土井組の歴史

  土井組が結成されて、既に10年以上が経過しようとしています。その歴史について語るときに無くてはならない文献が、この程発見されました。土井組発祥の地である、今は亡きレッドロブスター茅ヶ崎店のバイト卒業者向けに毎年発行していた卒業文集に、私がこのバイトを卒業するときに投稿した卒業論文です。この文献は、今のようにPCが普及していなかった時代に、当時ワープロ専用機で作成したものです。ところが、この文献はつい最近まで、その文書を格納したフロッピーディスクはおろか、その卒業文集でさえ紛失した状態でした。ところが、先日書類整理していたときに、偶然にも文集が本の隙間に挟まっているのを発見しました。自分で言うのも何ですが、この卒業文集の完成度はすばらしい物で、当時は主宰の土井氏や他の方々に絶賛されたものでした。その頃私は実際に大学の4年生で、本物の卒業論文よりも一生懸命作った記憶があります。この論文を何とか、このホームページに載せようと、最新の技術を駆使して(?)スキャナー+OCRソフトで論文のテキストデータをPCに取り込んで忠実に再現したのが下記の文章です。

この論文は以下の6つの章で構成されています。クリックすると、それぞれの章へジャンプすることができます!
    T クローズGO原始時代〔紀元前300年〜1987年〕
    U クローズGO封建社会時代〔1987年6月〜1988年2月〕
    V クローズG〇創世時代〔1987年2月〜1988年7月〕
    W クローズGO全盛時代【前期】〔1988年7月〜1989年3月〕
    V クローズGO全盛時代 【後期】〔1989年4月〜1990年3月〕
    Y クローズGO戦国時代 〔1990年4月〜 〕

  それでは、1991年初冬に作成された伝説の名作の完全復刻版、「クローズGOの歴史」の始まりです!

  新しく、昔懐かしい写真を論文中にupしました。写真だけ見たいというせっかちな人はこちらへどうぞ!

写真をクリックすると、拡大写真が見られます!


R/L #15CHIGASAKI 卒業論文

Naoyuki Taguchi PRESENTS

題目 クローズGOの歴史

  やあ、皆さん、私のコーナーへようこそ。もし、あなたが、レッドロブスター茅ヶ崎店の歴史について語る機会に遭遇したとき、何を話しますか。過去の色々な店長や次長についてですか。それとも昔働いていたアルバイトについての話ですか。いや、私ならこう答えます。レッドロブスター茅ヶ碕店の歴史、イコール、クローズGOの歴史、と。

  5年目に突入したレッドロブスター茅ヶ碕店のクローズGOの歴史は数々の感動と壮絶なドラマを生み出してきました。それでは、これから皆さんと一緒にレッドロブスター茅ヶ碕店クローズGOの歴史について見て行くことにしましょう。

T クローズGO原始時代〔紀元前300年〜1987年〕

(ヨッシー=ドイT世の苦悩とクローズGOの令の発布)

  そもそも、クローズGOとは、今を去ること2300年前の紀元前300年ほど昔の弥生時代前期の頃、当時の日本、すなわち、倭の国で発祥したと言い伝えられている。このことは当時の倭の国の様子を記す一冊の文献「魏志倭人伝」をひも解くことで伺い知ることができる。当時の倭の国は、各地に小さな国が形成され、その小国同士で壮絶な戦が繰り広げられていた。

  そうした中、現在の関東地方内でより他国より太きな勢力を持っていた小国家があった。これが歴史に名高い土井台国である。小国家土井王朝の暴君、ヨッシー=ドイT世は、その無謀な政策で当時の舞民たちを苦しめていた。暴君ヨッシー=ドイT世は農民たちが仕事が終わってからすぐに家に帰って寝てしまい、農民同志の交流の場がないことに難色を示していた。そして、ついに、ヨッシー=ドイT世は、農民たるに一つの大胆なお触れを発布するに至ったのである。これがのちに歴史に名を残した、「クローズGOの令」である。このお触れでヨッシー=ドイT世は、仕事が終わったあとに近くにある家族的大衆食堂、すなわち、現在のファミリーレストランへ行くことを義務づけ、その圧倒的な権力で農民たちを従わせることになんなく成功したのである。このお触れには、当時のMgrの坪田氏や店長の穴村氏すらも従わざるを得なかった。また、この頃、ヨッシー=ドイT世が、仕事に入っていない日にクローズGOを行うと、ヨッシー=ドイT世は、いじけてしまうという事態もまま発生した。


U クローズGO封建社会時代〔1987年6月〜1988年2月〕

(フロント2大勢力の登場と1番・2番テーブルの行方)

  こうした、家族的太衆食堂へのクローズGOが流行していた最中、新たに土井台国内の農民として、ヨッシー=ドイT世に忠誠を誓い、仕事に従事しようとしていた一人の若者がいた。この人物こそが、その後のクローズGOに多大な貢献を施すことになった、オサカン=タバタV世である。この頃女性としては、最上級の地位にあり、土井台国への反逆を密かに企てていた女性農民トク=リキがいた。女性農民トク=リキは、当時の女性農民を多数ひきつれて秘密結社トクリキ軍団を結成しており、この事態は土井王朝始まって以来の危機であった。当時最下級の農民であった、オサカン=タバタV世は、持ち前のまめな観察力と行動力でトクリキ軍団のスパイ的役割を果たし、その結果を家族的大衆食堂のクローズGOの時に発表したのであった。これにより、トクリキ軍団の農民一揆の計画の暴露や、女性農民トク=リキの仕事時の様子、特に、“鼻の頭に汗をかく”など、克明に報告活動を行い、土井王朝に多大な貢献を行った。この報告活動は当時の店長の穴村氏も進んで参考にした言う。こうして、オサカン=タバタV世は、それらの報告とともに自らの宣伝も行ない、下級農民であった地位を一歩ずつ上昇させ、結果的にはヨッシー=ドイT世の側近の地位を不動のものとすることに成功したのであった。

  こうして、オサカン=タバタV世がその他位を上昇させている時、クローズGOの歴史を語る上で忘れてはならない、一人の農民が現れたのであった。この人物こそ、後に“姑息”と言う言葉を世に戒めた、バカマル=フジタV世、その人である。バカマル=フジタV世は、当時、そのよわきちな性格のため、他のクローズメンバーから“デッキ君”と呼ばれ、恰好の遊び道具と化していた。最下級農民バカマル=フジタV世は、オサカン=タバタV世ほどの行動力もなく、いっこうにクローズ終了後に1番,2番テーブルにすわることができず、3番あるいは、4番テーブルにうずくまるようにして一人静かに話を聞いていた。この風潮は、オサカン=タバタV世が登場した後から起こりつつあった現象であり、1番,2番テーブルは、ベテラン以外すわってはならないという、完全な封建社会がここに成立していた。しかし、この封建制度は、この約1年後にあっけなく崩れ去ってしまうことなど誰が想像できたであろうか。

  そして、時代はここである革命的な転機に達することになる。それも、すべて、クローズGOとともに歩み、クローズGOをここまで発展させた、ある決定的な救世主の加入によるものに他ならない。この人物が1988年2月中旬にR/Lにて面接を受けた時、誰がここまで歴史を変えると予想できたであろうか。


V クローズG〇創世時代〔1987年2月〜1988年7月〕

(救世主ナオ=タグチの登場と豪族的大衆食堂クローズGOの行き詰まり)

  いよいよ、本格的なクローズGO時代に突入していくわけだが、これから先は、行われたクローズGOを年代を追って見ていく事にしよう。

1988年
 2月2O日
クローズGOの救世主ナオ=タグチが電光石火の如く登場する。ナオ=タグチは、初め、クローズのみしか行わず、21−Cl(クローズ)の連続であった。
 3月初旬 ナオ=タグチが当時の坪田MgrのカローラUに乗せてもらい、ヨッシー=ドイT世とともに初めて家族的大衆食堂クローズGOに参加した。ちなみに、場所はデニーズ茅ヶ崎海岸店であった。



  この頃行われていた家族的大衆食堂クローズGOは、もっぱら、海岸通りのデニーズあるいは、すかいらーくがメインであり、いずれも、ロブスターから現地へ向かう際に大踏切からの直線道路を利用していたため、ヨッシー=ドイT世は、この道路のことを「クローズGO通り」と勝手に名付け、農民たちに戒め、普及に努めた。しかし、こうした、家族的大衆食堂クローズGOは、回数を重ねるたびに、農民の間から不満の声が聞かれるようになってきた。と言うのも、この家族的大衆食堂クローズGOは、金かかかり、単調であったため、農民たちは、もっとスリルがあって、安価なクローズGOを求めてヨッシー=ドイT世にすがった。そして、このような、不満の声に耐えかねた、ヨッシー=ドイ1世は、ついに、「クローズGOの令」の改革に踏み切ったのであった。


W クローズGO全盛時代【前期】〔1988年7月〜1989年3月〕

(新クローズGOの令の発布と土井組の結成)

  ヨッシー=ドイT世は、これまでの「クローズGOの令」でクローズGOを家族的大衆食堂のみに限定していたが、1988年7月上旬、ついに「クローズGOの令」の内容を改革するに至った。その中でクローズGOを“クローズ終了後にその日のクローズメンバーが何処かへ出掛けること”と定義し、これまでより、クローズGOで出掛ける場所の範囲を大幅に広げたのであった。この「新クローズGOの令」により、クローズGOは大きな変化を見せはじめた。以下に新クローズGOの令発布後のクローズGOの経過を見てみよう。

1988年
 7月上旬
「新クローズGOの令」発布後初のクローズGOが行われた。場所は、通称“サリーちゃんの館”で、これが初のおばけGOでもあった。メンバーは、ヨッシー=ドイT世とオサカン=タバタV世、マエマエ=マエサコU世で、この時、ヨッシー=ドイT世が脅しをかけ、オサカン=タバタV世が逃げる途中にサンダルがぬかるみにはまり、マエマエ=マエサコU世におぶさって逃げたというエピソードもあった。
 7月中旬 坪田Mgr,高岡次長をまじえて、“藤田 鎌倉・源氏山置き去りGO”が決行された。車は、ナオ=タグチの当特の愛車、スズキ・セルボが起用され、ナオ=タグチの助手席に座っていた、バカマル=フジタT世は、ぴびりまくっていた。
 7月下旬 当時、茅ヶ崎店に就任した宇井Mgrの歓迎GOとして、初の箱根GOが決行された。メンバーは、高岡次長,副島氏,宮内氏,そして、ナオ=タグチで、車は、副島氏’Sカリーナ,宮内氏’Sシティ,タグチ氏’Sセルボで、十国峠を爆走したのであった。



  この頃、ナオ=クグチは、苦しめられた、大学でのテストも終了し、2ヵ月間の夏休みに突入していた。そして、8月度は、平日18−Cl,土日12−Clというパターンが確立し、ついに、茅ヶ崎店における月間労働時間最長の、245時間という記録を樹立したのであった。しかし、そんなに忙しい時でもクローズGOをおるそかにすることはなかった。いや、むしろ、これまでにないペースでクローズGOをし続けた.そして、7月下旬から、8月中旬にかけて、ついに、茅ヶ崎店有史以来初の“2週間連続クローズGO記禄”の偉業を成し遂げたのであった。

  この夏休みの間にクローズGOは、ジャンルが多様化する動きを見せ始めていた。家族的大衆食堂から始まったクローズGOは、よりスリルを求めておばけGOが行われるようになり、県内の各地へ行くようになった.そして、ヨッシー=ドィT世とオサカン=タバタV世の案内で、いつも利用している夜景のきれいなスポットへ行く、おしゃれG0、また、その他にも、海水浴G0,釣りGOなど、様々なGOが展閑された。この結果、ナオ=タグチは、クローズ終了後にクローズGOに出掛け、陽が昇る頃に帰り、また、陽が沈む頃にまた、ロブスターに現れるという、完全な、“夜型人間”と化していた。以下に、この夏休み中に決行された、クローズGOを記す。


   ◎夏休み中に決行された主なクローズGO

    ★おばけGO

      *不動尻キャンプ場トンネル&“もう死なないで準一”看板見学GO

      *箱根・お玉ケ池水浴びGO

      *逗子・おばけトンネル&若宮ハイツ探検GO

      *秦野・ヤビツ峠GO

      *真鶴旧道G0      etc.

    ★おしゃれGO

      *横浜・本牧埠頭&山下公園GO

      *熱海・後楽圏&熱海港GO

      *湘南平G0       etc..

    ★その他のGO

      *茅ヶ滴海岸海水浴&釣りGO

      *県道藤沢町田線中古車GO

      *中津渓谷&ヤビツ峠ラリーGO

      *箱根・ギャラリーコーナーG0 etc.



  はげしくクローズGOが展開された8月も終わり、レッド・ロブスター茅ヶ崎店にクローズGOが完全に定着しようとしていた矢先、時は、9月13日という、クローズGOの歴史にとって、ある、運命的な日を迎えることになる。その日こそ、”トレノ納車日”であった。この出来事から2年6ケ月の間に何回、クローズGOにこの車が起用されたことであろう。前々から、セルボに代わる新たな車を捜していたナオ=クグチは、当時の文献「カーセンサー」をひも解くことにより、現在のトレノが多摩地区のある中古車屋にあることを発見、直ちに現場に急行し、購入に至ったのであった。そして、ナオ=タグチの旧愛車のセルボは、現金4万円で下取りされ、その金は、そっくりトレノに現在設置されている、カロッツェリアのブレーキイルミネーションリアスビーカーへと変身したのであった。今でも、ナオ=クグチは、リアスピーカーを見るたびにセルボ時代の良き日を想い、感傷の涙にむせるのであった。以下にトレノ納車後のクローズGOの経過を記すことにする。

1988年
 9月13日
歴史に名高い、トレノの納車日を迎える。この日、助手席に妹を乗せ、初めて、新湘南バイパスをドライブした。
 9月14日 トレノの納車記念GOとして熱海港まで行く。
 9月17日 現在でも、クローズGOの伝説として、後世に語り継がれている、“山梨県・おいらん淵G0 vol.1”が決行された。次の日にドーナツ・ミーティングを控え、正確な揚所も知らすにマエマエニマエサコW世の言うことを頼りにしてひたすら青海街道を勝沼へ向かってひた走った。当初は、青梅市内にあるだろうという予想だったが、市内の青技街道ぞいのセブンイレブンで道を訪ねてみると、50キロ西に行った、東京と山梨の境の近くと言われ、がく然としたが、気を取り直して、現場付近まで行ってみたが発見できず、その頃すでに5時を回っていたため、仕方なく断念して、そのまま、勝沼経由で帰ることにした。途中、ぶどう畑にぶどうかぶら下がっていることを発見したので、それを頂戴し、食しながら一路ロブスターへと急いだ。この時、納車して間もなかったタグチ’Sトレノは、ヨッシー=ドイT世が駆るタバタ氏’Sコルサの交通ルール無視の暴走に必死に食い下がり、大健闘であった。河口湖を通り、山中湖へ到着したのは、7時30分を回っていたが、結局、ドーナツ・ミーティング開始時刻8時40分にぎりぎりで間に合うことができた。



  時は、9月の中旬に差し掛かり、クローズにある異変が起きようとしていた。その異変の根源こそ、クローズの新勢力として、新たにヨッシー=ドイT世に忠誠を誓い、クローズ農民として加わった3人の若者によってもたらされたものに他ならない。その3人が、後に結成されることになる、“土井組”の中堅として活躍することになった、ゴリライモ=トリサワW世,ウッチー=ウチダT世,エディ=トシキU世である。この3人がもたらした、クローズの異変とは、クローズ終了後の1番,2番テーブルに関することであった。この3人の中でも特にエディ=トシキU世は、クローズ終了後にべテランが1番,2番テーブルにすわるという、クローズ封建社会の常識をくつがえし、初めから1番あるいは、2番テーブルにすわったのであった。この傾向は、他の3人もしかりであった。この異変以後、1番,2審テーブルにベテランがすわるという封建制度は完全に崩れ去ったのであった。この出来事を歴史上、“クローズの下克上”と言う。
それでは、その後のクローズGOの経過を見て行こう。

1988年
 10月1日
ヨッシー=ドイ1世の一方的なわがままによって練馬お迎えGOが行われた。これがきっかけで、この後お迎えGOがブームになる。結局、吉野屋の牛丼一杯でごまかされてしまった。
 11月上旬 宮内氏の紹介によって、初の南部市場ゼロヨンGOが行われた。ゼロヨンを初めて間近に見て、メンバー一同感動した。
 11月中旬 ドーナツミーティング前日GO第2弾として、六本木G0 vol.1が決行された。このGOは、女人禁制を柱にし、六本木周辺をはいかいするという、他のGOに類を見ない盛り上がりであった。
 11月下旬 タグチ’Sトレノ、無謀にも、ウッチー=ウチダ1世をナビゲーターにして、南部市場ゼロョンに出場する。その後、オサカン=タバタV世,エディ=トシキU世らとはぐれ、冬の寒空の中、一時間以上取り残された。
 12月上旬 観音崎牢獄トンネルGOが決行される。ョッシー=ドイT世がゲジゲジにびびり、当時の宇井Mgrの逃げ足の速さが証明された。 ドーナツミーティング前日GO第2弾として、六本木G0 vol.1が決行された。
 12月中旬 フジタ氏’Sシビックが箱根GOの帰り道で、橋の歩道に乗り上げバンクする。
 12月17日 城ケ崎GOが決行される。
 12月27日 当時の千葉次長の歓迎GOとして千葉GOが決行された。ディスニーランドの横の直線道路でみんなでゼロヨンをした。
 12月31日 第1回初日の出GOとして、横浜・南部市場ゼロョンGOが決行された。車6台、総勢二十数名という、当時のクローズGO最大規模のものであった。



  この頃、ヨッシー=ドイT世は、次々にクローズ農民たちを従えて、その権力を欲しいままにしていた。そして、ついにこの冬、ヨッシー=ドイT世は、クローズ農民たちの統一と封建社会の復活を目指し、その農民たちの身分を取り決め、組織化することに成功した。この強大な組織こそ、後に茅ヶ崎店のみならず、他店舗にもその権力を及ぼし、平伏させることになる、“土井組”である。この土井組の誕生により、ヨッシー=ドイT世は、勝手に“土井組グッズ”なるものを見出し、その普及に勤め、土井組の資金源となった。土井組グッズの第一弾として、歴史に名高い、“土井ジャン”が製造され、当時のロブスターの男性と一部の女性にこの購入義務が強いられた。その結果、クローズGOのユニホームとして、真夜中に同じ恰好をした、軍団がたむろするという、異様な光景をかもし出すことになった。
さて、続きの経過を見ていこう。

1989年
 1月
ナオ=タグチ、クローズGOのしすぎで後期テストがピンチ。GOを控える。
 2月12日 千葉・習志野GOを行った。タグチ’Sトレノ、湾岸習志野I.C.で逆車線に進入し、600円払わずに済む。
 2月18日 ドーナツミーティング前日GO第3弾として、おいらん淵GO vol.2が決行される。これは、副島氏のお別れGOでもあった。冬期閉鎖の道に迷い込んでしまい、時間の関係であと約15kmの地点で断念した。
 2月中旬 クローズ終了後にラーメンを食べに行く、ラーメンGOが流行る。また、ヨッシー=ドイT世と連日中古車GOを行う。
 2月22日 大喪の礼を2日後に控え、東京名所めぐりGOを決行し、覆面パトカーに捕まり、叱られる。検問にも2回捕まった。
 2月25日 ヨッシー=ドイT世のわがままで多摩方面中古車GO行う。
 2月下旬 ラーメンGOで店のおやじに宇井Mgrとナオ=タグチが兄弟と間違えられる。
宇井Mgrの紹介で東京・白山ラーメンGO vol.1が決行されたが、A.M.4:00 に閉店で A.M.4:06 に到着したら、「つゆ捨てちまったよ」と言われて、諦めて帰った。これが正木氏のお別れGOであった。

 2月26日 東京・白山ラーメンGO vol.2が決行された。この時は前回の教訓から、なんとか A.M.4:00 前に到着したが、日曜日のため、早く店が閉まっていて、諦めて帰った。
 3月 1日 おいらん淵G0 vol.3が決行され、遂においらん淵に到着する。帰りに八王子付近で渋滞にはまり、ロブスター着が A.M.10:00 になってしまった。
 3月 5日 クローズGOでは最長距離の野辺山スキーGOが決行された。GOで初めて、チェーンを使用した。当初は、天神山に行く予定だったが、その場の勢いでより遠い野辺山スキー場へ向かった。この時、ゴリライモ=トリサワW世のシャレードが最後のGOになろうなど、誰が予想出来たであろうか。この2日後、シャレ−ドは事故によって崩御してしまう結果になった。
 3月30日 卒業GOとして、第1回キャノンボールGOin伊豆・城ヶ崎が決行された。ナオ=タグチは、ハンデで最後にスタートしたにも関わらず優勝した。ちなみに、2位はウチダ氏’Sカリーナであった。



 これで一通り、クローズGO全盛時代前期の経過を見て頂いた訳だが、この頃から大規模で後に伝統的なものとなるGOが始まっているのが分かるであろう。そして、3月から4月に時は移り、R/L茅ヶ崎店もメンバーが一新し、新たなクローズGOの展開を見せ始め、クローズGO全盛時代も前期から後期へ移ろうとしていた。


V クローズGO全盛時代 【後期】〔1989年4月〜1990年3月〕

(ヨッシー=ドイT世の崩御とクローズGO全盛期のかげり)

  R/L茅ヶ崎店のメンバーも一新し、新たなクローズGOの展開を見せ始めた頃、ナオ=タグチは、クローズGOのさらなる普及とその実施に関する統一化をはかるために、ある一つの法律を定めた。それが、今日でもR/L茅ヶ崎店に伝説として語り継がれている、“クローズGO規約”である。その中の幾つかの事項を抜粋したものを以下に記す。


《クローズGO規約》 (クルーノート No.27より抜粋)

   第一条 クローズGOを行った場合は、速やかにクルーノートに報告する。

   第二条 クローズGOの際には土井細グッズ(土井ジャン等)を着用すること。

   第三条 ロングGOの場合は、ガス代、高速代等を割りカンで支払うこと。

   第四条 クローズGOは原則として自動車を使用する(竹松は原チャリ可)。

   第五条 社員,アルバイトが入,退社や転勤する場合は、必ず歓迎,お別れ

        GOを行なわなければならない。


  こうした、クローズGO規約の発布以後、第一条の報告の義務に伴い、クルーノートに書き記したのが、今日まで教えきれぬ程クルーノート上をにぎわしてきた、“クローズGO日記”である。したがって、クローズGO日記が最初に登場したのもクルーノート No.27からであり、ちなみに、クローズGO日記 No.1は、当時の高橋次長とYESTERDAY茅ヶ崎店へ行ったGOの報告であった。
それでは、クローズGO全盛時代後期の主な経過を見ていこう。

1989年
 5月2日
横浜・YES’89&クィーンエリザベスU見学GOが決行される。大桟橋でクィーンエリザベスUを見て感動した。
 5月中旬 鎌倉湖一人きもだめしGOが行われた。森岡氏のつよきちぶりが証明された。
 5月20日 六本木GO vol.2が決行された。土井ジャン完成後初めての六本木G0であった。ヨッシ−=ドイT世の家の近くでタグチ’Sトレノが急ブレーキをして警官に叱られたり、第三京浜で写真を走りながら撮って、カメラを受け渡したり、ハプニングの多いGOであった。帰りは、川崎・さとしちゃん像にも行った。
六本木GO vol.2@ 六本木GO vol.2A
Photo.1 六本木GO@ Photo.2 六本木GOA
 6月2日 横浜・山下公園GOでヨッシー=ドイT世がこうもりにびひる。
 7月31日 第2回キャノンポールGOin箱根が決行された。箱根新道使用禁止のはずが、タグチ’Sトレノ以外が使用してナオ=タグチがビリになった。尚、優勝は、八木氏’Sシルビアであった。
 8月8日 忘れもしない八月八日フジテレビの日、ナオ=タグチはこの日箱根に行き、箱根登山鉄道のガードに激突、フレーム矯正50万円の大ダメージを食らう。この日以来、しばらくクローズGOができなくなる。
 11月6日 松戸・八柱霊園G0が決行された。この霊園は広いわりには入り口が2箇所位しかなく、脱出するのに苦労した。
 12月31日 第2回初日の出GOとして江ノ島・龍ロ寺GOが決行された。車7台、30名近くの超大規模GOであった。ヨッシー=ドイT世が道路を巧みにすり抜け、渋滞に巻き込まれずに済む。この日は奇麓な初日の出と紫色の富士山を龍口寺・仏舎利塔から見れて感動した。
1990年
 3月第2週
《番外編》
土井組最大のイベント、第一回土井組冬期合宿 in 石内丸山 が実施された。あいにくの雪不足にも関わらず、史上空前の盛り上がりを見せた。この夏・冬の合宿の開催により土井組の結束はより堅固なものとなった。ちなみに、以下の写真のうちPhoto.4,5については、見るに耐えない部分が露出しているため、一部修正を加えている。この合宿がいかにクレージーであったか様子がうかがえるであろう。しかし、Photo.4は、何故か指が6本写っているのが気になる。
第一回土井組冬期合宿 in 石内丸山@ 第一回土井組冬期合宿 in 石内丸山A 第一回土井組冬期合宿 in 石内丸山B
Photo.3 第1回冬合宿@ Photo.4 第1回冬合宿A Photo.5 第1回冬合宿B
 3月21日 千葉・東京湾フェリーGOが決行された。房総半島を内房回りで南へ向かい、金谷から東京湾フェリーで久里浜へ戻って帰るという壮大なGOであった。これはGOと言うより、一つの旅行であった。


  こうして、寒かった冬も終わり、また、R/L茅ヶ崎店にも別れの春が訪れようとしていた。そして、運命の3月30日がやって来た。この日こそ、土井台国の君主であり、土井組の創始者でもある、ヨッシー=ドイT世がR/L茅ヶ椅店で最後の勤めをして、卒業GOが決行された日であった。この日のこと歴史上、“ヨッシー=ドイT世崩御の日”と言う。これ以後、R/L茅ヶ崎店もかつてない程の変貌を遂げようとしていた。

1990年
 3月30日
卒業GOとして第3回キャノンボールGO IN 観音崎が決行された。このキャノンボールGOは今までのものとは違い、途中、鎌倉近辺のおばけ名所(若宮ハイツ,小坪トンネル,龍口寺,鎌倉山に、前日に仕掛けた“土井組参上”の札を何処か一箇所から持ってきて、観音崎へ向かうという、“おばけ名所通過制度”を採用した。参加台数7台,約30名でこれが過去最大規模のG0であろう。ナオ=タグチは、途中、16号でトリサワ氏’ファミリアとデットヒートを繰り広げたが、結局、優勝した。これがヨッシー=ドイT世の崩御前最後GOとなった。
第3回キャノンボールGO IN 観音崎@ 第3回キャノンボールGO IN 観音崎A
Photo.6 観音崎GO@ Photo.7 観音崎GOA



Y クローズGO戦国時代 〔1990年4月〜 〕

(クイクイ=サイトウV世の一人クローズGOと雀友連の台頭)

  時は春を迎え、クローズGOにある異変が起きようとしていた。ヨッシー=ドイT世が崩御する以前は、その圧倒的な権力でクローズGOを義務づけていたが、崩御後は、クローズ終了後に強制を強いられることも無くなり、クローズメンバーが自由に行動出来るようになった。これを歴史上、“クローズの自由化”と言う。そして、こうした動きの中、ある一つの勢力の台頭があった。この勢力こそ、フィリピーナ=オクトミU世率いる“雀友連”である。フィリピーナ=オクトミU世は、クローズ終了後は、クローズGOだけが楽しみではないと唱え、新たに麻雀を武器に農民の結集を図り、遂に、雀友連の結成に至った。こうして、クローズGOは、その回教も規模も衰退しつつあった。しかし、このクローズGOの衰退期に、必死にクローズGOを継続させようと努力していた、ある一人の若者がいた。この若者こそ、かつて、ヨッシー=ドイT世に忠城を誓っていた、クイクイ=サイトウV世に他ならない。しかし、彼の努力は、クローズG0の本来の目的である、“クローズメンバーの統一と結束”から大きく外れていた。クイクイ=サイトウV世は、これらの目的よりも、クローズGOの存続だけを優先的に考え、ついに、彼の独自のGOである、“一人クローズGO”の決行に至ったのであった。このGOは、他のクローズメンバーを誘うことなく、一人だけで真夜中の名所をかけめぐり、その場で、コンビニエンスストア一で購入した弁当等を食し、自分が一人でいることに、虚しさを感じるのであった。そして、彼は、こんな時、ある一つの名言をはくのであった。この名言こそ、後のR/L茅ヶ崎店で一つの流行となった、「スネスネ!」である。しかし、クイクイ=サイトウV世は、一人クローズGOを行う反面、雀友連の一員でもあり、彼の努力は、クローズGOにとって、あまり良い結果をもたらさなかった。
その一方で、ナオ=タグチは、こんなクローズGO衰退期にありながらも、正続派のクローズGOを行うことを忘れなかった。回数こそ少なくなったが、いざ、決行したときは、なかなか充実した、内容の濃いクローズGOを行っていた。それでは、クローズGO戦国時代の経過を現在に至るまで見てみよう。

1990年
 5月〜6月
ナオ=タグチ・就職活動でクローズGOを控える。
 7月14日 浜降祭GOという名目で国府律公園GOが決行された。ヨッシー=ドイT世の司会でねるとんが行われ、そのパ−トナ−で、きもだめし大会が行われた。
 8月30日 第4回キャノンポールGO IN 山中湖が決行された。このキャノンボールGOも、ちょっと変わった趣向のものであった。山中湖までのルートを伊勢原,秦野,国府津の3つに限定し、それぞれのルートにある看板(書いてある内容はあらかじめ公表してある)3つに隠された“土井組参上!”の札を一つだけ捜し出し、山中湖へ向かうという、“看板宝さがし制度”で行った。結果は、1位タグチ氏’Sトレノ,2位ウチダ氏’Sカリーナ,3位サイトウ氏’Sシティであった。参加台数6台、総勢16名という、なかなかの規模のGOであった。ちなみに、フジタ氏’Sシビックは、札の偽造、並びに、東名高速使用により、失格であった(それでも2位だった)。
第4回キャノンポールGO IN 山中湖 一位 タグチ氏’Sトレノ
Photo.8 山中湖GO Photo.9 タグチ氏’Sトレノ
 10月 7日 ナオ=タグチ、大阪にて、神戸・六甲山一人GOを決行して大阪府警に整備不良で捕まる。
 10月〜12月 ナオ=タグチ、幕張、二十世紀ケ丘の二店舗のOPT(オープニングチーム:新店舗開店のスタッフ)に連続で行ったため、クローズGOができなくなる。
 12月31日 恒例の初日の出GOとして、秦野・震生湖GOが行われた。結局、初日の出は見れなかったが、震生湖では一周きもためし大会をして、また、帰る途中の相模川神川橋下では、たき火で焼きいもを作り、なかなか、有意義なGOであった。
1991年
 2月
ナオ=タグチが卒業を2ケ月前に控え、クローズGOのラストスパート体制に入る。おばけG0(特に相模外科病院)を中心に様々なGOが操り広げられた。
 2月14日 観音崎牢獄トンネルGOが決行された。20名程の人数で真っ暗なトンネルを皆で操検した。これが岡村氏のお別れGOであった。
 3月 3日 ウッチ−=ウチダT世のお別れGOとして、第5回キヤノンボールGO IN 横浜・港の見える丘公園が決行された。参加台敷7台、総勢21名という大規模のものであった。このキャノンボールGOは、横浜市内のセブンイレブンで買い物をして、その合計金額の高い順に、ハンデとして、到着時刻からマイナスできるという、“セブンイレブン通過制度”を援用した。ウチダ氏’Sカリーナが念願の初優勝を遂げ、最後にふさわしい結果に終わった。
 3月16日 バカマル=フジタV世のお別れGOとして、小田原城祉公園GOが行われた。スベシャルゲストとして、ヨッシー=ドイ1世を迎え、久し振りに往年のクローズGOを垣間見たようであった。
土井組シニア3人衆
Photo.10 最終日の記念写真


  これで、一通りクローズGOの歴史がお分かり頂けたでしょうか。今回取り上げたクローズGOの数々は、実は、ほんの一握りでしかありません。この他にも教えきれぬ程のクローズGOが行われ、それぞれに沢山の思い出があり、また、今では懐かしい沢山の人々が関わって来ました。
  私は、よく人にこう問われることがあります。「どうして、クローズGOなんてそんなぱかぱかしいことをするの。」と。確かに部外者から見ればくだらなく、滑稽に見え、又、レッドロブスター茅ヶ碕店という限られた空間での出来事であり、そこまでこだわる理由が分からないことでしょう。しかし、クローズGOはただ単に、みんなで騒いで何処かへ行くだけではありません。今から3年以上昔、私がまだ新人の頃、他のクローズメンバーとまともに話しをすることも出来ずに3番テーブルに黙って座っていた時、当時の坪田Mgrが初めてクローズGOとしてデニーズに連れていってくれました。私は、この時の感動を今でも忘れません。何もしゃべれなかった私にクローズGOを通して仲間になる機会を与えてくれたのです。こうして、私は、他のクローズメンバーと一緒に行動を共にし、やがては、土井さんを始めとした土井組という最高の仲間を得ることが出来たのでした。確かにやっていることはくだらないかもしれません。しかし、その目的は、
“R/L茅ヶ崎店のロブスターファミリー同志の結束”に他なりません。新人が入ったら、皆で歓迎し、辞める人があれば、皆で最後に良い思い出を作るという、R/L茅ヶ崎店の独自の伝統行事なのです。普通、学校では、限られた年令の友達しかできないけれども、バイトの友達というのは高校生から大学生まで様々な年令の友達がいて、しかも、R/L茅ヶ崎店は、厳しい上下関係もなく、和気あいあいと、まるで大学のサークルのような集団になっています。かつて、ここまで従業員同志の結束が堅く、調和のとれたアルバイトがあったでしょうか。しかし、こんなR/L茅ヶ崎店も最近では従業員同志の結束が緩みつつあることも現状です。私は従業員同志の結束を強めるのにクローズGOという手段を選びました。その結束が緩みつつある現在、R/L茅ヶ椅店の伝統を守る為に、何らかの措置を施さねばなりません。その手段を考え、実行していくのは残された諸君たちです。麻雀をするのも結構だが、一部の人間だけで止まらず、R/L茅ヶ崎店の伝統である、“従業員同志の結束”をいつまでも、店の続く限り、これから入ってくる未知のロブスターファミリーたちに受け継いでいって下さい。
 今から一年前、ヨッシー=ドイT世こと土井さんがR/L茅ヶ崎店を去る時、ある一つの素晴らしい名言を残しました。
「R/L茅ヶ崎店で働いたことは俺の勇気です。」と。あれから一年後の現在、土井さんと同じ立場になって、その名言に改めて感動し、自分も同じ思いで、R/L茅ヶ崎店で働いたこと、また、ここで知り合った素晴らしい友人を自分の勇気として、これから社会人として頑張っていきたいと思います。そして、自分が3年間、批判をかいながらも一心に貫き通して来たクローズGOが、これからも、受け継がれていくことを信じ、従業員同志の結束をより一層強めてくれることを望みます。別に、昔と同じ雰囲気のR/L茅ヶ崎店を追求する必要はありません。残された皆さんは、新しい雰囲気の結束の堅いR/L茅ヶ崎店を自分たちで作っていって下さい。それでは皆さん、また、何時か、何処かでお会いしましょう。ごきげんよう、さようなら。

The End  

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