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IKI File
自然環境編   歴史文化編   神社仏閣編   体験・施設編

原の辻遺跡  場所 芦辺町・石田町  アクセス 芦辺港から車で10分
紀元前2〜3世紀から紀元3〜4世紀にかけて形成された大規模な多重環濠集落で、 芦辺町と石田町にまたがる台地上を中心に、東西、南北ともに約1km四方に広がっている。 平成7年、原の辻遺跡は『魏志倭人伝』の中の「一支国」の王都と特定された。 発掘調査途中のため、古代史を書き換えるような発見が相次いでいる。 最近では人面石が話題になった。 ムンクの絵のようなユニークなもので、3〜4世紀に作られたもの。 また棹秤に用いる錘らしきものも出土し、事実だとすると7世紀とされていた度量衡整備が、 さらに400年以上もさかのぼることになる。 出土品は原の辻資料館に展示されている。 平成13年に弥生時代のものとしては国内3カ所目の国特別史跡に指定。
カラカミ遺跡  場所 勝本町立石東触・仲触  アクセス 郷ノ浦港から車で15分
平地にある原の辻遺跡と比べ高地性の環濠集落遺跡。 いまから約2200〜1700年前の弥生時代の遺跡。 島の北西にあり、対馬や朝鮮半島との往来に便利な地にある。 加良加美神社の裏手、南側に開けた斜面が当時の集落の跡と思われる。 豊富な青銅器や鉄器類、中国大陸や朝鮮半島系の土器、 また漁撈に関する遺物が多く出土し、漁業や交易に従事した人々の集落であったと考えられる。 シカ、イノシシの肩甲骨を利用した占いの道具の「ト骨」が発見された。
神功皇后の馬蹄石  場所 勝本町勝本浦  アクセス 郷ノ浦港から車で25分
聖母宮の近くに神功皇后が朝鮮出兵の際に乗った馬の蹄跡だと伝わる馬蹄石がある。 背伸びして覗き込むと、石の表面にはたしかに蹄跡らしき四つの窪みがある。 皇后の時代からおよそ800年後、皮肉にも今後はここに元軍が攻めてくる。 ドラマチックな歴史スポットである。
大塚山古墳  場所 芦辺町深江栄触  アクセス 芦辺港から車で10分
5世紀後半ごろの築造。 直径14m、高さ2mの円墳。 推定面積は400u。 壱岐には256基の古墳が残っているが、その中でも最古の古墳として重要である。 埋葬施設が竪穴式から横穴式へ移行する過程を示す特徴を持つ安国寺裏手にある 山の山頂部利用している。
笹塚古墳  場所 勝本町百合畑触  アクセス 郷ノ浦港から車で15分
6世紀末〜7世紀前半の築造。 直径66m、高さ約13mの古墳は県内最大級。 円いお盆を伏せた上に丼を伏せた様な形をしているが、ヒノキ林に覆われその全景は見えない。 石室全長約15m。 一番奥の玄室にある巨大な石を使用した組合式石棺からは、 世界でも珍しい亀の形をした飾り金具や馬具の杏葉、辻金具、帯先金具など考古学上非常に 貴重な資料が出土した。 中央権力とつながり、対外交渉に関する身分の高い人物の墓と思われる。 壱岐風土記の丘の歴史散策コースの一つ。
掛木古墳  場所 勝本町百合畑触  アクセス 郷ノ浦港から車で15分
6世紀末〜7世紀前半の築造。 円墳で、墳丘の直径は約30m。 県下で唯一の「くり抜き式家形石棺」を持つ古墳として有名。 大きな石をくり抜いて造ってあり、屋根の形をした蓋も同様の作り方である。 壱岐風土記の丘の歴史散策コースである。
鬼の窟古墳  場所 芦辺町国分本村触  アクセス 芦辺港から車で10分
壱岐では横穴式石室古墳のことを“鬼の窟”と呼んでいる。 これは鬼でもなければこんな重い石は運べないといった解釈からだろう。 6世紀後半〜7世紀前半頃の築造。 直径45m、高さは13m。 内部は大きな玄武岩を幾つも積み上げた横穴式。 石室は壱岐最大(全国12位)で全長16m、最大の天井石は4mもある。 当時の豪族・壱岐直の墳墓らしいといわれている。
双六古墳  場所 勝本町立石東触  アクセス 郷ノ浦港から車で15分
6世紀中頃の築造。 県下最大の前方後円墳で、全長91m、前方部の高さ5m、後円部の高さ10.6m。 雑木を切り払っていて墳丘をほぼ完全な形で見渡すことができる。 入口が南西に開口する横穴式石室で、前室右側壁には船の線刻画がある。
百合畑古墳群  場所 勝本町百合畑触  アクセス 郷ノ浦港から車で15分
6世紀末〜7世紀初めに築造。 23基の古墳が集中している百合畑地区。 古墳公園ではそのうち6基を見ることができる。 緩やかな斜面の南西方向に入口をもつ横穴式石室がほとんど。 壱岐風土記の丘の歴史散策コースである。
対馬塚古墳  場所 勝本町立石東触  アクセス 郷ノ浦港から車で15分
6世紀中頃の築造。 稗坂の峠道、人家の背戸山の中にある。 墳丘の頂上から対馬が見えるのでこう呼ばれているが、現在は木立で対馬を望むことはできない。 前方後円墳で墳丘は全長約65m、椎や樫が茂ってはいるが円墳部と前方部が判別できる。 背戸山とは、屋敷の後背部にある防風林のこと。
鬼屋窪古墳  場所 郷ノ浦町有安触  アクセス 郷ノ浦港から車で20分
7世紀末、古墳時代後期の円墳。 長崎県内で初めて発見された装飾古墳である。 墳丘の封土は取り除かれて石室だけが露出している長さ4.11mで複室構造の横穴式石室。 入口にもっとも近い側壁に、シンプルな線彫りによる舟、人物、大型海棲動物が描かれており、 捕鯨の様子を描いたものだといわれている。
カジヤバ古墳  場所 芦辺町国分川迎触  アクセス 芦辺港から車で10分
6世紀末〜7世紀に築造された円墳。 近年道路改修のため5mほど北側に移築復元された。 単室両袖式の横穴石室で規模や構造的にはありふれた古墳だが、 玄室内から鉄クギが出土したことにより木棺が安置されていたことが判明した。
串山の遺跡群  場所 勝本町東触  アクセス 郷ノ浦港から車で25分
昭和36年に天ケ原海岸の護岸工事中に、壱岐では珍しい国産の中広銅鉾が三本出土。 中広銅鉾は集落や「クニ」「ムラ」の祭祀品であり、 集落から離れた場所に埋められることが多いという。 天ケ原遺跡の北部、勝本イルカパークのそばにある串山ミルメ浦遺跡からは 6〜7世紀頃の占いに使ったト亀の破片十数点が出土した。 串山展望所のある高台には7つの古墳があり串山古墳群と呼ばれている。
平山古墳  場所 石田町東触  アクセス 印通寺港から車で5分
6世紀末から7世紀初めに築造。 奥行き7.8m、高さ2.6mの横穴式石室で玄室は2.7mの正方形。 壱岐でもっともポピュラーな古墳で、原形をよく残している古墳のひとつ。
岳ノ辻  場所 郷ノ浦町  アクセス 郷ノ浦港から車で10分
標高212.8m。 壱岐島で一番高い山。 展望台東方の高所には、白村江の戦いで敗れた翌年664年に、 新羅の来襲に備えて造営された烽火(狼煙)があったといわれている。 対馬と壱岐と九州本土を結ぶ緊急連絡用として利用された。 幕末には遠見番所が置かれ、警護に当たった遠見番所組は異国船の発見などに勤めた。 国境の島ならではの史跡である。 山頂には式内24社のひとつ見上神社の祠がある。
雪連宅満の墳墓  場所 石田町池田東触  アクセス 印通寺港から車で5分
雪連宅満は、736年奈良の都を出発した遣新羅使の随員のひとり。 長い旅路の途上に病死し、印通寺港の見える小高い丘に埋葬された。 壱岐出身のト部(占い師)の子孫。 人望があったとみえ、万葉集巻15にその死を悼む挽歌九首が記されている。 霜月8日が宅満の命日と伝えられ盆祭の時には慰霊念仏も唱えられる。
万葉公園  場所 石田町本村仲触  アクセス 印通寺港から車で5分
黒木城跡を整備して作った公園。 頂上部中央には壱岐近海で病死した雪連宅満への「石田野に宿りするきみ、 家人のいづらとわれを、問はばいかに言わむ」という挽歌の碑などがある。 眼下には遣新羅使一行が入港した印通寺港や雪連宅満の墓地のある丘、 弥生時代の環濠集落跡である原の辻遺跡などが見える。
国分寺跡  場所 芦辺町国分本村触  アクセス 芦辺港から車で10分
国片主神社裏手。 741年(天平13)に全国に国分寺創建の詔が発せられた。 壱岐では新たに建立せず島司壱岐直の氏寺を「島分寺」とした。 その後、釈迦堂を残すだけとなったが、1738年に中野郷の 阿弥陀堂と合し、「国分寺」と改名。 現在は数個の礎石が残る空き地になっている。 発掘調査では平城宮と同じ瓦が出土して注目された。
藤原理忠の墓  場所 勝本町立石南触  アクセス 郷ノ浦港から車で15分
軍場という地名が残るこの辺りは、元寇よりも160年も前の1019年(寛仁3)、 壱岐に襲来した刀伊の賊との激戦があったと伝えられる場所。 沿海州の女真族といわれている刀伊賊は、片苗湾一帯から上陸し、 迎え撃った壱岐守藤原理忠ら148人を殺し、239人を捕虜として連れ去ったという。 丘の上の叢林に理忠の墓と伝えられる積石塚がある。 地元では「理忠(りちゅう)さんの墓」と親しみを込めて呼ぶ。
龍化の墓  場所 郷ノ浦町小牧東触  アクセス 郷ノ浦港から車で15分
田園の農道の脇にさり気なく建っている自然石の墓石で、 表面に「龍化之墓 宇治川の先陣 日本一之名馬摺墨之母馬」と彫られている。 伝説によると、雌馬が龍と交わり産まれたという駿馬は源頼朝に献上され摺墨と名付けられた。 頼朝が木曽義仲と戦った宇治川の戦いで先陣をきった伝説の名馬。 その母馬が龍化である。 この辺りはかつて駒牧という地名で、古くから馬の放牧が行われていた。
浦海海岸の千人塚  場所 勝本町本宮仲触  アクセス 郷ノ浦港から車で20分
壱岐北西部にある浦海海岸は、元軍が対馬襲撃のあと最初に上陸した場所。 海上には黒ケ島や猿岩を望むことができる風光明媚な入江である。 岬の先端にある浦海神社の社叢を掻き分けながら進むと、 たくさんの石を積み上げた千人塚がある。 文永の役の戦死者を葬った場所である。 今でも地元の人々は「千人塚さま」と呼んで手厚く祀っている。 壱岐にはこんな千人塚が各地に残る。
平景隆の墓  場所 勝本町新城東触  アクセス 芦辺港から車で10分
新城神社は、壱岐の守護代・平景隆の本陣である樋詰城があったところ。 1274年(文永11)10月14日、壱岐の北西海岸から上陸した元軍と果敢に戦うが、 大軍勢と近代兵器に次第に追い詰められた景隆はいったん樋詰城に退却したが、 翌15日に絶望のうちに自刃したとされている。 新城神社拝殿脇に景隆の墓所がある。
文永の役高麗橋古戦場  場所 勝本町西戸触  アクセス 芦辺港から車で10分
1274年(文永11)蒙古軍と高麗軍の連合軍である元軍は10月14日、 北西海岸の浦海海岸や勝本港付近から上陸した。 勝本港から樋詰城のあった新城神社辺りまでの丘陵はかつての激戦地である。 今も古戦場跡や元寇に因んだ地名が残っている。 高麗橋古戦場もそのひとつ。 かつて高麗軍が架けたとされる石橋があったという。 しかし所在は不明。
文永の役唐人原古戦場  場所 勝本町北触  アクセス 芦辺港から車で10分
勝本町の内陸部、のどかな田園風景の広がる路傍に「唐人原古戦場」の石碑が建っている。 1274年(文永11)蒙古襲来の史跡。 唐人という地名にも歴史が刻まれている。
文永の役新城古戦場  場所 勝本町新城東触  アクセス 芦辺港から車で10分
唐人原古戦場から約1km南東、谷江川近くに石碑がある。 この一帯は最後の激戦地であったとみられ、その一画に千人塚がある。 千人塚は多くの死体を埋めたことからそう呼ばれる。 近くには平景隆の居城樋詰城があった。千人塚の中央に元寇殉国忠魂塔が建ち、 左脇には観音像、右脇に本来の千人塚の票石である自然石が2基ある。
少貳資時の墓  場所 芦辺町瀬戸浦少貳公園  アクセス 芦辺港から車で5分
1281年(弘安4)、4万もの蒙古東路軍が対馬を襲い、 次いで壱岐に攻め込んで来た。 二度目の襲来、弘安の役である。 北西部海岸(瀬戸浦)と勝本から上陸した元軍を迎え撃ったのが、 当時の壱岐守護代、弱冠19歳の少貳資時であった。 船匿城に居た資時は、わずかな軍勢で激戦を繰り広げたが、 船匿城で全滅したと伝えられる。 少貳公園の松林の中に資時の墓がある。 展望台の近くには防人ののろし台や、弘安の役の碇石がある。 周辺にはキャンプ場や海岸を周遊する遊歩道なども整備されている。
少貳の千人塚  場所 芦辺港瀬戸浦  アクセス 芦辺港から車で5分
石を累々と積み重ねた大きな塚である。 弘安の役で殺された人々を埋葬し、墓石の代わりに弔の石を積んだのだろうか。 千人塚の分布はそのまま元軍の侵攻範囲でもある。
船匿城跡  場所 芦辺町瀬戸浦  アクセス 芦辺港から車で5分
美濃谷観音堂の参道途中から右に入った人家の裏山が、 少貳資時の居館であった船匿城の跡である。 眼下に芦辺港と瀬戸浦の深い入江を一望できる。 傍らに建つお堂には資時をかたどった将軍地蔵が祀ってある。 山中には城内の抜け穴と思われる遺構もある。 周辺は弘安の役の激戦地である。
元寇の碇石五本  場所 芦辺町       
芦辺港周辺で引き上げられたものが現在5本確認されている。 長谷川家の碇石・千人堂の碇石・旧役場の碇石・大師堂の碇石・壱岐神社の碇石
自徳庵の隠れ穴  場所 芦辺町住吉前触  アクセス 郷ノ浦港から車で15分
地元では「ジトカン」と発音。 杉木立の中、土手の下にぽっかりと口を開けている。 入口の奥行き約5m、幅約3m、高さ約2mのかなり大きな穴である。 元軍襲来で山に逃げ込んだ島民はこの穴に身を潜めて、悪夢のような時が過ぎるのを待った。 ほかにも箱崎、国分、勝本町にも「隠れ穴」がある。
亀丘(亀尾)城跡  場所 郷ノ浦町本村触  アクセス 郷ノ浦港から車で5分
1293年(永仁元)唐津の岸岳城主、波多宗無が築城。 その後、松浦党の志佐、佐志、呼子、鴨打、塩津留の五氏が分治していた壱岐を 波多泰が統一し亀丘城に入った。 現在本丸跡はどうにか往時の姿を留めるが、周辺は公園化され面影も薄れてしまった。 『壱岐名勝図誌』に「城内に八幡宮、荒神社の御社あり。 亀尾と名つけし八城内に亀石いるによつてなり」とある“亀石”もない。 亀丘城は明治まで壱岐の中枢だった唯一の城であった。
波多隆の墓  場所 郷ノ浦町沼津鵜野辺  アクセス 郷ノ浦港から車で10分
1472年(文明4)肥前の波多泰の軍勢が攻め込み、壱岐を制圧。 祖先である波多宗無が築城していた亀丘城(亀尾城)に移り、 壱岐守護と称し治めることになる。 孫の盛へと代は移ったが、盛には跡目を継ぐべき実子がなかったため、 波多家の内紛が勃発する。 盛の甥にあたる波多源五郎隆が城代となったが、盛の娘の次男の藤堂丸を 世継ぎとしたい代官六人衆が暗殺を企てる。 1555年(弘治元)4月、事前に察知した隆は逃亡を計るが、 鵜野辺海岸まで追い詰められ、三人の家臣と共に自決する。 海岸の急斜面に隆と三人の家臣の墓がある。 目前に火島が見える小さな浜である。
重山塚  場所 石田町筒城西触  アクセス 印通寺港から車で5分
波多家の跡目争いで、隆に続いて殺害されたのは弟の源七郎重である。 13歳で城代になって1年足らずの1556年(弘治2)、 後室に操られた代官六人衆の暗殺計画を知り密かに城を出、 安国寺に身を隠すが、追手が迫り重は筒城の権現崎で射殺された。 土地の人々が彼の死を悼み、この地に塚を造って祀っている。 現在でも石祠の前に季節の花が絶えることがない。
王子五郎の墓  場所 勝本町立石南触  アクセス 郷ノ浦港から車で20分
王子五郎が七駄半の黄金を高獄(郷ノ浦町長峰)に埋め、白椿一株を植えて目印とし、 場所を知る従者を斬り殺した。 「朝さす 夕日輝く木の下に黄金千無量(両)埋む。後世観音造営のため」 という遺書があったという。 その王子五郎の墓である。 細い畑道を100mばかり歩いた先にお堂があり、その裏手にひっそりと石碑が建っている。 埋蔵金伝説などから一説には倭寇の頭目、 あるいは大海賊の五峰王直ではないかともいわれている。
生池城跡  場所 勝本町百合畑触  アクセス 郷ノ浦港から車で15分
16世紀、倭寇であった松浦党の源壹が築城したと伝えられる山城。 雑木林に覆われた城山山頂に二重の空堀と石垣が残っている。 麓の水田の傍には“生池”という水神の小さな祠があり、 むかし生首をたくさん投げ込んだとか、河童がここで人を生け捕りにしたとか 物騒な伝説もある。 生池城の用水汲み場であった。 壱岐風土記の丘の歴史散策コースである。
勝本城跡  場所 勝本町坂本触  アクセス 郷ノ浦港から車で25分
1591年(天正19)豊臣秀吉が朝鮮出兵にそなえて平戸藩主松浦鎮信に 命じて築城させたもの。 海抜78.9mの山頂部に築城。 一の門と二の門の間にあった枡形と、その左右の石垣が残っている。 国指定の史跡。 周辺は城山公園として整備され、蕉門十哲のひとり河合曽良の句碑などもある。 城跡からは勝本の港が一望できる。
お伊勢様  場所 郷ノ浦町平人触  アクセス 郷ノ浦港から車で10分
民家の裏山の古びたお堂の陰にお伊勢様の石祠がある。 これには伝説がある。 ・・・・・長者がお宝をどこかに埋めた。 下女のオイセがそれを知っていた。 そこで口封じのためにオイセを殺した。 崇られてはならないとオイセを祀った・・・・・というもの。 石祠には「慶長十三年戌申二月吉日願主助左エ門」と彫られている。 今から400年も前のことである。 そして昭和35年、近くの農家の裏山から中国の古銭と壷が偶然堀り出された。 それが長者の埋蔵金なのか、今となってはだれも分からない。 壱岐郷土館に展示されている。
へそ石と顎掛け石  場所 芦辺町本村触  アクセス 芦辺港から車で10分
県道脇に木の柵で囲まれた大小2個の丸い石がある。 『壱岐名勝図誌』には国分石とあり、壱岐の中心の道標にしていた。 まさしくここは壱岐のど真ん中、“へそ石”の由来である。 その隣に立つ石柱には、上部に六面十二菩薩の仏塔が乗っている。 壱岐島の中心を定めた心の御柱であるとか、あるいはドルメン(巨石信仰)ともいわれる。 柱の中ほど、ちょうど大人の顎が掛かるくらいの位置に、謎の切れ込みがある。 足元を見ると子ども用であろうか、足踏台が置いてあって、思わず顎を乗せてみたくなる。 でも、なぜ顎を乗せるのか不思議。
朝鮮通信使迎接所跡  場所 勝本町勝本浦  アクセス 郷ノ浦港から車で25分
勝本浦の漁師町の中にある。 聖母宮の大鳥居から二軒目にある阿弥陀堂が、かつて朝鮮通信使の宿泊所だった場所である。 平戸藩は朝鮮通信使の接待を勝本浦でおこなった。 海上が時化て長逗留になったときは、爾自神社で順風祈願をおこなった。 藩にとって財政的にも大きな負担であった。
小松・作助の墓  場所 石田町筒城東触  アクセス 印通寺港から車で10分
小松浜からほど近い畑の傍にある。 ・・・・・むかし唐津の商家に小松という器量良しの看板娘がいた。 手代の作助は小松に恋心を抱いていたが、小松は彼と一生連れ添うことはできないと壱岐へ逃れた。 乙島の老夫婦に匿われるが、諦めきれない作助が後を追ってきたことを聞きつけ、 さらに逃れる小松は彼の目の前で断崖から身を投じる。 助けようと飛び込んだ作助と共に二人は溺死してしまった・・・・・。 小松と作助は少し離れて葬られた。 いずれも自然石を積んだだけの質素な墓である。
百姓源三の墓  場所 勝本町東触  アクセス 芦辺港から車で15分
壱岐の義人として有名な岩本源三の墓である。 平戸藩の悪政を訴えるため江戸に上り、11代将軍徳川家斉に直訴した。 幕府から平戸藩に差し戻された源三は死罪を申し渡される。 1820年(文政3)壱岐の百間馬場で処刑される。 43歳であったという。 武家の圧政に反抗して、自分を犠牲にした源三は義人として崇められ、 源三神社に祀られている。
流人・小山弥兵衛の墓  場所 芦辺町箱崎本村触  アクセス 芦辺港から車で10分
江戸時代、壱岐には京都、大阪、中国、四国など西国の罪人が配流された。 上方からは思想犯、国事犯が主で、神官、僧侶、役人など、インテリの穏健派が多かった。 小山弥兵衛もその一人である。 1739年(元文4)生野一揆の罪で、但馬国(兵庫県)より壱岐へ配流となる。 役務の余暇に林業、農業、果樹作りなどを近在の農家に広め、読み書きを教えた。 壱岐での遠島生活は54年にも及び、88歳で亡くなっている。 墓は、奇麗に手入れされた竹林に抱かれるようにひっそりとある。
長者の墓  場所 芦辺町諸吉本村触  アクセス 芦辺港から車で10分
・・・・・むかし八幡浦に正直者で貧乏だが、熱心に竜神を信仰する老夫婦がいた。 二人の信仰の厚さを見て、竜神は二人を竜宮でもてなし、「はぎわら」を贈った。 家に帰り「はぎわら」の顔を撫でて頼めば何でも手に入り、 たちまち長者になるばかりか二人は若返った。 しかし困ったことに、この「はぎわら」は土足のまま家中を歩き回り、 また時に夫婦の交わりを禁じた。 これでは生き長らえても何にもならないと「はぎわら」を竜宮に返してしまった。 すると四方八方の蔵は元に戻り二人は白髪の老人にもどり一生を終えたという・・・・・。 長者原崎の海岸にある石を積み上げただけの塚が長者の墓と言われている。 『壱岐風土記』の中にも「はぎわら童子」の記述がある。
河合曽良の終焉地  場所 勝本町勝本浦  アクセス 郷ノ浦港から車で25分
奥の細道に随行した芭蕉の高弟、河合曽良は、1710年(宝永7)巡見使の随員として 壱岐に来た折、病床に臥し、勝本浦の港に面した中藤家の一室で客死した。 曽良62歳の春のことである。 墓は勝本城中腹の能満寺にある。
恵美須浦  場所 芦辺町恵美須浦  アクセス 芦辺港から車で5分
壱岐の捕鯨基地として栄えたのは勝本町の田ノ浦と恵美須浦であった。 『壱岐名勝図誌』の恵美須浦納屋全図とくらべてみると、 当時の面影を残し、港周辺に残る石垣も当時の岸壁の石積みである可能性が高い。 沖の堤防に立って鯨組の栄華を偲んでみるのもおもしろい。
鯨供養塔  場所 芦辺町恵美須浦  アクセス 芦辺港から車で5分
かつて捕鯨の拠点であった前目浦(いまの恵美須浦)は、下り鯨、上り鯨の年2回の漁が 可能な好条件を備えていた。 これは捕獲した鯨の霊を慰めるための供養塔である。 前目浦を見下ろす高台にあり、高さ2.4mの花崗岩製。 1717年(亨保2)3月の建立で、台石には右から布谷、土肥、布谷、許斐、篠崎とあり、 いずれも捕鯨によって財を成した鯨組主である。 捕鯨の最盛期には鯨供養が毎年おこなわれ、各地に供養塔が建てられたというが、 現在のこっているのはこの1基だけである。
田ノ浦納屋場跡  場所 勝本町仲触  アクセス 郷ノ浦港から車で25分
1727年(亨保12)勝本浦(田ノ浦)に土肥甚右衛門らが鯨組を結成した。 一つの鯨組には千人を越す人間が集まって働き、壱岐の捕鯨業は隆盛を極めた。 現在、海岸は埋め立てられ当時の面影はほとんどないが、 『壱岐名勝図誌』の田ノ浦納屋場図をよく見ると、 海岸近くの民家に残る石垣が、当時の納屋場跡の石積みの岸壁であることが分かる。
阿房塀  場所 勝本町勝本浦  アクセス 郷ノ浦港から車で25分
鯨組の中でも、勝本の鯨組・土肥氏の豪奢は群を抜いている。1767年(明和4) 9月、土肥市兵衛は3年の歳月をかけて大豪邸を構える。 そして京都、大阪より数多くの遊女を買い取り、屋敷内に住まわせていたという。 土肥氏の屋敷はお茶屋屋敷とも呼ばれ「浜の真砂はつきても、土肥の金は尽きない」 とまでいわれ贅沢の限りを尽くした。 いまは阿房塀と呼ばれる長さ約90m、高さ7mの大きな塀だけがどっかりと残っている。
鯨石  場所 石田町射手吉触  アクセス 印通寺港から車で10分
西崎浄水場前の水田に巨大な玄武岩が覗いている。 地上に出ている部分の長さはおよそ7m。 その黒々とした質感は、大海原に浮上した鯨の背のように見える。 かつて鯨組の羽刺(漁師)たちは大漁祈願のためこの石に参詣したという。
海難者の慰霊塔  場所 郷ノ浦町元居浦  アクセス 郷ノ浦港から車で1分
1859年(安政6)旧暦の2月13日のこと、元居浦から出漁した7艘の帆船が、 突然吹き荒れた南風で遭難し、53人の命が海に消えた。 壱岐の漁師たちはこの春の嵐を「春一」「春一番」と呼んで恐れていた。 それ以来、毎年旧暦の2月13日は漁を休んで海難者の冥福を祈っている。 供養塔は元居公園の真下、赤い鳥居の八幡宮の裏手にある。 いつも供花や線香が絶えることがない。
黒崎砲台跡  場所 郷ノ浦町新田触  アクセス 郷ノ浦港から車で20分
猿岩の展望所から1分。 昭和3年8月から6年かけて完成。 口径41cmのカノン砲二門の砲台で、砲身の長さ18.83m、弾丸の重さ1t、 最大射程距離約35km、同じ規模の砲台が韓国釜山と対馬にあったが、 ここは一発も実弾を発射することがなかった。 巨大な地下要塞であるが、猿岩展望所の売店裏の山道を少し登ると、 砲台の巨大な穴を地上からも見ることができる。
花雲亭  場所 石田町池田西触  アクセス 印通寺港から車で5分
石田町総合福祉センター脇の木立に囲まれてひっそりと佇む花雲亭は、 皇族の茶室を東京から移築復元したもの。 寝殿造の基本を取り入れ、草庵式静寂と書院式荘厳さを合わせもった貴族的 風格の漂う建造物である。 控えの間と茶室の花雲亭がある。
大韓民国人慰霊碑  場所 芦辺町諸吉東触  アクセス 芦辺港から車で5分
清石浜から背後の砂丘の小道を上っていくと「大韓民国人慰霊碑」がある。 終戦直後の昭和20年10月11日、強制連行されていた韓国人を乗せた 引き揚げ船が玄界灘で台風に遭遇し芦辺港で遭難してしまった。 このとき犠牲となった約160名の韓国人の霊を慰めるため、 昭和42年に慰霊碑が建立された。 この悲劇は、壱岐の高校生が文化祭で劇にして上演したりしている。
春一番の塔  場所 郷ノ浦町元居浦  アクセス 郷ノ浦港から車で1分
春先に吹く強い南風のことを「春一番」といい、いまでは気象用語となっているが、 この言葉の発祥の地は壱岐である。 1859年(安政6)春一番により地元の漁師が大勢遭難した。 昭和62年、郷ノ浦港入口の元居公園に、船の形をした「春一番の塔」が建てられた。