【 国 】 |
アフガニスタン(Afghanistan) |
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【世界遺産】 | ||
2002 ジャムのミナレットと考古遺跡群(危機遺産) (Minaret and Archaeological Remains of Jam) |
UNESCO | TBS |
2003 バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(危機遺産) (Cultural Landscape and Archaeological Remains of the Bamiyan Valley) |
UNESCO | TBS |
【 歴 史 】 シルクロードの中心に位置し、古くから、文化交流の中継地、諸勢力の緩衝地帯となってきた。 紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、ゾロアスター教も伝えられた。 紀元前4世紀、アレクサンドロス大王に征服され、ヘレニズム文化がもたらされた。アーリヤ、アラコシア、バクトリアなどにアレクサンドリアと呼ぶ都市を築いたが、それらは現在、ヘラート、カンダハール、バルフとして残っている。 紀元前3世紀中頃、ギリシャ人の建てたバクトリア王国に支配された。 紀元後1世紀、クシャナ朝がこの地を中心に成立し、2世紀なかばには、カニシカ王のとき最盛期をむかえた。首都プルシャプラを中心に、アフガニスタンからパンジャブ地方にかけて支配し、東西文化の交流、仏教の保護(大乗仏教が興起)、ガンダーラ美術の発展などが行われた。 4世紀には、大部分がササン朝ペルシャの支配下におかれた。 7世紀からイスラムの進出がはじまった。9〜10世紀にはイラン系のイスラム王朝ターヒル朝、次ぎにイラン系のサッファール朝、サーマン朝が支配、10世紀にはトルコ系のガズナ朝が支配した。 13世紀には、モンゴルの侵入があり、ヘラート、バルフ、ガズナなどの都市が破壊された。 14世紀には、ティムールに支配された。16世紀はじめにティムールの子孫バーブルがインドに進出しムガル帝国を建設した。その後、アフガニスタンは、ムガル帝国とイランのサファヴィー朝の勢力が交錯する場となった。 1747年、アフマド・シャーがドゥッラーニー朝を建てた。都市カブールを中心とするアフガン人の独立王朝である。 1826年、バラクザイ王朝が成立。(〜1973年) イギリスはロシアのアフガニスタンへの南下を恐れて、アフガニスタンへの進出を図り、1838〜1842年の第一次アフガン戦争、1878〜1881年の第二次アフガン戦争を行って、保護国化した。しかし、ロシア革命後の1919年の第三次アフガン戦争でイギリスはアフガニスタンに敗れ、アフガニスタンは独立を確保した。 1933年に即位したザーヒル・シャーは、第二次世界大戦を切り抜け、戦後も中立路線を堅持して、経済開発や女性解放などの近代化を進め、1964年には新憲法を制定して立憲君主制を樹立した。 1973年、ソ連の支持を得たアフガニスタン人民民主党が無血クーデターに成功し、ダーウド元首相を立てて共和制に移行した。ザーヒル・シャー国王は国外追放となった。 1978年、ダーウド政権が経済・社会の近代化を進めてイラン・アメリカへの傾斜を強めると、親ソ派軍部がクーデターを起こし共産党政権のタラキー政権を樹立させた。ソ連と友好善隣協力条約が締結されたが、急進的な土地改革や社会改革は、伝統的な部族社会の反発をまねき、イスラム指導者や部族有力者は政府に対してジハード(聖戦)を展開し、全土でゲリラ戦が繰り返された。 1979年、タラキー政権の後を継いだアミーン政権がソ連と距離をおく政策を取ろうとしたが、ソ連は軍事介入してアミーンを処刑してカルマル政権を発足させた。この軍事介入は国際的な非難をあび、国内では反政府ゲリラが一層活発化した。ソ連軍の軍事的支援にもかかわらず政府軍は苦戦を続け、数百万人の難民がイランやパキスタンへ流失した。 1986年、カルマル政権は失脚し、ナジブラ政権が成立して、国民和解策を取った。 1988年、ソ連のゴルバチョフはアフガニスタン和平協定に合意し、1989年にソ連軍の撤退が完了した。ソ連軍の撤退後も、ナジブラ政権と反政府ゲリラとの内戦が続いた。 1991年、アメリカとソ連の両国はアフガニスタン国内諸勢力への武器供与打ち切りに合意した。 1992年、主要都市を支配下に置いたゲリラ各派が首都カブールへ進駐した。ゲリラ組織各派からなる暫定評議会へ政権が委譲され、暫定評議会のラバニ議長が大統領となった。1993年6月に暫定内閣が発足したが、ゲリラ内の対立は解消せず、ゲリラ各派の戦闘も続いた。 1994年ころから、イスラムへの回帰を訴えるタリバーン(神学生の意)が勢力を伸ばし、1996年9月に首都カブールを制圧した。1996年10月には、ラバニ派、ハリリ派、ドストム派が反タリバーン派を結成し、対立が続いた。 2001年9月、アメリカで同時多発テロが発生した。アメリカ政府はタリバーン政権に対し、事件の首謀者とされるオサマ・ビン・ラーデン氏の引き渡しを求めたが、タリバーン政権は応じなかった。この時点で、タリバーンは、国土の約9割を支配していたとみられる。オサマ・ビン・ラーデン氏は、在ケニア、タンザニア米大使館爆発事件の首謀者ともみられている。 アメリカをはじめとする国際社会は、タリバーン政権に対して厳しい姿勢で臨み、2001年10月7日には、アメリカ・イギリス軍がアフガニスタンへの空爆を開始した。11月13日、アフガニスタン国内の反タリバーン勢力である北部同盟が首都カブールを制圧し、12月7日には、タリバーン政権は完全に崩壊した。 2001年12月22日、国連の仲介でアフガニスタン国内外の四派が合意した暫定行政機構(内閣)が発足した。アフガニスタン最大の民族であるパシュトゥン人の有力者ハミド・カルザイ氏が同機構議長(首相)に就任し、暫定政権を率いる。 2002年6月11日〜19日に、緊急ロヤ・ジェルガ(国民大会議、伝統的な諮問機関)が開かれ、カルザイ暫定政権議長がアフガニスタン移行政権の首班に選出された。 このあと、移行政権設立後18か月以内に憲法制定ロヤ・ジェルガを招集し、緊急ロヤ・ジェルガ開催から2年以内の選挙を経て、国民を完全に代表する政権を樹立する予定になっている。 参考文献 「クロニック世界全史」講談社 「年表式世界史小辞典」文英堂 「改定新版 世界史辞典」数研出版 日本政府外務省 ≫ 各国・地域情勢 ≫ アフガニスタン ≫ アフガニスタン概況(平成15年2月20日) KYODO NEWS ≫ アフガン情勢 ≫ 米同時テロ報復攻撃 ピース ウィンズ・ジャパン ≫ 研究室 ≫ アフガニスタンの歴史 |
更新 2004/9/1 |