時々の話題についてのコラムの欄を作りました。

 あくまで個人の意見です。体罰研は今まで会として公式の見解を表明したことはありませんし、今後もするつもりはありません。ホームページ管理者としての雑談としてください。どしどし反論、ご意見をメールでおよせください。ご希望があればこの欄に掲載します。ただし、こちらの判断によりますのでご了解ください。       山岸 秀

 ただいま病気静養中につきしばらく休止してます。申し訳ありません。

 

 長生きできない天皇

 「君が代」の議論を聞きながら独り思うことがある。「君が代は千代に八千代に……」と歌われている。一つの解釈は天皇の寿命は長く、長くましませ、というもの。しかし、お気の毒ながら天皇は長生きできないように宿命づけられている。

 天下った天孫、天津日高日子番能邇々芸命(アマツヒダカホノニニギノミコト)は麗(カホヨ)き美人(オトメ)、木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)に出会う。この女を娶ろうとするが、父神・大山津見神は姉の岩長比売(イワナガヒメ)を副えて命(ミコト)に奉り出す。この姉は甚凶醜(ハナハダミニク)いので、命(ミコト)は姉だけを返してしまった。返された父神は「我が女(ムスメ)二人並べたてまつれる由は、岩長比売を使はしては、天つ神の御子の命(イノチ)は、雪零(フ)り風吹くとも、恒に岩の如く、常(トキ)はに堅(カキ)はに動きなくましまさむ。……ここに岩長比売を返さしめ……(たので)……天つ神の御子の御寿(ミイノチ)は……(短いものと)ましまさむ」と言っている。したがって「ここを以ちて今に至るまで、天皇(スメラミコト)たちの御命長くまさざるなり。」古事記にこのように書いてある。ニニギノミコトがコノハナサクヤヒメとともにイワナガヒメも娶っていたら天皇の寿命は岩の様に長くなったのである。

 もちろんこんな話は神話・伝説に過ぎない。しかしその神話・伝説を真実と教えてきたのが戦前の歴史である。戦前の教育ではやはり天皇は短命を宿命づけられていたことを教えていたのであろうか。もっとお気の毒なのは天皇である。もし自分が長生きしたら自分の存在を正当付けている古事記をみずから否定することになるのであるから。(99,7,18)

 

 

 気になる発言

 東京オリンピックの頃の話である。文部省初等中等局長内藤誉三郎は、「オリンピックのメインスタンドにするする揚がる国旗を眺めつつ、荘重な「君が代」の吹奏を聞いて誰か感激を覚えない日本人がおるだろうか」(時事通信・内外教育版858・859号、1957)といっている。時が下って1999年、衆議院本会議で自由党議員の西村章三は、「『国旗掲揚』『国歌斉唱』が良心の自由に反する、という誤った議論がある。まことに嘆かわしい。日本人であるかどうかに関わる問題だ」(朝日、99,6,30)と発言している。官僚(内藤は保守系宗教団体立正佼正会と結びついて後に議員となり文相まで務めている)や議員のこのような質の低さこそ「嘆かわしい」ものである。このような発言は国の中に異質の存在を認めないファッシズム回帰と言わなければならない。このような発言が出てくることは国旗・国歌法ができることよりも数倍恐ろしい。

 自民党や自由党の弁護をしておけば全ての議員がそのように考えているわけではない。(99,7,18)

 

 

 絶滅寸前

 絶滅寸前のトキに子どもが産まれた。すくすく育っているようだ。絶滅まで手をこまねいていた人間の愚かしさもさることながら、中国からも飼育の専門家がきてわが国の専門家と協力して育て上げた。見事な連携プレーと言える。おそらくこれからも子どもはどんどん産まれるだろう。自然の空に舞うということまでは望めないにしても、各地の動物園で見られるほどには繁殖するかもしれない。

 絶滅寸前の社会党・社民党を救う飼育係はいないのだろうか。(99,7,20)

 

 

 音楽伴奏しない教師が処分される

 「君が代」伴奏をしない教師が処分されていた。私は公務員である教師と子どもとでは立場が違うので、内心の自由は共に絶対的に保障されるが、その発現においては同等ではないといってきた。子どもが拒否できるものでも教師は拒否できないものが当然ある。では式において「君が代」伴奏は拒否できるものであろうか。もちろん「君が代」が違憲であると教師が考えていても、それは教師の個人の考えであり式、「君が代」の合法性は推定されている。しかし、式の挙行にとって当該教師による「君が代」伴奏が絶対的に、不可欠に必要だったのだろうか。他の教師による伴奏もあり得よう、テープによる伴奏もあり得よう(事実多くの学校はそのように対応している)。それで式の挙行に何ら支障はない。代替が容易に可能であるにもかかわらず、敢えて信条上拒否している当該教師に伴奏を職務命令によって強制し、処分するということは、校長に職務命令を出す権限、教委に処分の権限があるにしても、権利の濫用といわなければならない。

 それにしてもこのような処分をうける教師の高年齢化が目立つ。最近の若い教員は組合に入らないのであろうか。入っても活動しないのであろうか。文部省の職員管理が功を奏していると思えてならない。(99,7,22)

 

 

国旗・国歌法への学生の対応

 大学は夏休みになったところもあるし試験をやっているところもある。どこも静かなものである。大学が静かなのは結構なのだろうか。国旗・国歌法は国のシンボル、天皇制、主権の存在に関わる問題である。それが政府与党や政権に擦り寄る宗教政党の恣意によって強権的に、有無を言わさないというやり方でもって決められようとしている。政府与党や宗教政党の言うように「君が代」は「日の丸」は定着しているのであろうか。そうは思えない。与党や与党になりたい政党の議員は自分の子どもや孫に「君が代」の歌詞を書かせ意味を尋ねたら良い。満足に書け、意味を理解している子どもは(そして大人も)驚くほど少ないはずである。「君が代」や「日の丸」は定着しているのではない。無関心のままほっておかれたのである。また彼らの言うように強制はないのだろうか。ここでは例を挙げる必要はないであろう。教育の世界では非常に強い強制がなされている。それを知りつつ強制がないというのであれば、与党や政権に擦り寄る政党の議員は恥知らずな嘘吐きといわなければならない。議員としての根本的資質に欠けるといわなければならない。国旗・国歌法はそのように多くの問題を含んでいる。しかし、大学は静かなものである。私たちが学生の頃だったらどうであろうか。多くの大学がストライキに入ったはずである。デモは連日行われたろう。公聴会へも開催反対を叫んで突入したかもしれない。その方法だけが正しいというつもりはないが、それにしても大学は静かすぎる。学生の間でこの問題で議論をしている様子は余り感じられない。夏休み前の今はアルバイトや海外旅行やコンパの話題である。この国の若者はどうなっているのであろうか。心配しているのは私だけではない。若者が堕落している国の将来は明るいはずがない。(99,7,23)

 

 

 公明党の政権参加

 いよいよ公明党が政権参加するらしい。驚いてみている人もいるがびっくりするほどのことはない。公明党の母体である創価学会の2代目会長であり同会を今日在らしめた戸田城聖氏の言うところを見れば、政権への強い志向が窺われる。この自民党と公明党との連立はわが国の憲政史を変えるものとなろう。どのように変えるかについては考えて頂きたい。私の知人が言った。公明党も政権に入れば社会党みたいに消滅してしまうと。しかしそれは甘い考えである。社会党と公明党は違う。労働組合が壊滅状態であり総評がつぶれ連合になった時に社会党の基盤は揺るいでいたのである。しかし公明党の基盤である創価学会は違う。それは非常に強固な宗教団体である。社会党と公明党では基盤の強固さが全然違うのである。また、社会党に人材がいなくなったのと違い絶えず新しい優秀な人材を育成しつつある。簡単につぶれるものではない。その公明党と自民党が連立するのである。盗聴法、国民背番号制そして国旗・国歌法の制定以上に目をむけておく必要がある。今それをしておかないと将来の政治に悔いを残すことになろう。(99,7,23)

 

 

 「八紘一宇」

 ここのところ「君が代」がらみで八紘一宇に良く出会う。八紘一宇は言うまでもなく戦前の日本の拡大主義のスローガンであった。しかしこの言葉は古事記や日本書紀に由来する由緒正しいものではない。右翼思想団体の「国柱会」を始めた田中智学の造語である。この「八紘一宇」、決して過去に封じ込められたものではない。この亡霊が今まさにさ迷い歩いている。宮崎に八紘一宇の塔がある。日本が拡大侵略をしているとき、日本の勢力の及ぶ最前線から軍・官・民が集めてきた石をもって築いた塔である。さすがに戦後は八紘一宇の塔とは言わず平和の塔といっている。塔の「八紘一宇」の文字は戦後削られていたがその後復活している。そして東京オリンピックの国内聖火リレーはこの「八紘一宇」の文字が復活した塔から出発しているのである。公明党と自民党が連立したが、創価学会に次ぐ大宗教団体であり、元々自民党と組んでいた宗教団体・立正佼成会は創立時にこの国柱会と関係している。同会は1936年会長村上日襄、副会長石原淑太郎、総務庭野鹿蔵(現日敬)が始めた(後に日敬が開祖と僭称することになるが43年まで村上が会長)。この村上と石原は国柱会の会員である。同会はしばしば本尊を変えているが2代目の本尊には天照大神がニニギノミコトに賜った神勅「天壌無窮」が書かれている。オリンピックや宗教団体のような右側の動きだけでない。石原慎太郎都知事と争った共産党の候補者は金八先生と宮沢賢治を売り物にしていた。宮沢賢治こそ国柱会へ傾倒していた人物である。民主的といわれる教育実践家で宮沢に傾倒しているものも多い。しかし、国柱会への賢治の態度は総括されねばならないであろう。「八紘一宇」の亡霊はそのように白昼同道歩きはじめているのである。「君が代」がその亡霊に息を吹き込むことにならなければよいのだが。(99,7,24)

 

 

 天皇と差別

 差別と戦う人々は天皇制に強く反対している。天皇の様に生まれによる尊い身分を認めることは生まれによる卑しい身分を認めることにつながることになるからである。しかしそれ以上に天皇制は差別と根源において結びついている。天照大神と須佐之男命(スサノオノミコト)との誓約・モノザネ交換によって正勝吾勝々速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)が生まれ、彼とバ万幡豊秋津師比売(ヨロズハタトヨアキツシヒメ)の婚姻で天津日高日子番能迩々芸能命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)が生まれる。ニニギノミコトは天孫降臨して木花之佐久夜比売(コノハナサクヤヒメ)と婚姻して火遠理命(ホヲリノミコト)が生まれ、ホヲリノミコトと豊玉比売(トヨタマヒメ)の婚姻で天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)が生まれ、このミコトと玉依比売(タマヨリヒメ)の婚姻で神倭伊波礼比古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)が生まれる。このミコトが即位して神武天皇になる。すなわち天皇は神の子孫(日子)である。神権天皇制の根拠はここにあり、天皇は尊い生まれ、血を引き継ぐと言われる所以である。では天照大神はどのようにして生まれたのであろうか。日本の国土、大倭豊秋津嶋を始めとする島々は伊耶那岐(イザナギ)と伊耶那美(イザナミ)の婚姻によって生まれる。だが天照大神、月読命(ツクヨミノミコト)、須佐之男命の三貴子は国生みをした婚姻によって生まれたのではない。三貴子は伊耶那美の死後に黄泉の国行った伊耶那岐がそこから逃れてきて禊をし、その禊から生まれたのである。禊は穢れの祓いである。天皇家の祖神天照大神は穢れの祓いによって生まれたのである。この穢れの観念こそ長きに渡って不条理な差別を生んできたものである。敗戦後の天皇の人間宣言はこの神話を否定したものであるが、君が代論議を聞いているとその神話が復活しそうである。もちろん杞憂であればいいのだが、差別が続いている以上神話の否定は繰り替えされなければならない。(99,7,28)

 

 

 揺れるTBS

 坂本弁護士がオウムに殺されるきっかけを作ったTBSは筑紫哲也に「TBS」は死んだと語らさせた。しかしそれはその場しのぎのものにしかすぎなかった。筑紫は自ら死んだと宣言したTBSの禄を食み、前にも増して権力に近い者に「にやけ」ながらのごま擦り対談を夜の番組でやっている。権力への姿勢において久米宏と決定的に異なっている。これは筑紫の責任ではない。それを使っているTBSの責任である。そのような報道機関としての責任感に欠ける会社であるからモラルが欠落するのは自然の帰結であったといえる。女性の入浴姿を隠れてビデオに撮るなど言語道断。しかし、当の記者の個人の問題に帰せられない(TBSとしてはそうするのだろうが)。TBSという組織そのものが持っている病理が生んだ個人病理である。一民間企業の病理であるが、社会に大きな影響力を有する巨大マスコミであるだけに軽視できない。(99,7,28)

 

 

 石原裕次郎の人気

 裕次郎がちょっとしたブームになっている。同世代の俳優、勝新太郎や萬屋錦之助に比べて芸がうまいというわけではない。むしろ役者としては希に見る大根の部類であろう。彼の作ったTVもやたらの火器をドンパチやってるだけの、大人の鑑賞に堪えるものではない。最近、「素晴らしきヒコーキ野郎」という外国映画を深夜TVで見た。裕次郎が出ているが、三船敏郎なら出ないような日本人をお粗末に描いた国辱的映画である(映画は非常に面白かった)。その程度の俳優がなんで人気があるのだろうか。彼の表現ではなく存在が時代を体現していたからだろう。しかし裕次郎には安保の影は微塵もない。右派政治家の兄に大金を積み上げる以外に政治の匂いはしない。社会の矛盾を見る目もない。そのような裕次郎が時代を体現したところに今日の日本人が政治的に幼児となった予兆があったのである。(99,7,28)

 

 

 再びTBS

 「再びTBS」という表題は、再びTBSについて書くという意味と、再びTBS職員がワイセツ事件を起こしたという意味との両方を持っている。TBSはよほど不祥事を起こしやすい会社であるらしい。筑紫哲也に象徴されるような自己への批判と自己の仕事への検証が決定的に欠けている。その欠如を組織として認識し改善しない限りにおいて報道機関としての業務をやめるべきだろう。ドラマや芸能局として再生すれば良い。

 

 

 1999年の7の月が終った

 人類は無事に生き延びた(当面)。所詮迷信である。しかし迷信は迷信としてほっておけば良いというものではない。差別を生み、不条理を生むのも迷信であるからである。そして現代、この迷信を信じるものが少なくない。特に若者において。かつては偉大な宗教家は、その時代、時代に応じて迷信を打ち破ってきた。現代の宗教はいかがであろうか。新興宗教、新宗教はむしろ迷信の土壌を作り上げている。宗教の堕落といえよう。一部キリスト教団や古くからの既成仏教教団のなかにそれへの反省が見られる。それに期待したい。

 

 

 オウムへの働きかけ

 私もかつて統一教会に入った教え子数人の社会復帰にかかわったことがある。いわゆるマインドコントロールを解くのがいかに困難かも経験した。キリスト者の力が大きかった。オウムに関して比叡山や本願寺、創価学会や立正佼成会は沈黙している。何の働きかけもしていない。理論においても人間性においても比叡山や本願寺には人材は豊富なはずなのだが。(99,8,28)

 

 

 親や教員と子どもの関係

 体罰や教育についての議論をしていて感じることがある。先日も朝のTVに出て議論してきたのであるが私たちが認識している親/教員と子どもの関係と一般の人の認識しているその関係とでは相当な隔たりがある。親や教員が体罰や叩いて厳しい教育/しつけを行うべきだという人たちは、親子関係、教員と子どもの関係が正常に成り立っていると観念しているようだ。しかし私たちのところに入ってくる事件、事例におけるその関係は信頼があるとかないというものではなくコミュニケーションが成立していない場合も少なくないのである。そのような関係においてどのようなしつけ/教育がなされるのか、あるいは可能であるのか。わたしたちは親と子の関係、教員と子の関係をもう一度じっくりと確認しなければならないであろう。(99,8,28)

 

 

 学級崩壊の解決策―酒飲みのたわごと

 学級崩壊が深刻。私の考えている秘策を紹介しよう。教員の多くが車で通勤しているが車での通勤を止めたらどうだろうか。車に乗らなければ子どもと同じ通学路の風景を見ることができる。車の横暴さから徒歩の人間らしさに戻ることができる。何より車通勤を止めれば帰りに酒を飲むことができる。同僚と焼き鳥屋で酒を酌み交わしつつ教育論を戦わせ、さまざま情報を共有する、今はそのことがなされていない。学級崩壊の根源は車通勤である。(99,8,31)

 

 

 いわゆる同和運動について最近感じたこと

 「君が代」の原稿を書く過程で天皇制に触れ、その過程で被差別部落の問題を考えるようになった。行政や運動団体の行う地方の集会やシンポなるものに個人として参加してみた。先日も地元の全解連の主催するシンポに出てみた。出てみて驚いた。シンポの名にふさわしくない特定の個人を「キチガイ」「暴力団の親玉」などという不在者糾弾が始まった。私は司会者に注意を促したが聞く耳は持っていなかった。全解連と解同が天敵であることは知っている。私個人は路線としてはどちらかといえば全解連のほうを支持して来た。しかし地方組織における不在者糾弾(ちなみに槍玉にあった個人は元国会議員で解同の親玉といえるような人ではなかった)は全解連が解同の体質として攻撃するやり方そのものであった。まだまだ道は遠いと感じたシンポであった。こんなことを感じるのも地方の集会に足を運んだからであろう。(99,9,20)

 

 

 秋の虫の声

 まだまだ残暑は厳しいが、秋の虫の声がよく聞こえる。私の住んでいるところは埼玉も北のほうなので自然は虫をはぐくんでいる。風呂から上がり、ビールを飲みながら庭で鳴く虫の音を聞く。なかなか風流なものである。都会ではあじわえないだろう。散歩していても鳴いている。しかし今の子どもたちは鳴く虫は捕まえないようだ。私たちは夜になるとろうそくと空き缶で作った明かりをもってクツワムシ(当時はガチャガチャと呼んでいた)などを採りに行ったのだが。そんな経験が無くなった。学級崩壊の根はそんなところにもあるのではないだろうか。(99,9,20)

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