1902年 日英同盟の締結日清戦争で中国が敗れると、清朝の無力さが暴露され、列強の中国分割が進んだ。それは、租借地・鉄道敷設権・鉱山採掘権などの獲得・租界の充実などにより、列強それぞれの勢力範囲を形作っていった。 ・ロシアは、中国東北部(満州方面)・旅順・大連 ・日本は、朝鮮半島・台湾・台湾の対岸(福州・アモイ方面) ・ドイツは、膠州湾・青島 ・イギリスは、揚子江流域・香港・九龍半島・山東半島北岸の威海衛 ・フランスは、雲南方面・広州湾 ・アメリカは、中国に特別な勢力をもっていなかった。 こうした情勢のなかで、ロシアは中国への進出を一層積極化しつつあった。義和団の乱が満州に波及すると、大軍を満州各地に進駐させ、乱後も撤兵しなかった。 日本は、ロシア、フランス、ドイツによる三国干渉で遼東半島を返還させられ、ロシアの朝鮮方面への圧力を心配していた。 イギリスは、「光栄ある孤立」と呼ばれる非同盟主義をとっていた。ヨーロッパでは三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と露仏同盟とが対立するという構図のなかで、イギリスだけは非同盟を続けていた。一時、ドイツとの接近が試みられたが不調に終わった。一方、中国でのロシアの南下を抑える必要を感じていたイギリスは、とりあえず日本との同盟を結び、東アジアでのロシアの南下をくいとめようと考えた。 こうした、それぞれの事情の下に日英同盟が締結された。 「日英同盟」では、 ・中国東北部(満州)での領土保全 ・一方の国が第三国と交戦した場合、もう一方の国は中立を守る。 ・他国が敵国に加担した場合は、日英が共同して戦う。 こととなっていた。 この後、1904年に、日露戦争がはじまることになる。 また、第一次世界大戦の際、日本はこの条約に基づきイギリスが加盟する三国協商の側に立って参戦した。 第一次世界大戦後のワシントン会議で、1922年に四国条約(アメリカ・イギリス・日本・フランス)が締結されたことにより、日英同盟は不要なものとして破棄された。 参考文献 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 2004/1/2 |