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2003年 イラク戦争


 2003年3月20日、現地時間で午前5時半過ぎ(日本時間で3月20日午前11時半過ぎ)、イラクは国連決議による大量破壊兵器の廃棄要求に応じていないなどとして、アメリカ軍がイラクに対する軍事的な攻撃を開始した。
 現地時間で20日午後9時過ぎ(日本時間で21日午前3時過ぎ)には、イラクの首都バグダッド中心部にある大統領宮殿などの重要施設をミサイルで爆撃し、また、イラクの南部、西部、北部から国境を越えてイラク領内に侵入し、本格的な攻撃を開始した。なお、イギリス軍も3月21日までに戦闘に加わったと伝えられている。
 イラク領内へ侵攻した部隊は、4月4日に首都バグダッド郊外のサダム国際空港を制圧し、4月5日には首都バグダッドへの進攻を開始した。4月9日には、バグダッドのほぼ全域を支配下に置いた。この時点で、フセイン政権は完全に崩壊し機能を停止した。4月14日には、フセイン大統領の出身地ティクリットを攻略し、イラクのほぼ全土を制圧した。アメリカのブッシュ大統領は、5月1日に戦闘終結を宣言した。
 戦闘終結宣言までに死亡したアメリカ兵は、138人と発表されている。

 日本の小泉総理大臣は、日本がアメリカの軍事行動を支持することを表明した。
 また、世界各国で反戦デモが行なわれた。

 イラクへの攻撃には劣化ウラン弾も使用され、放射能による影響が危惧されている。
 また、イラク戦争の目的に掲げられた大量破壊兵器は発見されず、核兵器の開発が進められた証拠もみつからなかった。ただし、複数の生物兵器施設が見つかったと発表されている。



【イラク戦争までの経緯】
 1979年にイラクの大統領に就任したサダム・フセインは、1980年に隣国イランとの「イラン・イラク戦争」に突入、1988年の停戦まで膠着状態が続いた。
 1990年には、隣国のクウェートに侵入し、ほぼ全土を制圧して併合を宣言したが、国連の安全保障理事会は即時無条件撤退を求めるとともに経済制裁を決議した。1991年、アメリカをはじめとする多国籍軍をペルシャ湾に集結させ撤退を求めたが、イラクは応じず、多国籍軍は攻撃を開始し「湾岸戦争」となった。イラクがクウェートから撤退して、戦争は終結した。

 1991年の湾岸戦争後に、国連の安全保障理事会はイラクに大量破壊兵器の廃棄を求め、イラクも受諾したが、イラクは国連の査察に対して協力的ではなく、1993年、1998年、2001年にはアメリカ軍などによるイラクへの空爆も行なわれた。
 2003年、アメリカはイラクへの武力行使を辞さないとの姿勢を強め、国連の安全保障理事会で討議されたが、フランス、ドイツ、ロシアなどは査察の継続を主張し、フランスは拒否権を行使することを表明した。アメリカは安全保障理事会での決議は求めず、イギリスなどとともに軍事行動を開始した。


【フセイン大統領】
 イラクのフセイン大統領は、政権崩壊後は行方不明であったが、2003年12月14日にアメリカ軍によってティクリートの隠れ家にいたところを身柄拘束された。20〜30か所の隠れ家を転々としていたとみられている。
 イラク特別法廷で裁判が行われており、1982年にシーア派住民148人が殺害された事件で、死刑を求刑(2006年6月19日)された。
 2審を経て、2006年12月26日に死刑が確定。
 4日後の2006年12月30日に、バグダッドにある刑務所で死刑(絞首刑)が執行された。この処刑の模様を携帯電話で撮影したとみられる動画が、ネット上に流れて話題となった。
LINK サッダーム・フセイン−Wikipedia
LINK サッダーム・フセインの死刑執行−Wikipedia


【治安の悪化・自爆攻撃など】
 アメリカ・イギリス軍の進攻直後には、首都バグダッドを中心に治安が極端に悪化し、略奪や放火などが行なわれた。4月10日ころには「イラク国立博物館」も略奪を受け、メソポタミア文明の重要な遺物が持ち去られたり破壊されたりした。

 また、アメリカに対する抵抗勢力は、アメリカ大統領の戦闘終結宣言後も、自爆攻撃車に積んだ爆弾の爆発、銃撃、ロケット弾・地対空ミサイルなどによる攻撃を行って、米軍兵士(ヘリコプター・航空機・兵舎などを含む)や、外国の援助部隊、米軍への協力者(クルド人を含む)、イラクの警察署、民間外国人、外国人の集まるホテルやレストラン、民間の輸送機などに被害を与えており、まきこまれたイラク人も含めて多数の死傷者を出している。

 その後、イラク国内での、イスラム教スンニ派同シーア派クルド人の間での民族的対立も表面化し、イラクの民間人を対象とする攻撃も行われるようになった。特に、スンニ派とシーア派との武力衝突が激しくなり、新政権での主導権争いにも影響を与えている。

 2005年10月25日、AP通信は、イラクで2004年1月以来、武装勢力の攻撃で死傷したイラク人が2万6000人に上るとの推計を報じた。同通信が米国防総省から得た1日当たりの死傷者数推計を基に算出した。また、非政府組織(NGO)「イラク・ボディー・カウント」はイラク戦争開始(2003年3月)以来のイラク人民間人の死者数を最少で約2万6700人、最多で約3万100人と推計している。
 2005年12月12日、ブッシュ米大統領は、2003年の対イラク開戦以来、イラク人の死者が民間人も含めて約3万人に達したことを明らかにした。

 2006年6月15日、イラク戦争での米兵の犠牲者が2500人(このうち、戦闘終了宣言以降の死者は2354人)、負傷者数は1万8490人に達したと、米国防総省が発表した。


 (参考) 主な事件
・2003年8月19日、バグダッドにある国連事務所で爆弾テロがあり、国連事務総長特別代表のデメロ氏を含む20人以上が死亡。
・2003年8月、イラク中部のナジャフのイマーム・アリ廟で83人が死亡。
・2003年11月29日、「日本大使館の館用車」が銃撃を受け、外務省職員の奥克彦参事官、井之上正盛三等書記官、運転手のイラク人1人が死亡。

・2004年2月1日、イラク北部、クルド人自治区のアルビルで、「クルド民主党事務所」と「クルド愛国同盟事務所」に対して、同時に自爆攻撃があり、100人以上が死亡。
・2004年2月10日、イラク中部のイスカンダリヤの警察署への自爆攻撃で、警察官志願者ら約50人が死亡。
・2004年2月11日、首都バグダッドのイラク軍兵士採用センター前での自動車による自爆攻撃で、入隊を志願するために並んでいた47人が死亡。

・2005年4月15日、バグダッド郊外のマダエン(シーア派とスンニ派が混在して住む地域)で、イスラム教スンニ派武装勢力が、一時、町を支配下に置いたほか、シーア派のモスクを爆破するなどしたうえ、シーア派の住民約150人を人質にとり、他のシーア派住民が町から退去するよう脅迫した。16日夜、イラク治安部隊と駐留米軍が、人質の解放作戦を開始した。その後、この事件の被害者とみられる50体以上の遺体が、バグダッド南方のチグリス川で発見さた。

・2005年5月4日、クルド自治区アルビルのクルド民主党(KDP)事務所で自爆テロがあり、60人が死亡。事務所は警察官の募集窓口を兼ねており、就職希望者らが集まっていた。
・2005年5月29日、イラク治安部隊と駐留米軍が首都バグダッドの武装勢力を掃討する作戦が開始。ザルカウィ氏(ヨルダン生まれ)が率いるイスラム教スンニ派の武装勢力「イラクの聖戦アルカイダ組織」が反撃、イラク警察官や英兵ら計20人が死亡した。
・2005年6月17日未明から、イラク西部カイム近郊で掃討作戦を行い、武装勢力の約50人を殺害、約100人を拘束した。
 2005年7月4日には、バグダッド郊外の国際空港近くで掃討作戦を行い、100人以上を拘束した。
・2005年7月10日、イラク国内各地で自爆攻撃が相次ぎ、計40人が死亡。
・2005年7月16日、イラク中部ムサイブで、ガソリンスタンドの燃料輸送車の近くで自爆テロがあり、大爆発が起きて60人が死亡。
・2005年7月24日、バグダッド東部の警察署近くで、自爆テロにより40人以上が死亡。
・2005年8月17日、バグダッド中心部で3件の爆弾テロが相次ぎ、46人が死亡。
・2005年8月30日、イラク駐留米軍はイラク西部のカイム近郊でイスラム教スンニ派の武装勢力「イラクの聖戦アルカイダ組織」を空爆。巻き添えとなった市民を含めて56人が死亡。

・2005年8月31日、バグダッド北部のカドミヤ地区(イスラム教シーア派聖地)のモスク付近で、迫撃砲弾による攻撃があった後、自爆テロ犯が群衆に紛れているとの噂が流れて、宗教行事に集まっていた数千人の参拝者が混乱してチグリス川に相次ぎ転落、816人が死亡した。死者数は1000人に達する可能性もあるという。

・2005年9月10日、イラク国軍は駐留米軍とともにイラク北部にある外国人武装勢力の拠点タルアファルへの総攻撃を行い、その前の衝突を含め12日までに、武装勢力側の約200人を殺害、300人以上を拘束した。一般市民にも被害が出たもよう。
・2005年9月14日、バグダッド北部のカドミヤ地区(シーア派住民の多い)で、求職者の集団の近くで自爆テロがあり114人が死亡。その後、バグダッド市内で3件の爆弾テロが相次ぎ、警察官ら合わせて22人が死亡。バグダッド北方タジでは、イラク国軍の制服に似た服装の武装集団が住民17人を自宅から連れ出し、射殺した。
・2005年9月14日、ザルカウィ氏とみられる人物の録音音声が、ウェブサイト上に流れ、イスラム教スンニ派の武装組織「イラクの聖戦アルカイダ組織」が「シーア派勢力に全面戦争を宣言した」と表明した。両派の対立をあおり、復興を妨害する狙いとみられる。
・2005年9月29日、イラク中部バラド(シーア派イスラム教徒が多い)で、3件の爆弾テロで85人が死亡。

・2005年10月24日、バグダッド中心部のパレスチナホテルと隣接する旧シェラトンホテル付近で、3件の自爆テロが相次ぎ、外国人2人を含む21人が死亡。(両ホテルは、外国報道機関の利用するホテル。)
・2005年10月26日深夜から27日にかけ、バグダッド近郊で、イスラム教シーア派のサドル師派の民兵組織「マハディ軍」が、スンニ派武装勢力と衝突し銃撃戦になり、民兵23人と警官2人の計25人が死亡。武装勢力側の死者数は不明。
・2005年11月7日、イラク国軍と駐留米軍は、イラク西部のクサイバで、5日に始めた武装勢力の掃討作戦で、7日までに武装勢力側の60〜80人と米兵1人が死亡した。主な攻撃対象はイスラム教スンニ派系武装組織「イラクの聖戦アルカイダ組織」。
・2005年11月8日、バグダッドで、フセイン元大統領の側近を担当する弁護人2人の乗った車が武装集団に撃たれ、1人が死亡、1人が負傷した。
・2005年11月14日、米軍とイラク軍の合同部隊は、イラク西部の町オベイディで、イスラム教スンニ派武装勢力の拠点5カ所を空爆するなどして、37人を殺害し、25人を拘束した。民間人にも死傷者が出ているもよう。

・2005年11月13日、イラク駐留米軍がイラク内務省施設の地下室を捜索し、栄養失調状態で衰弱した収容者を多数見つけた。イラク内務省の治安部隊が、武装活動に関与した疑いでバグダッド市内の施設に収容していたイスラム教スンニ派の容疑者ら173人に、十分な食事を与えないなどの虐待を加えたり、拷問をしていた疑いが強まり、移行政府のジャファリ首相は15日に事実関係の調査を命じた。人口で多数派のシーア派が独占する内務省が宗派対立を背景に、スンニ派住民を違法に拘束し暴行しているとの訴えが、以前からスンニ派から上がっていた。収容者の多くは正式な逮捕手続きを経ていなかったという情報もある。

・2005年11月18日、イラク北東部のハナキンで、イスラム教シーア派のモスク2カ所で自爆テロがあり、65人が死亡。100人以上死亡との情報もある。
・2005年11月19日、バグダッド北方のアブサイダでシーア派地元有力者の葬儀会場で自爆テロがあり、50人が死亡。また、バグダッド南方の市場でのテロで13人が死亡。
・2005年12月2日、イラク中部ファルージャ付近で、道路脇に仕掛けられた爆弾が爆発し、パトロール中の米海兵隊員10人が死亡。
・2005年12月12日、イラク西部で実施した軍事作戦で、753人の武装勢力を殺害、1978人の身柄を拘束した。主な標的はイスラム教スンニ派の武装勢力「イラクの聖戦アルカイダ組織」とみられる。
・2005年12月28日、バグダッドの拘置施設で脱獄を試みた収容者と看守が銃撃戦となり、収容者十数人を含む少なくとも20人が死亡。

・2006年1月5日、イラク中部のカルバラ(シーア派聖地)ではイマーム・フセイン廟の付近で自爆テロで51人が死亡。ナジャフ(シーア派聖地)では路上の仕掛け爆弾で2人が死亡。イラク中西部ラマディ(スンニ派住民が多い)では警察官や国軍兵士の新規採用センターの近くで自爆テロが起き60人以上が死亡。バグダッドでも爆薬を積んだ自動車による3件の爆弾テロが相次ぎ2人が死亡、車に乗った米兵5人も仕掛け爆弾により死亡。
・2006年1月8日、イラク北部で米軍ヘリ墜落、12人死亡。

・2006年2月22日午後から23日朝にかけて、バグダッドの遺体安置所に銃撃された80遺体が運び込まれた。バグダッドの北方サマラにあるアスカリ聖廟(イスラム教シーア派の重要な聖地)が爆破されたことに対する報復が激化したものとみられる。シーア派とスンニ派の衝突激化による死者は24日までに200人以上に達したもよう。28日付の米紙ワシントン・ポスト(電子版)は、宗派間の衝突による死者は1300人超にのぼったと報じた。同紙はバグダッドの遺体安置所の記録を基に報道。死者の大半がスンニ派で、シーア派の対米強硬派指導者サドル師を支持する民兵の関与を示唆する証言が多い。多数の遺体が手を縛られ、サドル派民兵が家族を誘拐したと訴える人も多い。

・2006年3月12日、バグダッド北東部サドルシティー(イスラム教シーア派地区)の2カ所の市場で車爆弾が爆発するなどし40人以上が死亡。このほかにも、バグダッドで爆弾などによる攻撃で10人以上が死亡。
・2006年3月14日、首都バグダッドと北部モスルで計72人の射殺体が発見された。多くが手足を縛られていた。(AP通信によるとバグダッドで69遺体、モスルでは3遺体。)
・2006年3月27日、イラク北部モスル近郊のイラク軍新兵募集センターで自爆テロがあり、40人が死亡。
・2006年4月7日、バグダッド北部のイスラム教シーア派のモスク付近で、2件の爆発があり、79人が死亡、160人が負傷。警察当局者は自爆テロとしているが、迫撃弾が撃ち込まれたとの情報もある。
・2006年4月30日、イラク南部サマワの警察で、内務省の採用命令書を偽造して採用されたとして新人警官256人が解雇された。

・2006年4月30日、イラク北部の山地に潜伏するトルコのクルド人武装組織「クルド労働者党」(PKK)勢力に対し、イラン軍が砲撃を加えた上、国境から約5キロイラク領に入り攻撃した。
・2006年5月8日、トルコ軍の特殊部隊100人がイラク北部に越境し、クルド民族の独立国家樹立を目指す武装勢力、クルド労働者党(PKK)の掃討作戦を実施した。

・2006年5月13日から14日にかけ、バグダッドの国際空港付近を含むイラク各地で、合わせて10件以上の爆弾テロや銃撃事件が相次ぎ、41人が死亡。(ジバリ外相の護衛ら3人を含む。)
・2006年5月29日、イラク各地で、武装勢力の爆弾テロや攻撃が相次ぎ、計60人前後が死亡。
・2006年5月30日、イラク各地で、爆弾テロなどが相次ぎ、計54人が死亡。
・2006年6月3日、バグダッドで、武装集団がロシア大使館の車両を襲撃し、ロシア人外交官1人を殺害、大使館員4人を拉致した。4人は6月25日に殺害されたとみられる。

・2006年6月6日、マリキ首相は、テロリストや旧フセイン政権支持者だとの証拠が不十分なままイラク当局や駐留米軍が拘束している約2500人を順次釈放すると表明した。対象者の多くはイスラム教スンニ派で、政権運営のための懐柔策とみられる。
・2006年6月8日、イスラム教スンニ派の武装勢力「イラク聖戦アルカイダ組織」を率いるザルカウィ氏が、米軍の空爆により殺害された。しかし、「イラクの聖戦アルカイダ組織」とスンニ派武装組織「イラクのイスラム軍」は、武力闘争を続ける方針を表明した。

・2006年6月21日、イラクのバグダッド北方のタージで、帰宅途中だった国営工場の労働者80人以上が数十人の武装集団に拉致された。(乗っていた5台のバスごと連れ去られた。)
・2006年7月1日、バグダッド北東部にあるサドルシティー(イスラム教シーア派地区)の市場近くで、爆薬を積んだ自動車が爆発、71人が死亡、125人が負傷。また、同日、バグダッド北部で、スンニ派の国民議会議員の女性が、少なくとも7人の護衛とともに拉致された。
・2006年7月9日、バグダッド西部のジハード地区(スンニ派教徒が多い地区)で、覆面をしたイスラム教シーア派の武装集団が車で乗り込み、検問を装って身分証を出させ、スンニ派教徒であることを確かめた上で銃撃。民家にも押し入って殺害したもよう。子供や女性を含む約40人を殺害した。
・2006年7月17日、バグダッド南方のマハムディヤにある商店街で、爆薬を積んだ自動車が爆発、その後、武装集団が店や客に向け銃を乱射、42人が死亡。
・2006年7月23日、バグダッドと北部キルクークで、爆弾テロが相次ぎ、計64人以上が死亡。
・2006年8月13日、バグダッド南部で、イスラム教シーア派地区を狙った連続爆弾テロがあり、少なくとも47人が死亡、140人以上が負傷した。ロケット弾はスンニ派地区から発射されたもよう。
・2006年8月20日、バグダッドで、イスラム教シーア派の宗教行事に向かっていた巡礼者が武装勢力の攻撃を受け、20人が死亡、300人以上が負傷。スンニ派勢力の犯行との見方が強い。

(以降は未作成)


  (注:死傷者数や内容に、不正確な部分があるかもしれません。)

 参考文献
  LINK 日本経済新聞イラク情勢
  ほか



【戦闘終結宣言後の復興体制】
 まず、暫定政権樹立までの間、「復興人道援助室(ORHA)」を統括するアメリカのガーナー退役中将が、フランクス司令官の軍政下で米国人主導の臨時の行政機構を運営することとなった。
 さらに、「文民行政官」に国務省出身のポール・ブレマー氏が指名され、ブレマー氏を長とする「連合暫定施政当局」(CPA)が米英軍占領下でのイラクの暫定行政主体となり「復興人道援助室」(ORHA)はCPAに統合されると発表された。

 イラク側では、チャラビ代表が率いる反フセイン各派の連合体「イラク国民会議」(INC)を、アメリカは推そうとしている。また、クルド人組織のクルド民主党(KDP)とクルド愛国同盟(PUK)が首都に事務所を開設している。イラクの総人口の6割を占めるイスラム教シーア派のイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)は、米主導の政権づくりに反対しており、米軍が駐留する首都入りを避け、シーア派住民が多い中部や南部で支持固めに努めるとみられる。

 連合暫定施政当局(CPA)の下に「イラク統治評議会」が設置され、暫定政権が樹立されるまでの間の立法権と行政権が与えられた。イラク統治評議会のメンバーは合計25人で、内訳はイスラム教シーア派13人、同スンニ派5人、クルド人5人、その他2人。2003年7月13日に初会合が行われた。


 2004年6月1日、イラク暫定政権(選挙で本格政権が樹立されるまでの政権)の大統領にガジ・アル・ヤワル氏(スンニ派)、副大統領にイブラヒム・ジャアファリ氏(シーア派)と、ロウズ・シャウェス氏(クルド人)が選出された。
 これを受けて、先に選出されている首相(暫定政権の実質トップ)のイヤド・アラウィ氏(イスラム教シーア派)は、女性6人を含む閣僚名簿を発表し、暫定政権の体制が固まった。また、統治評議会は解散した。
 2004年6月28日、連合暫定施政当局(CPA)からイラク暫定政府に統治権限が移譲された。

 2004年6月1日、暫定政府の諮問・監督機関として「諮問評議会」(構成員100人)が設置され、立法府としての役割をになうこととなった。この諮問評議会は、イラク各派・各勢力の代表1200人から成る「国民大会議」によって選出された。


 2005年1月30日に、国民議会選挙(暫定国民議会)の投票が行われた。イスラム教スンニ派はボイコットの姿勢を強めたが、全体の投票率は58%に達した。これは、イラクで初めて行われた自由選挙となった。
 投票の結果、定数275人に対して、イスラム教シーア派政党連合「統一イラク同盟」が140議席を獲得し、単独過半数を確保した。次いでクルド系政党連合「クルディスタン同盟」が75議席、宗教色の薄い世俗政党連合「イラク人のリスト」は40議席、世俗政党「イラク人」は5議席などとなっている。スンニ派は多くの有権者が棄権した。
 暫定国民議会は、2005年3月16日から開催され、4月末になってやっと、大統領にジャラル・タラバニ氏(クルド人)、首相にイブラヒム・ジャファリ氏(イスラム教シーア派)を選出し、移行政権が成立した。

 暫定国民議会において、新憲法の草案づくりが進められたが、連邦制を主張するイスラム教シーア派とクルド人に対して、連邦制はイラクを分裂させるとして反対するイスラム教スンニ派が対立し、作業は難行した。期限とされていた2005年8月15日に間に合わず、翌月9月に連邦制を導入するとした最終案が提出された。

 2005年10月15日、新憲法案の是非を問う国民投票が行われた。治安当局は厳重な警備態勢を敷いたが、投票を妨害する活動があり、首都バグダッドでは大規模な停電が起き、一部では断水になった。憲法案に賛成するイスラム教スンニ派の一部を狙った攻撃も相次ぎ、14日にはバグダッドで投票所4カ所が銃撃を受けた。イラク北部でも送電設備を狙ったテロがあった。
 少数派のスンニ派の一部が連邦制導入の明記に反発して反対投票を呼び掛けたが、多数派のシーア派とクルド系に支持され、2005年10月25日に最終的な投票結果が発表され、新憲法案が承認された。
 イラク基本法(暫定憲法)が定めた承認の条件は次の2点、
(1)全18州合計で過半数が賛成する
(2)反対票が3分の2以上の州が3州に達しない
であったが、反対が3分の2以上だった州は中・北部のスンニ派2州(アンバル、サラハディン)で、スンニ派が多い北部ニナワ(ニネベ)州は反対票が55%にとどまった。
 最終的な投票結果が発表された翌日(10月26日)、ザルカウィ容疑者が率いるイスラム教スンニ派の武装組織「イラクの聖戦アルカイダ組織」は、新憲法を拒み、移行政府へのテロを継続すると表明した。

 2005年10月16日、イラク移行政府は、大統領令で次期総選挙を12月15日に実施すると決めた。
 2005年12月6日、イスラム教スンニ派有力組織「イラク・イスラム聖職者協会」は、国民議会選挙への不参加を表明した。幹部のクバイシ師は記者会見で「(米英の)占領下での政治プロセスには加わらない」と言明。一方、「投票するかどうかは有権者の選択を尊重する」と指摘した。人口の2割を占めるスンニ派は同協会が支持基盤とされてきたイラク・イスラム党など有力政党がこぞって国民議会選挙に参加を表明した。
 2005年12月15日、イラク国民議会選挙投票日。首都バグダッドなどでは武装勢力の攻撃とみられる爆発音が聞かれ、一部死傷者も出たが、選挙に大きな支障はなかった。

 2006年2月10日、イラク独立選挙管理委員会は、昨年12月15日に実施した国民議会(定数275人)選挙の最終結果を発表。第1党はイスラム教シーア派宗教勢力「統一イラク同盟(UIA)」128議席。2位はクルド系「クルド同盟」(53議席)、以下、イスラム教スンニ派「イラクの調和」(44議席)、世俗派「イラク国民リスト」(25議席)、スンニ派「国民対話戦線」(11議席)など。
 開票の最終結果はまだ確定していなかった2006年1月2日の時点で、発足予定の本格政府(暫定政府、移行政府に続く正式政府である)は第1党(見込)のシーア派宗教勢力「統一イラク同盟」と第2党(見込)でクルド系の「クルド同盟」を軸にした連立政権が運営する見通しとなり、議席数の上位4陣営を次期政権に参加させることで合意した。第3党が確実なイスラム教スンニ派「イラクの調和」は、次期政権に参加することで基本合意し、第4党(見込)の世俗「イラク国民リスト」を率いるアラウィ前首相もクルド自治区に入り連立協議を始めたもよう。

 2006年2月24日、イラクの政治各派の指導者は、国民議会の日程について移行政府のタラバーニ大統領と協議し、期限とされた2月25日の初招集を見送ることを決めた。イスラム教シーア派とスンニ派の武力衝突が激化しているため(上記囲みの「主な事件」を参照のこと)。
 2006年3月16日、延期されていたイラク国民議会(正式な国民議会・定数275)を初めて開催したが、正副議長も決められず初日の討議を30分で打ち切った。
 「統一イラク同盟(UIA)」は、ジャファリ現首相(シーア派)の続投を支持していたが、他の陣営の反対で調整がつかず、これを撤回してジャワド・マリキ氏(シーア派)を次期首相候補とした。
 イラク国民議会は2006年4月22日、本格政府樹立に向けた審議を再開し、象徴的な国家元首の大統領には第2党のクルド系「クルド同盟」幹部タラバーニ現移行政府大統領を再選。大統領は次期首相としてイスラム教シーア派のジャワド・マリキ氏を指名した。
 2006年5月20日、イラク国民議会は、マリキ首相が提出した閣僚名簿を賛成多数で信任。移行政府に代わる本格政府が発足した。政権は人口の6割を占めるシーア派が主導し、同教スンニ派、クルド系など主要民族・宗派をほぼ満遍なく閣内に取り込んだ。本格政府の発足とともに前年10月の国民投票で承認された新憲法が発効した。


【復興支援】
 アメリカのほかにも各国がイラクの復興支援のために軍隊を派遣しているほか、経済的支援も行われているが、テロや武装攻撃が続いており、思うように復興が進んでいない状況にある。
 原油の産出量も、イラク戦争前の水準に比べ低下している。2006年1月3日のイラクの石油当局者の発表によると、2005年のイラクの原油輸出量は前年比4.7%減の5億800万バレルで、イラク戦争前の水準に比べ約36%の減少であった。


【日本の自衛隊派遣】
 日本政府も自衛隊を派遣することを2003年12月9日に閣議決定した。派遣想定期間は「2003年12月15日から1年間」で、別途決定することとされた。自衛隊の先遣隊が派遣され、本体の受入準備を行い、派遣予定地のサマワの状況を視察した後、2004年1月26日に自衛隊本体の派遣命令が出た。
 その後、陸上自衛隊のサマワ駐留は延長されていたが、サマワが含まれるムサンナ州の治安権限を2006年7月からイラク側へ委譲することが決まったことを受け、陸上自衛隊は2006年7月17日までにイラクからの撤退を完了した。ただし、航空自衛隊については、イラクでの物資輸送を継続するとともに、輸送ルートが拡大される。



【アメリカ軍による虐待など】
 テロ活動に関与したと疑われる者などが、アメリカ軍などによって拘束されて、イラク国内のアブグレイブ刑務所や、キューバのグアンタナモ米軍基地に設置した施設に収容され取り調べを受けている。欧州にも同様の施設があるもよう。
 これについて、アメリカ政府はテロとの戦いにおいて必要なことであるとしているが、司法制度に基づいておらず(逮捕状がなく、弁護士も認められないなど。)、捕虜としても扱われていない。開放された者もいるが、疑惑の晴れないまま長期間拘束されている者も相当数いるとみられる。また、収容所のアメリカ兵による虐待事件が起こっていることや、自殺者が出ているなど、人権を無視しているとして問題になっている。

 2006年6月29日、アメリカ連邦最高裁は、キューバのグアンタナモ米軍基地に設置した特別軍事法廷でテロ容疑者を裁くことの正当性を認めず、米国内法とジュネーブ条約に違反するとの判決を下している。
 グアンタナモ基地の収容施設についても、欧州連合(EU)諸国から閉鎖を要求する声が高まっている。

 2006年9月3日のNHK BSニュースによると、アブグレイブ刑務所は、2006年8月15日にイラクへ返還され、現在の収容者はなく、閉鎖される見込みだという。

 また、イラク駐留米軍の兵士による民間人の殺害や強姦など、数件の疑惑が浮上しており、調査がおこなわれている。





【地図】
イラクの地図、バグダッド周辺の地図


【参考ページ】
当サイトのリンク集・報道関係


【LINK】
LINK イラク戦争−Wikipedia
LINK Category:イラク戦争−Wikipedia
LINK イラク日本人人質事件−Wikipedia
LINK 日本政府外務省各国・地域情勢イラク共和国イラク概況イラク関係
LINK 森住 卓 ホームページ
LINK YouTube ≫ 最悪な間違いだった...(目覚めはじめたアメリカ兵)
LINK 産経ニュース【日々是世界】イラクで市民殺害 米民間軍事会社員に有罪(2014年11月15日付の記事)
LINK 極東ブログブラックウォーター事件メモ(2007年10月8日付)





参考文献
LINK 日本経済新聞特集 イラク情勢
LINK 共同通信対イラク武力行使(リンク切れ)
LINK asahi.com(朝日新聞)ニュース特集イラク戦争(リンク切れ)
LINK Yahoo!ニュース・トピックス海外トピックスイラク戦争
LINK 読売新聞
LINK イラク統治評議会−Wikipedia
LINK 公明党デイリーニュース2004年8月30日付 「イラク民主化 暫定立法府発足で新段階へ」
LINK サッダーム・フセイン−Wikipedia
LINK サッダーム・フセインの死刑執行−Wikipedia
「朝日現代用語 知恵蔵2006 」朝日新聞社、2006.1.1 から「中東」高橋和夫著
北海道新聞2004年2月12日朝刊
2006年9月3日のNHK BSニュース
その他ニュース報道
「20世紀全記録」講談社、1987年
「クロニック 世界全史」講談社、1994年


更新 2014/11/28

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