§古い同窓会誌から

同窓会報 5 「古都憧憬」 關 泰祐 (1954)

今日は7月1日。祇園祭が幕開けの日で「お千度の儀」が無事済んだと報道された。昔ながらの行事で今なお続いているものも多いが、反面、新しい洋風の家や高層建築も増えて、街中から東山三十六峯のなだらかな曲線を鑑賞することも出来なくなり、縁側で昼寝を楽しむことも自由だった常寂光寺の多宝塔なども今は観光地化して昔の夢を楽しむことも出来ず寂しいことである。しかし、この「古都憧憬」を見ていると、何となく古い京都の情景が思い起こされてくる。この古都回顧の中で關の心も最後は母校「三高」への想いに収斂していく。


この頃ぼくは折にふれて奈良や京都のことを思うことが多くなった。戦争や故郷の父母の死によって久しく訪うことも杜絶えていたのが、この両三年奈良のT大学へ集中講義に行くことになったりして、少なくも年に一度はその地を踏む機会を持つことになったからでもあろう。日本のめぼしい都市という都市が殆どみな戦禍を受けた中にあって、この両都のみが完全にその災厄をのがれ得たことは、ぼくたちにとってせめてもの慰めであった。ぼくたちは、ぼくたちの心の故郷が失われなかったことを深く喜びとした。実際、今日京都を訪ねると、焼けない都、古典的な都の美しさをしみじみと感じる。何かのついでに都市の景観や行事のことなどが話題にのぼると、ぼくはまるで恋人かなんぞのように京都を賛美するので、友や家の者には、またかとばかりに笑われたりもするのである。

ぼくがこの都を訪うのは、決まって七月も半ばに近い頃であるから、自然についていえば、青一色の単調な色彩の時期ではあるけれども、それでもぼくは旅人の敏感さを持って極めて鮮明にその印象を心に刻銘するのである。今年はどこどこ何々を見ようとあらかじめ心に計画を立ててゆくのであるが、その場に臨むと、つい即興的な興味から、わきへ外れたりもし勝ちである。その取りとめもない彷徨がまた愉しいのである。周辺の自然にしても、またこの古都が豊に包蔵しているすぐれた建造物や美術品や閑寂な林泉などにしても、大抵は若き日に一度は親しんだことがある筈なのに、記憶がうすれていたり見落としたりもしていて、初めて見るような驚きが感じられるのも不思議である。若き日には、どちらかといえば、静かに鑑賞することによりも、心は憧憬と彷徨とに満ちているのであるから、おのずからその見るところ感じるところも異なるのであろう。

昨夏は、祇園祭の宵山の華やかな雰囲気を満喫したり、また祭りの当日は四条通りの或る店舗の二階からゆっくり鉾や山の通るのを見物したりした。そしてその絢爛たる豪華さに今更のように眼をみはったのであった。もし「寂び」に、「暗(くら)寂び」と「明る寂び」とを分けることができるとすれば、これこそは古都を彩る「明る寂び」であろう、などと考えたりもした−−ちょうど古い西陣の織物がそうであるように。今夏は、かねての望み通り鞍馬の山気を心ゆくばかり吸ってみたいなどと思っている。先ごろラジオで鞍馬の郭公の鳴き声を聞かせたが、自身そこに在って、郭公を聞き、山気を吸うの思いがした。できることならなお叡山にも登って、そこの宿院で一夜を明かしてもみたい。ひと夏、試験がすむとすぐそこで十日ほどの山籠もりをしたことがあるが、山上ではまだツツジが咲いており、朝に夕べに鶯の声も聞かれた。

年中行事にしても、葵祭の印象は比較的鮮やかであるけれども、例えば、大文字山の送り火や、壬生狂言や、太秦の牛祭や、鞍馬の火祭なども、気をとめて、追々見て行きたいものである。しかし京都に住みついていない限り、こうした渇きを癒すことはなかなか困難であろう。

一般の旅客には取るに足らぬことでありながら、しかもぼくにとっては、愉しい徘徊や逍遙を用意してくれるところがまた到る処にある。吉田山から神楽ヶ岡あたりへかけての逍遙や、三条寺町から京極あたりへかけての夜の徘徊などがそれであるが、そういうときぼくは、思い出と現在とが融け合って醸し出す、一種のニュアンスに富んだ気分につつまれるのを感じるのである。あの「月こそかかれ吉田山」の、月下の逍遙も、今夏はできたらしたいものである。友を当時の白川村の宿に訪ねるとて、吉田山を越えたことも幾たびだったろう。それは多く宵であったが、吉田山は眠れるがごとく静かに月光につつまれていたのを覚えている。深瀬君もそういう友の一人であったが、初めて彼を訪ねたとき彼が柴舟の歌集「白き路」を示したことなども、まだきのうのことのようである。今はその友たちとも、文通さえ殆ど杜絶えがちであるが、心に忘れている筈はないのであるから、会えばまた互いに肩をたたき合う仲なのであろう。それぞれ行く道が違い、仕事が違っているのであるし、それに当時からすでに三十五、六年という歳月が流れているのを思えば、こうした友情といえども、次第に白光のなかにたそがれてゆくのも或いは自然かもしれない。とまれ、それらの友の或る者は文学的情熱をもって、また或る者は学的良心をもって、ぼくを刺激したり、打ちのめしたり、再び引き起こしたりしてくれた。もしそうでなければついにぼくの中に芽生えずに終わったであろうものを、芽生えさせてくれた彼等に、ぼくはいつも深い感謝を覚えている。恩師たちも今は多くは故人となられた。いまは、眼にあるその面影、耳に残るそのお声をなつかしむのみである。そういう中にあって、阪倉先生や成瀬先生や小牧先生がなお矍鑠として斯界の第一線に立っておられることは、何とも心強く、欣ばしいことである。

母校の姿も、当時よりは遙かに偉容を整えたが、しかしぼくにはやはり昔の母校がなつかしい。あの校舎で学び、あの校舎の窓から比叡を仰ぎ、あの松の木の下の芝生で寝ころび、友と語ったのだから。昨夏、ひそかに校門をくぐって低徊してみたが、なにか父母亡き故郷へでも戻ったような、妙に味気ない気持ちだった。自由の父、折田校長の像の前で、同行の妻が、記念のためであろう、一つのさざれ石を袂に収めるのを微笑をもって見つつ、おもむろにそこを立ち去った。

ドイツの詩人フライシュレンに、「心に太陽をもて・・・・・・、唇に歌を持て・・・・・・そうすれば世を覆うあらしも雲もふっ飛んでしまうであろう」という意味の詩があるが、かっての若人たちが、歌うべき歌を持ち得たことは、一つの大きな誇りであった。つい先達ても一高の或るクラス会の席上、ぼくが三高出身だからというので、みんなで声を合わせて高らかに「紅もゆる」を歌ってくれたが、ぼくも声を合わせつつ、感動で胸がふるえた。この歌なども、ニュヒテルンな(注:冷静な、分別くさい)立場からすれば、ただ青春の浪漫性、非合理性のあらわれに過ぎないであろう。しかしぼくはこの歌が好きである。−−−次第に膠質化していく分別を溶かして、創造の若々しさに立ち返らせるためにも。(大・五、文乙卒)

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