§古い同窓会誌から

同窓会報 75 折田校長との出会い 武間 享次(1992)

古い同窓会報からも50編余を収載したので、ひとまずこの辺りで古い同窓会誌の掘り起こしも閉じようと思う。この稿は比較的新しい会報からだが、武間はアメリカ在住の立場を活かして折田先生の在米中の姿に新しい光を投げかけてくれた。これは武間にとって確かに折田先生とのアメリカでの出会いを意味し、三高の「自由」の根元との出会いでもあった。折田先生がアメリカにお出でになったのはリンカーンによる「奴隷解放」が現実のスケジュールに乗ってから数年後であったこと、またこの当時多くの日本人が留学していたことも私には新鮮な話であった。この稿を読んで三高の「自由」は決して単なる思いつきからのスローガンではなく、折田先生が神の御手の中での人間平等というキリスト教信仰をご自分の一生の思想的規範とされて、「三高」の教育の中にこれを実現すべく努力された賜物と改めて認識した。三高の「自由」は本物なのである。折田校長を偲びながらひとまず古い同窓会誌の発掘に幕を下ろしたい。なお読みやすくするために副詞など「漢字」の部分を勝手に「ひらがな」にしているところがある。ご容赦頂きたい。


確か五年ほど前、三高同窓会の海堀氏よりお手紙を頂き、「三高の新徳館前にあった折田彦市校長の胸像を憶えて居ると思うが、折田先生は青年時代に米国留学をされて居たのだがその詳細が分からない。記録によると一八七〇年代にニュフジャーシー大学で勉強されたとあるが、貴兄もニュフジャーシーに住んでいるらしいから、調べてほしい」と言う依頼を受けた。当時私は米国長老教会の本部で副總主事の要職にあり、大袈裟に言えば、いわゆる秒読み的な日常を強いられていたし、また一年の間ほとんど半分以上は米国内はもちろん、世界各地への出張もあり、そう簡単に課外活動の「調査」など思いもよらなかった状態であった。その上、「そういえば、そんな方の胸像が三高にあったなあ」くらいの記憶はあったが、正直云って、折田校長と云う名前も三高卒業以来完全に記憶から取り除かれた存在だったといっても過言ではなかった。

第一、海堀氏の云う「ニュフジャーシー大学」なる大学は存在しないし、これだけのヒントでは「調査」もそう簡単に出来そうもないと思いながらも、とにかく一応ニュージャージー州(以下NJと略)にある二つの有名大学に直接問い合わせをすることにした。私は副總主事の地位につく以前は同教会本部の青年部主任主事をしていた関係で、アメリカの大学事情や歴史を比較的よく知っていたので、NJに関してはプリンストン大学Princeton Universityとラトガース大学Rutgers Universityにその調査を絞ることは簡単であった。実は、私の叔父は1925年にプリンストンを卒業しているし、また私の従弟もちょうど私がエール大学Yale University留学時代にプリンストンにいたので、たびたび同大学を訪問したこともあり、その上、歴史的にプリンストン大学は長老教会とも深い連携もあり、友人を通して1870年代の卒業生名簿を調べていただくことに何の躊躇もなかったわけである。一方、ラトガース大学は現在は州立大学であり、そのキャンパスも州内に散らばっているため、少々の骨折りを覚悟で、私の同志社神学部の後輩で現在ラトガース大学の宗教学部教授をしている方に調査をお願いした。ただ、折田先生がどちらかの大学に留学した経験があっても、卒業して学位を取っておられなければ、彼の名前を見つけだすことはほとんど不可能に近いと危惧しながら、とにかく「調査」に乗り出したわけである。

ラトガース大学教授の私の後輩はすぐに返事をくれ、私と同じような危惧、すなわち「折田彦市がもし学位を取っていなければ、少し面倒なことになる。特に、1870年代には文字通り百人にも上る日本人留学生が大学にいた記録があるから、探しだすのに少々時間がかかるかも知れないが。」との返事をくれた。ところがプリンストン大学に出した私の手紙はすぐさま同大学の古文書図書館の館長に回送されたらしく、まもなく「確かにヒコイチ オリタはプリンストン大学で1876年にバチェラー・オブ・アーツBachelor of Artsの学位を取っています。オリタのファイルもありますから、お望みならば彼の写真などのコピーをお送りします。」との手紙を頂いたときには、長い込み入った調査を覚悟していた私にとっては、少々拍子抜けしたという感じであったことは否めない。もちろん、早速に「オリタ ファイル」のすべてをコピーして頂くことをお願いした。その結果は、海堀氏のご尽力で三高同窓会会報67号に発表されたプリンストン大学学生の折田先生の写真、学生証の写し等である。板倉創造先輩の「一枚の肖像画」にも「オリタ ファイル」の内容をご紹介いただいた次第である。
この「オリタ ファイル」をプリンストンから受け取ったのが、本当に私が折田先生と「出会った」時と言っても良いと思う。学生時代のオリタ青年の写真を眺め、彼が学生時代にしたさまざまな活動を読むことは、私自身の留学時代の事を思い出させ、また、現役時代の青年部主任主事時代に接した何千、何百の学生、特に数は少なかったが日本から来た学生の事をも思い出させてくれた。特に二百年以上続いた私の母校エール大学と好ライバル(ハーバード大学も入れて、エール・プリンストンは一高・三高の関係にある)のプリンストンの学生という親しみもあり、何だか、「折田青年をもっと知りたい」との感に引き込まれたのである。


この、いわゆる第一次調査で判明した事は、折田青年がプリンストンに入学以来、親友としてきた人物があったことである。板倉先輩の御稿にもあるように、折田青年はジョージ・スチュアートGeorge Black Stewartと入学当初から行動を共にしていたようであり、彼の折田に対する影響は大変に大きいものだったようである。スチュアートはプリンストン大学卒業後、神学校に進み、長老教会の牧師となっている。その後、彼は長老教会所属のアウバン神学校の校長を長年務め、アメリカのキリスト教界の指導者の一人となった。校長引退後には日本を訪問し、明治天皇にも拝謁したとの記録も残っている。スチュアートのファイルもプリンストン大学の古文書図書館に詳細が残されている。

この調査で判明した事で私が一番驚いたことは、折田先生がプリンストン大学卒業前にプリンストン大学総長から、同大学チャペルでキリスト教の洗礼を受けたという事実であった。三高の校長がクリスチャンであったとは夢にも思わなかった事でもあり、(最近、板倉先輩から森總校長もクリスチャンであったことを教えられた)私にとって折田校長に一層の親しみを感じたのである。もともと、プリンストン大学はアメリカが英国王室時代の植民地として未だ独立していなかった時代に、1746年、長老教会の指導者を養成する目的で造られた学校であり、キリスト教の教育方針が非常に強い学校であった。当時、当大学長はたいていが長老教会の牧師でもあったわけである。しかし折田青年が学生時代には既に同大学は教会の支配下より離れ、優秀な学生の一般教育機関となっていたが、それでも学内におけるキリスト教の影響は大きなものであったと推察できる。このような環境の中で、特にスチュアートという熱心なクリスチャンの親友を持つた折田彦市青年がキリスト教に傾倒したことは理解に難しくない。その上、折田青年はプリンストン大学入学以前の二年間をコーウイン牧師のお宅で世話になっていた。このコーウイン牧師が深い影響を折田に与えたことは、私のいわゆる第二次調査で明らかになったのである。


さて、第二次調査とは、折田先生が1870年に渡米後、プリンストン大学入学までの二年間、「NJ州のミルストンという小村でコーウイン牧師なる方に御世話になっていた」が、一体、このコーウイン牧師とはどのような方だったか、またなぜ折田青年がコーウイン牧師と結び付いたのか調べてほしいとの御要望が板倉先輩から、また京都の海堀氏より寄せられてきたのがその始まりである。御要望を受けた当時は、未だ現役時代でもあり、特に、南北戦争以来南と北に分かれていた長老教会が百二十年ぶりに帰結合同することが決まった頃で、この合同準備の最高責任者の一人として、私の日常は当時ジョージア州のアトランタにあった南長老教会本部とニューヨーク市とを毎週往復するといった状態であった。とてもじゃないが、コーウイン先生を捜し出す調査に時間がどうしても取れない。しかしやっと私の秘書を通じてNJ一帯の教会地区の事務所に連絡して、「1870年代にNJのミルストン、或いはミルタウンにコーウインという牧師がいたかどうか」の問い合わせを始めた。頼みにしていたプリンストン地方の教会事務所までも、「そのような記録はないし、第一ミルストンまたはミルタウンには長老教会は昔から存在しなかった」との返答が来たときは、がっくりであった

やっと1988年に現職からの引退を決意したが、残務整理と後輩の指導のため、約1年間の留任を依頼され、結局1989年の夏過ぎまではどうしても第二次調査に真剣に取り組める状態ではなかった。長老教会でなければ、どの教派かとの原点から考え直した結果、改革派教会に調査を延ばすことにした。これはNJ一帯はアメリカ独立以前はオランダの植民地であり、したがって、オランダ改革派教会の縄張りであったことを思い出したからである。オランダ改革派教会はアメリカ独立後、アメリカ改革派教会と名を改めたが、ほとんどの指導者や会員はオランダ系のアメリカ人であった。改革派教会は長老教会と姉妹関係にある教派であり、仕事の上で親しくしていた友人もあり、その中の一人に、同教会の古文書図書館長にご紹介願うことにした。この古文書図書館は同教会所属の神学校(在ニューブラウンズウイック市、ラトガース大学の隣接地)にあり、やっと、一日を費やすつもりで館長とのアポイントメントを取った。適当な紹介と私自身の教会における地位から、館長は丁重に私の調査目的を聞いてくれ、すぐさまに、「コーウイン牧師なら、確かに、1870年代にNJのミルストン改革派教会の牧師でした。彼は当教会では傑出した歴史学者として知られています。」とのこと。さすがに古文書図書館長だけあって、すぐにコーウイン牧師の存在を知らせてくれた。普通は立入禁止の古文書書庫に案内していただき、コーウイン牧師に関する書類を自由に閲覧することを許されたのである。

 

エドワード・コーウインEdward Tanjore Corwinは1834年7月12日(日本では天保5年、江戸の大火があった年 )にニューヨーク市で生まれた。父親はニューイングランドに渡ってきたイギリス系の清教徒の祖先を持つニューイングランド出身、母親はニューネーザーランド(新オランダ,すなわちオランダ植民者がニューヨーク地方をこのように呼んだ)の植民者を父とした女性であった。コーウインは生まれた土地のニューヨーク市立大学を卒業後、NJのニューブランズウイックにある改革派教会所属の神学校に学んだ。前述のように、オランダ系植民者の宗教はプロテスタントの改革派が圧倒的に多く、たぶん母親の影響で、コーウインも改革派に属したに違いない。同神学校を1856年に卒業と同時にNJのパラマスという土地の教会の牧師として迎えられ、そこで六年間を過ごした後、やはりNJのミルストンMillstonの教会の牧師に就任したのが1863年であった。
当時のミルストンは農村地帯とも言える小村だったが、比較的裕福なオランダ系植民者の子孫達が造っていた集落の一つでもあった。ニューブランズウイックを中心とする衛星的集落である。1700年代初期にオランダ植民地の中心だったニューヨーク市や、外海に面するロングアイランドから永住発展を望むオランダ人達が、この地方に移ってきたのが、その発祥の理由である。
コーウイン氏はここで1888年まで25年間も牧師として住んでいた。その後、前述の改革派神学校の学生指導教官の職に迎えられたが、七年後にはふたたび教会の牧師としてニューヨーク州北部に移った。夫人に1905年に先立たれてからは、半隠退生活を送っていたが、1914年6月22日突如として昇天された。一人息子のチャールス・コーウインも改革派教会の牧師となったが、チャールス夫妻は子供に恵まれず、1950年代に死去されたと共にコーウイン家の血筋も絶えてしまったということである。


さて、われわれが捜し求めていた、このコーウイン先生とは、改革派教会の世界ではとてつもない大物であったことが判った。彼の最盛期はちょうど折田青年が御世話になっていた時代を含むミルストンの教会の牧師時代であった。驚いたことに、改革派の神学校で教育を受けた者なら、少なくとも一度はコーウイン先生の手になった著書を読んだに違いないというのである。私が紹介された古文書図書館長はコーウイン氏著あるいは編になる書架を見せてくれたが、彼は「改革派教会の教憲教義のマニュアル」、「アメリカ改革派教会創始時代より当時に至る間に決定されたすべての方策の整理分類集」をはじめ、教理、歴史学者には基本的に必要な文献を著作出版した人だったのである。ミルストンの教会を辞してからは、親教会とも言えるオランダ改革派教会本部の再度の懇請によってオランダに渡り、オランダの改革派教会の教憲教理の歴史的分類の研究を依頼され、見事同地で文献を完成した人でもあった。

面白いことに、私がコーウイン牧師の調査をしている理由を知った古文書図書館長は、
「自分が知っている限りのコーウイン牧師は、よくこれだけのことをいろいろと完成したものだと驚いていたのだが、そうですか、その上まだ日本人の青年を自宅で世話をし、勉強まで見てやっていたのですか。」
と驚嘆の言葉を出していた。実のところ、コーウイン氏の履歴を読み、彼に関する文献を読むにつれて、私は少々不安になってきていた。その不安というのは、折田のことも、同氏が世話したといわれている他の日本人学生のことも何も出てこないのである。これだけの重要な文献を残した人物だったが、ご自分のこと、または私事に関することは何も残されなかった人物でもあったらしい。やっと、彼の昇天を当時の新聞が報じている中で、彼の旧友の述懐に、「あの忙しかったコーウイン牧師は、約十年程の間、日本人の学生を自宅に引き取り、生活一般は勿論、勉強も見てやっていたことは驚嘆と感謝のほかはない。」という箇所があり、間違いなく折田先生がお世話になったコーウイン先生だと再確認した次第であった。「コーウイン先生発見」の報を京都の海堀氏と横浜の板倉先輩に早速お知らせしたことは言うまでもない。


これで第二次調査の第一課題は解けたわけだが「どのような経路で折田青年がコーウイン牧師のいるミルストンに行くようになったか」という第二課題はまだ解けていない。
コーウイン先生に関する文献には前述のように何も記録されていないので、これ以上コーウイン調査を続けても無駄と考え、改革派教会の日本関係の文献を調べてみることにした。前述の図書館長も私の考えに賛同、三種類の文献を指摘してくれた。何と一つは1895年に下田開港以来、来日したアメリカ宣教師第一号のヘボン博士Dr.James Curtus Hepburn についで来日した米国改革派教会所属の宣教師第二号グイド・フルベッキRev. Guido. Verbeckの毎月の連絡書簡が1860年以来全部残されていたのである。当時から改革派教会本部はニューヨーク市にあり、フルベッキは本部の總主事だったフェリス氏に宛てて手紙を書いていた。この手紙は毎月一度日本に寄港する米国所属のオリファント商会の定期運送船でニューヨークまで届けられていたらしい。

日本の神学校を出た私はもちろん日本のキリスト教教会史でフルベッキの名前は知っていたが、よもや、130年前に彼自身の手で書いた書簡を目の前にするなど、思いもよらないことであった。ある種の感動を抱きながら、フルベッキファイルに手を着けたものである。ところが、いざ実際に彼の書簡を読み出してみて、これは大変な作業であることに気がついた。フルベッキの手紙はすべてオニオンスキンと呼ばれるごく薄い紙に、表裏両面に濃いインキでぎっしりと書かれていた。手紙を書いた途端にインキが裏に滲み出していたに違いないのだが、それが、100年以上も経つとどのような状態になるかはご想像いただけるだろう。その上、もう一つの難関にぶつかった。フルベッキはオランダ生まれのオランダ育ち。大学もオランダ。その後アメリカに渡り、神学校を出て、ちょうどオランダ語が出来る宣教師を求めていた改革派教会の派遣で日本に行った人である。だから、いくら英語に慣れている人といっても、オランダ流英語らしく、なかなか読みづらい手紙文が続いていたのである。正直に言えば、「間違いだらけ」の英語の手紙ということであった。しかしながら、大袈裟に言えば「今、歴史と対決している」といった自覚から一枚一枚読み進んでいき、三〜四時間が瞬く間に過ぎ去った。そろそろ焦りが私の心の中に現れだした頃、突如として「ORITA」の文字が私の目に飛び込んできた。やった!と心の中で叫びながら、その箇所を丹念に読み返し始めたのである。

ORITAの名前が出ている書簡を紹介すると、

1870年3月19日
江戸にて(江戸はYedoと書かれている)

親愛なるフェリス牧師様

五人の有望な若者がニューヨークでたぶん貴兄を訪ね、貴兄のアドヴァイスと御指導を仰ぐと思います。五人の名前は、アサヒ、タツ、オリタ、ハットリとヤマモトです。最初の二人は私の生徒
(武間注:長崎の英語学校)、あとの三人はスタウト師(武間注:Rev.Stoutは、やはり改革派教会の日本派遣宣教師で、フルベッキが文部省顧問として江戸に出向以来、長崎の英語学校で教えていた)の生徒です。彼らは日本の第一級家庭の子息達で、皆よく行儀作法を心得ています。服部も好青年です。彼らは今まで私が接した中でもっとも有望な青年達だと思っています。もちろん彼らは充分な資金を持っています。(武間注:日本政府或いは当時の藩の留学生としての学費を持っていたという意味と解釈する)この中の二人は特に英語に達者です。彼らは貴兄に何らの御迷惑をお掛けしないことは確かですし、また貴兄の御親切には、それ相応の責任を感じることと存じます。よろしくお願いいたします。

グイド・フルベッキ

(注)この手紙の翻訳文について2006年11月慶応大学の高橋信一さんからここには重大な誤訳があるとの指摘が寄せられた。別注に転記しておいた.

武間注:アサヒとタツは岩倉具視卿の子息であることは、板倉先輩から教えられた。

この書簡は前述のオニオンスキン便箋に書かれていて、大分想像力を発揮しなければ解読に時間が掛かったが、その次にファイルされている、ノートの切れ端とも言える紙(日本の葉書くらいの大きさ)には、この五人が持参してニューヨークで直接にフェリス師に手渡した紹介状があった。

拝啓

この紹介状を携えている方たちは私の英語学校の若い友人達です。
アサヒ、タツ、折田、服部と山本の諸君です。
彼らはアメリカの大学で勉強すべく米国に渡航して参りました。彼らのことは、今月の定期報告便にも貴兄に書きましたので御了解頂けると存じます。
貴兄の御指導と御援助をお願いいたします。ありがとうございます。

グイド・フルベッキ

その次の月次報告書(ふたたびオニオンスキンの便箋使用)は、

1870年4月

親愛なる兄弟:

今月に貴兄から頂いた書簡には前回に私がお願いした件について、何のご返答も無かったので、私の書いた数行がお目に留まらなかったのではないかと案じております。アサヒ、タツと同行の青年達は先月の船便でニューヨークに向けて出発しました。
お願いした青年達は、無事目的地に到着して、今では、勉学に励んでいることと信じています。彼らは本当に優秀な青年達であり、無事勉学を終えて帰国の暁には、きっと有益な人材になることに間違いありません。また、彼らが御地に滞在中には、友人達にも好かれる存在になるものと信じています。彼ら一人一人は本当に有能であり、また従順かつ柔和な性格の持ち主です。
神様が彼らを祝福して下さり、将来において信仰と深い愛の人々となるようにお導き下さるようにお祈りしています。

G・フルベッキ

その後、オリタの名前は出てこないが、ニューヨークのフェリス師が次から次とフルベッキの紹介で渡米してきた日本人留学生の世話役的存在になっていたことがフルベッキ書簡で明らかになっている。

これで、やっとフルベッキの紹介で、折田青年が岩倉兄弟と共にニューヨークで改革派教会の本部を訪問した証拠が出てきたわけであった(紹介状が残っているのは、確かに、五人の青年達が、フェリス師にこの紹介状を手渡した事実を物語っている)。

さて、その次はニューヨークのフェリス師から、NJのミルストンにいたコーウイン氏に宛てた紹介状があれば、調査は完結するのだが、残念ながら、その証拠は未だに見つかっていない。ただ、ほとんど確実と言えることは、比較的小規模で地域的にも前オランダ植民地に限られていた改革派教会の連絡網で、フェリス師がコーウイン師に折田青年を紹介したという想定である。特にコーウイン師は当時の改革派教会内での学者肌で知られていた方であり、また、NJのミルストンは当時でもニューヨークから数時間で行ける距離にあるから、フェリス師がコーウイン師に「折田を頼む」と紹介したのは確実に近い。古文書図書館長は、ミルストンの教会自体に何らかの古文書が残っているかも知れないといい、私をミルストン改革派教会の現牧師に紹介してくれた。ニューブラウンズウイックもミルストンも私の自宅から、車で一時間半の距離にあるので、手紙や電話で連絡した後、また一日をミルストンで調査すべく準備したわけである。


現在のミルストン教会の牧師は、バーマ師で、The Rev.Buurmaと書き、明らかにオランダ系の名前である。私の名前は、ローマ字でBumaと書くから、BumaがBuurmaに会いに来たと二人で大笑いしたものである。教えられたとおりの道順を辿り、ハイウエーから田舎道に出ると小さな小川があり、その横をやはり小さな運河が流れている。ミルストンという村は今ではヒルスボロという町の一部になっているが、教会のある辺り一面の林の中に点在する住宅地方は、それでも「ミルストン地域」の名を残し、特に「角の大きな白い教会」として親しまれているミルストン改革派教会が美しい姿を現した。前もって自己紹介と調査目的をお知らせしておいたので、バーマ師は同教会の古文書を出して準備して下さっていた。

彼曰く、「それにしても、私の大先輩に当たるコーウイン牧師が日本人留学生のお世話をしていたとは全然知りませんでした。しかし、この教会は日本とのつながりがなかなか多くあるのですよ。私の前任者のトーマス・ハリス牧師は、この教会に赴任する以前は改革派教会が日本に派遣した宣教師だったと伺っています。彼は在任中、日本にアメリカン フットボールを正式に紹介して、確か昨年日本のアメフット創始20周年記念に日本に招かれていったとのことです。また、4〜5年前には、日本の高校と生徒交換があり、この教会の青年達も日本に行ったり、日本人高校生がこの村に来たり、私の前任牧師の時代には、こういった交換生徒が牧師館にも数人泊まったようです。」と。
しかし、120年前の前任牧師が日本人留学生を世話していたことについては、全然知らず、「コーウイン先生は大牧師、大学者として見習うことを心がけていましたが、これからは、彼の人間関係についても、もっと知るべく努力します」などと言っておられた。


さて1870年以降の教会の記録を読み始めたが、前述のようにコーウイン師はご自分の私的行為については何も記録に残されておらず、半日掛かって調べた記録には、オリタの名前を見つけだすことは出来なかった。しかし、私のミルストン訪問は決して無駄ではなかった。ここで教えられたこと(牧師との会話、また記録の調査で)はもっと根本的なことであったかも知れない。


第一に、私は、折田先生が毎日曜日、コーウイン家の人々と一緒に礼拝に出席したと想像できる教会そのものを見、また、折田青年が二年間寄宿していた牧師館を訪れ得たことは、その時撮った写真とともに「折田足跡追求」とでもいえる感動を経験したことである。この教会堂は1828年に建立されたものであるから、1870年に折田青年のミルストン滞在中には既に存在していた建物である。その後、もちろん数回にわたる修理、改造はあったが、建物は建立当時の姿そのままとのことである。当時、教会の内部は会衆の席は全部升席であり、会員の家族が一升毎に座るシステムになっていたようだ。もちろん今では長いいすが並ぶ(これを教会用語ではピューPewsという)になっているが、当時牧師家族の升は講壇に向かって右端にあったとのことである。私はその辺りに行き、礼拝中は、折田青年がコーウイン夫人と一緒に座っていたと想像を巡らしていた。
この教会堂の中央には、天井から吊された大きな黒いシャンデリアが誠に印象的であった。このシャンデリアは鯨油を使用するもので、教会堂建設時代からそのままの形で残されており、今でも電気に変えることもなく、歴史を重んずる人々の過去の誇りを感じさせられた。たぶん、折田青年も、長い説教の最中何度となく、このシャンデリアを眺めていたに違いないと心の中で思っていた次第である。教会の入口には歴代牧師の肖像画が並び、コーウイン師の肖像画もその中に輝いていた。
教会は何百という墓石に取り囲まれていた。日本の古寺のように、当地の古いキリスト教会の庭は歴代の教会員の墓で覆われているのが普通だが、特にこのミルストン教会では教会堂の入り口の側まで、墓石が所狭しと林立していたのには些か驚いた次第である。教会の周囲には、むかし馬車でやってきた人々が馬を繋ぐ杭が一定の距離に並んでいたのも誠に印象的であった。

教会を出て、小道を横切ると林の中に牧師館がある。比較的規模は大きいが正方形の、お世辞にも立派な建築とは言えないような住宅である。この牧師館も1850年に建てられたというから、折田先生がミルストン滞在中は、既にこの建物があったことになる。これももちろん、修理、改装を重ねているが、建物そのものは1850年以来の形そのままだと教えられた。当時は見渡す限りの畑と後ろは林に囲まれていたとのこと、今でも牧師館の周囲にはあまり何もなく、広い敷地内には昔の馬車小屋と思われる納屋風の建物があり、バーマ師は「ガレージに使っていますよ」と言っておられた。ここでも折田青年が毎日出入りしていたに違いない玄関の前に立ち 、感無量の気に浸ったのである。前述のように私は、折田彦市に「出会った」のは彼の学生時代のイメージを根底にしたものであったから、彼が大学入学以前、多感な二年間を過ごしたミルストンでの「足跡追跡」には、一段と出会いの感激に浸ったものである。


第二に私のミルストン訪問が教えてくれたことは、コーウイン師の人間性であり、彼の人間性が如何に折田青年に影響を与えたかと言うことである。教会の理事会の記録を読む内に考えたことは、コーウイン師は折田青年の世話をし、勉強の指導をすることによって、必要な小遣いを用立てしたのかも知れないということである。これには、少々の説明と日米の文化的要素の比較をする必要があるかも知れない。当時の教会経済は決して楽ではなかった。前述のように、教会員は、自分の升席を「買う」ことを義務づけられていた。すなわち升の大きさ、その位置によって値段が違うのだが、これが教会経営の基本資金となり、牧師の給料の資源となっていた。ところが何処の教会でもたびたび、牧師給料の遅配、また資金難のために一時的ではあるが、減給が記録されている。そして記録によると、遅配、一時的減給を余儀なくされる度に、理事会はコーウイン師に謝罪し、資金調達次第、給料を支払うことを約束している。ということは、コーウイン家の経済状態は年中「火の車」であったと想像できる。
このような状態にあって、フェリス師の紹介で、コーウイン師が日本人留学生を世話し、家庭教師(当地ではtutorと呼び、比較的尊敬を受ける地位である)をして、一石二鳥の利を得たことが容易に想像できた。牧師の内職といわれればそれまでだが、当地の文化、倫理観では、このような「内職」は尊敬されるべき偉業であり、決して卑下すべき行為ではない。ここで私は、コーウイン師の人間性を見つけだしたように感じたのである。そしてこのコーウイン師の人間性は、きっと折田青年の人格形成に大きな影響を与えたものと確信した次第である。


第三に、私がミルストンで学んだことは、三高にとっても非常に重大なことであった。それはコーウイン師が、自由解放を心底から信ずるキリスト者であり、その自己の主張を人々にも忌憚なく述べ伝えた。したがって、折田青年もこの「自由」を身をもって学んだに違いないという発見である。リンカーン大統領が発した「奴隷解放宣言」Emancipation Proclamationは1863年、南北戦争の真っ最中であるが、折田青年がミルストンにやってきたのはそれからタッタの七年、まだまだ、NJの農家、特に、オランダ系の植民者の中には、未だ前奴隷を置いている家も多かった。「解放」されたからと言って、翌日から前奴隷が独立できる状態ではなかったのは想像に難くない。このような状態で、コーウイン師は1863年にミルストンに着任以来一貫して「奴隷の自由解放」を説き、また教会員には、「奴隷の所有者は、奴隷と共に礼拝出席」を強要したと伝えられている。「天地創造の神の前には、我々は自由であり、奴隷という人が人に所有される制度は認められない」と幾度も説いたという記録も残っていた。すべてのことに全神経を集中して学び取ろうとしていた折田青年が、この「神の前にある一人一人の自由」の教えを聞き漏らすはずはない。三高の「自由」が実は、このミルストンの小村から伝わり、植民者も奴隷も、そして日本からやってきた留学生も一つの人間として、解放された自由の下に神の前で跪くといった折田青年の経験から出てきたのではないかと想像した次第である。
ミルストン教会に行った後、もう一度ニューブランズウイックにある改革派神学校内の古文書図書館を訪れ、コーウイン師の主立った説教集をよんでみたが、確かにコーウイン師の説く「自由」は、身をもって「自由を守る」また「自由を獲得する」覇気と説得力に満ちていた。私は折田先生がミルストンの片田舎で学び、また実際に経験された「自由」はこのようにして三高に伝えられたのではないかとの想像と些かの興奮を抱きながら、私の第二次折田調査を終えたのである。


これで、調査できる限りのことは出来たとは考えならも、未だ未だ細かいことが判明していないのは残念である。ただ、いろいろと想像できることはある。例えば、どうして、折田先生は渡米直後に大学に入らず、二年間もNJのミルストンでコーウイン家にお世話になっておられたのかとの疑問である。これは私の想像する限りでは、1870年に彼がアメリカに到着された時点では、大学への入学資格が欠けていたため、すぐに入学許可が得られなかったのではないかと思う。アメリカの大学は、昔から入学試験はないが、入学資格を重要視する。今で言う第二次教育(すなわち現在の高等学校)を修了した者、またはそれに準ずる学力のある者に資格を与えられる。「それに準ずる学力」は一科目ずつの学力検定試験を受けることによって資格付けられる。だから、折田青年は、この学力検定試験を受けるために、二年間コーウイン師について勉強したというのが、私の推定である。したがって、板倉先輩が書かれた「試験合格」は入学試験ではなく、科目毎の資格試験であったと想像する次第である。因みに、当時の日本からの留学生は全部が全部直接にラトガース大学に入学したわけではない。ラトガース・プレパラトリー・スクールRutgers Preparatory Schoolという私立の高等学校(全寄宿制度)がニューブランズウイックにあり、大勢の日本人留学生がこの高校にいたことも判明している。しかも、この中には、大学入学どころか、このプレパラトリー・スクールも卒業できずに帰国した者もいたと言うことである。折田青年も、このプレパラトリー・スクールで数科目の勉強をしたと想像しても無理ではないようだ。


第二に、折田先生がなぜプリンストン大学入学を希望されたかという疑問である。やはり板倉先輩の御稿に、当時ラトガース大学には百人近い日本人留学生がいたにもかかわらず、折田氏は日本人が誰もいなかったプリンストンに入学された。私の想像では、これは、折田青年はコーウイン師のアドヴァイスをお受けになったものと考える。当時はラトガース大学もオランダ系の(創立当初は、オランダの女王にちなんで、クイーンス カレッジ と呼ばれていた)優秀な大学ではあったが、何と言っても当時から現在に至るまで、ハーバード、エール両大学と並ぶアメリカ切っての名門校とはいささか格が違った。折田青年の優秀な頭脳と穏和な人格を見越したコーウイン師は、せっかくの留学なら、そして君なら、充分プリンストンでやっていけると太鼓判を押したに違いないと想像する。
特に、プリンストンは創立当時、優秀なキリスト教(特に長老派教会)の指導者を養成する目的があったので、コーウイン師も、折田をプリンストンに勧めたに違いないと思う。とにかく、折田青年がコーウイン師の元で過ごした二年間は彼の人間形成の基礎を作ったと解釈しても過言ではないと思う。彼は四年後、プリンストンを卒業する以前に、キリスト教の洗礼を受けたが、その準備期間はミルストン時代にあったことは否定できない事実であろう。彼が学んだ「自由」もミルストンに源を発しているし、他の日本人留学生と異なった留学生活をプリンストンで過ごす基礎を作ったのもミルストンであったに違いない。こうして、私の「折田調査」は私にとって「折田彦市先生との出会い」という大収穫をもたらしてくれた。人と人との出会いは現在形だけではなく、過去の人物とも経験できる との貴重な教訓も学んだのである。


筆を置く前にもう二つ述べさせていただく。


私が「折田調査」を始めたことを何かの弾みで、京都に健在する老母(九十三歳)に漏らしたことがある。その途端、母は「折田タエちゃん!」と「不思議なご縁ねえ」と話してくれた。「折田妙子」は折田先生のご息女であり、私の母と京都の銅駝小学校からの同級生。(中略)最近「折田調査」を機会に、私の三高北寮同室、同級の上田文雄氏の御紹介で折田先生のお孫様にあたる折田道夫氏(六高、日本曹達KK社長)とお知り合い願うことが出来た。こうして、私の「折田家との出会い」はますますその枠を広げていっている次第である。


最後に、板倉先輩が書き下された稿の中に「折田彦市と新島襄」がある。新島先生は、同志社大学の創立者であり、同志社と関係の深い私の家族にとっては大切な人物の一人である。新島先生が渡米されたのは、1864年(明治維新発足の三年前)、マサチューセッツ州のアーモスト大学を卒業後、ボストンのアンドバー神学校で勉強されて後に帰国されたのが1874年だから、折田青年よりも年齢的には先輩にあたる。しかし、折田、新島の両先生は同時代の人であり、同時代にアメリカに留学した日本人教育者ということが出来ると思う。しかしながら、留学中の動向、出身地も薩摩と会津と、このお二人の背景も人格も非常に対照的である。ただ似ている事実は、お二人とも在米中にキリスト教の洗礼を受け、のち帰国して、教育者となられたことであろう。新島はその激しい気性をそのままにキリスト教主義による私学を創立したのに対して、折田はその温厚な性格を官学における教育に専念した。新島は寒梅の詩にも残したように「耐え忍ぶ」信仰を元に、「良心が全身に満ち満ちた人間形成」をモットーに教育を進め、折田は人間の解放の信仰の下に、「自由」の教育の理念を貫いた。私は新島が卒業したアーモスト大学と折田が卒業したプリンストン大学のちょうど地理的に中間地にあるエール大学に学ぶことが出来た。しかし、私がこの「調査」に携わって特に感じ、感謝したことは、エール大学に来る以前に、私は、三高で折田校長の「自由」を経験し、その後同志社で新島先生の「良心」の教育を受けることが出来たということであった。ミルストン教会からの帰途、車の中でふと口に出てきたのは、
“神楽ヶ岡の初時雨
檠燈かかげ口誦む
老樹の梢伝う時
先哲至理の教にも”

であった。

(後略)

1991年11月

ニュージャージー州 クロスター町にて(昭22・理)

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