山形 明郷著『邪馬台国論争・終結宣言』

緒言(しょげん)
    本論は中国の文献資料に依拠(いきょ)し、旧来、我が国で語られている
   古代東アジア史の或(ある)頁(ページ)に就(つい)ての定説を根底から
   検討しなおし、果たしていわれるが如く、定説が定説たりうるか否かを論証
   したものであり、興味本位の読み物の類(たぐい)ではない。此(こ)の事
   を前もって御断りしておきたい。 

     故に、歴史に興味があったとしても、権威と称される人々によって打ち建
   てられた既成の史説を絶対視し、且(か)つ信奉する向きには理解し難いで
   あろう。何故(なぜ)なら、此(こ)の論は其(そ)の様な向には奇異にう
   つり、ややもすると拒絶反応が先行し、本論を理解しようとする頭脳の働き
   が停止するからである。

     然(しか)し、旧来の歴史観・歴史解釈に多少なりとも疑問を持つ向きや、
   はた又あらゆる可能性を考慮し得る柔軟な頭脳の持ち主ならば、本論は容易
  (たやす)く理解され、且(か)つ議論の俎上(そじょう)にも乗せ得る筈
  (はず)である。

     而(しか)して、個々それぞれの想像の所産的見解ではなく、全(すべて)
   が一定共通の見解に達する筈(はず)でもある。
 
    俗称(ぞくしょう)『魏志倭人傳(ぎしわじんでん)』、此(こ)の極め
   て厄介(やっかい)な記録を解釈する為には、必須不可欠とする史上の定説
   がある。だが、それは今日(こんにち)に至るまで定説とされて来ただけで
   あり、且(か)つ又、その様に教えこまれて来たに過ぎないものでもある。

     然(しか)し、大半の人々は、過去の権威達によって打ち建てられた説を
   絶対視し、それを知識として倭人傳に取り組む故、

   伝える所の「倭」そのものの全体的把握が困難となり、徒(いたずら)に内
   容文の持って回った解釈に明け暮れ、各人各様が憶測推理程度で妥協するか、
   或いは又、音(ね)を上げてしまうかの何(いず)れかである。
     此(こ)の傳記が伝える「倭」とは、一体何処(どこ)を指称したものか
   を弁(わきま)える為には、傳記の判読以前になさねばならぬ事がある。

   即(すなわ)ち、今日(こんにち)までの歴史観を形成してきた根本的知識
   の再検討である。

     権威側によって打ち建てられた史説・史観を、個々に再考察する事により、
   それらが果たして定説たるに相応(ふさわ)しいか否(いな)かが明証され
   てくれば、いわゆる『倭人傳』ごとき一つの文献記録を解釈し、各人各様に
   種々雑多な推論など輩出(はいしゅつ)させる余地はなくなり、

  共通の観点に立っての考察が附され、此(こ)の傳記の語る所の「倭」とは、
   どの方面を指称したのかと言う全体的な把握がなされ、

   又、周知の”邪馬台論争”の如き無駄な歳月の浪費もなくなり、
   且(か)つ又、此(こ)の傳記との訣別(けつべつ)も出来ることになる。

     本論の主旨も実に此処(ここ)に存するのである。
   而(しか)して亦(また)、其(そ)の時点に至って、古代東アジア史の或
   (あ)る頁(ページ)の解釈が一新する筈(はず)でもある。

                               著者 識(しるす)



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