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1825年 日本で外国船打払令


 日本沿岸にロシアやイギリスの船がたびたび姿を見せるようになると、幕府は1825年に外国船打払令(無二念打払令)を出した。「異国船はこれを発見しだい、二念なく打ち払うべし」というものであった。
 外国船は、薪水や食料を求めたほか、住民にキリスト教への入信を勧めることもあった。また、1808年のイギリス船フェートン号の事件のように乱暴をはたらくこともあった。

 1837年、外国船打払令に従って浦賀奉行所が、浦賀にあらわれたアメリカの貿易商社の所属船モリソン号に対して砲撃を加えている。
 しかし、中国の清朝がアヘン戦争に敗れたことを知ると、1842年、幕府は外国船打払令を緩和し、状況に応じて薪水の給与を認めた。
 また、1846年にアメリカ東インド艦隊司令長官のビッドル提督が率いる軍艦2隻が浦賀に入港して日本の開国を求めると、幕府は、琉球と諸外国の貿易を容認する意向を、薩摩藩に内々に伝えている。
 1853年にペリーが来航し、翌1854年には箱館(現在の北海道函館)と下田(現在の静岡県伊豆半島)を開港することとなって、日本は開国した。



【ペリー以前の来航】
 1792年、ロシアのアダム・ラクスマンがエカテリーナ号で根室に来航した。難破してアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した伊勢の船頭である大黒屋光太夫ほか2人を送るとともに、日本との通商を求めた。
 1796年、イギリス海軍中佐ブロートンが指揮するプロビデンス号が、日本沿岸測量の途中に絵鞆(えとも、現在の北海道室蘭)に来航し、薪水を補給した。
 1804年、ロシアのレザノフが軍艦ナデジュダ号で長崎に来航。ロシアに漂着した石巻きの漁民津太夫ほか3人を送るとともに、日本との通商などを求めた。
 1808年、イギリス船フェートン号が長崎に侵入。オランダ商館員2人を一時拉致し、長崎港内でイギリスのボートがオランダ船の捜索を行った。オランダはナポレオン戦争でフランスの支配下にあったため、フランスに敵対するイギリスはオランダを敵国とみなし、アジアにおけるオランダの地位を脅かしたものであった。日本は希望どおり食料と薪水の供給を行い、オランダ商館員2人は解放された。この事件の責任をとって、長崎奉行が切腹している。
 1811年、ロシアの測量船ディアナ号が、択捉島に上陸して薪水と食料を求めた。二度目に国後島へ上陸した際、艦長ゴローニンが松前奉行所と会見中に誤解されて捕らえられた。松前奉行はロシア政府の関与を疑っていた。艦長ゴローニンは箱館(現在の北海道函館)へ送られたが、1813年に釈放された。
 1824年、イギリスの捕鯨船の乗組員12人が常陸の大津浜に上陸し、水戸藩に全員逮捕された。密貿易の疑いをもたれたが、食料と薪水を求めたもので、2か月足らずで釈放された。
 1825年、幕府が外国船打払令を出す。
 1828年、シーボルト事件。
 1837年、モリソン号事件。浦賀にあらわれたアメリカの貿易商社の所属船モリソン号に対して、浦賀奉行所が外国船打払令に従って砲撃を加えた。モリソン号は漂流してマカオで保護された日本人漁民7人の送還と通商・布教の意図を持っていたが、かなわなかった。
 1840〜1842年、隣国の中国清朝がアヘン戦争でイギリスに敗れる。
 1842年、幕府が外国船打払令を緩和し、状況に応じて薪水の給与を認めた。
 1843年、ロシア船が択捉島に漂流民を護送してくる。
   〃  イギリス艦サマラン号が、八重山諸島(現在の沖縄県)に上陸し、測量を行う。
 1844年、フランス艦アルクメーヌ号が那覇に来航して通商を求める。
   〃  オランダからの国書が届く。
 1845年ころ〜、外国船が頻繁に日本の沿岸に現れるようになる。
 1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官のビッドル提督が率いる軍艦2隻が浦賀に入港。日本に開国の意志があるか打診して帰った。
   〃  幕府が、琉球と諸外国の貿易を容認する意向を、薩摩藩に内々に伝える。
 1849年、イギリス軍艦マリナー号が、浦賀沖に入り江戸湾の測量を開始した。食料の提供を受けただけで、調査を行って立ち去った。
 1852年、オランダ商館長がペリーの来航を予告。
 1853年、ペリー来航。



【参考ページ】
1853年 日本へアメリカのペリーが来航





参考文献
「日本全史 ジャパン・クロニック」講談社、1991年
「90分でわかる日本史の読み方」加来耕三監修、かんき出版編集部編、かんき出版、1993年




2004/7/9

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