三高歌集

行春哀歌(ぎょうしゅんあいか)

大正三年  矢野峰人 作詞

現在Realplayer(無料)をダウンロード後インストール(Netscapeなら\Netscape\Communicator\Program\Pluginsに)されますと、Realplayerが組み込まれます。三高の旗をクリックして、お待ち下さい(Java起動に1〜2分かかります)。realの画面がでましたら左側の三角をクリックしてください。もちろんRealplayer plusでも歌が流れます。最新のRealplayerは音質が大変よくなりました。

われらがはなやかに美はしかりし青春の饗宴(きょうえん)は、かくも しづかに、またかくもあわたゞしげに盡きなむとす。 友よ、さらに新しき盃をもとめながら、われらともに うすれゆく日のかげにこの哀歌を聲ひくゝ誦せむ。


静かに来たれなつかしき
友ようれひの手をとらん
くもりてひかる汝が瞳に
消えゆく若き日はなげく


しずかにきたれ なつかしき
ともよ うれいの てをとらん
くもりてひかる ながまみに
きえゆくわかき ひはなげく


われらが影をうかべたる
黄金の盃の美酒は
見よ音もなくしたゝりて
にほへるしづくつきむとす

われらがかげを うかべたる
こがねのつきの うまざけは
みよ おともなく したたりて
におえるしづく つきんとす


げにもえわかぬ春愁の
もつれてとけぬなやみかな
君が無言のほゝえみも
見はてぬ夢のなごりなれ

げにもえわかぬ しゅんしゅうの
もつれてとけぬ なやみかな
きみがむごんの ほほえみも
みはてぬゆめの なごりなれ


かくも静かに去りゆくか
ふたつなき日のこのいのち
うたへる暇もひそびそと
うするゝかげのさみしさや

かくもしずかに さりゆくか
ふたつなきひの このいのち
うたえるひまも ひそびそと
うするるかげの さみしさや


あゝ青春は今かゆく
暮るゝにはやき若き日の
うたげの庭の花むしろ
足音もなき「時」の舞

ああせいしゅんは いまかゆく
くるるに はやき わかきひの
うたげのにわの はなむしろ
あしおともなき ときのまい


友よわれらが美き夢の
去りゆく影を見やりつゝ
離別の酒を酌みかはし
わかれのうたにほゝゑまん

ともよ われらが よきゆめの
さりゆく かげを みやりつつ
わかれのさけを くみかわし
わかれのうたに ほほえまん

元同窓会副会長山本修二先生が同窓会報7(1955)に「行春哀歌とその作者」という一文を寄稿されている。

当時高校の寮歌は多く"悲嘆慷慨調であった中に、この歌がいかにフレッシュな感触を与えたか"、あるいはまた"クラスの解散コムパの時に歌おうとすると、作者の矢野君から注文があって全員右手に盃を持って、それに酒をなみなみと注いで、そのままの姿勢で歌うことになったが、あの歌のよさは「低唱微吟」というような所だから、なるほどこうして歌うのが、作者へ対しあの歌に対するエチケットであると思う。寮歌にも季節というものがあるらしく「行春哀歌」の懐かしさがしみじみと感ぜられるのは、正月が過ぎて京の底冷えのころとなり、学年末が追々迫って、試験のことも気にかかるが、酒場のともしびも忘られぬという時で、私の住んでいる北白川でも、一月二月の夜更けには、三高生の歌う「行春哀歌」がどこからともなく聞こえてきたものである"と書かれている。

----------------------------------------------------

houjin
峰人・矢野禾積(かづみ)は、三高在学中嶽水会雑誌を舞台に詩作を発表しつづけた。卒業後は京都帝大英文科に進み、英文学者・比較文学者として活躍、傍ら大正11年から4年間三高で教鞭を執った。英国留学後、台北帝大教授、同志社大学教授、東京都立大学教授を歴任、その後都立大学長、東洋大学長となり、昭和63年逝去した。矢野自身は「コウシュンアイカ」または「ユクハルノアイカ」と読むべきだと言っていた(安田:同窓会報70(1989))が、私の在学時は「ギョウシュンアイカ」と読んでいた。2000年記念全国大会司会者は「コウシュンアイカ」と紹介したが、あるいはこの矢野の意向を反映したのかもしれぬ。この曲の調子の故か、この曲は恩師・同窓生の追悼の催しなどで歌われ、鎮魂歌としての性格も持っている。

ここに掲げた扇面は矢野峰人自身の手になる「行春哀歌」で、 三高創立百周年記念大会(1968)の引き出物として配られた扇の背面である。


作曲ははじめ小川昇(大正三年一部丁)が担当したが、音楽的に当時の三高生には高尚すぎ、普及しなかった。
当時東京で活躍していた片岡鉄兵は矢野の中学時代の友人で、たまたま帰省の途中矢野を訪ねてきた。片岡達が酔余の果てによく歌っていたという島崎藤村作詞「酔歌」(藤村の詩集「若菜集」に収録)の曲を、そのとき片岡が歌うのを聴いた矢野はこれだと思い、採譜した。
「行春哀歌」の曲については、有名な与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」の曲との関連を巡って種々の説が世間に流布したが、海堀昶氏の研究の結果(同窓会報 61(1985);63(1986))では、本来日清戦争に際して作られた軍歌「海城の逆撃」がもととなって生まれた一高の第9回紀念祭寮歌「思えば遠し神の御代」が、次第に変化しつつ「人を恋うる歌」の曲に転訛し、さらに「酔歌」に流用されていったとされている。

2003年発行の同窓会誌 98 p.28には谷川 清(昭23文オツ)による「行春哀歌」碑 誕生!!が見える。この報告によると、岡山県津山市では同市作楽(さくら)神社 宮司 福田景門氏を事務局長とする美作寮歌振興会主催で、これまで津山寮歌祭が毎年催されてきたが平成14年の第25回で幕を閉じた。 津山市には旧制高校は無かったが、三高の矢野峰人、六高の出 隆両氏が津山の出身で矢野氏は「行春哀歌」、出氏は「南寮寮歌」(野辺の小川に花咲かば・・・)を作詞されて、いずれも大正2年に発表され、今なお多くの人に愛唱されているので、作楽神社境内に津山寮歌祭記念碑を福田氏がつくられ、平成14年10月14日その竣工が福田氏から披露された。

碑の中央には「寮歌よ永遠なれ」と大きく刻まれ向かって右側に「南寮寮歌」の、左側には「行春哀歌」のそれぞれの一節の歌詞が配されている。この配列順は出氏の方が出身の津山中学の上級生であったことが考慮された結果という。

INDEX HOME