1884年 ベルリン会議でアフリカ植民地の分割原則を確認(〜1885)ベルギーは、探検家スタンレーをアフリカ大陸のコンゴに派遣して、現地調査や交通網整備を行ったうえ、数十の基地を設置して、現地勢力の長たちと様々な取り決めを結んでいた。 こうしたベルギーのコンゴ進出に対し、ポルトガルが反発し、1882年にはコンゴ川河口地域における主権を宣言した。 イギリスはポルトガルを支持。イギリスと対立していたフランスはベルギーを支持。ドイツはポルトガルへの支持を見送った。 各国の思惑が錯綜する中で、問題解決のためにドイツのベルリンで会議が開かれた(ベルリン会議)。1884年11月15日から1885年2月26日まで。 会議参加国は、イギリス、ドイツ帝国、オーストリア、ベルギー、デンマーク、スペイン、アメリカ合衆国、フランス、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア帝国、スウェーデン、オスマン帝国の計14カ国。 全7章(38か条)からなるベルリン協定が締結された。 その内容は、コンゴ盆地に関するもの、奴隷貿易の禁止に関するもの、植民地分割に関するものなどである。 コンゴ盆地の範囲を画定するとともに、この地域での自由貿易・中立化・コンゴ川航行の自由が確認された。コンゴは、ベルギー王の私財といった形で扱われるようになり、後にコンゴ自由国となった。 また、「アフリカ沿岸部における植民地化のルールが確認された。今後、アフリカを植民地化する場合は、ベルリン協定調印諸国にその内容を通告し、会議で確認された原則を遵守することが求められた。この会議を契機として列強のアフリカ分割は本格化し、列強間の調整を通じた地図上での植民地分割が行われていった。」 (以上の出典は、すべて ベルリン会議 (アフリカ分割) - Wikipedia 。) 参考文献 ベルリン会議 (アフリカ分割) - Wikipedia 2014/3/12 |