BC753 ローマ市建設(伝説)ローマに伝わる伝説によると、ローマの建国者はロムルスで、それはBC753年であったという。 【伝説】 伝説の概要は次のとおり。 有名なトロヤ戦争でトロヤが陥落したとき、トロヤの英雄アエネアスは父と子をともなって脱出し、ギリシャ各地やカルタゴを通ってイタリア中部のラティウム地方(イタリア中部西海岸にある今日のラッティオの南半分)に定着した。 アエネアスから16代目の王ヌミトルは、弟のマムリウスに王位を奪われ、ヌミトルの娘は巫女にされてしまった。巫女は終生処女でなければならなかったが、彼女が水くみに森に出たときに軍神マルスに犯され、ロムルスとレムスの双子の男子を産んだ。 双子はかごに入れてティベル川(ローマを通っている川)に流された。岸に着いた双子は1匹のオオカミの乳を飲んでいたが、これをみつけた羊飼いに育てられた。やがて自分の出自を知った二人は、王位を奪ったマムリウスを殺し祖父にあたるヌミトルを復位させた。 その後、ロムルスとレムスは新しい都市(ローマ)の建設に取りかかる。伝説ではローマには7つの丘があったとされ、ロムルスはパラティヌス丘に都市を建設することを主張したが、レムスはアウェンティヌス丘に建設することを主張し、争いとなってレムスは殺されてしまう。 ロムルスはパラティヌス丘に都市の建設を始めた。また、カピトリヌス丘を避難所と定めて各地からの逃亡者を受け入れたことから、人口がしだいに増加した。しかし、女がいないことから、北隣に住むサビニ人を祭礼にまねき、見物中の娘たちを計画的にさらったことから争いとなったが、さらわれた娘たちが仲裁にはいり、以後サビニ人のタティウスとロムルスがローマを共治することになったが、タティウスが死んだ後はロムルスが一人で統治した。 ロムルスの後に6代の王が続いたが、第5代と第7代の王はエトルリア人の名前である。 (注:エトルリア人は、イタリア半島の北部、今日のラッティオの北部・ウンブリア・トスカナ地方に住んでいた。ヘロドトスは、エトルリア人は小アジアから移住したという伝説を伝えている。また、タルクィニアという町で発掘されたエトルリア人の地下墳墓からギリシャ文字を使って書かれた文字が発見されたが、何語であるかわかっておらず、インド・ヨーロッパ語系ではないとみられている。) 【考古学】 パラティヌス丘とフォールム(公共広場)およびその周辺の発掘調査が行われている。それによると、パラティヌス丘の最古の住居跡はBC750年ころ以降のものとみられ、伝説の時期と一致する。しかし、その住居跡は掘っ建て小屋を集めた村落のようなもので、都市とはよべないものであるとみられている。 【ローマのその後】 伝説のようなローマ人とサビニ人の両部族が融合した後、北方のエトルリア人が勢力を増して一時期ローマをも支配下においた。 この間に、城壁が巡らされ、石造りの家がかやぶきの木造小屋にかわり、沼沢地が大下水渠によって排水されてそこにフォールム(公共広場)が建設された。また、ローマ人の宗教はエトルリア人から多くの影響を受けており、ラテン・アルファベットはエトルリアの文字に由来している。 その後、エトルリアが北方のケルト人や南方(イタリア半島南部)のギリシャ人に押されて衰退すると、ローマの貴族の反抗によってエトルリア人の王が追放さ、王のかわりに貴族のなかから執政官(コンスル。定員2人、任期1年。)をおく共和制がはじまった(BC509年)。貴族のつくる元老院と、市民全体でつくる民会があり、元老院が大きな力を持た。 【LINK】 世界の古典つまみ食い ≫ リヴィウスの『ローマ建国史』 狂える魂に永久の平穏あれ ≫ 歴史フリークスグループ ≫ ヨーロッパの戦史 ≫ ローマ建国 YoTube ≫ 古代ローマ軍の歴史 P1 - ローマ軍の基本 || ハンニバル スパルタクス カエサルなど YoTube ≫ 古代ローマ軍の歴史 P2 - カエサル クレオバトラ ブーディカなど YoTube ≫ 古代ローマ軍の歴史 P3 - ハドリアヌス ヴィンドランダ要塞 参考文献 「世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教」弓削達著、河出文庫、1989年 「ヨーロッパの歴史 欧州共通教科書」フレデリック・ドルーシュ総合編集、木村尚三郎監修、花上克己訳、東京書籍、1994年 更新 2019/3/9 |