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1908年 中国の西太后が死去


 1908年11月15日、清朝末期の政治の実権を握っていた西太后(せいたいごう)が死去した。
 その前日の1908年11月14日に、戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)によって幽閉されていた光緒帝(こうちょてい)が死去している。西太后が死去すれば政治の実権は皇帝である光緒帝に戻るはずであり、前日に死去したというのは偶然なのか、なにかの策謀があったのか、諸説あるが真相はわかっていない。

 光緒帝には嗣子がなかったため、光緒帝の実弟である醇親王載?(じゅんしんのうさいほう)の子である溥儀(ふぎ)が3歳で帝位について宣統帝となり、載?が摂政となった。



【西太后】
西太后(せいたいごう)1835〜1908
 清朝第9代皇帝の文宗・咸豊帝(ぶんそう・かんぽうてい)の側室となり、第10代皇帝の穆宗・同治帝(ぼくそう・どうちてい)を産んだ。
 咸豊帝が1861年に病死したため、幼少の同治帝が帝位についたが、咸豊帝の皇后慈安皇后(東太后)とともに幼少の同治帝を助けて慈禧太后(じきたいごう)と称した。西太后は摂政となり、咸豊帝の弟の恭親王奕?(きょうしんのうえききん)が補佐した。このころは政治が安定し、同治の中興と呼ばれる。
 1974年に同治帝が没すると、西太后の妹が妃となっていた醇親王奕?(じゅんしんのうえきけん)の幼少の子を第11代皇帝の位につけて徳宗・光緒帝(とくそう・こうちょてい)とし、権力を維持したが、光緒帝が成長して親政を行ない変法自強運動を進めると、保守派とともにクーデター(戊戌の政変)を起こして再び権力を掌握した。
 その後、西太后は、扶清滅洋をスローガンとする義和団の武装蜂起を暗に援助したことから、義和団が1900年に北京に入り、外国人に数々の暴行を行ったうえ外国公使館区域を包囲するにいたると、西太后は諸外国に向かって宣戦した。このため、列強8か国が連合軍を組織して北京に進撃し、西太后と光緒帝は西安へ難を逃れることとなった。講和条約は、多額の賠償金支払や、北京・天津など華北への外国軍駐留など、屈辱的な内容で、清朝への国民の信頼を失い、革命運動が加速された。
 ここにいたって、1901年1月に新政の詔勅を出し、諸制度の改革にのりだした。1905年には科挙を廃止、1906年には立憲政治を行う方針を決め、1908年に憲法大綱と立憲政治を開始するまでのプログラムを発表した。
 しかし、この発表を行った1908年の11月に、西太后と光緒帝は死去した。
 その後も清朝政府は改革に努めたが、革命運動の高まりと、郷紳の清朝からの離反とによって、1911年に辛亥革命が起き、翌1912年2月に宣統帝溥儀が退位させられて清朝は滅亡する。





【参考ページ】
清で戊戌の政変(保守派のクーデター)
義和団の乱
北清事変(列強が清へ出兵)





参考文献
「世界の歴史20 中国の近代」市古宙三著、河出文庫、1990年
「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年


2004/1/10

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