7.新しい同窓会誌から

同窓会報 101 「紅もゆる」の作曲者について
新資料の発見
岸田達也(2006)

前の海堀の文章に書かれていた岸田の文章である。この論文で岸田は「紅もゆる」の作曲者として吉田恒三を挙げるのだが、この論文では文乙同級の角野幸三郎(注 原文は角野幸三であったが会報102号で訂正)の令息裕氏の助けも借りて音楽的に検証しているのが特長だと思える。


「紅もゆる」の作曲者問題の転機は、三高同窓会『会報』25号(昭38)に掲載された平田憲夫氏(明43二部乙・京大名誉教授)の一文「紅もゆる」の原歌譜について」であります。平田氏はここで一枚刷りの「紅もゆる」の原歌譜を紹介すると共に、この歌が『三高歌集』(昭27)では沢村胡夷作詞作曲になっているが「作曲に関する限り」「何かの間違いで」、作曲者は「K.Y.というイニシアル」(原譜では小文字)が記されているだけでそれが誰であるかは、「今後探求すべき問題」であることを提起しております。これを受けたのが、三高同窓会関東支部会報『神陵』4号(昭46)に掲載された鈴木常夫(昭17・9・文丙)安部英夫(昭20文乙)連名の一文「K・Y・氏は誰か?」で、ここで「紅もゆる」の作曲者は沢村胡夷の長女初音さんの発言によっても「尚定かでない」とし、「K.Y.氏は永遠に謎の作曲家」されております。

しかし私がこの問題に直面するに至ったのはごく最近、それも思わぬ処からでありました。平成十五年一月東京の三高十八日会で、私は「沢村胡夷と「林下のたむろ」」と題する発表を致しました。この沢村胡夷作詞「林下のたむろ」(明治37)は歌詞も曲も『三高歌集』の中できわめて異色のもので、ことに原典の「嶽水会雑誌」(明37)の原譜は作曲者名の無い五線譜であります。私はこの謎の原譜を、当時京都に在住して箏で近代詩に初めて曲譜をつけた「京極流」の鈴木鼓村と関係があるのではないかと推測し、その原譜を文乙同級の高橋弘一君(元・住友電気工業)の長女美都(みと)さん(東京芸術大学卒業、当時、京都市立芸術大学・日本伝統音楽研究センター助教授、現・同志社大学文化情報学部助教授)に送って調査を依頼しました。ところが幸いなことにこの研究センターに京極流三世宗家和田一久(かつひさ)氏が月に二回来ており、その原譜を見て、この譜には鼓村の旋律の特徴があるので、鼓村が旋律のヒントを与えたことはありうる、吉田恒三(東京音楽学校卒業、当時京都師範教諭、鼓村の作曲『新箏曲第一編」を洋楽五線譜で作譜・明38発行)が作曲したかと推定致しました。(太線編集者による)

そこで『三高歌集』を見ますと、沢村胡夷は水上部歌を明治39年、41年、42年と三篇作詞しておりますが、その前後の38年と43年の水上部歌、更に44年の野球部歌も吉田恒三作曲であります。胡夷は三高当時嶽水会雑誌部理事でありました。吉田恒三と沢村胡夷が接触交流した可能性は高いと考えられます。明治37年の「林下のたむろ」の原譜の五線譜を吉田恒三が作曲したのではないかという和田氏の推定は、三高側から見て私も同意致します。そして明治37年の「林下のたむろ」の作曲が吉田恒三と推定されるならば、明治38年の水上部歌の作曲が吉田恒三であることと考え合わせるとき同年の「紅もゆる」の原譜にある「k.y.」の頭文字は自然に「吉田恒三」と推定されることを、二年前の十八日会の最後に発表した次第であります。(以上の詳細は岸田達也「寮歌の時代」(『神陵文庫・紅萌抄』合本V所収、平成16年2月)参照)。
ところで「吉田恒三」は辞典類(たとえば『日本人名大辞典』講談社)によれば「ヨシダ・ツネゾウ」と記されております。それでは「k.y.」をどのように考えるか。「紅もゆる」は原譜に「壱部三年乙」とありますように元来クラスの歌であります。作曲者吉田恒三とすれば名は出さない。「林下のたむろ」の五線譜にすら作曲者名は記されていない。それに東京音楽学校出身の専門家であれば作譜は五線譜です。「紅もゆる」の最初の作譜も吉田恒三であれば「林下のたむろ」と同様に五線譜で、それを三高生が当時の音楽の普及状況から数字譜に書き直し、その際「k.y.」と付記して発表したのではなかろうかと推測いたしております。三高生ならば通称は音読み「コウゾウ」であります。なお原譜に壱部三年乙と記されていますが、明治39年第壱部文科を 沢村胡夷と共に卒業した田中秀央は、その自叙伝の中で、沢村君は「組がちがっていたので、二年生の時は一緒でなく、三年生になって丙組(文科)で一緒になって卒業した」と記しています。。とすれば壱部三年乙は沢村の旧クラスになります。。(『田中秀央 近代西洋学の黎明−−「憶い出の記」を中心に』京都大学学術出版会、平成十七年三月、92ページ)。

このように「k.y.」を「吉田恒三」と推定したものの、これを証言で確認する事はもはや困難であります。そこで一転して専門家による作曲面からの検討を考え、文乙同級の角野幸三郎君(元・人事院事務総長)を通じてその令息角野裕さん(東京芸大からウイーン国立音大に学び、ヴィオッティ国際音楽コンクール・ピアノデュオ部門で日本人として初めての最高位入賞、現在東京芸術大学教授、演奏活動のほか、オーケストラ作品のピアノ編曲などにもユニークな活動を続けている)に「吉田恒三」の調査を依頼したところ、新資料の発見という幸運に恵まれた次第であります。この新資料とその評価については角野君が次節にで述べます。(中略)

(注 ここから角野幸三郎氏の執筆)
吉田恒三の楽譜が一つだけ見つかったよ、という知らせを息子から受けたのは、愈々 四月も終わって連休に入ろうとする頃でした。
楽譜といってもA4大の用紙で2枚、それぞれを二つ折れにして重ねたような形の小冊子がその全てでしたが、京都五車楼書店発行というその僅か八頁の弱々しい印刷物が、明治このかた、一〇〇年の風雪にも消滅することなく存在してきたことに無上の感動を覚えました。
歴史的な出逢いを正確に捉えるためには出来るだけその背景の連鎖が必要であると思いますが、わたしどもは専らもう一つのアプローチである作品の中身や(注 原文は+)評価について調査を依頼されていますので、今回は楽譜発見の直後に感じた事や考えて事から始まって、後半で中身の核心に入りたいと思います。

まず第一に楽譜の表題ですが「地理歴史唱歌 京都」ということで、曲比較の前提となる歌詞の内容が「紅もゆる」と同様に京都の歴史や風土を讃えるものであったことが、作曲者の同一を論ずる上でのサンプルとしては誠に申し分のないものであったと思います。結論の安定にはサンプルが多ければ多いほど良いのですが、 一〇〇年も前のものですから、諦めを乗り越えて発見された「京都」と銘打った吉田恒三作品の意義はいうまでもありません。
更に発行の時点ですが、楽譜の裏表紙に明治三九年四月とあったことが、このサンプルの価値を更に高めるものとなっています。その前年に発行された「紅もゆる」に対して、殆ど同時期のサンプルを用いて作曲者を追う関係になりますので、僅かに一例ではありますが説得性はきわめて高いと思われます。

第二にその内容ということになりますが、そもそも曲と曲とが似ているというのはどういうことなのか、やや専門的になりますので、この関係については、今回図らずも東京芸大の図書館で吉田恒三の諸資料発見に尽力してくれた息子の裕が、私の為に平易にレクチャーしてくれたペーパーがありますのでそのまま生かせて載せておきます。
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(編者注:ここから角野裕氏のメモ)
吉田恒三作曲の「京都」から受ける印象は、はっとするほど「紅もゆる」とオーバーラップするものがあります。この二つの曲には同じ作曲のアイデアがある。つまり同種のインスピレーションによって創作されていると言えるでしょう。
勿論歌詞の長さが異なりますから「紅もゆる」は四小節の四段、「京都」は四小節の六段となっています。また、曲の調性も、「紅もゆる」は現在歌われている短調とは違って、当初は長調、それもシャープが二つ付くニ長調で書かれており、一方の「京都」は、誰にでも読みやすい、調号の無いハ調で書かれながら、実際はイ短調という短調で作曲されています。
見た目にはこのような相違がありますが、次の諸点を見ると、、この二つの曲は、作曲という音を紡ぎ出す精神作用の中で、同じような思考癖を通って生まれていることがわかります。
「京都」は六段の長さを持つために、長い曲の統一感を損ねないように、一段目、二段目、そして最後の六段目のそれぞれの前半の二小節は、韻を踏んだように同じような音の動きで統一されています。この音の動き(パターン)はこの曲の中心的な印象を形成していますが、それが実に「紅もゆる」の冒頭二小節と同じものであるのです。
やや専門的になりますが、この「音の動き」の成り立ちを見ると、曲の調べの中心になる音(主音という)と、そこから下方へ三つ目の音、また主音から上方へ一つ目と二つ目の音、これら計四つの音を中心に動くことによって作られている動きのパターンです。ちなみに「京都」の主音はラですから、ミ、ラ、シ、ド、という四つの音によってパターンが作られています。「紅もゆる」では主音はレですから、ラ、レ、ミ、ファ、という四つの音でパターンが出来ています。一見違う音の組み合わせに見えますが、それは基になっている調が違う為で音の位置関係は同じ、つまり平行移動しただけのものです。
「京都」の六段目は、特に「紅もゆる」との一致が見た目にもよく分かると思います。
もう一つ、どちらの曲も三段目に山場があり、同じように高い声の音域に台形状に留まって、同じように付点のリズムで歌います。
「京都」は六段の長さではありますが、よく見ると、四段目の終わりに小規模な終止が縦二本の線で示されているのが分かります。四段という長さはまとまりの良い長さであり、その三段目に「山場」が来るのはごく自然なことです。
同じような時期に、同じ土地柄で、同じように書かれたこの二つの曲が、このようなわけで同じ作曲者から生まれたものと想像することに全く違和感がないと言えると思います。

(注 ここからふたたび岸田達也氏の執筆)
明治三十八年の{紅もゆる」作曲当時、京都音楽界の中心をなすのは「吉田恒三」であります。吉田恒三(1872−1957)は福井県出身、東京音楽学校卒業後福井師範を経て、明治35年7月京都師範に転任するや同年9月その主唱の下に「京都音楽会」を設立し、自ら常任理事として音楽の普及発達に努力致しました。これが京都における音楽団体の最初であります。この「京都音楽会」前後の状況については、京都音楽協会編(編纂主任吉田恒三)「京都音楽史」(昭和17年)の中で吉田恒三自身が執筆しており、当事者の記録として貴重な資料であります。
この当時は、吉田の記すところによれば、音楽専門家は「暁天の星」よりもかすかで、わずかに東京音楽学校(明治二〇年創設)の卒業生が各府県に散在して学校音楽の普及に専念するにすぎず、京都では明治25年楠美恩三郎(明治22、東京音楽学校卒業)が京都師範に着任して最初の献身的努力を続け良い作曲をも発表した、ということであります。この楠美恩三郎が母校の東京音楽学校へ帰った後、明治35年7月京都師範に着任した吉田恒三が同年9月に自ら中心となって設立した「京都音楽会」の会則第三条に「作歌作曲ノ需ニ応ズルコト」と定められたのも、作曲に関与するものがはなはだ少ないという当時の音楽史的状況を反映したものでありました。明治36年から40年にかけて吉田恒三の作曲が多いのもそのゆえで、このたび発見された『地理歴史唱歌 京都」(明39)もこの時期の主要作曲の一つであり、さらに吉田恒三自身が三高の作曲に関与するのもその様な音楽史的状況によるものと考えられます。
ここに注目すべきことは、上記の楠美恩三郎は明治38年二高校歌「天は東北」(土井晩翠作詞)を作曲しており、同年に吉田恒三が三高の「紅もゆる」(沢村胡夷作詞)を作曲してもなんら不思議ではないのであります。そればかりか一高の「嗚呼玉杯に」(明治35年)の作曲者楠正一(明33一高入学、明37退学)は一高在学時代ひそかに東京音楽学校選科に通っていたという。また五高の「武夫原頭に」(明治37年)は東京音楽学校作曲」と明記されている通り、五高卒業生が東京音楽学校に在学中の友人に依頼したものという。(上記は金田一春彦編「日本の唱歌」講談社による)。この時期の一高、二高、三高、五高の今日も歌われる代表歌が名曲であるであるのは、いずれも作曲者が東京音楽学校で洋楽の教育を受けていたればこそであります。京都文化圏特に「京都音楽会」と三高との接触交流から「紅もゆる」の名曲が誕生したのは、決して偶然ではないといえるでありましょう。「紅もゆる」から百年、ここに「謎の作曲家」を解明できた事は、誠に喜びに絶えないところであります。(昭17・9・文乙、名古屋大学名誉教授)

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同窓会報 101 「逍遙の歌」作曲について 吉田恒三氏の見解 海堀 昶(2006)

indexに吉田恒三説について馬淵卯三郎氏から海堀氏へのメールの事に触れたが、ここに記すのがその内容であったと思われる。先の岸田氏の論考、ことにその中の角野裕氏の論考はかなり吉田説に論拠を与えるものだと思われるが、ここで海堀氏が展開されるものはいよいよ吉田説を補強するものではあるが、論拠が発言という消え去るものにおかれているだけに決定打というには海堀氏同様の慎重さが必要ではある。

「紅もゆる」の作曲者k・y・氏は誰かという難問は本誌に連載の各寄稿によっても明らかではないが、次にはなはだ重要とと思われる、あるいは決定的な可能性のある証言を紹介します。

以前三高出身の音楽関係者に本件へのご意見を求めた時、馬淵卯三郎君(昭22文乙)からいち早く『片岡義道先輩(昭15文乙・京都市立芸大名誉教授)から声明の師匠である吉田恒三氏の言として「紅もゆる」は私が作曲したのだが、生徒さんが勝手に歌い崩したので、私は名乗らない事にしたんだと話されたと聞いている」との一報があった。
しかし同君は続けて『この話は確かな証拠は無く、わたしが頭の中で勝手に捏造したのかも判らないし、確たる自信は無い』と続けられたので、その判断に苦しみつつ今迄積極的に御披露はしなかった。
処が最近、片岡氏から同じ主旨の発言を聞いたという人が見出された。それは片岡氏と同期の文甲の井垣隆敏氏である。

こうなれば馬淵君も遠慮する事は無かろう。井垣先輩と協力して、片岡発言の内容とその真実性を追求して頂きたいと願うものである。

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同窓会報 102 「紅もゆる」の作曲者について(続)
岸田 達也(2007)

この項は「会報101号」に「紅もゆる」の作曲者について四報の寄稿があり、それを読んだ岸田の比較論考です。岸田はいよいよk.y.=吉田恒三との意向を強めたように見られます。岸田のことは2013年10月11日の朝日新聞でも取り上げられた。岸田は2013年春文藝春秋企画出版部から「明治の青春歌『紅もゆる丘の花』謎の作曲者を解く」からを刊行していると言うことなので、興味のある方は同出版部に照会入手の上、ご参照願いたい。

本年二月発行の三高同窓会『会報』101号には、私の前稿「『紅もゆる』の作曲者について−−新資料の発見−−」(昨年六月寄稿)と共に、新発見の片岡義道氏(昭15文乙・京都市立芸術大学名誉教授)の証言が掲載されております。この証言の核心は、故片岡義道氏(平14年没)が、その専門の声明学で「親しく師事した」故吉田恒三氏(昭32没)から「『紅もゆる』は私が作曲した」という言を聞いた、と言うところにあります。両氏共故人でもはや再確認することはできませんが、私は、片岡氏が「親しく師事」したという両氏の関係から(片岡義道「金沢文庫の古声明を聴く」『神陵文庫・紅萌抄』合本U所収、平成13年1月、6ページ)、この片岡「証言」の核心は信憑性がきわめて高いと考えます。『紅もゆる』の「吉田恒三作曲説」を最初に提起した私もこの証言の詳報を期待いたしております。
『会報』101号に『紅もゆる』に関して四つの寄稿が掲載された現段階で、私の諸見の大筋を簡単に述べておきます。寄稿の配列は,

(一)海堀昶「逍遙の歌の作者と曲の変遷」(k.y.=胡夷とする説否定)
(二)岸田「『紅もゆる』の作曲者について−−新資料の発見−−」(吉 田恒三作曲説)
(三)福重博「沢村胡夷と紅萌抄」(k.y.を胡夷の別名とする胡夷作曲 説)
(四)海堀「『逍遙の歌』作曲について吉田恒三氏の見解」(『紅もゆる』 は私(吉田恒三)が作曲したという片岡「証言」)

となっておりますが、この配列で読んでいきますと、(三)の「胡夷作曲」は(四)の片岡「証言」と両立しないことは一目瞭然でありますので、(三)を消去すれば結論は自然に出ます。すなわち。(二)の新発見の資料に基ずく「吉田恒三作曲説」と、(四)の「『紅もゆる』は私(吉田恒三)が作曲した」という片岡「証言」とを合わせれば、『紅もゆる』の「吉田恒三作曲」はまず決定的となります。
さらにいえば、(二)と(四)は「史料学」でいう「物的史料」と「陳述史料」にかかわるものであります。(二)は、新発見の資料に基ずく作曲面からの検討がかなめで、「吉田恒三作曲」と明記された「京都」と「k.y.」作曲の『紅もゆる』との両曲をはじめて比較分析し、「吉田恒三」と「k.y.」を同一人と比定して「全く違和感がない」(会報101号、8ページ)という、専門家による楽譜(物的史料)の鑑定であります。この鑑定と(四)の片岡氏の証言(陳述史料)とを合わせれば、いわば可能性がきわめて高い「物証」と他方信憑性がきわめて高い「証言」との相互補完で、『紅もゆる』の「吉田恒三作曲」はまず決定的となる次第であります。細部の詳述は省略し、現段階での私の所見の大筋は以上の通りであります。

平成18年5月25日脱稿

(昭17・9・文乙)

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同窓会報 105 「紅もゆる」の作曲者「k・y・」について
岸田 達也(2009)

この項は「紅もゆる」胡夷作曲説への批判も含めて書かれ、岸田がいよいよk.y.=吉田恒三との意向を強めたように見られます。多くは既に発表された岸田の論考と重なるのでその部分はカットし編者が必要と思う部分だけ摘記した。岸田の意向に反する部分があれば編者の責任とお詫びする。

(前略)

それでは、私の「吉田恒三作曲説」は先に述べたように「k・y・」をイニシャルと解する流れに入りますが、一方の「k・y・」を胡夷のペンネームと解する流れ(この場合は胡夷作曲説)をどのように考えるか。最後に一言述べておきます。

「胡夷作曲説」は第一に「紅もゆる」を沢村胡夷が作曲したという「証言」はない。始めに述べたように、胡夷の長女初音さんの発言(父は「紅もゆる」を作曲していない)という「証言」はあります。第二に胡夷の作曲例はない。従って、胡夷作曲の楽譜の分析はできない。つまり「物証」がない。一方の「吉田恒三作曲説」には「証言」と「物証」がある。「胡夷作曲説」には「証言」と「物証」二つともない。

「胡夷作曲説」は(はじめに胡夷ありき)ではじめに結論がある。これは、まだ証明されていないことを前提として論ずる「論点の先取り」です。論理学の用語としてラテン語で(petitio principii)という言葉があります。訳せば「論点先取」です。「胡夷作曲説」でいえば、はじめに結論がある。それに合わせて、ことばの用法・引用の仕方・解釈を自分に都合のよいようにする。一々細部の挙証は省略しますが、これは論理学の「論点先取」で、証明すべき論点そのものを自明のこととして論ずる、間違った推理です。決め手は「証言」と「物証」その二つです。「吉田恒三説」にはその二つがある。「胡夷作曲説」には二つともない。
思えば、「林下のたむろ」を習い覚えて六十年、きわめて異色のこの一曲の謎を暗中模索して、今やここに思いもよらぬ「紅もゆる」の作曲者としての「吉田恒三」を世に出す意外な結果となりました。もともと私の専門は西洋史で、今まで述べたのは私の余技であります。しかし、 昭和十五年十七歳の春四月、自由寮に入寮して全寮生と共に「紅もゆる」を歌った日の感動は、今なお身内に蘇ってまいります。「紅もゆる」生誕百年、「永遠に謎の作曲家」とされた「紅もゆる」の作曲者を、三高創立百四十年を前にしてようやく解明できたことは喜びに耐えないところであります。(昭17・9・文乙)
(本稿は平成十九年十一月十六日東京の三高十八日会での発表に補筆したものです)

 「紅もゆる」の作曲者「k・y・」について(補遺)
岸田 達也(2009)

明治三十八年の「紅もゆる」の原譜に二つの「連結線(スラー)」があります(『会報』101号5 ・6ページの写真版参照)。とくに原譜の数字譜を翻譜した五線譜を見れば、第三段と第四段に明白に二つの「スラー」があります。ところが明治四十四年創刊の『三高歌集』では、この二つの「スラー」は早くも消滅しております(『会報』101号2ページの数字譜参照)。現行の『三高歌集』を見ても全くない。この「スラー」とその消滅は極めて注目すべきことです。

第一、この『紅もゆる」の原譜の第三段と第四段にある二つの音型と同様の音型は、『日本寮歌集』(日本寮歌振興会)所収の寮歌を見ても、明治期の旧制高校の代表歌にはないのです。この音型は、吉田恒三作曲と推定される明治三十七年の「林下のたむろ」の原譜の第七段、「征衣に 霜やさむからむ」にも見られます。しかもこの音型は、声明の代表的な旋律型の一つで、いわゆる「小節(コブシ)」とも考えられます。ここで想起すべきは、「吉田恒三」は先に述べたように『天台声明大成』で知られる声明研究家であります。
「吉田恒三」は自分が作曲した「紅もゆる」の特徴である二つの「スラー」が全く消滅したのですから、(原譜の長調が短調に変化したことと合わせて)「『紅もゆる』は私が作曲したのだが、生徒が勝手に歌い崩したので、私は名乗らないことにした」(『会報』101号12ページ)というその言葉は、納得が行きます。その信憑性はきわめて高いと、私は考えます。
「紅もゆる」の原譜の二つのスラーとその消滅は、「吉田恒三」の言葉を裏付ける有力な証拠といえます。先述の専門家による楽譜の鑑定(『会報』101号8ページ)と共に、この「証言」と「物証」との相互補完で、「k・y・」と「吉田恒三」が同一人であることは、先ず決定的となる次第であります。
(平成二十年五月八日脱稿、十月三十日補訂)。

k・y・は誰か。問題の焦点は段々絞られてきました。岸田さんの言われる物的資料(楽譜が音楽専門家によって違和感がないと鑑定された)は感性によるものだから、ただ一人の証言だけでは心細い。あと何人かの意見で補強できれば鬼に金棒。諸兄のご協力をお願いします。

海堀

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