インド=ヨーロッパ語族の大移動が始まるBC2000年ころ、インド=ヨーロッパ語族が北方から南方の文明地域へ向かって大移動をはじめた。 インド=ヨーロッパ語族の祖先についてはよくわかっていない。BC3000〜BC2000年ころに、一説では南ロシアないし中央アジアを、他の一説ではヨーロッパを現住地としていたのではないかとされる。 【アーリア人】 インド=ヨーロッパ語族の一派であるアーリア人は、まず、カスピ海とアラル海の間かあるいはアラル海の東を通ってイラン北方の中央アジアに進出したと考えられる。 その後、東へ向かった一派は、BC1500年ころ、イラン東部を経由してインド北部のパンジャブ地方へ進出し、BC1000年ころにはガンジス川流域にまで進出したものと考えられる。 インドに進入したアーリア人は、「リグ・ベーダ」を原典とし、先住民とみられるドラヴィダ人などを支配しながら、現在のカースト制度につながる身分制度をかたちづくっていった。 また、西へ向かった一派は、一部はイランへ入り、一部はメソポタミアへ達した。 インドの古典「リグ・ベーダ」は、イランに入ったアーリア人が信仰したゾロアスター教の最高教典「アヴェスター」の言語ときわめて類似しているといわれている。 【ギリシャ人】 インド=ヨーロッパ語族の一派で、BC2000年ころギリシャへ向かったものは、クレタ文明に接しその影響を受けてミケーネ文明のにないてとなった。 しかし、BC1150年ころ、ギリシャ人の別の一派ドーリア人がギリシャへ侵入し先に定着していたギリシャ人の諸部族を支配したり追い出したりしてギリシャ全体が大混乱する時代となった。 【ヒッタイト人】 ヒッタイト人もインド=ヨーロッパ語族の一派で、BC2000年ころ小アジアのアナトリア高原に入り、ヒッタイト古王国を作り上げた。 アナトリア高原は鉱物資源が豊富で、先住民のハッティ人を征服した際に製鉄技術を知り、その後BC1400年ころに浸炭法によって鋼(はがね)を発明した。 (注:「浸炭法」とは、鋼の表面硬化法の一つで、低炭素鋼の性質を改良するため、鋼の表面の炭素含有量を増して硬化させる。(広辞苑から)) 【LINK】 ウィキペディア ≫ インド・ヨーロッパ語族 世界民族博覧会 ≫ 目次 ≫ インド・ヨーロッパ語族 参考文献 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 「広辞苑第二版」新村出編、岩波書店、1969年 2003/12/6 |