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1875年 日本とロシアが樺太千島交換条約を締結


 当時の樺太(サハリン)は、南部に1800年前後から日本人が漁場を開いていたが、その後にロシア人が北部から南下してきて、日本人とロシア人が雑居する状態となっていた。

 ロシアは徳川幕府の時代から国境の画定を申し入れていたが決定せず、1869年(明治2年)には1,200人の兵を樺太南部へ派遣した。北海道の統治も十分でない明治政府は対抗措置を取れず、丸山作楽(まるやまさくら)を外務大丞として樺太に派遣し交渉させるにとどまった。
 翌1870年(明治3年)2月に樺太開拓使を設置、5月に黒田清隆を北海道開拓使次官に任じて樺太政務を兼任させた。

 1872年(明治5年)10月、ロシアの駐清公使ビュツォフが来日し、副島種臣参議と交渉が始まった。ロシア側は樺太全島の領有を主張して南北への分割には応じない。日本側は全島の売却を提案し、ロシア側が資金がないとして拒否すると、逆に日本が全島を買い取るという案を提示した。翌1873年(明治6年)春に、ロシア側はこの案も拒否し、結局、日本から全島を譲渡することとしその代償条件の交渉に入ったが、副島種臣が清国行きで交渉中断となり、その後「征韓論」による明治政府内の分裂により副島種臣も辞任し下野することとなった。
 交渉の再開にあたって、日本政府はロシアの首都へ全権大使を派遣することとし、榎本武揚が選ばれた。1874年(明治7年)1月に日本を出発し、ロシアで交渉を重ねた結果、翌1875年(明治8年)5月に「樺太千島交換条約」に調印した。樺太全島をロシアに譲り、代わりに日本は千島全島を領有するという内容である。





参考文献
「日本の歴史20 明治維新」井上清著、中公文庫、1974年


2004/1/19

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