§古い同窓会誌から

同窓会報 26 三高を讃える 富田 健治(1964)

この寄稿は大正前期の三高生活を伝えている。このホームページには対一高戦のことを収録していないので、ここに1編だけだが載せておく。同時に当時の京都の町の様子も垣間見させてくれる。筆者の萬洋軒がもし萬養軒の誤りだとすると、今では高級になった萬養軒も当時はカレーライスや豚カツを出していて三高生も口にできたことになる。三島亭だって今では高級でそう簡単にすき焼きを食べに行こうかと言うところではない。世の中はたしかに便利になったが生活の充実感という点ではどうだろう。そんなことを考えさせる。


私は大正四年の夏、三高の入学試験に合格して、大正七年夏、卒業した一人である。東京でも関西でも「三高会」と名のつく会合にはできる限り、出席させてもらうつもりで、結局は時たましか出席できないことを残念に思っている。そしてその席では、いつの間にか大分先輩になったことを知らされて、いささか心細い思いもすることである。がしかし「紅萌ゆる丘の花」を皆さんと一緒に歌わしてもらえることだけで、他のどんな懸念も吹き飛んでしまう次第である。まことに紅萌ゆる三高は、懐かしくも楽しく、終生私の心のふる里である。私はこの三高で、確かに今で言えば、「非行少年であったなあ」と、自己批判しているものであるが、この三高時代の非行と善行(この善行の想い出はあまり浮かんでこない)の思い出を少し綴らせてもらいたいと思う。


一、何と云っても、我が三高時代でもっとも大事だったことは、野球試合で対一高戦に勝つことであった。私がこの対一高戦に応援団の一人として、向陵(一高)の運動場に行ったのは、未だ制帽の白線があまり汗ばみ黒ずんでいなかった大正五年の春、花ランマンの一年生のときだったと思う。三高の投手は折田有信さんであった。たしか八対七の接戦で、見事に怨み重なる(一年生の私にとって恨み重なる筈は無いのだが)一高をたたきつけたのである。当日勝利に酔っていた私は、試合終了後もただ茫然、永い間三高応援団(人員は極めて少数であった)一同に渡された紅い小旗を持って、「桜花のにおい香しく(カンバシク)」の応援歌を歌い続けていた。私の周囲に人がいなくなったのも気付かずに。すると知らぬ間に、一高の応援団に囲まれた我が身になっていた。そして私はあっと言う間もなく、棒切れや旗竿で、さんざんに叩かれることになって、群がる賊軍重囲の中で、衆寡敵せずほうぼうの態で、漸く味方四、五人と共に、この囲みを脱出したことであったが、未だそんなに古くなっていない私の制帽は切り破られ、顔面と耳に裂傷を負っていたのである。かくて私の闘志は涌く。この怨みは骨髄に徹し、宿敵は何としても討ち果たさで止むべきぞ、そこで来年の三高校庭に於ける宿敵打倒に全力を捧げることに相成ったのである。
しかも私のクラスは、一部丙類(独法)であって、このクラスには正選手のショート能勢壮吉君、サード中村孝吉君、レフト西尾稔君の三君が揃っていたことで、私はこの三君と日常、机を共にしながら、三君以上に興奮していたことであった。大正六年の春がまた訪れてきた。臥薪嘗胆、これは一年間のまさに私の気持ちだったように思う。対一高戦の近付くに従い、毎日校庭で一高戦の練習をしている我が三高選手を、その練習のすむまで、声を嗄らして応援していたのは、この富田であった。三高を一人で持って立っている気概であった。美留軒(ビリケン)(理髪店)のおやじさんが校庭で散髪しながら声援していたのもその頃であった。
かくて試合の日は来た。そして多少ヒヤッとする場もあったし、危機と興奮を告げる「自由の鐘」も打ち鳴らされたが、終始我が三高の圧倒的リードでたしか「12対2」のスコアで、我が三高が勝った。さあ野球試合は終了したのであるが、私の試合は終わっていなかった。狭い区域に押し詰められていた一高応援団の不逞の輩どもを、試合終了後私は旗竿で殴り回ったものである。たしかに相当の手応えはあったように思う。敵はみな逃げた。かくしてやっと全試合に勝ったわけである。けだしこの後の掃討戦にも勝ったからである。そこで今こそ初めて勝利の歓喜に酔いしれることのできた私であった。今もなおこの感触を忘れることができない。そして四十何年経ってる今日でも、未だこの私の行動を、ときめく胸の裡に、正義の勝利と思わせてくれるのである。げに三高は嬉しいところではある。

一、祇園の八坂神社から知恩院の石段下を通って岡崎に抜ける道は、今でも懐かしい。三高の白線帽をかぶって「紅萌ゆる」を歌いながら、何の屈託もなく逍遙した自分を、四十何年後の今日でも、何か昨日のことのように懐かしい。知恩院の老杉巨松はもう深い眠りに就いていたはず。夜のしじまにこだまする歌声、実に私の青春はこの時点こそ最高潮に達していたと思う。特に誰に感謝することも意識せずに、そしてとにかく嬉しく、楽しい思い出に胸ふくるる我が三高である。現在は信仰(これも些かの)に依ってかろうじて呼吸している私の人生である。思えば三高時代の方が、私の人生の深味があり、自然であったのではなかろうか。思いめぐらせば幾年か、何の進歩が私にあったことであろう。往時に比べて吾独り天地に慙ずという感懐に耽ることである。

一、琵琶湖は今日でもやはり美しく、懐かしい。自分の仕事の関係から、月に往復一度は東海道線瀬田の鉄橋を渡るのであるが、その時は極めて短い数分間のうちに、必ず大津の方を眺める。そして次に石山の側を見つめることである。今少しゆっくりと列車は徐行してくれないかといつも思う。私はボート部の選手ではなかったが、大津にある三高の艇庫に同好の士と共々、ボート(その時代は、一般に未だボートはスライディングではなくフィクスであった)を引き出して、大津の尾花川尻から、石山へ漕いでいくのである。往途は皆張り切ってよく漕いだ。一時間足らずで石山に着いたかと思う。そしてボートを琵琶湖汽船の船着き場の横に繋いで、中食のため「三日月」楼に上がるのである。皆概ね弁当持参であって、しかし名物瀬田の蜆汁だけを注文した。代金はいっぱい五銭か七銭だったと思う。そして各自二銭、三銭を茶代に差し出して、ここ「三日月」の座敷二室をぶち抜いて大の字に寝転がるのである。物価はたしかに安く、料亭も何もかもが余裕シャクシャク、ゆったりとしたものであった。そしてここに於いてももちろん、わが三高生は一層悠々たるものであった。近くの石山寺の石段を登って、いつもの通り紫式部を偲ぶかの如き仲間もいた。
そして帰途はさすがに一同うんざりして、オール持つ手も、とかく休みがちになった。膳所の沖近くに掛かると、夏場には、素裸で、水に飛び込むものが沢山でてくる。オールの先にシャツのようなものを張って、帆舟にしてしまう者もいる。漸くにして、元の艇庫にボートを入れる。なかなか捗らない仕事であった。そして未だ開通して間もない京津電車に乗って京都に着く。車中は皆眠りつづけである。三十分、京都に着けば、京極がある。吉田や円山や寺町も待ってくれている夜である。元気を取り戻した一同は、またさらに三々五々我が道を行くことであった。

財源になお多少のゆとりのある者は、三条寺町の「三島亭」で牛肉を喰べることもできた。京極の「金魚亭」は、年中氷水(みぞれ)を出してくれた。当時まだハイカラクラスであった萬洋軒や菊水でも、それほど勘定の心配もせずに、ライスカレーや豚カツを喰わせてくれたし、京極寺町裏の「小林酒店」−−−こう書かれた大提灯が店先に吊されていた−−−では、アルトハイデルベルヒの「ケティ嬢」が、万遍なく公平無私に酒をついでくれた。そしてこのケティ嬢のサービスを幾日間も喜んだ我々であった。こうして三年間は何と言うこともなく過ごしてきたものである。

近頃、「小さな善行」が奨励されている。三高生は未来の「大きな善行」を理想として、当時は「小さな非行」を繰り返していたのかも知れない。しかし、その後において当時の仲間達の「大きな善行」を私共は少しも聞かない。ということは、やはり「小さな非行」を誇り、楽しむ我々の論理かも知れぬ。とにもかくにも、メチャメチャに懐かしき我が三高である。

テレビの「七人の孫」では、森繁さんが「人生はいいものだ」と歌っている。私はかくしていつまでも「三高はいいものだ」と歌い続けたいとおもう。(大・7、一部丙卒)

INDEX HOME
grenz
   

同窓会報 17 三高回顧  二本杉 欣一 (1960)

この文章を収録したのもやはり三高生に対する一般の人々の温かいまなざしが窺われるからである。清滝のますや、石山の三日月楼、ともによく引き合いに出されるのだが、この回顧談にも登場する。


七十二年三ヶ月の生涯中、物心が付いてから一番嬉しかった記憶は、何というても三高入学であった。多数の学徒が狙って叶わざりし金的を射止めた優越感もさる事ながら、これで将来が約束されたことになるのである。高校さえ卒業すれば医科大学は無試験入学であり、大学卒業、即医者であったもんだ。今の医者はそうではないが、昔はどんな藪医者でも開業して三年流行したら一生食えると言うたもんだ。また努力次第では当時医学者の最高峰であった青山胤通だの北里柴三郎などの大学者にもなれる大野望も抱いていた。

九月一日から寄宿舎が開かれるので待ちかまえて飛び込んだ。今までの鳥打帽を捨て三高の制帽をかぶった。丸太町、寺町、京極、四条と誰もが通るコースを歩いた。昔平家の公達が都大路を吾がもの顔に闊歩したのも斯くやあらんと思わるる程であった。

十一日から授業が始まった。同級生四十名。ずば抜けて頭のいい男は居なかった。まずまず平均していて何れもが勤勉努力型であった。一年生は苦しかった。なにぶんドイツ語が一週間十三時間もあった。二年三年は少し楽になったが物理、化学でいじめられた。

同級生、誰を見ても金持ちの息子らしい者は居なかった。真実金持ちの息子は努力が足りぬ。難しい入試の難関は容易に突破できないのが世間の定石である。弊袴破帽已むを得ぬ者もあったが、それがかえって誇りであった。帽章さえ光っていたら、どんな風をしていても世間は馬鹿にしないというのが心情であった。

しかしこの貧乏学生が不思議に洛の内外で可愛がられたもんだ。ボートでよく石山へ行った。桜花の旗を樹てたボートが瀬田の唐橋を通過する頃になると、三日月楼の女中さんが下駄を持って迎いに来てくれる。女中さん達はよく心得たもんで、三高の生徒は三日月楼以外へは行かぬものときめこんでいる。かつボートの数で大体の人数を知ってそれだけの下駄を運んでくる。生徒はたいてい寄宿舎の弁当を持っている。大枚七銭の鯉こくを取って、持参の弁当を開く。一銭が茶代で合計八銭の支払いであの岩風呂にも入り、大威張りである。三日月楼には決して御利益はないのだが、心から迎えてくれたもんだ。三高の生徒で三日月楼を知らぬものはないだろう。

清滝の桝屋へもよく行った。その頃四十銭奮発すると、会席膳で栗めしが喰えた。七、八人で一度行った時財布の底をはたいて、帰る交通費がない。その頃は今のように嵐山電車やバスはない。唯一の交通機関は山陰線嵯峨駅から二条までの汽車であった。さあ帰るとなっても皆落ち着いて腰を上げない。早くお発ちにならぬと汽車の時間に遅れますよとせき立てられても、一同もじもじしているばかりだ。どうせ吉田まで夜道を歩く覚悟はしているのだ。女中さんの口から主人公に伝わったらしい。乗物代がないならお立て替えしますとの事で、四十銭の料理代の中から払い戻しをしてもらって、帰りの汽車賃を借りて帰った。その後二、三回も桝屋へ行ったが、催促を受けたことも無し、また返した覚えもない。昔は暢んびりしていた。

小生は今でも時々三日月楼や桝屋へ行く。三日月楼のあの岩風呂が今でもあるのは嬉しい次第である。本年十月の中頃桝屋へ栗めしを喰いに行った。古い女中が居て三高の話しをする。私は料理が一円五十銭の頃から此処に居ますと言うていた。古い三高の卒業生だというと悦んでくれる。帰るとき主人夫婦が玄関へ出てきて昔の人の消息を聞く。「昨年古い柔道部員の会合を一晩泊まりで此処でやって貰いました。私共夫婦も女中まで交じって『紅もゆる』を唱って夜通し騒ぎました」と骨相を崩して悦んでいた。今の主人は小生在学当時の次の代らしい。それでも三高への愛着は大したもんで、三高の名簿を引き出して来て小生の名前を探り当てた。

以下略  (明治42・三医)

INDEX HOME
grenz

同窓会報 61 清滝ますや聴聞録 梅田 義孝(1961)

梅田によると同窓会の定宿を創立百十年(1978年)前後から清滝「ますや」としてから、次第に主人やおばあちゃんとなじみが深くなり、昭和五十九年(1984)テープ録音に及んだという。“ともかく、ますやは歴代、商売柄とはいえ、商売を超えても三高生の豪遊ぶりをお守りしてきた。今なお同窓生が懐かしんで利用しているますやの存在は、けだし、三高外野席に一頭地を抜いて光っている。美留軒、鎰屋など三高ゆかりの外野席は何れも遠くなった今、ますやは三高の生き字引の或る項を分担している。昔の三高生を偲ぶよすがを、今もますやは残している。云々”と書かれている。市民は三高生を可愛がってくれたが、中でも清滝のますやは大事にしてくれた。そんな温かい交流をごらんいただけるとありがたい。

前略

ますや十三代当主森田雅雄さんの話

わたしの長姉が淡路島の田辺家に嫁しましたが、その舅が田辺利男いうて、明治四十一年二部工卒業です。この方は、明治四十二年二部工卒で後年京大総長になられた鳥養利三郎さんと仲が良く、良く清滝へご一緒に来られました。田辺利男の弟が田辺義明いうて、明治四十四年二部甲卒です。わたしも淡路島へ行ったときは、存命中の義明さんに明治末期清滝に逍遙した話を聞かせてもらいました。

わたしが覚えている限りの自由な三高の学生さんは昭和十六年ぐらいまでです。それからは何かと窮屈になりました。おやじ(十二代森田清治。昭和三十九年九月九日没)は堅物でしたが三高オンチでした。統制と配給の時代になってからは、他のお客さんのお酒を削ってでも三高の人に回していました。一人銚子一本の配給制ということで、三高の学生さんには、一本出して無うなると、
「あんた、玄関の外まで一遍でなはれ。下駄履いて出て、地蔵さんあたりまで往んで、またすぐ戻って来なはれ」
言うて追い出して、帰ってきはると一本出し、それが無うなるとまた「出なはれ」言うて、帰らはると、また一本いうわけで、なかなかの融通を利かせていました。

親父と母親から昔のことをいろいろ聞かされてきましたし、いろいろ目に触れるものも集めてあります。三高生のインターハイでの活躍の記事や、三高出身者の卒業後の社会での活躍など、三高関係の記事。写真のスクラップ帳は十冊を超えてます。

森田シズさん(十二代清治氏妻)の話

あたしは八十二になりました。病気したことありません。ちょっとボケてるのはここだけどす。(頭を指さす)あたしが石清水のはりま屋からここに嫁いできたのは大正九年で、梶井基次郎が三高に入った年です。
あたしのおかあさん、ええ、姑は小梅いう名で、清滝櫻屋から嫁いで来はりました。櫻屋は青木いう姓です。おかあさんは、よう出来た人で、学生さんにはとても親切でした。学生さんいうてもここに来やはるのは、三高の学生さんだけです。濱口雄幸、幣原喜重郎いう総理大臣やえらい学者にならはったひとも、歩いて来はったいうて、おかあさんから聴いてます。

あたしが嫁いで来たあと、清滝に電話がつきました。それまでは、具合が悪い人がでても、嵯峨まで歩いて行かんならん。これでお医者に来てもらえる言うて、喜ばれました。

大正の頃は、京都の人でも清滝を訪れる人は少なうて、清滝川の水は多いしで、若い女のひとたちは夏は赤い腰巻きで泳ぎました。

三高の学生さんは、高歯の下駄で高雄から歩いて来はりました。昔はこの山の上から、「ますや!」「ますや!」とどならはります。そやけど、どこに居はるか分からしません。そいで、「早う。下りてきなはれ」大声で答えました。

秋の月見には、寮を夜の十時頃でっしゃろな、出やはって、夜中にうちに着きます。いっぱいやってのんびりして、夜中の二時か三時ごろボチボチ帰ります。北野の天神さんあたりで白々と夜が明けます。学生さんは歩き疲れて、マントにくるまって、天神さんの灯籠のヘリで眠ってはります。電話がついてからは、西陣署から電話がかかってきます。主人が
「そらこうこうこういうわけの三高の学生さんですわ。どうもないよって、寝かしといておくれやす。これから吉田の寮へ帰らはりますのや」
朝早うから、電話口で頼んでました。どないして、電話がかかりますて?そら、学生さん、ますやの提灯持ってはります。

梶井基次郎の文学のお友達も来はりました。宇野さんでしたか、よく三人連れで見えました。清滝川の赤犬石の上で、一升単位で燗酒を呑み始めましてな。なくなると、大声で「酒や!」催促しやはって、そのたんびに、あたしが赤犬石まで運びました。

聴き手注:シズおばあちゃんは、色白で声の澄んだ品よい老女。若い頃はさぞや美しかったろうと推察される。ますやに嫁入りされたのは大正九年五月十四日。帰ってから調べてみたら、梶井基次郎が三高に入学したのは大正八年九月、卒業は同十三年三月である。入学は彼女のお嫁入りより八ヶ月先行するが、お年寄りの思い込む誇りに水を差すことはない。八年九月入学だから、翌九年八月までは一学年度で、彼女の嫁入りは同一学年度内の出来事といえなくもない。因みに梶井は九年五月に肋膜炎発病、六月休学、七月留年決定となっている。なお、ますやの家人はすべて、梶井基次郎だけは、さん付けをせずに呼び捨てだそうで、それは特別の敬意を持ってのことらしい。

ますや当主の話

母が嫁入りしてきた頃は、三高は文学関係の全盛時代でしたわな。梶井基次郎、外村茂(繁)さん、中谷孝雄さん、淀野三吉(隆三)さん、三好達治さん、荒木文雄さんなど、多士済々と聴いています。荒木文雄さんは清滝でもよく本を読んでいたそうです。おやじがよく口にした方々には、別所さん、中出輝彦さん、天坊裕彦さん、楢林武さんなどです。

おやじは、期末試験の前ですと、「酒は絶対に売らん。その代わり、試験が終わったら浴びるほど呑みなはれ」言うたそうです。学生さんも心得たもので、試験終了の日の午後から、三々五々、吉田より今出川通りを北野天神から一条通を西へ、宇多野、広沢の池、大覚寺を通って、愛宕街道、試(こころみ)峠を登って、ますやまで朴歯の下駄をカラコロ音立てて、試験の憂さ晴らしに来られたそうです。

おやじが言うてました。ラグビーのために表と裏をやらはったのが、後年巨人軍の幹部になった宇野庄治さんです。あの方は兵庫県塩屋のお寺のご子息でした。
「学校のために落第するねん」
おっしゃいまして、おやじが、
「宇野さん、そないことしたら、親御さん、たいへんでっしゃろ」言いましたら、
「そら学校のため仕方ないわ。野球かてうらおもてあるがな」

宇野さんは、ラグビーと野球とやらはりました。ほかにも、運動部のためうらおもてやらはった学生さんはようけ居やはります。(後略)

ますや当主の話

昭和三年にわたしが生まれ、翌四年から十八年まで、嵐山から清滝まで電車がついていました。十九年に取り払われました。三高の学生さんは、電車が通じてからは、電車に乗ってこられても、帰りは電車で帰るかた嵐山まで歩いて帰るかたと、いろいろでした。清滝駅の近くで、ジャンケンで決めるグループもあったりしました。歩いて帰る学生さんたちは、また戻ってきて飲んでおられました。電車賃分だけ飲もうと言うわけです。ここのトンネルは、もともと電車の単線用のもので、今は青赤の信号があって車が一方通行でギリギリで通っています。トンネルの上が「試(こころみ)峠」でして、学生さんは試峠を登り降りして、嵐山へ歩いて帰られました。
電車賃も割高でした。清滝から嵐山まで十五銭でした。京福電鉄の嵐山から四条大宮までが十四銭でしたから。夜分お帰りの学生さんには四季を通じて。「ますや」名入りの小田原提灯を進呈しました。吉田の寮までお歩きのかたには、ローソク四、五本をおつけしました。
え?うちの料金ですか?当時うちの値段は一円五十銭から三円ぐらいまででした。学生さんには勉強して一円でした。

(聴き手注)−−−現今、電車賃、バス代で百四十円の区間はある。嵐山−四条大宮間の十四銭の千倍である。ますやの料金を仮に千倍すれば千円だ。思えば随分と格安だったわけだ。いろいろ条件は違ってきたにせよ、今どき都内、市内でコンパをやれば六、七千円は軽くかかる。参考までに、上の話の直後に当たる昭和十八年当時、三高共済会ホールのきつねが十銭、しるこが十五銭、カレーが二十三銭であった。(編者注:嵐山−清滝間は多分割高の登山電車運賃が適用されていたと思われる。)

ますや当主の話

運動部のコンパのときは、も少し安くしていました。柔道部、剣道部、水上部、水泳部、籠球部などいろいろ来られました。宴会が重なる晩はさらに安くなります。仲居が気イ利かしますので。

当時の仲居の一人が「お絹さん」いうて、現在ますやの川下で「紅屋」(くれないや)いう茶店を出しています。三高の「紅もゆる」のくれないを貰うてつけた名前です。

夏のインターハイの前は、運動部の学生さんが、景気を付けに来やはりますと、おやじはみなさんによく言うてました。
「あんたがた、三高の入学試験突破してきた頭脳の持ち主や。わずか十日や二十日勉強せいでも、インターハイ終わったら、一日か二日の勉強でブランクは取り戻せるで。勉強せんと、しっかり練習しなはれ。あんたがたの先輩もそのようにして歴史と伝統を築いてきたのやおまへんか」とまあ、激励というか発破をかけていました。(中略)

年末は正月用のお餅をつきますので、年末のコンパにはお餅と、それに安かったので干物などお出ししました。三高の学生さんは夜通し騒いでいました。

柔道部が来られますと酒量は人数にもよりますが、一晩でコモかぶり四斗樽が一つ空きました。栗めしのレコードホルダーは十三杯と聴いています。嵐山まで夜道を歩いて帰えらはるときは、明くる日が叶いませんねえ。 嵐山までの道すがら、そこらの商家の看板はずして、仮に魚屋さんの看板なら、それを按摩さんの家の前に置いたり、目に入った大八車を引っぱり出して嵐山駅まで転がして駅前に放り出したりで。翌日、おやじが謝りに回っていました。おやじは、こう申すのはなんですが、一面好人物で、その点は嵯峨一帯の住人もよう知ってくれてはりましたので、謝りに回ることは、おやじは苦にしておらず、カラッとしていました。
その柔道部金鶏会は、毎年十一月第二土曜に全国よりお集まりです。

秋のコースは、高雄からで、太鼓叩きながら清滝まで歩いてこられるグループがあります。当時、清滝には遊園地がありまして、そこで筵旗立ててまた太鼓を叩かれました。少年のわたしも、板倉の又さんや西谷の熊さんに太鼓叩かせてもらいました。あの頃、昭和十一、二年頃までは全く自由で、物も豊富で安く、ええ時代や思います。そのあと、だんだん統制が始まり、きつうなりました。

西谷さんたちがご卒業のとき、例によって醤油で煮しめたような手拭いぶら下げて来やはりました。おやじは、五尺八寸、二十九貫の巨体を、紋服袴に威儀を正しまして部屋に伺い、「三年間ないし数年間、よう勉強したなあ」と挨拶しました。もう亡くなりましたが、“おきぬ”という古い女中が、それを見て驚いていました。ホトホト感心していました。

あの頃は大福帳で、出世払いもありまして、卒業式当日親御様が、よう飲ませてやってくれましたと、お払い精算に来られました。当時、お茶を作ってまして、宿帳はあらかた「ジョタン」いう乾燥さす器に張ってしまいました。その一部は残ってます。中西一郎さん、後藤基夫さん、西谷喜太郎さん、知念宏一さん、加古三郎さん、田代善信さん、施拱星さんなどのご署名があります。ラグビー部十八名のご署名も残ってます。みなさん、毛筆で達筆に署名してはります。

昭和四一年六月二十五日、水泳部三水会大会がますやで開かれまして、五十余人お集まりでした。北村久寿雄さんが高雄から錦雲渓を歩いて来られ、まず母に「おばさん、また来たぜ。元気か」と声をおかけになり、母は「おおきに、年とったけど、この通りピンピンしてまっせ」と答えてました。翌日は。錦鈴峡、落合、六丁峠、鳥居本、化野念仏下、小倉山を経て嵐山へ出てお帰りになったそうです。

昭和十六、七年頃の冬、ラグビー部の方が一晩飲んで、翌朝、前の川で泳いだように言われていますが、それは違います。散歩に出やはって、滑って川にはまりましたのや。うちの女中で二代目“おたま”が「そないしてたら、かぜひく」言うて、大急ぎで風呂沸かして、入ってもろたのです。ええ、初代おたまは大正末期から昭和初期まで、二代目おたまは昭和初期から戦後までです。

戦後、ラグビー部の会がうちでありました。帰らはったあと、部屋の額がありませんのや。
「そら。筒井さんか田代さんにきまっとる」
と、おやじが言いました。果たして翌朝、
「額持って帰りましたんや。市内のどこに出しておこか? 錦市場の宇治屋?」
酔うて昔の癖出はったのでっしゃろな。額抱えて玄関出はるとき、誰も店の者おりませんでしたのや。それで、おやじの命令で、私が宇治屋さんまで額、貰いに行って来ました。ハイ。
錦市場の宇治屋さんは、茶の同業でして、林屋新一郎さんとは当方と知り合いです。昭和四年のご卒業です。

深瀬先生が、昭和十七年卒の林尹夫さんをようできるとほめていたそうです。戦争で戦死されまして、「わがいのち月明に燃ゆ」いう本が出されましたが、深瀬先生のご子息と、私の亡くなった兄とが、京都三中で一緒でしたから、わたしの耳に入りました。
古いところでは、釧路にお住まいの土屋祝郎さんの「紅萌ゆる」も買うて読みました。昭和初期の青春、学生に対する官憲の弾圧の厳しさが描かれてますなあ。
「神陵史」は冬の夜長などに、ボツボツ読んでます。(中座して神陵史を持ってきて開き)ここまで読みました。「神陵小史」も持ってますが、あれは漢文など出てきて、わたしらにはむつかしくて。その点、「神陵史」はわたしらにもよう分かります。立派なものですなあ。講談社の写真集の「紅萌ゆる丘の花」も持ってます。なんですなあ、三高の配属将校や教練の先生のなかには、三高の自由の校風を理解して、三高に馴染んだ人もおられたようですなあ。創立百十五年大会には、吉田神社の宮司さんと招待いただきまして、喜んで伺いました。嬉しいことです。あのときは美濃吉さんの十九年卒の佐竹社長さんから電話がありました。

物集高暈さんは東京にいやはって、百五歳でしょう。わたしの母の女学校時代の教科書に、物集さんの文章が載っていたそうです。大正の初めのことです。
戦後、三高に女性がタッタ一人、入らはりましたなあ。あのときは、おやじが驚いて叫びました。
「ウワァー、三高もとうとう変わったなあ。綾部女学校から一人入ったわー」
ご主人になられた方も三高の方で、京大の先生してはると聴いてます。五高や八高、松本高校など、何人か女のひと入ってますが、三高は一人だけです。入学試験がむつかしゅうて、受けませんのや。

三高出身のかたがうちへ来られますと、わたし「えらい、なんですけど。ご卒業は何年です?」伺いますねん。卒業年次をお聴きしますと、その頃の有名な学生さん、一風変わった人、つまり、運動部の選手とか、学校のため裏おもておやりのかた、応援団の豪傑のかた、三高に長いことおられたかた、など分かってます。そないなかたと、寮でご一緒だった、同じクラスだった、などお話が通じます。おやじから聴かされている知識がありますし。

ますやの屋号ですか?枡に矢です。玄関の外の壁に付けたります。改めて紹介でもありませんが、創業は寛永八年でして、昔は苗字がありませんので。枡屋何兵衛いうふうに称えてました。わたしで十三代目ですが、先祖以来、養子は一人もおりません。わたしの息子は現在、市内の同業者に修業にいってます。この建物は大正九年に建て替えたものです。母が来た年です。清滝の旅館はわたしとこと、「かぎや」さんの二軒でしたが、現在は三軒で、それに民宿が一軒あります。(後略)(昭12・文甲卒)

INDEX HOME
grenz

同窓会報 17 明治末期の追憶
  
瀧川 幸辰(1960)

京大法学部教授瀧川幸辰の著書「刑法読本」を問題視した文部省は教授の辞職を勧告し、もし応じない場合は休職を命じるよう総長小西重直に要求してきた。総長はこの要求を拒絶したが、文部大臣鳩山一郎は、閣議の了承を得て教授の休職を強行発令した。研究の自由は思索の自由と教授の自由を含み、総長及び教授会の同意を得ることなく処置が行われた、つまり学問の自由と教授会の自治が侵されたとの判断で法学部全員が辞表を提出した。これが「瀧川事件」である。瀧川初め八教授が京大を去ったが、戦後自由の回復と共に復帰し、昭和二十八年第十五代総長に瀧川は選出された。瀧川も三高の卒業生で、ここには折田先生のことと折田先生のあとをついで校長になった酒井佐保先生のことを記している。酒井先生は名校長と謳われたようであるが、折田先生後の三高に忍び寄る自由の危機に生徒は敏感に反応し、ついにはこの稿のあとに掲載した金子校長排斥事件へと連なるように思われる。

私が二年生のときだから、たぶん明治四十三年のことである。校長が折田彦市先生から酒井佐保先生にかわった。折田先生の校長期間は長かった。私の叔父が大阪中学校から第三高等学校にわたって在学していたとき、すでに校長だったから(それは明治十七、八年ころ)私の生まれる以前のことである。そのころから明治の末期まで続けて校長でおられたのかどうか知らないが、何しろその校長時代は長かった。

いまの新徳館の位置にトタン屋根の雨天体操場と称するもの(そこで体操をしたことは一度もない)があった。酒井校長の着任挨拶がそこであった。校長の挨拶に先立って生徒総代(一部の三年甲類の生徒)が歓迎の言葉を述べた。どういうことをいったか忘れたが、三高の自由な校風を尊重していただきたい、という注文めいたことを口にしただけは記憶にある。続いて酒井先生の挨拶をかねた訓示になった。自分は六高時代に生徒を集めてときどき話をしていた。ここでもそうするつもりだ、といわれたが「極端な自由は放逸である」といって生徒代表の挨拶に応酬(?)されたとき、どこからともなく拍手が起こり、それに和するものが多くなって、校長の声は聞こえない。拍手が収まり校長が口を開かれるとまた拍手が起こる。とうとう校長は立往生のまま会合は解散になった。

あくる日に学校に出ると木造の本館(現在の本館より少し北手に二本松があり、その後ろに校舎があった)の壁に新校長排斥の檄文が張り出してある。毛筆で書いた長いものである。それは直ちに生徒監によって撤去された。そのころ一部三年甲類を中心に卓風會というグループがあって演説の好きな一部三年と一部一年が加わっていた。校長排斥はこのグループが音頭を取っていたのではないかと思う。私は一部二年丙類だったが、私のクラスは校長排斥に参加しなかったので、その後どうなったか知らない。聞いたところによると、生徒の処分問題も議にのぼったということであった。酒井校長はときどき生徒に話をするといわれたが、私の在学中は一度も話はされなかった。

折田校長にお目にかかったのはたった一度しかない。それは宣誓のとき一人一人を校長室に呼び入れて,どこの中学校を出たか、両親があるか、将来の希望は何か、というようなことをたずねながら大きな帳面に毛筆で書き込まれた。そのときにお目にかかっただけである。「いま京都の鐘紡におられるのはお父さんか」といわれたのはそのときのことで、「父ではありません。父の弟です」と申し上げたのが、たった一つの個人的な問答である。

酒井先生は名校長とうたわれたが、私の在学時代は校長室からあまり出られなかったようである。名校長はちょこちょこと顔を出すものではないらしい。校長室は現在のグラウンドの北側の平屋建にあったが、その建物は跡形もなくなっている。  (明治45・一丙)

INDEX HOME
grenz

HOME