7.新しい同窓会誌から

同窓会報 98 岡 潔先生を支えた三高の力 高瀬 正仁(2003)

okakiyosi

岡潔は和歌山県粉河中学を経て三高で学び、京大理学部数学科を1925年卒業した。卒業と同時に同数学科の講師に就任し、それから同助教授、広島文理科大学助教授の道を歩むが、1940年病気のために文理大を退職. 爾来、郷里で研究に専念するが、1949年奈良女子大学家政学部教授となり1964年定年まで在任した。さらに1969年には京都産業大学にも教授として就任した。1978年3月1日没。

1929年より3年間フランスに留学したが、多変数関数論を生涯の研究分野に定め、ことに1934年暮れこの分野の状況を分析したH.BehnkeとP.Thullen共著の本に接し、この分野に未解決の問題三つが残されていることを知ると、以後終生この解決に研究を集中し、1953年第\論文で当初の主要問題すべてを解決した。その功績に対し日本学士院賞をはじめ権威ある各賞が贈られたが、1960年遂に文化勲章を受章した。

この文には功績が認められるに至る友情の経緯も書かれている。

私の三高在学中にも学者としての岡先生への賞賛が聴かれたが、他面、生活面での奇矯さも耳に入ってきた。曰く「靴下が表か裏かは問題にされない」「ほかの先生の講義中でもずかずかと教室に入られて、黒板で計算をされまた出て行かれる」「頭に響くといってゴム長を愛用されている」等々であった。その真偽のほどは知らないが、天才の持つ異常さ、非日常性、非常識さを持っておられたのは事実であろう。この岡を支えた三高の学友たちの友情がこの文に描かれている。九州大学大学院数理学研究院講師 高瀬正仁氏は昭和26年のお生まれで、三高の卒業生ではないが寄稿された。


数学の岡潔先生の評伝の執筆を志してから今年でもう八年になるが、このほどようやく海鳴社より二冊本の評伝が刊行される見通しがたち、この七月に一冊目の『星の章』が書店に並んだ。四・六判で550頁という厚い本で定価も4,000円(税別)と高めだが、口絵に大山忠作(日本画家)の作品「岡潔先生像」を使い、きれいな本ができ上がった。目下、二冊目の『花の章』の原稿を揃えているところであり、年末をめどに刊行したいと考えている。

岡潔先生は20世紀の初年にあたる明治34年(1901年)に紀州和歌山の山村「紀見村」(現在は橋本市の一区域)に生まれた人で、和歌山県粉河中学から三高、京大と進み、「多変数関数論」という数学理論の全容をほとんど独力で 作り上げることに成功した大数学者である。没後四半世紀が過ぎた今日では、数学を学ぶ若い世代の間にも岡先生の名を知るほどの人はきわめてまれになってしまったが、昭和38年から44年頃にかけて『春宵十話』(毎日新聞社)を初めとする一連のエッセイが世に出てたいへん評判を呼んだ一時期もあった。ちょうどぼくの中学、高校時代と重なるが、昭和41年秋、群馬県の地方都市(桐生市)の高校に入学してまもないとき、ぼくは書店の新刊書コーナーで岡先生の自伝風エッセイ『春の草 私の生い立ち』(日本経済新聞社)を見つけ、購入した。これを皮切りに『春風夏雨』(毎日新聞社)『紫の火花』(朝日新聞社)などのほかのエッセイや小林秀雄との対話篇『人間の建設』などを読み進めていくうちに、すっかりファンになってしまい、将来の志望も数学へと傾いていった。しかもその数学の諸分野の中でも岡先生が開拓した多変数関数論が年頭を離れる日はなく、岡先生の論文集を座右の書物にして数学を学び、そのまま今日に至っている。あまつさえこうして八年もの歳月をかけて評伝の執筆に腐心するという成り行きになったのであるから、若い日の読書の影響は思いのほか大きく、当の本人も計り知れない領域にまで及んでいたのである。

『星の章』の守備範囲は岡先生の誕生から三十代の終わりがけまでで、十編の独立した文章で構成されている。三高、京大を通じて六年間の岡先生の学生時代の描写を試みて『松原隆一との別れ(三高と京大)』という作品が得られたが、この時代は数学者「岡潔」の揺籃期であるから重要さも格別で、調査にも一段と力が入った。寮歌を歌いながらの夜ごとの散策、紀念祭、野球の対一高戦等々、簡素だが美しい青春の名場面が打ち続き、三高の魅力は知るほどに増すばかりであった。

岡先生が、三高の理科甲類に入学したのは今から84年前の大正8年9月である。この年の春3月、粉河中学を卒業した岡先生は、7月、三高の入学試験を受けて合格した。成績はすばらしく、700点満点の8割に達する556点を獲得し、志願者総数1852名、合格者287名のうち文理全体で14番、理科では4番であった。大宅壮一(ジャーナリスト)、小川鼎三(脳の研究者)、梶井基次郎(作家)等々、多士済々の同期生たちの中に、岡先生と同じ数学を専攻し、生涯の親友になった秋月康夫先生がいた。この年度から制度が変わり、中学四年終了で高校受験できるようになったが、秋月先生は大阪の天王寺中学から四修で合格した秀才である。京大で岡先生と語り合いながらともに数学を学び、卒業後は長く三高に勤務し、戦後、京大教授に就任した。岡先生の方は中学五年卒業組で、いわゆる「五卒」であった。

昭和二十年代も後半にさしかかり、五十代に入ったころから岡先生の名声は急速に高まり、学士院賞、朝日賞、文化勲章など、日本の学者として最高の栄誉を次々と受けていったが、岡先生は秀才がそのまま堅実に大成したというタイプの学者ではなく、背景には幾分複雑な人生が控えている。岡先生は京大卒業後フランスに留学し、帰朝後、広島文理科大学に勤務したが、昭和13年6月、休職して帰郷してしまい、それから十年余にわたり(一年弱の北大での勤務は別にして)孤高の数学研究に身を投じた。岡先生の生涯の「星の時代」というべき魅力的な一時代であり、岡先生の数学研究はこの時代に神秘的な深みに到達したのである。

そこで僕らの関心を引くのは休職の理由だが、休職のちょうど二年前の昭和11年6月下旬、岡先生は広島で不可解な事件を起こし、新聞沙汰になったことがある。(深夜自宅の近くを通行中の夜間中学生を襲い物品を奪い、殴りつけたりしたという)。誰にも理由のわからない奇妙な出来事だったが、岡先生はこのころからどうも精神の平衡を失いがちで、(脳病院に)入院を余儀なくされるなど危うい日々が打ち続き、一連の経緯の結末として休職、帰郷という事態に立ち至ったのである。岡先生の生涯を通じてもっとも劇的な場面である。

帰郷した岡先生は一途に数学研究に打ち込むばかりで、全く仕事をしなかった。休職中は給与の支給もあったが、帰郷して二年目の昭和15年6月には正式に依願免本官ということになり、収入の道筋が完全に途絶えてしまった。家の資産を切り売りするなどして糊口をしのいだものの、到底足りないところに支援の手をさしのべたのは、三高の同期生、東洋紡績の谷口豊三郎であった。秋月先生の口利きで岡先生の苦境を知った谷口は、谷口工業奨励会からの援助という形にして、昭和15年8月ころから月々百円の支援を続けたのである。昭和36年、岩波書店から岡先生の数学論文集が刊行されたとき、出版費用を援助したのも谷口豊三郎であった。

それでも戦後のインフレでいよいよ生活がたたなくなったとき、岡先生は新制の奈良女子大学に就職したが、斡旋の労をとったのはまたも秋月先生であった。三高校長時代に秋月先生と親しかった落合太郎(仏文学者)が、奈良女子大学の学長に就任したのも幸いした。

岡先生の学問の真価が広く世に認知されていく上で、もっとも強力に作用したのも三高の力であった。岡先生の論文はみな「多変数解析関数について」という通しの表題をもち、第一、第二という風に番号が打たれているが、第六番目の論文までは国内の学術誌に掲載された。どれも数学史上に記録される傑作揃いだが、国内に顧みる人はなく、岡先生はいつまでも無名であった。ところが岡先生は戦中戦後の紀見村時代を通じて一つの数学理論を完成の域に高め、第七番目の論文を書き上げた。昭和23年7月のことである。岡先生はこれを、ボロ服に風呂敷包みを肩に振り分けるという、まるで百姓のような格好をして秋月先生のもとに持参した。折しも同じ三高出身で、京大の学生時代に岡講師の演習を受けた湯川秀樹が渡米する直前のことであった。岡先生の論文は秋月先生から湯川さんに託されて太平洋をわたり、さらに大西洋を越えてパリに運ばれてフランス数学界の機関誌の巻頭に掲載された。これが、数学者「岡潔」が広く世界に認知された初めであり、この評判が逆に日本に伝播して数々の栄誉に反映したのである。三高のチームワークのたまものというほかはなく、岡先生の生涯の中でも際立って感銘の深い出来事である。

昭和24年7月12日の日付で紀見村の岡先生に書かれた秋月先生の手紙が残っている。秋月先生は米仏両国で第七論文が評判になっていることを伝え、その上で「兎に角、奈良に落ち着かれて数学の御研究に打ち込まれんことを私として只管御願い致します』『外からの雑音には関はりなく君独自の御思案に専心して下さいますよう願い上げます」と申し出た。岡先生もこれに応え、「秋月君の手紙は直情のにじんだよい手紙である」と日記に書き留めた。ここにもまた三高の友情が生きている。

岡先生の学問と人生を生涯にわたり陰に陽に支え続けたのは有形無形の「三高の力」である。孤高の数学者岡先生は決して孤独ではなく、三高の友情のエーテルに包まれていたのである。(数学者・数学史家)

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同窓会報 99 出欠の日数と回数が進級条件から消えた 三輪佳之(2004)

戦後の三高という特殊な条件の中で見られた特殊な変化の記録として記録に留めたのだが、思い返すと三輪君と同級の私の3年生当時9月頃からは、多くの級友の欠席が顕著になってきた。その中には大学入試に備えて今さら授業など聴いておられるかと、自宅での受験勉強にウエイトをかけた人もかなりいたのだろうと思うが、確かに出欠日数の意識など丸でなかった。卒業出来たのは三輪君本人だけで無く、多くの級友が恩恵を受けたはずである。この文章を読んで妙に納得している。

一人の生徒とも対等に渡り合い、まともな意見には真摯に耳を貸し、教授会に諮ってからという様な言い分もなく 大事な出欠の事を校長の権限だと即決した前田先生にも、現在の学校管理職に見られない潔さ三高の面目を見てすがすがしく感じるのである。


戦前・戦中には、年間欠席は60日まで、事故回数は確か30回までしか認められなかった。事故回数とは、欠席、遅刻、 早退、欠課等の回数で、遅刻して早退すると、一日でも2回と数えられるから、それを避けて『幽霊出席』が考え出されたと聞いた。
作家の織田作之助も何度か落第したが、その内の一度は同じ下宿で、出欠管理を引き受けていた同級生が、事故回数を数え違い一回オーバーした為だった。その出欠管理をしていたS先輩(故人)の直話だ。

この制度が無くなるのに筆者は一役買った。

敗戦後学校が再開されると、戦中の理科偏重で、文科生が極端に少数なのを是正する為、理科生に文科へ転科するよう要請が始まった。その愚痴を友人から聞いて、ふと昭和19年の入学式で、宣誓書の前文を読まされたか書かされた時の事を思い出した。
「入学の上は勉学これ努め、転科、転類などいたすまじく」の文言で『転科・転類』の意味が分からず、介添役の教務の人に聞いて、納得したのだった。そこで瞬間湯沸かし器のように怒猛って、校長官舎へ駆けつけ、前田先生に「宣誓させられた事を破らすとは何事か」と、玄関先で噛み付いた。
応接間の席についてから、苦渋に満ちた声で「これは進駐軍から文部省を通しての命令なので、校長としてどうにもならん。校長として出来る事を交換条件に、我慢してくれ」と言われた。
で、「転科は自由意志に因る事。食料休暇まで有る現状から、出欠を進級条件に入れない事」を申出「それなら校長の権限で出来る」と即日実行してもらったのだ。そのおかげで筆者も卒業できたのだが。(昭23理)

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同窓会報 101 逍遙の歌の作者と曲の変遷 海堀 昶(2006)

「紅もゆる」百年記念大会は平成17年10月15日に成功裡に終わったがそれを機会に、作曲者k.y.の探索が行われた。紅もゆるの作曲者の表記がどのような経緯を辿ったのか同窓会専務の海堀氏が会報101号に発表している。氏の論文には各時代の楽譜が書かれており、氏はこの楽譜を示すことも目的とされたのであろうが、ここでは楽譜は全て省略させて頂き作曲者に的を絞って部分的に一部省略させて頂きながら本文を掲載させて頂いた。


この歌が明治38年の秋に、最初に友人達に配布された一枚物の活版印刷では、作詞者は文末に(こい)と記され、作曲者は数字の譜面の右肩に小文字でk.y.と表示されていました。こいは澤村専太郎の筆名、漢字で書けば胡夷ですが、k.y.については不明です。
この印刷物は半世紀を隔てて昭和38年にふたたび陽の目を見たのですが、当時はあまりの変化に仰天するばかりで、歌を改編することも出来ず、以後歌集の巻頭を別刷で飾るに止まりました。しかしこれによって原歌を承知された向きも多いことでしょう。
その後、歴代歌集はごく僅かの可能性を除いて、ほとんど全ての収集が出来た処に従って、順を追って曲の変化と作者名の移り変わりを中心に紹介します。

三高歌集が創刊されたのは明治44年。編集者3名の内には紀念祭歌の深尾巣阜もいますが、原歌の記憶は消え失せてか

「作歌者 不明、作曲者 不明」
と表示され、以後大正8年版まで継続しました。歌詞には大幅な、曲にも若干の変化があります。歌詞については以前に述べましたので今回は省略します。

作詞者の名は大正10年版に至って漸く、「澤村胡夷君作歌」としるされました。これはその前々年、大正8年に彼が京大文学部助教授として東京から京都に赴任してきた事と関係があるとわたしは考えます。朝な夕な洛中洛外に谺する「紅もゆる」の作者が実は判っていないと聞かされた御本人が「それは俺だよ」と言ったに違いないと思うのです。しかしこの私の想像では、作曲者に触れる事が出来ないのが残念です。
当時も今も「歌を作る」と言えば歌詞を作ることで、曲はそれに付して然るべく作られ、主体は歌詞にあったと思います先に述べた私の着想を拡大解釈して、作詞のみならず曲も澤村さんが作ったと主張するのは無理です。(略)

以後そのまま推移しましたが、昭和9年に三高歌集の品切れが原因か、ただ一度、寮で「寮歌集」を発行した時、従来の「作歌」を何故か「作歌作曲」と変更したのが、その後も引き継がれて戦後も昭和38年に至りました。
余談ながら、この変更は琵琶湖周航歌についても、大正14年版以来「小口太郎作歌」と記されていたものがこの時「作歌作曲」と誤られ、、堀準一(7理甲)先輩が昭和57年に「ひつじぐさの作曲者は吉田千秋」と断定する迄続いた事をご存知でしょう。

昭和38年に平田憲夫(明治43二農)さんから、澤村先輩と同期の兄上の遺品として原歌譜が披露され、作曲者のイニシャルが初めて判明しました。
この印刷物のk.y.の初めの.をoのミスプリントと見てkoy=こい=胡夷=澤村専太郎とする説は澤村作曲説に洗脳されたノーテンキな解釈に過ぎないといわざるを得ません。
一方で、同級生その他の友人関係の中から該当者を探そうという動きも出て、山村孝之祐氏等々のなもその過程で取沙汰されましたが、澤村胡夷全詩集を刊行した大嶋知子さんの結婚披露宴に招かれた鈴木常夫(ホルタン17・9文丙)が偶々同席した澤村さんの長女=志賀初音さんから『父が紅もゆるを作曲したことはない』と聞かされそれではと鋭意澤村さんの近辺でk.y.に相当する人を探し回ったのが山村説の発端でした。この経緯は梅田義孝(19文丙)がホルタンから直接聞いた話しです。
ホルタンはこの説を熱心に主張した時期があり寮歌振興会などでも説き回ったらしく、同会の発行したレコードの解説には山村氏の作曲と記されています。しかし同氏の作曲能力に疑問があって、この説は長続きしませんでした。
現行の三高歌集は一旦は澤村作詞と改めただけでしたが、その後本名の確認を諦めてk.y.作曲と記しています。

k.y.探索は行き止まって停滞しましたが、平成17年に「紅もゆる」誕生百年記念の歳を迎えるに及んで、気を新たにして問題解決を図っている次第です。
口火を切ったのは、岸田達也(17・/9文乙)で、三高歌集の同時代の歌に吉田恒三作曲と記されたのが三曲あり、また一方で彼は外部の人からはコウゾウと呼ばれていた事をヒントに解明に着手しました。(吉田さんの経歴は99号に掲載ずみなので省略します)
百年祭の三木良一(22理)狩野直禎(25文丙) 両委員が力を尽くして探索を続け、吉田氏の御遺族(令孫の未亡人)とも連絡が付きましたが、全くご存じなく、御親類のかたにお問い合わせいただく事にはなっていますが、ご高齢で期待薄と予告されています。
菩提寺は松尾心空師(24文甲)の尽力で確認できましたが、現在は無住で、その筋から辿る術もない。
(中略)
一方、京大広報の協力を得て、各メディアに探索の協力をお願いして大きな反響を得ましたが、今日に至るまでコレハという証言には行き着いておりません。(中略)
京都府園部在住の方からは、園部賞小学校の校歌の作曲者が吉田氏であること、その時期は昭和3年である事をお知らせ頂いています。
吉田氏の著書も後年名をなされた声明関連以外で、関係ありそうな数種を調べましたが手がかりは無く、明治35年から昭和8年迄在職された京都師範の後を継ぐ京都教育大学関係の資料も今までの調査では全く手がかりが得られないのが実情です。(以下略)

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