§古い同窓会誌から

INDEX HOME

同窓会報 16 ミュレット神父のこと 大浦 幸男(1959)

敗戦直後に英語を教えた外人教師にミュレット神父があった。私の京大時代の友人にも「マリアの家」に住んでいた人がいたが、この「家」については聞いたことがなかった。古い同窓会誌を見ていて図らずもこの「家」の由来を知り、心温かい神父の姿に接した。


外人教師はとかく誤解されやすい。殊にカトリック神父となると、黒づくめの服装や、詰め襟のカラーを逆さまにしたようなローマン、カラーを見ただけで、恐れをなしてしまう。しかし、三高を心から愛していた一人の外人神父のいたことを,私はここに記しておきたいと思う。
彼の名はジョン・C・ミュレット神父。敗戦直後の昭和二十年の暮れに来日、翌二十一年より三高講師となり、引きつづき新制京大で英語会話および作文を教えている。彼はアメリカ人だが、当時進駐の軍人とは異なり、始めから日本の土となる決心で来日したのであった。カトリック司祭にとっては、本当の意味での国籍はこの地上にはない。だから、彼らには人種の差違はないし、また妻帯しないのだから、家族という意識もないのだ。それで、学生こそミュレット神父の本当の子供であり、学生にかこまれて、得意のジョークを飛ばしているときが、神父の最も愉しい時間であったのだ。昭和二十二、三年頃、三高の寮が全焼したが、その時には率先して救恤の金品を募り、また焼け出された学生数名を引き取って、自宅に住まわせた。その後、学生寮建設の必要を感じ、昭和二十八年頃に一年間帰米、各地で講演して募金し、集まった金で作った寮が、現在岡崎にある「マリアの家」である。そこで神父は今約四十名の学生と起居を共にしている。

ところで、カトリック司祭というと、その主要な活動は伝道にあると、人は考えるであろうが、ミュレット神父は、自分は英語教師として三高に奉職したのだから、三高生の英語の会話や作文の能力をつけることが自分に課せられた最大の使命だと考えていたようだ。だから長い付き合いの私などに対しても、ただの一度も宗教上の話をしたことがない。また、日本のクリスチャンは、百貨店の食堂ででも人前かまわずに食前食後の祈りをするものが多いが、ミュレット神父は私たちとの会食の際には決してお祈りなどしない。これは、異教である我々に対するエチケットとしてそうしないのだと、筆者に語ったことがある。また、日本のクリスチャンは、酒も煙草ものまぬ謹厳居士が多いが、ミュレット神父は麦酒はもちろん、日本酒でも人から差されればいくらでも呑む。これは、人がついでくれるその好意が嬉しいので、その好意を有り難く受けるからである。尤も、外人は酒には強いから絶対に酔わない。ますますご機嫌麗しく、得意のジョークを次から次へと飛ばすのである。或る晩、学生とのコンパを終えて帰宅した時、茶目な神父さんは、すっかり泥酔したふりをして、自宅の玄関にもたれかかっていた。出迎えに来た同居の学生たちが、これは大変とばかり、一同手を取り足を取り、神父さんを奥の寝台に運び込むと、途端に起き上がって破顔大笑したそうである。こんなに冗談が大好きの陽気な神父さんだが、それでは生臭坊主かというと、全く さに非ずで、その心の奥底には、神への本当の敬虔と深い人間愛が潜んでいるのがよくわかる。そうした人間愛が三高生に注がれて、若い学生を殊の外可愛がっていたようだ。だから卒業生も、ミュレットさんはこの頃どうしているのだろうかと時々思いだし、「お元気でしょうか」と、筆者も時折尋ねられるのである。(中略)ミュレットさんはその後もお元気で、今春三月より半年間の予定で訪米されたが、秋には帰朝し、再び文学部の講義を続けられる筈である。(昭9・文甲卒)

grenz

同窓会報 16  ◯  岩子 良一(1959)

三高の先生には卒業生が多かった。岩子先生のように母校に赴任されると、かっての先生方が同僚としておられるだけに、音を上げたくなるのである。


石橋先生にはよくない趣味があった。毎年の「えんま帳」を永く保存されるのである。その悪趣味を新任当時の私にわざわざご披露になった。折からの初夏に背いて私が冷や汗をかいたことは寧ろ断るまでもあるまい。当時の若い先生、あんなものを生徒に暴露されたら目も当てられまいと思ったからである。石橋先生!あんなクセは止された方がいい。でなければ、先生の机など焼けてしまえと願うものが必ずしも私一人では無いであろうから。

最も暗黒なる瞬間は最も明るき瞬間これと続く−−−−ジャン・パウルはかってこう言った。当時の校長溝渕先生、ドイツの大学のいわゆるアカデーミッシェ、フィアテルがお嫌いで、されば、授業時間はキチッと始めてほしい旨の通達があった。その翌日である。近くのドイツ文化研究所で昼飯を食って、ついでに本をのぞいている内に、ふと見ると一時を十分過ぎている。あわてふためいて尚賢館−−当時の教官室−−に飛び込むと、何と、溝渕先生が毅々然としてつつ立っているではないか。−−岩子君あとで部屋へ−−来てくれ給え−−いよいよいかん。何しろ授業は先生の登壇を以て始めとする、従って先生には遅刻はあり得まい、とうそぶく彼の森満先生の如き腹はできていない私のことだから、それこそ蒼くなった。そこで、数学の時間に「野バラ」を教えているところを見つかったシューベルトを偲びつつ、授業のあとで校長室に鞠躬如として参上する。すると、溝渕先生机に向かってドイツ文の手紙を苦吟中である。先ほど教官室へ来たのは辞書を見るためだったのだ。そこは専門のありがたさ、微に入り細に入り御手引きを申し上げると、先生すっかり喜ばれて、帰りにミルクホールを御馳走になった。遅刻が苺ミルクに化けたのである。而して当時の私は、これを禍を転じて福となすたぐいと呼んだのだが、−−−今の私なら、これを人生のリズムと観る。

INDEX HOME
grenz

同窓会報 16  とむらい合戦  山本 修二(1959)

この辺りで先生方の書かれた及落会議の様子を数編紹介しておこう。別項に記したように学力の低かった戦後の我々には及落判定は厳しかったが、伝統的に三高の及落に関する態度は、なかなか厳しかったようである。


さる同窓会の席上で久しぶりに会ったその顔を、どこか見覚えのある人と、じっと見つめているうちに、何十年か昔の学年末のある晩のことを思いだした。その人はスポーツ関係の人でもなく、担任クラスの関係でもなかったようだが、どうせ学年末の夜の来訪といえば、用件はきまっている。早速その人の成績を聞いてみると、昨年も落第した今年は二年目で、しかも今年は注意点が五つ六つ、その中の一つは三十点台という抜群のものであった。しかしその人の言い分がまた一風変わったものであった−−−「二年目でこの成績では、とても駄目で、今度おっぽり出されることは十分に覚悟しています。今さら卑怯に命乞いに参ったのではありません。しかし会議の席上で私の名前がでましたら、とむらい合戦だと思ってどうか一声かけてください・・・・・・」

さて翌日の及落会議で、とても駄目だとは知りながら、これも約束だからと思って、一声かけてみると、案外にもあちこちから同情の声がおこり、全く奇跡のように、この人が進級した。たぶん他の先生方も、昨夜この人に口説かれて、やはり「とむらい合戦」の つもりで「一と声」おかけになったのだろうと思うとおかしかったが、「とむらい合戦」とは、よくもまあ古風なうまい文句を考え出したもので、つまりこのすばらしい「文学的才能」によって、彼は進級したのであった。

INDEX HOME
grenz

同窓会報 16  及落会議と森満先生  深瀬 基寛(1959)

太平洋戦争紀元前十年(注;ママ)前後の風景である。教授会で教授たちにとって一番怖い先生が湯浅廉孫先生。及落会議で生徒たちにとって一番怖い先生が森満先生ではなかったかと思う。教授会で温厚そのものの森外三郎先生までが湯浅先生にはさんざ悩まされた。教授の卵に過ぎなかった私は、あまりにも正しい正論というものの存在を湯浅先生によって知った。ところで生徒の立場、殊に文科の生徒の立場から感じたに相違ない森満先生の怖さは、鳴神が生徒の眼には目隠しされている及落会議の雲の上だけに、さらにも一つ不気味だったことだろう。当時の三高の及落決定の不文律として最後の決断は該当学科の担任の教授に一任されることになっていた。例えば代数が落第点だとすると、その他の学科で優秀な成績を示しているなら、その学科の担任の先生たちがその点を基礎として盛んに弁護したあげく、それらの意見を参考にした上で最後に代数の先生が断を下すのである。 ところで森満先生の場合、弁護論は半時間でも一時間でも文句なしにしゃべり放題である。弁護論が終わってから不気味な沈黙約三分。−−−教授連の欠伸が出かかるころ、沈痛な落雷一声−−−「ラ・・・ク・・・ダ・・・イ」。「及第」と聞こえた記憶は一回もない。

がんらい右の耳にコマクのない私は音痴でもあるが、それ以上に数痴である。買い物をして代価を払わないこともあるが、その代わりに釣り銭を取らないこともある。だから数痴の文科生には同情心が厚くて、よく彼らのために弁護の側に立つたものだ。及落会議の翌日、私は或る生徒の訪問を受けた。「今朝、教務課へ退学届けを出してきました。僕は数痴なので、いくら落第しても卒業の見込みが立ちませんから、独学で英語の検定を取りたいと思いますので、これから先生、通信教授を御願いしたいのです。」いくら諭してもからの決心はビクとも動かなかった。教務で翌日、調べてみたら私の英語は九十五点、伊吹教授のフランス語は八十九点あった。彼は現在、九州の某大学の優秀な英文学の教授になっている。

保証教授制度の行われていたころの或る及落会議で、聞き覚えの名前の生徒が問題になった。保証教授は誰だといわんばかりに、諸先生の視線を私はまぶしく受けた。この際弁護すべき材料が乏しくて、ひどく苦心しながら、それでもどうにか三十分ばかり陳弁して我ながら上出来だと思って腰を下ろした。沈黙約三分。 対角の席から森満先生の例の沈痛な落雷一声−−「保証教授は私であります。」

INDEX HOME
grenz

同窓会報 16  落第希望の秀才  吉川 泰三(1959)

昭和三年四月に私が担任したクラスに榊原帯刀君がいた。彼は陸上部の理事として活動していたためか第一学期中しばしば欠席した。その頃無届欠席の回数何回以上は特及、日数何日以上は除籍というような罰則があった。それで私は寄宿舎や運動場に彼のいそうな処を追って欠席届を出すようにと幾度も注意して回った。学期末には成績や出席率の悪いものに対して教務課から担任教官名で、この調子では進級おぼつかない云々との注意書が父兄宛に差し出されることになっていた。彼の父兄にも無論この注意書が行ったはずである。彼は夏休みに帰省したとき、軍人である厳格な父君に大分油をしぼられたらしい。第二学期は陸上部の準先輩として第一線を引いたためか欠席も少なくなり成績も大いに挙げた。第三学期もよく勉強していたようであったが、試験の前の日に私の宅に彼が突然やってきた。そして私に自分を落第させてくれという。学年末になると年々歳々進級させてくれと悲壮な決意で本人が直接頼みに来るのもあるし、また非常に出来の良いのが来て自分の成績はどうでしょうと尋ね、君などは心配ないよというと、すかさず友人の誰彼は会議に掛かるでしょうか、その節はよろしくなどと友情を発揮して進級を頼んでいくのもある。また私たち運動部の部長をしている教官−−−私は柔道部長をしていた−−−は部員が落第すると、一年間それを選手として試合に出せない規則があり、また部の志気にも影響して困るので、お互いにこんな成績なのは駄目かしらなんて意味深長なナゾめいたことを尋ねあって危ない部員の進級に努力したものである。ところが彼の申し出では落としてくれという全く予想外のもので私はビックリしてしまった。見たところ神経衰弱的な様子もなく彼は大変に真面目なのである。

その理由はと問えば、自信もなく惨めな成績で三高を卒業したくないという。しかし父兄の身にもなっても考えなければならないし、また運動部の先輩たちは一学期を犠牲にしても大抵第三学期に頑張って卒業し、世の中に出てからも立派に活躍しておられる。今からでも遅くない一つ頑張ってみないかと勧めても、一向に聞き入れてくれない。父親の方は心配いらないし、自分としては十分に基礎的な知識を得てから大学に進みたいという。しかし私としては成績のある者を落とすことはできない。君がどうしても落第したいのならその方法を知っているだろうと云ったら、解りましたといって帰っていった。果たして予想通り私の試験に白紙の答案を出してしまった。

それで結局彼は目的を達して落第することになった。その次の年には初めからよく出席し熱心に勉強して卒業の折には彼が念願していたとおり極めて優秀な成績を挙げて三高を卒業した。その上当時創設されたばかりで入学率も十人に一人というような競争の激しかった東大の航空学科に見事に入学した。そこでも大いに頑張ったと見え卒業後直ちに選ばれて日仏交換学生としてフランスに留学した。二年ほど経って帰朝の挨拶状をもらったときには私は彼の三高時代のことを思いだして彼の将来に大きな希望を掛けていたのであった。処が何という悲しいことであろう。ある朝新聞を手にしたとき、飛行機墜落の記事が目に付き読んでみて驚いた。その飛行機には彼がテストパイロットとして乗り込んでおり、彼は飛行機と運命をともにしたのである。全く惜しい人物を失ったものだと深く悲しむとともに遙かに彼の冥福を祈ったことであった。

戦前に比べて戦後世の中は非常にセチ辛くなり、一時も足踏みなど許されなくなったとはいえ、彼のように自らを深く反省し一度決心した上はどこまでも初心を貫くという腹の据わった学生が近頃はトンと見当たらなくなった。誠に残念なことである。

INDEX HOME
grenz