同窓会報 61 清滝ますや聴聞録 梅田 義孝(1961)
梅田によると同窓会の定宿を創立百十年(1978年)前後から清滝「ますや」としてから、次第に主人やおばあちゃんとなじみが深くなり、昭和五十九年(1984)テープ録音に及んだという。“ともかく、ますやは歴代、商売柄とはいえ、商売を超えても三高生の豪遊ぶりをお守りしてきた。今なお同窓生が懐かしんで利用しているますやの存在は、けだし、三高外野席に一頭地を抜いて光っている。美留軒、鎰屋など三高ゆかりの外野席は何れも遠くなった今、ますやは三高の生き字引の或る項を分担している。昔の三高生を偲ぶよすがを、今もますやは残している。云々”と書かれている。市民は三高生を可愛がってくれたが、中でも清滝のますやは大事にしてくれた。そんな温かい交流をごらんいただけるとありがたい。 |
前略
ますや十三代当主森田雅雄さんの話
わたしの長姉が淡路島の田辺家に嫁しましたが、その舅が田辺利男いうて、明治四十一年二部工卒業です。この方は、明治四十二年二部工卒で後年京大総長になられた鳥養利三郎さんと仲が良く、良く清滝へご一緒に来られました。田辺利男の弟が田辺義明いうて、明治四十四年二部甲卒です。わたしも淡路島へ行ったときは、存命中の義明さんに明治末期清滝に逍遙した話を聞かせてもらいました。
わたしが覚えている限りの自由な三高の学生さんは昭和十六年ぐらいまでです。それからは何かと窮屈になりました。おやじ(十二代森田清治。昭和三十九年九月九日没)は堅物でしたが三高オンチでした。統制と配給の時代になってからは、他のお客さんのお酒を削ってでも三高の人に回していました。一人銚子一本の配給制ということで、三高の学生さんには、一本出して無うなると、
「あんた、玄関の外まで一遍でなはれ。下駄履いて出て、地蔵さんあたりまで往んで、またすぐ戻って来なはれ」
言うて追い出して、帰ってきはると一本出し、それが無うなるとまた「出なはれ」言うて、帰らはると、また一本いうわけで、なかなかの融通を利かせていました。
親父と母親から昔のことをいろいろ聞かされてきましたし、いろいろ目に触れるものも集めてあります。三高生のインターハイでの活躍の記事や、三高出身者の卒業後の社会での活躍など、三高関係の記事。写真のスクラップ帳は十冊を超えてます。
森田シズさん(十二代清治氏妻)の話
あたしは八十二になりました。病気したことありません。ちょっとボケてるのはここだけどす。(頭を指さす)あたしが石清水のはりま屋からここに嫁いできたのは大正九年で、梶井基次郎が三高に入った年です。
あたしのおかあさん、ええ、姑は小梅いう名で、清滝櫻屋から嫁いで来はりました。櫻屋は青木いう姓です。おかあさんは、よう出来た人で、学生さんにはとても親切でした。学生さんいうてもここに来やはるのは、三高の学生さんだけです。濱口雄幸、幣原喜重郎いう総理大臣やえらい学者にならはったひとも、歩いて来はったいうて、おかあさんから聴いてます。
あたしが嫁いで来たあと、清滝に電話がつきました。それまでは、具合が悪い人がでても、嵯峨まで歩いて行かんならん。これでお医者に来てもらえる言うて、喜ばれました。
大正の頃は、京都の人でも清滝を訪れる人は少なうて、清滝川の水は多いしで、若い女のひとたちは夏は赤い腰巻きで泳ぎました。
三高の学生さんは、高歯の下駄で高雄から歩いて来はりました。昔はこの山の上から、「ますや!」「ますや!」とどならはります。そやけど、どこに居はるか分からしません。そいで、「早う。下りてきなはれ」大声で答えました。
秋の月見には、寮を夜の十時頃でっしゃろな、出やはって、夜中にうちに着きます。いっぱいやってのんびりして、夜中の二時か三時ごろボチボチ帰ります。北野の天神さんあたりで白々と夜が明けます。学生さんは歩き疲れて、マントにくるまって、天神さんの灯籠のヘリで眠ってはります。電話がついてからは、西陣署から電話がかかってきます。主人が
「そらこうこうこういうわけの三高の学生さんですわ。どうもないよって、寝かしといておくれやす。これから吉田の寮へ帰らはりますのや」
朝早うから、電話口で頼んでました。どないして、電話がかかりますて?そら、学生さん、ますやの提灯持ってはります。
梶井基次郎の文学のお友達も来はりました。宇野さんでしたか、よく三人連れで見えました。清滝川の赤犬石の上で、一升単位で燗酒を呑み始めましてな。なくなると、大声で「酒や!」催促しやはって、そのたんびに、あたしが赤犬石まで運びました。
聴き手注:シズおばあちゃんは、色白で声の澄んだ品よい老女。若い頃はさぞや美しかったろうと推察される。ますやに嫁入りされたのは大正九年五月十四日。帰ってから調べてみたら、梶井基次郎が三高に入学したのは大正八年九月、卒業は同十三年三月である。入学は彼女のお嫁入りより八ヶ月先行するが、お年寄りの思い込む誇りに水を差すことはない。八年九月入学だから、翌九年八月までは一学年度で、彼女の嫁入りは同一学年度内の出来事といえなくもない。因みに梶井は九年五月に肋膜炎発病、六月休学、七月留年決定となっている。なお、ますやの家人はすべて、梶井基次郎だけは、さん付けをせずに呼び捨てだそうで、それは特別の敬意を持ってのことらしい。
ますや当主の話
母が嫁入りしてきた頃は、三高は文学関係の全盛時代でしたわな。梶井基次郎、外村茂(繁)さん、中谷孝雄さん、淀野三吉(隆三)さん、三好達治さん、荒木文雄さんなど、多士済々と聴いています。荒木文雄さんは清滝でもよく本を読んでいたそうです。おやじがよく口にした方々には、別所さん、中出輝彦さん、天坊裕彦さん、楢林武さんなどです。
おやじは、期末試験の前ですと、「酒は絶対に売らん。その代わり、試験が終わったら浴びるほど呑みなはれ」言うたそうです。学生さんも心得たもので、試験終了の日の午後から、三々五々、吉田より今出川通りを北野天神から一条通を西へ、宇多野、広沢の池、大覚寺を通って、愛宕街道、試(こころみ)峠を登って、ますやまで朴歯の下駄をカラコロ音立てて、試験の憂さ晴らしに来られたそうです。
おやじが言うてました。ラグビーのために表と裏をやらはったのが、後年巨人軍の幹部になった宇野庄治さんです。あの方は兵庫県塩屋のお寺のご子息でした。
「学校のために落第するねん」
おっしゃいまして、おやじが、
「宇野さん、そないことしたら、親御さん、たいへんでっしゃろ」言いましたら、
「そら学校のため仕方ないわ。野球かてうらおもてあるがな」
宇野さんは、ラグビーと野球とやらはりました。ほかにも、運動部のためうらおもてやらはった学生さんはようけ居やはります。(後略)
ますや当主の話
昭和三年にわたしが生まれ、翌四年から十八年まで、嵐山から清滝まで電車がついていました。十九年に取り払われました。三高の学生さんは、電車が通じてからは、電車に乗ってこられても、帰りは電車で帰るかた嵐山まで歩いて帰るかたと、いろいろでした。清滝駅の近くで、ジャンケンで決めるグループもあったりしました。歩いて帰る学生さんたちは、また戻ってきて飲んでおられました。電車賃分だけ飲もうと言うわけです。ここのトンネルは、もともと電車の単線用のもので、今は青赤の信号があって車が一方通行でギリギリで通っています。トンネルの上が「試(こころみ)峠」でして、学生さんは試峠を登り降りして、嵐山へ歩いて帰られました。
電車賃も割高でした。清滝から嵐山まで十五銭でした。京福電鉄の嵐山から四条大宮までが十四銭でしたから。夜分お帰りの学生さんには四季を通じて。「ますや」名入りの小田原提灯を進呈しました。吉田の寮までお歩きのかたには、ローソク四、五本をおつけしました。
え?うちの料金ですか?当時うちの値段は一円五十銭から三円ぐらいまででした。学生さんには勉強して一円でした。
(聴き手注)−−−現今、電車賃、バス代で百四十円の区間はある。嵐山−四条大宮間の十四銭の千倍である。ますやの料金を仮に千倍すれば千円だ。思えば随分と格安だったわけだ。いろいろ条件は違ってきたにせよ、今どき都内、市内でコンパをやれば六、七千円は軽くかかる。参考までに、上の話の直後に当たる昭和十八年当時、三高共済会ホールのきつねが十銭、しるこが十五銭、カレーが二十三銭であった。(編者注:嵐山−清滝間は多分割高の登山電車運賃が適用されていたと思われる。)
ますや当主の話
運動部のコンパのときは、も少し安くしていました。柔道部、剣道部、水上部、水泳部、籠球部などいろいろ来られました。宴会が重なる晩はさらに安くなります。仲居が気イ利かしますので。
当時の仲居の一人が「お絹さん」いうて、現在ますやの川下で「紅屋」(くれないや)いう茶店を出しています。三高の「紅もゆる」のくれないを貰うてつけた名前です。
夏のインターハイの前は、運動部の学生さんが、景気を付けに来やはりますと、おやじはみなさんによく言うてました。
「あんたがた、三高の入学試験突破してきた頭脳の持ち主や。わずか十日や二十日勉強せいでも、インターハイ終わったら、一日か二日の勉強でブランクは取り戻せるで。勉強せんと、しっかり練習しなはれ。あんたがたの先輩もそのようにして歴史と伝統を築いてきたのやおまへんか」とまあ、激励というか発破をかけていました。(中略)
年末は正月用のお餅をつきますので、年末のコンパにはお餅と、それに安かったので干物などお出ししました。三高の学生さんは夜通し騒いでいました。
柔道部が来られますと酒量は人数にもよりますが、一晩でコモかぶり四斗樽が一つ空きました。栗めしのレコードホルダーは十三杯と聴いています。嵐山まで夜道を歩いて帰えらはるときは、明くる日が叶いませんねえ。
嵐山までの道すがら、そこらの商家の看板はずして、仮に魚屋さんの看板なら、それを按摩さんの家の前に置いたり、目に入った大八車を引っぱり出して嵐山駅まで転がして駅前に放り出したりで。翌日、おやじが謝りに回っていました。おやじは、こう申すのはなんですが、一面好人物で、その点は嵯峨一帯の住人もよう知ってくれてはりましたので、謝りに回ることは、おやじは苦にしておらず、カラッとしていました。
その柔道部金鶏会は、毎年十一月第二土曜に全国よりお集まりです。
秋のコースは、高雄からで、太鼓叩きながら清滝まで歩いてこられるグループがあります。当時、清滝には遊園地がありまして、そこで筵旗立ててまた太鼓を叩かれました。少年のわたしも、板倉の又さんや西谷の熊さんに太鼓叩かせてもらいました。あの頃、昭和十一、二年頃までは全く自由で、物も豊富で安く、ええ時代や思います。そのあと、だんだん統制が始まり、きつうなりました。
西谷さんたちがご卒業のとき、例によって醤油で煮しめたような手拭いぶら下げて来やはりました。おやじは、五尺八寸、二十九貫の巨体を、紋服袴に威儀を正しまして部屋に伺い、「三年間ないし数年間、よう勉強したなあ」と挨拶しました。もう亡くなりましたが、“おきぬ”という古い女中が、それを見て驚いていました。ホトホト感心していました。
あの頃は大福帳で、出世払いもありまして、卒業式当日親御様が、よう飲ませてやってくれましたと、お払い精算に来られました。当時、お茶を作ってまして、宿帳はあらかた「ジョタン」いう乾燥さす器に張ってしまいました。その一部は残ってます。中西一郎さん、後藤基夫さん、西谷喜太郎さん、知念宏一さん、加古三郎さん、田代善信さん、施拱星さんなどのご署名があります。ラグビー部十八名のご署名も残ってます。みなさん、毛筆で達筆に署名してはります。
昭和四一年六月二十五日、水泳部三水会大会がますやで開かれまして、五十余人お集まりでした。北村久寿雄さんが高雄から錦雲渓を歩いて来られ、まず母に「おばさん、また来たぜ。元気か」と声をおかけになり、母は「おおきに、年とったけど、この通りピンピンしてまっせ」と答えてました。翌日は。錦鈴峡、落合、六丁峠、鳥居本、化野念仏下、小倉山を経て嵐山へ出てお帰りになったそうです。
昭和十六、七年頃の冬、ラグビー部の方が一晩飲んで、翌朝、前の川で泳いだように言われていますが、それは違います。散歩に出やはって、滑って川にはまりましたのや。うちの女中で二代目“おたま”が「そないしてたら、かぜひく」言うて、大急ぎで風呂沸かして、入ってもろたのです。ええ、初代おたまは大正末期から昭和初期まで、二代目おたまは昭和初期から戦後までです。
戦後、ラグビー部の会がうちでありました。帰らはったあと、部屋の額がありませんのや。
「そら。筒井さんか田代さんにきまっとる」
と、おやじが言いました。果たして翌朝、
「額持って帰りましたんや。市内のどこに出しておこか? 錦市場の宇治屋?」
酔うて昔の癖出はったのでっしゃろな。額抱えて玄関出はるとき、誰も店の者おりませんでしたのや。それで、おやじの命令で、私が宇治屋さんまで額、貰いに行って来ました。ハイ。
錦市場の宇治屋さんは、茶の同業でして、林屋新一郎さんとは当方と知り合いです。昭和四年のご卒業です。
深瀬先生が、昭和十七年卒の林尹夫さんをようできるとほめていたそうです。戦争で戦死されまして、「わがいのち月明に燃ゆ」いう本が出されましたが、深瀬先生のご子息と、私の亡くなった兄とが、京都三中で一緒でしたから、わたしの耳に入りました。
古いところでは、釧路にお住まいの土屋祝郎さんの「紅萌ゆる」も買うて読みました。昭和初期の青春、学生に対する官憲の弾圧の厳しさが描かれてますなあ。
「神陵史」は冬の夜長などに、ボツボツ読んでます。(中座して神陵史を持ってきて開き)ここまで読みました。「神陵小史」も持ってますが、あれは漢文など出てきて、わたしらにはむつかしくて。その点、「神陵史」はわたしらにもよう分かります。立派なものですなあ。講談社の写真集の「紅萌ゆる丘の花」も持ってます。なんですなあ、三高の配属将校や教練の先生のなかには、三高の自由の校風を理解して、三高に馴染んだ人もおられたようですなあ。創立百十五年大会には、吉田神社の宮司さんと招待いただきまして、喜んで伺いました。嬉しいことです。あのときは美濃吉さんの十九年卒の佐竹社長さんから電話がありました。
物集高暈さんは東京にいやはって、百五歳でしょう。わたしの母の女学校時代の教科書に、物集さんの文章が載っていたそうです。大正の初めのことです。
戦後、三高に女性がタッタ一人、入らはりましたなあ。あのときは、おやじが驚いて叫びました。
「ウワァー、三高もとうとう変わったなあ。綾部女学校から一人入ったわー」
ご主人になられた方も三高の方で、京大の先生してはると聴いてます。五高や八高、松本高校など、何人か女のひと入ってますが、三高は一人だけです。入学試験がむつかしゅうて、受けませんのや。
三高出身のかたがうちへ来られますと、わたし「えらい、なんですけど。ご卒業は何年です?」伺いますねん。卒業年次をお聴きしますと、その頃の有名な学生さん、一風変わった人、つまり、運動部の選手とか、学校のため裏おもておやりのかた、応援団の豪傑のかた、三高に長いことおられたかた、など分かってます。そないなかたと、寮でご一緒だった、同じクラスだった、などお話が通じます。おやじから聴かされている知識がありますし。
ますやの屋号ですか?枡に矢です。玄関の外の壁に付けたります。改めて紹介でもありませんが、創業は寛永八年でして、昔は苗字がありませんので。枡屋何兵衛いうふうに称えてました。わたしで十三代目ですが、先祖以来、養子は一人もおりません。わたしの息子は現在、市内の同業者に修業にいってます。この建物は大正九年に建て替えたものです。母が来た年です。清滝の旅館はわたしとこと、「かぎや」さんの二軒でしたが、現在は三軒で、それに民宿が一軒あります。(後略)(昭12・文甲卒) |