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「 般 若 心 経 」

 パソコンで写経
 パソコンで写経したっていいじゃない。というわけで、なぜか般若心経のページを作ってしまいました。一行づつかみしめていきたいと思いますので、ゆるゆると行きます。

【 漢  文 】 【 和  文 】
   摩訶般若波羅蜜多心経
(まかはんにゃはらみつたしんぎょう)
   摩訶般若波羅蜜多心経

 「はんにゃしんきょう」をパソコンで変換すると「般若新教」になってしまいました。ん?と思ったら、やはり「般若心経」が正解。心のお経ということですね(合ってるかな?)。参考文献によると、「はんにゃしんぎょう」と書いてある。これだときちんと「般若心経」に変換されました。
 はたまた、正式名称は、「摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみつたしんぎょう)」となっています。(知らなかった。)
1999/1/17

 原典は梵語で書かれており、それが漢訳されたものが「般若心経」で、現存する漢訳は8種類もあるそうです。
 「般若心経」のもととなっているのは、「大般若教」で600巻もあり、その精神の神髄を伝えたのが「般若心経」だそうです。
 「摩訶般若波羅蜜多心経」とは、
   「摩訶」=梵語の「マハー」=大
   「般若」=梵語の「プラジャニー」=知恵(深い意味で)
   「波羅蜜多」=梵語の「パーラミター」=到彼岸=悟りの境地に到る
   「心」(漢訳)=人間の心、自分の心、そして「大般若経」の心(神髄)
   「経」(漢訳)=梵語の「スートラ」=常住不変の義(永遠に変わることのない法)
 といったところでしょうか。もっと奥は深いはずですが・・・・
 「摩訶般若波羅蜜多心経」
更新 1999/6/4 (当初 1999/3/13)



観自在菩薩
(かんじざいぼさつ)
観自在菩薩

 「観自在菩薩」=「観世音菩薩」=「観音さま」
 世の中の多くの人々から観られつつ、多くの人を観て救うはたらきが自由自在な菩薩さま
 世の人々の苦しみ悩む音声(おんじょう)を観察して、かれらの苦悩を救う菩薩さま
 観自在菩薩が、
更新 1999/6/4 (当初 1999/3/13)



行深般若波羅蜜多時
(ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
深般若波羅蜜多を行じし時

 「般若波羅蜜多」は、先に記載した「知恵・到彼岸」。
 「到彼岸の知恵」にも「浅」と「深」がある。空を求めて色を否定する「色即是空」だけでは「浅」。色を全うして空を見る「空即是色」になって「深」。
 「行じし」は、特別の修行をするというよりは、日常の生活のなかでの行いを指す。
 深い般若波羅蜜多を行じし時
更新 2007/6/7 (当初 1999/3/27)



照見五蘊皆空
(しょうけんごうんかいくう)
五蘊皆空なりと照見し

 「五蘊」は、色・受・想・行・識の5つの蘊。蘊(うん)は「集まり」。
   色蘊は、物質的構成要素(肉体を含む)。
   受蘊は、感受作用(見る、聞く、触るなど)。
   想蘊は、表象作用(心に想うこと)。
   行蘊は、意志作用(能動的なはたらき)。
   識蘊は、識別する作用(分別、判断)。
 「空」は、なにもないこと。
 五蘊はすべて空であるとお見通しになった。
1999/6/3



度一切苦厄
(どいっさいくやく)
一切の苦厄を度したまう

 「苦」は、苦しみ。「厄」は禍い。
 「度」は渡すこと(苦の岸から、楽の岸へ渡す。)
 すべての苦厄から、ときはなたれた。
1999/6/3



舎利子
(しゃりし)
舎利子

 「舎利子」は、仏陀の十大弟子の一人「シャーリプトラ」の漢字名。
 観自在菩薩が、呼びかけた人。(仏が説法するときに、聴衆のなかからだれか一人を選んで語りかける例にならっている。)
 シャーリプトラは、バラモン族の出とされており、バラモン教の聖典である「ヴェーダ」を学び、伝統的な学芸すべてに通じていたが、仏陀の弟子アッサジのすがすがしい姿を見て、仏教に帰依した。
 智恵第一と称せられた。
 舎利子よ
1999/6/4



色不異空
(しきふいくう)
色は空に異ならず

 「色」は、形あるもの、森羅万象のすべて。
 「空」は、なにもないこと。
 形あることは、なにもないことと異ならない
1999/6/16



空不異色
(くうふいしき)
空は色に異ならず

 なにもないことは、形あることと異ならない
1999/6/16



色即是空
(しきそくぜくう)
色は即(すなわ)ち是(こ)れ空なり

 「色」を意味のないものとして全面的に否定するのではない。一切のものがそのままありながら、空であるとする。
 形あることは、そのまま、なにもないことでもある。
1999/6/16



空即是色
(くうそくぜしき)
空は即(すなわ)ち是(こ)れ色なり

 なにもないことは、そのまま、形あることでもある。
1999/6/16



受想行識
(じゅそうぎょうしき)
受想行識

 「五蘊」は、前に述べたように、色・受・想・行・識の5つの蘊。
   色蘊は、物質的構成要素(肉体を含む)。
   受蘊は、感受作用(見る、聞く、触るなど)。
   想蘊は、表象作用(心に想うこと)。
   行蘊は、意志作用(能動的なはたらき)。
   識蘊は、識別する作用(分別、判断)。
 「色」以外の「受想行識」。
 受想行識
更新 1999/10/10 (当初 1999/6/16)



亦復如是
(やくぶにょぜ)
またかくのごとし

 もまた同様である。
1999/6/16



舎利子
(しゃりし)
舎利子

 前出(6行目)。
 舎利子よ
1999/10/10



是諸法空相
(ぜしょほうくうそう)
この諸法は空相なり

 「法」には、教法、規範、理想、真理、物などの意味があるが、ここでは「物」と解する。
 「相」は、すがた、ありよう、あい対する関係。
 この諸法は、空の相(すがた)である
1999/10/10



不生不滅
(ふしょうふめつ)
不生不滅

 生ずるのでもなく、滅するのでもない。
1999/10/10



不垢不浄
(ふくふじょう)
不垢不浄

 「垢」は、汚れていること。「浄」は、清らかなこと。
 汚れているのでもなく、清らかでもない。
1999/10/10



不増不減
(ふぞうふげん)
不増不減

 増えるのでもなく、減るのでもない。
1999/10/10



是故空中無色
(ぜこくうちゅうむしき)
是(こ)の故(ゆえ)に空の中に色もなく

 「空中」は、「実態がないという立場においては」という意。
 「色」は、先にあったように、「色蘊」=物質的構成要素(肉体を含む)であり、「形あるもの、森羅万象のすべて」を指す。
 このゆえに、実態がないという立場においては、色もなく、
1999/10/31



無受想行識
(むじゅそうぎょうしき)
受・想・行・識もなく、

 「五蘊」は、前に述べたように、色・受・想・行・識の5つの蘊。
   色蘊は、物質的構成要素(肉体を含む)。
   受蘊は、感受作用(見る、聞く、触るなど)。
   想蘊は、表象作用(心に想うこと)。
   行蘊は、意志作用(能動的なはたらき)。
   識蘊は、識別する作用(分別、判断)。
 「色」以外の「受想行識」。
 受・想・業・識もなく、
更新 2001/5/4 (当初 2000/3/11)



無眼耳鼻舌身意
(むげんにびぜつしんい)
眼・耳・鼻・舌・身・意もなく、

 眼・耳・鼻・舌・身・意を「六根」という。根は、根茎、根本といった意味。
 「六根」によって、次に出てくる「六境」色・声・香・味・触・法を認識する。
   眼根は、眼で、「色」を見る。
   耳根は、耳で、「声」を聞く。
   鼻根は、鼻で、「香」を嗅ぐ。
   舌根は、舌で、「味」を味わう。
   身根は、身で、「触」に触れる。
   意根は、意識で、「法」(さまざまなこと)を考える。
 空の立場(実態がないという立場)においては、「六根」もない。
 眼・耳・鼻・舌・身・意もなく、
2000/3/11



無色声香味触法
(むしきしょうこうみそくほう)
色・声・香・味・触・法もなく、

 色・声・香・味・触・法を「六境」という。
 先に出てきた「六根」によって、この「六境」を認識する。
 空の立場(実態がないという立場)においては、「六境」もない。
 色・声・香・味・触・法もなく、
2000/3/11



無眼界
(むげんかい)
眼界もなく、

 眼・耳・鼻・舌・身・意の「六根」〜認識する器官、
 色・声・香・味・触・法の「六境」〜認識する対象、
 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の「六識」〜認識作用。
 「六根」と「六境」を合わせて「十二処」。
 さらに、「六識」を加えて「十八界」となる。
 「界」とは、「人間存在の構成要素」といった意味です。
 「十八界」を全て並べると、次ぎのとおり。
 眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界・色界・声界・香界・味界・触界・法界・眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界
 「十八界」の初めが、「眼界」。
 眼界もなく、
2000/11/19



乃至無意識界
(ないしむいしきかい)
乃至意識界もなし。

 「十八界」の最後が、「意識界」。
 それから意識界まで、もない。
更新 2001/3/11 (当初 2000/11/19)



無無明
(むむみょう)
無明もなく、

 「無明」は、原始仏教の根本の教えである「十二縁起」(「十二因縁」ともいう。)の十二のうち、最初の項目である。
 「十二縁起」は、次のとおり。
  (1) 無明 むみょう(無知)
  (2) 行 ぎょう(潜在的形成力)
  (3) 識 しき(心作用、認識作用)
  (4) 名色 みょうしき(精神と肉体、名称と形態)
  (5) 六入 ろくにゅう(六つの感覚器官、眼、耳、鼻、舌、身、意)
  (6) 触 そく(心が対象と接触すること)
  (7) 受 じゅ(感受作用)
  (8) 愛 あい(愛欲、妄執)
  (9) 取 しゅ(執着)
  (10) 有 う(生存)
  (11) 生 しょう(生まれていること、生きること)
  (12) 老死 ろうし(老いゆくこと、死ぬこと)
 「無明」があるから「行」があり、「行」があるから「識」があり、・・・・「生」があるから「老死」がある、とみるのが「順観」である。
 逆に、「無明」がなければ「行」もなく、「行」がなければ「識」もなく、・・・・「生」がなければ「老死」もない、とみるのが「逆観」である。
 「順観」からみれば、「無明」から展開していく苦の人生のすがたがあり、「逆観」からみれば「無明」もなく「老死」もない悟りの世界がある。
 無明もなく、
2001/11/28



亦無無明尽
(やくむむみょうじん)
また無明の尽くることもなく、

 また無明の尽きることもなく、
2001/11/28



乃至無老死
(ないしむろうし)
乃至老死もなく、

 「老死」は、上記の「十二縁起」の最後の項目である。
 それから老死まで、もなく、
2001/11/28



亦無老死尽
(やくむろうしじん)
また老死の尽くることもなく、

 また、老死が尽きることもなく、
2001/11/28



無苦集滅道
(むくしゅうめつどう)
苦集滅道もなし。

 「苦集滅道」は、原始仏教の根本の教えである「四諦(したい)」を指す。
 「四諦」は「十二縁起」とともに、原始仏教の根本の教えである。
 「諦」は梵語(サンスクリット)の「サティア」で、真理、真実を意味する。
 四諦は次の4つ。
  (1) 苦諦 くたい
   ・人生は苦であるという真理
  (2) 集諦 じつたい
   ・苦悩の原因は人間の欲望や愛着の心にあるという真理。
   ・集めたもの、財宝などへの愛着が苦悩の原因となる。
  (3) 滅諦 めつたい
   ・苦悩の原因である煩悩が完全になくなった状態。
   ・仏教の目指す理想境は涅槃にあるという真理。
  (4) 道諦 どうたい
   ・理想境である涅槃に到達するための実践方法を説いたもの。
   ・具体的には八正道(はっしょうどう)を指す(八聖道ともいう。)。
   ・八正道は仏教での修行の基本となる、次の八つの実践徳目である。
       正見(正しい見解)
       正思惟(正しい決意)
       正語(正しい言葉)
       正業(正しい行為)
       正命(正しい生活)
       正精進(正しい努力)
       正念(正しい思念)
       正定(正しい瞑想)
 苦集滅道もない。
2001/11/28



無智亦無得
(むちやくむとく)
智もなく、また得もなし

 智もなく、また得もない。
2001/12/1



以無所得故
(いむしょとくこ)
得る所無きを以ての故に

 得る所なきを以ての故に。
2001/12/1



菩提薩[土垂]
(ぼだいさつた)
菩提薩[土垂]は

 [土垂]は、パソコンに無い文字を、偏(へん)と旁(つくり)の二文字で表した。
 「菩提薩[土垂]」は、パーリ語の「ボーディサッタ」、梵語(サンスクリット)の「ボーディサットゥヴァ」の音を写した語。
 「観自在菩薩」の「菩薩」は、この「菩提薩[土垂]」を略したものといわれている。
 意味は、悟りを求めて修行する人、仏になろうと志す人。
 菩提薩[土垂]は、
2001/12/1



依般若波羅蜜多故
(えはんにゃはらみつたこ)
般若波羅蜜多に依るが故に

 「般若波羅蜜多」は、初めに記したように、「到彼岸の知恵」、「悟りの知恵」の意味である。
 般若波羅蜜多に依るが故に、
2001/12/1



心無[四圭][石疑]
(しんむけいげ)
心に[四圭][石疑]なし

 [四圭]は、パソコンに無い文字を、冠(かんむり)と旁(つくり)の二文字で表した。
 [石疑]は、パソコンに無い文字を、偏(へん)と旁(つくり)の二文字で表した。
 「[四圭][石疑]」は、仏教の言葉で、「こだわり」、「さまたげ」、「わだかまり」といった意味である。
 心にこだわりなし。
2001/12/1



無[四圭][石疑]故
(むけいげこ)
[四圭][石疑]無きが故に

 こだわりがない故に、
2001/12/4



無有恐怖
(むうくふ)
恐怖有ること無し

 「恐怖」は、仏教では「くふ」と読む。恐れおののくこと。
 恐れることがない。
2001/12/4



遠離一切顛到夢想
(おんりいっさいてんどうむそう)
一切の顛到夢想を遠離して

 「顛到」は、是を非とし、非を是とみなすこと。
 仏教では、次の4つの「顛到」があると説く。
  (1) 常顛到 無常である自分の命・身体が、いつまでも元気でいられるという錯覚
  (2) 楽顛到 苦に満ちた世の中で、人生は楽であると見る錯覚
  (3) 我顛到 無我の身である自分を、我ありと見る錯覚
  (4) 浄顛到 汚れた身である自分を、清浄なりと見る錯覚
 「夢想」は、これらの誤った考えを、夢のように想い描くこと。
 「遠離」は、遠ざけること。
 一切の顛到夢想を遠ざけて、
2001/12/4



究竟涅槃
(くきょうねはん)
涅槃を究竟する

 「究竟」は、きわめつくすこと、到達すること。
 「涅槃」は、パーリ語の「ニッバーナ」、梵語(サンスクリット)の「ニルヴァーナ」の音を写した語で、迷いのない境地、心の安らぎの状態を意味する。
 「涅槃を究竟す」と訳すが、「究竟して涅槃す」と読むこともできる。
 涅槃をきわめつくす。
2001/12/4



三世諸佛
(さんぜしょぶつ)
三世諸佛

 「三世」は、過去、現在、未来の三世。
 「佛」は、「仏」で、悟った者、真理に目覚めた人。
 「諸佛」とは、釈迦仏(=ゴータマ・ブッダ)のほか、阿弥陀仏、弥勒仏、薬師仏など、もろもろの仏を指す。
 三世の時間を越えて常住する諸仏。三世にわたってあるさまざまな仏さま。
 三世の諸仏も、
2001/12/5



依般若波羅蜜多故
(えはんにゃはらみったこ)
般若波羅蜜多に依るが故に

 同文が、前に出ているので参照のこと。
 般若波羅蜜多に依るが故に、
2001/12/5



得阿耨多羅三藐三菩提
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり

 「阿耨多羅三藐三菩提」は、梵語(サンスクリット)の「アヌッタラーサミヤックサムボーディ」の音を写した語で、「この上ない正しいさとり」を意味する。漢訳では、「無上正等覚」と記す。
 阿耨多羅三藐三菩提を得られた。
2001/12/5



故知般若波羅蜜多
(こちはんにゃはらみつた)
故に知るべし、般若波羅蜜多は

 故に知るべし、般若波羅蜜多は、
2001/12/6



是大神咒
(ぜだいじんしゅ)
これ大神咒なり

 「咒(呪)」の原語は梵語(サンスクリット)の「マントラ」で、インドの『ヴェーダ』では、神々への賛歌、祭詞、歌詠といった意味に用いられている。ここでは、「真言」と訳します。
 「大神咒」は、「偉大にして神聖なる真言」といった意味。
 「是=これ」が指すものは、般若波羅蜜多(「到彼岸の知恵」)である。
 これ大神咒なり。
2001/12/6



是大明咒
(ぜだいみょうしゅ)
これ大明咒なり

 「明」は、「明るいこと」「ものごとがよく見えること」「知」を意味する。
 これ大明咒なり。
2001/12/6



是無上咒
(ぜむじょうしゅ)
これ無上咒なり

 「無上咒」は、「この上ない真言」といった意味。
 これ無上咒なり。
2001/12/6



是無等等咒
(ぜむとうどうしゅ)
これ無等等咒なり

 「無等等咒」は、「等しいもののない最上の真言」といった意味。
 これ無等等咒なり。
2001/12/6



能除一切苦
(のうじょいっさいく)
能く一切の苦を除き

 能く一切の苦を除き、
2001/12/7



真実不虚
(しんじつふこ)
真実にして虚ならず

 真実であって虚ではない。
2001/12/7



故説般若波羅蜜多咒
(こせつはんにゃはらみつたしゅ)
故に般若波羅蜜多の咒を説く

 「咒(呪)」は、前出のとおり、「真言」である。
 故に般若波羅蜜多の咒を説く。
2002/1/3



即説咒曰
(そくせつしゅわつ)
すなわち、咒を説いて曰わく

 すなわち、咒を説いて曰わく。
2002/1/3



羯諦
(ぎゃてい)
羯諦

 「羯」の字は、本来は、右側の下の部分が「ヒ」となっていますが、パソコンで出ないので「羯」を使わせてもらいます。以下に出てくる「羯」も同じ。
 ここの「羯諦」から「菩提薩婆訶」までは、梵語(サンスクリット)の発音をそのまま漢字で表して、呪文としたものである。
 「羯諦」の意味は「行ける者よ」である。
 羯諦。
2002/1/3



羯諦
(ぎゃてい)
羯諦

 「行ける者よ」
 羯諦。
2002/1/3



波羅羯諦
(はらぎゃてい)
波羅羯諦

 「波羅羯諦」の意味は「彼岸に行ける者よ」。
 波羅羯諦。
2002/1/3



波羅僧羯諦
(はらそうぎゃてい)
波羅僧羯諦

 「波羅僧羯諦」の意味は「彼岸に全く行ける者よ」。
 波羅僧羯諦。
2002/1/3



菩提薩婆訶
(ぼじそわか)
菩提薩婆訶

 「菩提薩婆訶」の意味は「悟りよ、幸あれ」。
 菩提薩婆訶。
2002/1/3



般若心経
(はんにゃしんぎょう)
般若心経

 般若心経。
2002/1/3



 




【LINK】
LINK 般若心経 - Wikipedia
LINK Wikisource般若心経(現代語訳) - Wikisource
(注:ウィキソース (Wikisource) は、ウィキペディアの姉妹プロジェクト。)
LINK 教えて!goo般若心経の意味が、よく理解できません
LINK YouTube ≫ 般若心経
LINK YouTube ≫ 般若心経 ダライ・ラマ法王北九州講演開会式
LINK YouTube ≫ ご詠歌 三宝和讃 ダライ・ラマ法王北九州講演開会式
LINK YouTube ≫ 観音寺の大施餓鬼会修行での太鼓の演奏と般若心経:No.3
LINK YouTube ≫ 初音ミクアレンジ「般若心経ロック」
LINK YouTube ≫ ヒーリング般若心経 Heart Sutra (サンスクリット/梵語/ Sanskrit) Todo
LINK YouTube ≫ 般若心経 Heart Sutra 〜サンスクリット、チベット、アジア各国言語チャンティ...
LINK YouTube ≫ YouTubeを「般若心経」で検索
LINK YouTube ≫ 【魔都見聞録】お盆なので、ちょっとだけチベット仏教の人生観[桜 H21/8/15]
LINK piicats index仏教の勉強室秘密曼荼羅十住心論

LINK 常明院(寺尾慈教)法要の声と映像 (リンク切れ)



参考文献
「般若心経講話」鎌田茂雄著、講談社学術文庫、1986年
「あなただけの般若心経」阿部慈園著、中村元監修、小学館、1990年
「広辞苑 第二版」新村出編、岩波書店、1955年


更新 2013/7/29(完 2002/1/3)

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