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1950年 中ソ友好同盟相互援助条約の成立


 1950年2月14日、モスクワ放送は、ソ連と中華人民共和国の間で、「中ソ友好同盟相互援助条約」と2つの付属協定「長春鉄道・旅順・大連協定」「借款協定」が締結されたことを発表した。
 「中ソ友好同盟相互援助条約」は、1945年にソ連と中華民国との間に締結されていた「中ソ友好同盟条約」を、中国側に有利に改訂したものである。
 30年期限で、中国側の更新拒否により、1980年に失効した。


【中ソ友好同盟相互援助条約の概要】
・日本あるいは日本と結ぶ国が、ソ連または中華人民共和国と戦争になった場合、両国は軍事援助を含む全力で相互に支援しあう。
・両国は互いの合意によって、第二次世界大戦の同盟国とともに、できるだけ短期間内に、対日講和条約の締結を獲得することを保障する。
(注:米英の構想する対日講和条約に対抗しようとするもの。)


【長春鉄道・旅順・大連協定の概要】
 ソ連は、長春鉄道・旅順・大連を、対日講和成立後あるいは1952年まで保有する。
 長春鉄道(旧東清鉄道)は、「ウラジオストック 〜 ハルビン 〜 満州里 〜 チタ」の線と、「ハルビン 〜 大連」の線(旧満鉄線)。


【借款協定の概要】
 中華人民共和国が、ソ連から、5か年3億ドルを借りる。





 ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 下」p46-47 から引用します。なお、引用文中の は、引用元での注です。
 一九五〇年二月一四日、中国とソ連はようやく新条約を締結した。が、発表された文書は形式的なもので、重要な部分は秘密の付属文書に記載されていた。中国が要請した三億米ドルの借款は正式に認められたが、五年に分割され、一年目に中国が実際に手にしたのは、過去の「購入」分を差し引かれた結果、名目の三分の一にあたるわずか二〇〇〇万米ドルだった。借款は、全額ソ連からの武器購入にあてられることになっていた(内輪では「軍事借款」と呼ばれていた)。三億米ドルの借款のうち、半分の一億五〇〇〇万米ドルは海軍向けの別枠扱いとされた。スターリンは五〇件の大規模産業プロジェクトにゴーサインを出したが、これは毛沢東の要望をはるかに下回る件数だった。
 かわりに、毛沢東は中国東北と新疆(シンチァン)地区をソ連の勢力範囲として「工業、財政、商業……活動」にソ連の独占的権利を認めることに同意した。広大な面積を占める東北と新疆は中国の鉱物資源の主要な埋蔵地域であり、毛沢東は実質的に中国の輸出可能な資産の大半を譲り渡してしまったことになる。毛自身も、内輪ではこれら二つの地域を「植民地」と呼んでいた。何十年かあとになって、毛沢東はアメリカに対し、ソ連が「新疆の半分を略奪していった。新疆はソ連の勢力範囲と呼ばれていた。満州国[原文ママ]も連中の勢力範囲と呼ばれていた」と語っている。毛沢東は中国の「余剰」タングステン、錫、アンチモンのすべてについてソ連に一四年間の独占権を与えた。これによって、一九六〇年代半ばまで、中国は市場向け天然資源の約九〇パーセントについて輸出の機会を奪われることになった。
 一九八九年、毛沢東の後継者ケ小平はソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフに対して、「阿片戦争(一八四二年)以降に中国を侵略し、痛めつけ、奴隷化した列強のうちで、最も大きな損害を残していったのは日本だ。しかし、最終的には、中国から最も大きな利益を得たのは、一時期のソ連を含む[原文ママ]帝政ロシアだった」と述べた。ケ小平が言及したのは、まちがいなくこのときの条約の内容である。
 毛沢東は、条約で中国がいかに多大な譲歩をしたかを徹底的に隠そうとした。発表用の原稿をチェックする際にも、秘密文書の存在を推測させる可能性のある「補充協定」や「付帯事項」といった言葉はすべて削除し、削除箇所に「至要、至要!」(非常に重要、非常に重要!)と書きこんでいる
★一九五〇年三月に中ソの合弁企業設立に言及した新聞記事が出たとき、劉少奇の述懐によれば、「北京の学生たちのあいだに大きな波紋が広がった。彼らは中国の主権が損なわれるおそれがある……と考えたのだ。共産主義青年団のメンバーの多くが、説明……を求めた。なかには、人民の政府が国を売った……と声高に非難する者たちもいた」という。しかし、彼らは真実を半分も知らなかったわけである。
 スターリンからの強い要請で、中国側はソ連から派遣された技術者に法外な高給を支払い、家族を含めて広範な恩典を用意した。そればかりか、中国に技術者を派遣したことによってソ連企業が被った損害まで補償させられた。しかし、毛沢東が最も厳重に隠そうとした譲歩項目は、ソ連人に治外法権を認めた点だった。これはまさに、中国共産党が「帝国主義欺負中国」(帝国主義列強から受けた屈辱)の最たる例としてくりかえし非難してきた問題だった。それを、毛沢東はひそかに認めたのである。





参考文献
「講和条約 戦後日米関係の起点 第二巻」児島襄著、新潮社、1995年
「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下」ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著、土屋京子訳、講談社、2005年
「新制版 世界史辞典」数研出版、1983年


更新 2013/11/5

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