートに視線を落としていた。だが俺はどうすることも出来ない、すごすごと自分の教室へ戻ってしまった。

 4時間目のチャイムが鳴り終わり、「さぁ何食おうかな?」と椅子にずっこけ座りしながら思案に暮れていると、教室のドアの所に見慣れた姿が見えた。そいつは胸の前でヒラヒラと手を振ったので、俺はコイコイとおいでおいでをした。それを見るとそいつはちょこちょこと机の間を縫って俺の所へとやってきた。
「なんだ? あかり」
「……うん、あのね、浩之ちゃん……」
 なんだよモジモジして。
「今朝のことなら気にしてないぞ。犬にでもかまれたと思って忘れるから」
 あかりの顔がポンッと赤くなった。
「私は気にするよぅ、びっくりしたんだから」
「ナニにびっくりしたんだ?」
 さらに赤くなって、
「もう、浩之ちゃんのいじわる」
 セクハラおやじギャグだったか?
「んで、何の用だ?」
「あ……、あのね、お昼ごはんまだだよね?」
「ああ、今から購買へ行ってパンでも買おうかと思ってたところだ」
「今日、ちょっとお弁当作り過ぎちゃったんだ。手伝ってくれる?」
 ひょっとして弁当作ってくれたのか? おお、ラッキー。1食浮いたぜ。今月はちょっと(いや、かなり)ピンチだったんだよな。
「おっ、やったぜ、じゃ屋上行こうぜ。おーい雅史。昼いっしょに食おうぜ」
 俺は席を立とうとしていた雅史を呼び止めると昼飯に誘った。しかし雅史は俺とあかりを交互に見ると微笑みを浮かべて、
「ごめん、僕はこれから部室に行かなくっちゃならないんだ。2人で行って来てよ」
 と言った。なんだ、つまんねぇな。
「じゃぁ行くか」
「うん」
 俺達の学校は屋上へは割と自由に出入りできる。頑丈でとんでもなく高いフェンスがぐるり全周囲っているがな。その代わり屋上にはコートみたいな白線が引いてあったり、ベンチをたくさん置いてくれているから、昼休みにもなるとここで弁当食うやつや、バレーボールして遊ぶやつやらでけっこうにぎやかになる。ベンチに腰掛けた屋上からの景色は賞賛に値する。この学校は山を削った高台の一番上に建っているんだが、ここはその建物の一番高い所なもんだから、俺達の街全体が一望できるんだ。俺達も空いているベンチに腰掛けると、弁当を広げることにした。
「あかりの弁当なんて何ヶ月ぶりだ?」
「しょっちゅう持っていくと、浩之ちゃん恥ずかしがるじゃない」
「恥ずかしがってなんかいないぞ。おまえに面倒かけるわけにはいかないからだろ?」
「私だったらいいのに……」
 あかりは大事そうに抱えていた包みを膝の上に乗せると、白地に赤、黄色、ピンクのタータンチェックが入ったナプキンの結び目を解いた。すると中からくまさんのワンポイントをあしらったちっちゃい弁当箱と、ウルトラマンのチビキャラが描かれたでっかい弁当箱が現れた。
「うわ、あかり、まだそんなの使ってんのか? これ中一の頃に買ったやつじゃなかったっけ」
 当時でさえ結構恥ずかしいものだったが……。
「だって家にある男の子用のお弁当箱ってこれしかないもん」
 確かに……。男の子のいない神岸家にこんなものがある方が変なんだがな。
「じゃ、いただきます」
「どうぞ」
 パカッとふたを開けるとカラフルな色彩が目に飛び込んできた。食欲を絶妙に刺激された俺はたまらず箸を弁当箱につっこんだ。
 おっ豆ご飯だ、モグモグ。たこさんウインナーだ、んぐ。なかなかキュートなたこさんだ。きんぴらごぼうだ、ハグハグ。プチトマトだ、パク。これはレタスだ、キャベツじゃないぞ、シャクシャク。おお、あんまりしなっとしてないぞ。ミニハンバーグ、うっ、んぐぐっ。
「はいお茶」
 うぐ、うぐ、うぐ。プハーッ。ナーイスタイミング。
「なんか野菜が多くないか?」
「だって浩之ちゃん普段から野菜が不足してるじゃない。ちゃんとこういうのも食べなきゃ。でも卵は入ってないでしょ?」
 そうなんだ、俺はけっこう好き嫌いが激しくて、食えないものがけっこうあるんだ。それに卵アレルギーなもんだから、ちょっとでも卵が混じってると全身がすぐ痒くなっちまってダメなんだ。あかりもそれを熟知してくれていて卵は絶対に避けてくれる。ただ他の嫌いなものについては俺に気付かせずに食わそうとするから困ったものなんだ。
「おいあかり、変なもん混ぜてないだろうな」
 あかりはニコニコしながらそっぽを向いて、「入ってないよ」と言った。……うそつきめ。こうなったらひとつひとつ確認しながら食ってやる。
「これなんだ?」
「これはアスパラを牛肉で包んでバターで炒めたものよ。鶏肉じゃないから大丈夫。新製品だよ」
 よし、モグモグ。
「これは?」
「これは油揚げの中に、牛のミンチをベースにおネギとかの薬味を入れて油で揚げたもの。タマネギは入ってないから大丈夫だよ。これも新製品だからよく味わってね」
 そうか、ムシャムシャ……ごっくん。はー、ごちそうさん。その新製品達は喉を通ってあっと言う間に胃袋へと消えていった。
「お粗末様でした」
 いやーおいしかった。いつ食ってもあかりの料理はうまいぞ。ただもうちょっと塩味は控えて置いた方が俺の好みだな。
「ありがとう。いつもお母さんから教えてもらってるから」
 あかりのおふくろさんは栄養士の免許を持っていて、病院とかの献立を作成する仕事をしてる。また休みの日は近所でお料理教室なんかを開いている。ちょっとでっぷりしているが、かっぷくのよいパワフルなおふくろさんだ。そんな人の料理をそばで見てると自然と腕も上がるよな。
「しかし、今日は新ネタが2つか……。それも俺が好きそうなのばっかり。よくこんなの捜してくるな」
「浩之ちゃんこの前、『昨日見た料理番組で旨そうなのが出てたんだよな』て言ってたじゃない」
「そんなこと俺言った?」
「うん」
 するとなにか? 俺の気まぐれ同然の言葉を真に受けて、その番組を調べてから本屋かなんかでテキストを捜して研究したってわけか? す、すげえなこいつ。あかりは昔からこういうことに関しては恐ろしいほど頭が切れるんだ。だから俺がふと言った感想なんかをしっかり覚えてて次の時にそれをばっちり生かしたりする。気配りの達人ってところだな。おっと、ちょっとほめすぎたな、あかりには内緒だぜ。
 俺は腹が膨らんだのでリラックスしていたが、あかりの方をふと見ると半分くらいしか食ってなくて、まだちまちまと口に運んでいた。
「浩之ちゃんが速すぎるんだよ」
 そうか? あ、まだ油揚げのやつが残ってる……。
「欲しい?」
 うっ、そんな物欲しそうな目をしてたのか?
「じゃ食べて」
 それじゃお言葉に甘えまして……。箸でそれをゲットすると、ひょいと口に放り込む。口の中でジューシーな味わいが広がっていく。
「んー、やっぱうめぇわ」
「わぁよかった。ちゃんと食べられるね」
 ……なぬ?
「それ中にタマネギが入ってるんだよ」
 なにっ、しまった。く、食っちまった。
「それに最初に食べたハンバーグの中にもニンジンをすって入れてあったんだよ。気付かなかった?」
 や、やられた。しかも2段構えのトラップ。でも全部引っ掛かった俺……。
「やっぱり食わず嫌いはダメだよ」
 ペッシッ。
「あっ」
 脳天唐竹割りチョップ。
「だましたバツだ」
「うぅ、ごめん」
 密かに俺に嫌いなものを食わすとはとんでもないやつだ。……でもまあ、本気で怒ってる訳じゃないんだがね。

 昼飯の後はそのままダラダラと昨日見たテレビの話や、この前出たCDの話とかしていた。
「ところで浩之ちゃん。家でもちゃんと勉強してる?」
「なんでそんなもん、しなくちゃなんねぇだ?」
「ええ! だって今日で期末テスト1週間前だよ」
「ははは、その冗談おもしろくないな。そんなことではメジャーには上がれないぞ」
 頬をちょっと膨らまして俺を見る。
「……え、マジ?」
「そんなことだろうと思った」
 いやー、まったく知らなかった。授業とかHRとか全然聞いてない証拠だな、あっはっはっ。
「掲示板にもテストの時間割張り出されてるよ」
 普段から授業を聞いていればこういう時慌てずに済むのだが、俺はそうじゃないため慌てなくてはならない。
「よし、見に行くかあかり」
 あかりが俺に同意してくれると、俺達はベンチから離れて屋上を後にした。
 校内の掲示板に到着すると、けっこうな人だかりが出来ていた。おーおーみんなご苦労なこった。俺達もその人だかりに交わると期末試験の時間割を見た。ふむふむ、なるほどー。なんだあかり? 学ランの裾引っ張って。
「ねぇ、私にも教えてよ」
 あかりが俺の横で精一杯つま先立ちになって掲示板を見ようとしていた。しかしこういう時、真ん前を陣取っているのは野郎と相場は決まっている。後ろからだと女子なんかは野郎の後頭部しか見えないんだろうな。ほっとこうかと思ったが、あかりがホントに困った顔をして俺を見ている。
「しょうがねえな。じゃ読み上げるぞ。

      水曜日  木曜日  金曜日  土曜日
1時間目  化学TB 倫 理  生物TB 地 理
2時間目  現 国  数学TA グラマー 古 文
3時間目  世界史  物理TB 日本史  リーダー

だ。ちゃんとメモ取ったか?」
 あかりは生徒手帳を開き、熱心に俺が言ったことを書き込んでいた。で、ふと気が付くとその後ろで委員長も手帳にメモを取っていた。
「おや? 委員長も前が見えなかったのか?」
 軽い気持ちで俺は委員長に声をかけた。すると委員長はビクッとしてからおもむろに顔を上げると、眼鏡の奥からキッとした眼光を俺に向ける。
「べ、別にあんたがゆうとったんを盗み聞きしたんやないからな。先に書いとったのを合(お)おてるかチェックしとっただけや」
 委員長の背丈じゃ、そっからは見えないぜ。……この人は負けず嫌いの意地っ張りなんだな。で、他人に自分の弱味を絶対見せたくないと。
「そうだ、今度の試験のヤマ、教えてくれよ」
 委員長はちょっとビックリした表情を見せた。しかし俺は気にせず言葉を続ける。
「今回ちょっとヤバイんだ。助けると思ってさ」
「な……、なにアホな事ゆうとんや。うちにあんたを助ける謂われも余裕もないわ」
「助けて欲しいのは委員長の方か?」
 彼女はハッとしてから目を伏せると、
「……あんたはお節介なだけやのうて、ずうずうしいんやね」
 委員長はまるで逃げるように人混みから立ち去った。……野良猫を餌付けする気分だったな。
「ねぇ浩之ちゃん。……いつの間に保科さんと仲良くなったの?」
 おいおい、今の会話が仲のいい友達のものだってのか? 違うだろ。
「だって保科さんがあんなに人と話をするの初めて見たよ。」
「そうか?」
「うん。クラスじゃ保科さんが一方的に『○○して』て言うか、他の人が何か言うと『そう』って返事するだけで、会話なんかしてないもの」
 うーん、まあ、あのツッパッた態度じゃそうなっちまうよな。でも俺が最初に彼女を見たのは、図書室で泣いている姿だったし、ノートに酷い落書きをされているのも知ってしまってるからなぁ。なんかほっとけないんだよ。そう思わないか?
「浩之ちゃん、さっき『今回はちょっとヤバイ』て言ってたよね」
「ん、まあ、言ったけど」
「じゃあさ、今日からお勉強会しない? テストの範囲とか教えたげるから、ね」
 勉強会か……。8月31日に強行開催して以来だな。よし、やるか。
「じゃ俺んちですっか」
 それを聞くとあかりは笑みを満面に浮かべて「うん」と言った。そんなに嬉しいことなのか? お誕生日会とはちょっと違うんだぞ。しかし現実的な話、あかりや雅史の後輩にはなりたくないもんな、やるしかないんだが……。(それほど成績悪いんですハイ。)

 6時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り渡った後、英語の先生がそそくさと教室を出て行くと、俺達の時間が戻ってくる。俺は鞄にペンケースを放り込むと席を立とうとした。
「浩之ちゃん、それじゃダメだよ」
「なんだあかり、もうこっちに来たのかよ」
「もう、教科書持って帰らないでどうやって勉強するの」
「重いじゃねぇか。それにあかりのを見れば試験勉強できるじゃないか」
「……私がいる間しか勉強しないつもりなの……」
「解ったよ」
 細かいことを言うやつだ。机の中に手を突っ込んでみる。手に触れるのはギチギチに詰め込まれた本、ノート、プリント……。
「……ところで今日はどの教科やろうか?」
「全部持って帰るの」
 くっ……。見透かされている。へいへい、解りましたよ。あーあ、鞄がアコーディオンみたいに広がっちまった。せっかくきれいに潰せていたのにな。
「珍しいね、浩之が教科書持って帰るなんて」
 雅史が俺の所にやってきた。
「試験1週間前だからね。浩之もついにやる気になったんだ」
 なに言ってやんだ。こっちは仕方なくやってんだよ。
「でも浩之ちゃんはやれば絶対出来ると思うよ」
 とあかりが言うと、
「そうそう、僕もそう思う」
 と雅史が相づちを打つ。おいおい、俺はそんなんじゃねぇって。もう小学生じゃないんだぞ。あの頃と同じ感覚でいられたらこっちが迷惑だ。
「そんなことより雅史、今日俺ん家こないか? 試験対策をするんだ」
 雅史は残念そうな表情を浮かべると、
「ごめん。次の日曜日試合だから練習があるんだ」
 ん、そうか。それなら仕方ないよな。まぁ雅史はそつなくこなすから、俺みたいに直前でバタバタしないですむしな。
「じゃ先に帰るな。部活頑張れよ。行こうぜあかり」
 3人は教室を出ると、雅史はグランドへ俺とあかりは家へと向かった。
 校門を出て長い坂を2人で歩いていた。優しい風にあおられて街路樹がゆらゆらと梢を揺らしていた。極薄く霞が掛かった空には円い綿雲がぽつりぽつり浮かんでいた、冬の鋭くちぎれた雲は天の片隅へと追い払われていた。電線に雀が2羽とまっていた。仲良く並んで、お互いの羽を繕ってあげている。チチチと楽しそうだ。何をしゃべっているんだろうか? 天気の話かな、身の上話かな、それとも恋の話かな。
「いい天気だね」
「そうだな」
 不思議と俺達はいつもよりもゆっくりとした歩調で歩いていた。すぐに家に着いてしまうのが何かもったいない気がしていた。春が俺達の背中を押そうとうずうずしている。
「こんな天気に勉強なんかするもんじゃないな。このままどっか行こうか」
「試験終わったら行こうよ」
 ちぇっ、俺は今行きたいのに。
「俺が今更やったて無駄だぜ」
「浩之ちゃんはやればちゃんと出来るよ。だって高校、浩之ちゃん絶対無理って言われたのにちゃんと合格したじゃない」
「あれは担任の言い方に腹が立って、意地になってやったんだ。家に近いってことで志望しただけだったんだけどな。……今考えると、無理してこんな平凡な普通科の高校に入ることもなかったのにな」
 いまでも覚えてるぜ、あの時の担任の顔。口の端だけ持ち上げた人を蔑んだ笑い顔。まあ鼻をあかしてやったんだから今じゃなんとも思ってないけどな。
「でも、あの時の浩之ちゃんすごかったよ。内申点なんかほとんどなかったのに、試験だけで合格しちゃったんだから」
「瀬戸際の勝負師と呼んでくれ。だから今日はまだいいんじゃないの?」
「もぅ、今瀬戸際じゃない。中村先生に言われたんじゃなかったの? 期末が悪かったら……留年だって」
 いやっはっは。俺ってすごいな。
「俺、暗記物ってのがホントにダメなんだよな。ちょっとだけ覚えた事をパズルみたいに組み立てて勝負する教科だったらマシなんだがな」
「頑張れば絶対大丈夫だよ。私は浩之ちゃんを信じてるから」
 このあかりの言葉が心の深いところまでなぜかすぅと浸みていった。

 「おじゃまします」
 そう言うとあかりは靴を俺の分まできれいに揃えてから上がってきた。
「じゃ俺はなんか持って上がるから先に部屋に入っててくれよ」
 とあかりに言った。あかりがトントンと階段を上がり、俺は台所に行こうとした。
「ちょっと待ったーーーっ!!」
 俺はドドドと2階に駆け上がりドアのノブに手を掛けていたあかりを制止した。
「いいかー1分だけ待つんだぞーー」
 そう言い残すと俺だけ部屋に入り、後ろ手にバタンとドアを閉めた。……汚い。俺の部屋は他人を招く仕様にはなってなかったのを思い出した。窓を開けテーブルの上に乗っている物をまとめて部屋の隅へ放り投げる。人が座れるだけのスペースを作り、パンツやら靴下やらの洗濯物を押入に押し込めた。おっとエロ本も忘れずにベッドの下に叩き込む。
「もういいぞ」
 そう言うとドアが静かに開き、あかりが「入るね」と言いながら入ってきた。
「たまには掃除しなくちゃだめだよ。今度手伝ってあげよか?」
 いいよ、そん時は自分でやるよ。そん時っていつのことかは解らないが。
「適当に座っててくれ。なんか持ってくるよ。……あんまりあちこち触るなよ。無秩序のようで実は合理的な配置をしているのだからな」
 もちろん方便。
「……うん解った、押入の中とかベッドの下とかは勝手に触らないから」
 な、なぜそれを!?
「もう、浩之ちゃんの事だったらだいたい解るよ。それに……ベッドの下からエッチな雑誌が見えてる……」
 ほ、本当だーーっ。あれは一昨日買った『素人娘投稿写真《見せます東京高校生性態レポート》』じゃないかーーっ。隠し方がぬるかったかっ。俺はスライディングキックでその雑誌をベッドの奥隅へと蹴り込んだ。消去(デリート)終了。
「はあはあ、勉強会って汗をかくもんだったんだな。発見したぞ」
「……まだ勉強してない」
 さて、台所から持ってきたコーヒーをすすりながら俺達は試験対策を(やっと)始めることにした。俺達は手始めに部屋の真ん中に置かれた天板がガラスで出来たテーブルに教科書を広げて試験範囲の確認を始めた。
「……で、グラマーは不定詞と動名詞の最後までだよ」
「それでどの構文がテストに出るんだ? 俺その構文の例題を集中してやるから」
「そ、そんなの分かんないよ。分かったら苦労しないよ。私そんなに頭良くないもの」
「なにつまんないこと言ってんだ。そんなに血のめぐりの悪い頭なら俺がマッサージしてやる」
 俺はあかりの頭を鷲掴みにすると、グリグリとマッサージを始めた(アイアンクローとも言う)。
「痛いよ、浩之ちゃん。やめてよぅ」
 いやいや、まだまだ足りないぞ。俺はさらなるマッサージを施すためあかりの頭を両手で挟み込むように掴み胸の前に持ってきた。よしよしいじめてやるぜ……あれ?
 ふとこの時、俺の嗅覚をとてもいい匂いがくすぐったのだ。すぅと吸い込むと直接頭の中にふわんと広がって脳細胞の1つづつに染みていくような気持ちよさだった。あかりの髪とか襟元とかから立ち昇る匂いだった。なんだかずっと嗅いでいたくなるような不思議な匂いだ……。
「浩之ちゃん?」
 おわっ、びっくりした。アイアンクローも忘れてあかりの頭に鼻を近づけてしまった。
「どうしたの?」
「いやっその……。お前のその髪型もずいぶん長いよなぁ、て思ってさ。」
 ナ、ナイス言い訳。
「そうだね。中学校入ってからずっとこれだもんね」
 あかりは後ろで2つに分けて、ゴムで縛ってある髪を触りながら言った。俺も自然とあかりの髪に手が伸びて肩にかかっている髪の房を触った。あかりはちょっとくすぐったがるようなしぐさをしたがそのまま触らせてくれた。束ねられた髪を摘むと線の細い髪が指先から心地よい柔らかさを伝えた。けれどこのまま触っているとあかりを壊してしまう気がして少し慌てて手を引っ込めた。
「……浩之ちゃん。この髪型ダメ?」
「いや。あかりらしくて良いぜ」
「くす。初めてこの髪型にしたときもそう言った」
 そ、そんなこと言ったか? つまんないこと覚えてないで、勉強しようぜ、勉強。
 向かい合わせに座っているお互いのノートをのぞき込み合い、そこに書いてある文字を見せ合う。
「……問3の答えどうなった?」
「 hasだろ?」
「えっ違うよ。Foreign language skills seem to ( ) been developed sufficiently to meet the needs. だからhaveが入るんだよ」(英文 E.O.Reishauer)
 今、練習問題の答え合わせをしているところだ。辞書で単語の意味を調べてみる。
「訳すと、『外国の言語技術の思慮は必要性の意味する所の表面的な発達を持っている』かな?」
「……(絶句)」
「え? おかしいか? 動詞はhaveなんだから合ってるよな」
「……(絶句)」
 俺変なこと言った?
「もう冗談言ってないでちゃんとしようよ」
「いや、マジだが」
「えーーっ! ホント!?」
「そんな驚くものでもないだろ」
「じ、じゃ高校の最初からやり直さないと……。私、大事な文法、教科書の最初から拾うから、浩之ちゃんそれを試験までに全部覚えて。私も協力するから。ね?」
 ありゃりゃ、あかりが血相変えてるよ。そんなにヤバイのか? 俺ってレッドゾーンにだいぶ前から突っ込んでいたんだな……。全然危機感なかったよ。あいたー、留年ってまるっきりの脅しでもなかったのかー。まずいな……。気を落ち着かせるため俺はカップを手に持ってコーヒーを少し口に含ませる。
「んぺ、すっかり冷めちまってる。あかり、少し待ってろ。新しいの入れてくる」
 気分転換だ。コーヒーカップを2つ持ち俺は1階に降りた。コーヒーを入れ直して部屋に戻ると、あかりも足をくずしてリラックスしていた。
「ありがとう」
 カップをあかりの前に置いた。するとガラス張りの天板を透かして、足をくずして座っているあかりのふとももがスカートから伸びているのが目に入ってしまった。いかん。勉強に集中しなくては……。悟られないよう目をそらす。でも……。あかりがツイとコーヒーを飲む。無意識に、テーブルに戻されるカップを目で追ってしまう。再びあかりのふとももが目に入ってしまった。そこから視線をそらすと腰に目が行ってしまう。腰から目をそらすと胸に行ってしまう。どうしちゃったのかなぁ俺。でもなんかこう、ふとももはむちっとしてるし、お尻もなんか丸いというか厚みを増したという感じだし。胸もふくらみと呼べるものがはっきりとセーラーを押し出している。うーん、あかりってこんな感じだったかなぁ?
「……どうしたの浩之ちゃん。さっきから……」
 ノートに基本構文を書き写していた手を止めてあかりは言った。
「あ……いや……、その……、あかり最近太ったか?」
「えっ! そんな風に見える?」
 驚きと非難の混じった声を上げた。ちょっとその声に気圧(けお)される。
「いや……、な、なんとなくだけど」
「ううっ、やだなぁ……」
 あかりがちょっとしょぼくれた。すまん、そんなつもりはなかったんだ。
 時間の半分以上が雑談で占められた勉強会も6時を廻るとあかりが家に帰ることで終了した。あかりんちで夕食に誘われたが、俺は断り家に戻った。コンロの上にあるナベのカレーを頬ばって自室にこもった。3日目に入ると味が良く滲みて旨い。ベッドに体を投げ出すと天井を見上げた。なんか疲れた、やる気が出ない。もう寝よう。電気を消し、目を閉じた、が胸の中になにかモヤモヤしたものが立ちこめて眠れなかった。俺なんか変だな……。

第3章『たそがれ心』に続く


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