各国首脳会議の記念撮影をテレビで観ていても、たいていの場合日本代表のみポツンと取り残されたように、外国の首脳と談笑することもなく所在なげに見える。これからはますます情報・交通共に便利になり、世界の動きが直接私たちの生活と関わってくる。せめて英語で自由に外国の人たちと意志の疎通ができるような教育と自己訓練が必要であろう。同時通訳であっても本当に信用できる通訳ができる人は少なく、果たして十分内容が伝えられているのか心もとないことが多い 。かって三高ではドイツ語についてもここに紹介するようなしっかりした教育がなされていた。
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(前略)私の時代は一、二の教官が召集されるなど戦争が迫っている兆しはあったが、それでもまだ生活の基調はのんびりしていた。この時代に私たちはどんな授業を毎週うけていたのだろうか。当時の時間表が残っていないので、薄れた記憶を呼び戻しながら、ドイツ語を中心に、文乙の勉強ぶりを書いてみよう。
ドイツ語は週に11時間(ほかに第二外国語の英語が3時間)あった。文法は古松先生に関口在男の『新独逸語文法教程』をテキストに一年間みっちり教わった。辞書は主として古松先生御推薦の佐藤通次の『独和言林』(白水社)を使った。会話と独作文は一年はヘルフリッチ、二・三年はヤーン先生で、私たちがヘル先生に教わった最後の学年となった。
ドイツ語の講読は三年間いろいろのテキストを使って、内山先生はじめ、古松、岩子、平田、芳賀の諸先生から読んでいただいた。小説ではヘルマン・ヘッセの短編からはじまり、高学年になるとトーマス・マンやリルケの作品がつかわれた。なるべく日本語訳が出ていないものがテキストにえらばれた。文学以外のものでは、内山先生が三年のときヴィンデルバンドの『プレルーディエン』を読んで下さったことを覚えている。
こうしたテキストを通じて、私たちはドイツ語を勉強するだけでなく、それを通じてドイツの歴史と文化に親しみ、ドイツの芸術や学問に接する道を歩みはじめたように思う。それにはドイツ語以外の他の授業が役立った。たとえば私たちは一年で論理、二年で心理を土井虎賀寿先生から講義されたが、先生が話されるニーチェやゲシュタルト心理学に興味をもつことができたし、鈴木成高先生の二年・三年の時の西洋史の講義が、われわれのドイツ史の理解に大変役立った。鈴木先生はその頃ランケの歴史学に関心が強かったらしく、講義の中でもランケのことがよく出てきた。当時修身の授業を担当されていた相原信作先生もランケに詳しかったので、私たち有志で相原先生に課外でランケの『強国論』講読をお願いしたりしたのだった。当時東大の受験科目に外国語があったので、東大志望者はその準備の意味もあったのかも知れない。
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予習復習で一番時間をとるのはドイツ語で、とりわけ文法の勉強は気をゆるめると授業についてゆけない。私は二年の夏病気になり、九月を一ヶ月休んだが、ちょうど接続法に入るところだったので、その間のブランクをうずめるのが大変だった。講読でもリルケの『ロダン』は予習しても意味がつかめないところところだらけで、後年岩波文庫で訳が出たとき、それが以前に出ていたらどんなに助かったろうにと思った。文乙ではドイツ語のためにドッペる(注:落第する)者は稀だったが、理乙ではドイツ語の上に数学や物理などの重圧が重なるためか、ドッペるケースがよくあると聞いた。
でもそれだけ鍛えられたおかげで、大学での外国書講読の時間はほとんど苦労せずにすんだ。私は京大の経済学部へ進んだが、外国書講読は三年間必須科目で、私はずっとドイツ語を選択し、テキストは一年ではカッセル、二年ではリストとビュッヒャーだった。これらは予習なしでも楽に読めたが、三年のマックス・ウェーバーはさすがに難解で少々手こずった。
三高や京大の界隈の古本屋には、レクラム文庫を時に見かけて買ったり、三条の丸善で文庫の目録で注文したこともあった。岩波文庫の赤帯を何冊読んだかを自慢するだけでなく、レクラムを何冊読んだ(または持っている)というのが友人間の話題となった。私たちが読んだのは主として小説で、社会科学のものは関心がなかった。保証教授からこれこれの部は危険だから敬遠した方が良いといわれたことがあったから、マルクス主義の匂いがまだすこしはその頃の三高に残っていたかもしれないが、マルクスやエンゲルスのものもレクラム文庫に入っていることを知ったのは、大学に進学してからであった。
ヒットラーユーゲント(注 ナチス時代ヒットラー総統の親衛隊的青年団)が三高を訪問したのは 、私たちの2年の時だったと思う。講堂で歓迎の式があり、彼らがユーゲントの歌を合唱し、私たちは「紅もゆる」を歌った。時間があれば、文乙や理乙の者を中心に交歓のパーティを持ち、リンデンバウムやローレライを歌いつつ、外人教師にならった会話の力だめしをしたいという気持ちもあったが、そうした機会を持とうという声はなかった。私たちのクラスでは、そもそも自由の校風の三高にヒットラーユーゲントを迎えてよいかどうかを真剣に議論すべきだという強い意見もあって、学校の決めたスケジュールに従うだけに終わってしまったのである。
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私は1958年3~4月に、50日間一人で東西ドイツ・オーストリアを旅行した。八ヶ月のロンドン留学を終えて一年間最後の50日をドイツ旅行に当てたのは、ドイツなら一人で旅行できるという自信があったからで、その頃はまだ日本人でドイツを旅行する人は稀だったが、ほぼ自分で組んだプラン通りの旅行を無事にすることができた。マルクスが学んだボン大学や東独のフンボルト大学も行ったし、彼の故郷トリアへも足をのばした。ベートーベンの記念館も見たし、遊覧船でのライン下りも楽しんだ。最後にオーストリアに飛んで、近代経済学の生誕の地ウィ―ン大学を訪問、ブルグ劇場でシラーの『ドン・カルロス』を見てドイツ旅行をしめくくった。文乙3年間の勉強が、この旅行の基礎にあったわけで、御世話になった先生方に深謝しつつこの一ヶ月の一人旅を楽しんだ次第である。
(後略)(昭14・文乙卒)
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