8.桜 筺

歴史家萩原延寿さん サンデー毎日・岩尾光代

萩原延寿氏は三高が生み出した、現代の代表的人物の一人と思うので掲載の了解を得てこの文章を転載する。原文は2002年2月5日毎日新聞大阪朝刊「悼」欄に掲載された。萩原氏は2001年10月24日に亡くなった。享年75歳。


最後のお見舞いは、亡くなる2日前、眠っていた。

昨年7月に末期の肺ガンと診断されて、自宅に近い宇都宮市で入院した。ひと月あまりで、妻の宇多子さんが急死。子供がいない萩原さんは、独りぼっちで死に向かって闘病することになった。弟妹が看病を引き受けて、東京都中野区の病院に転院し、最後をみとった。親しい人たちが交代で病院に見舞った。

葬儀を終えて、著書「陸奥宗光」(97年朝日新聞社刊)を手にとったら、ページの間からファクシミリで送られた手紙が出てきた。「やっと今朝、陸奥とおサラバすることができました」と、書き出した一文は、6月26日朝、とあった。毎日新聞に「日本人の記録 陸奥宗光」を連載してから、30年がたっていた。脱稿した大きな解放感が伝わってくる手紙だった。「女房は昨25日退院、今度は小生が“介護”役に回らねばなりません」と、結んでいた。晩年は、夫婦交代で病気との闘いでもあった。

京大教授などの誘いを一切断って、在野での研究・執筆を貫いた信念の人。先生と呼ばれることを嫌ったので、誰もが「萩原さん」と呼んだ。だが、在野に徹した苦労は一通りではなかった。音楽家だった夫人は、かけがえのない校訂者となった。助詞のひとつもおろそかにしないから、執筆はなかなか進まない。「この表現で、読者に伝わるだろうか」と、ゲラにじっくりと赤字を入れる。だから、萩原さんの文章は胸にしみて分かりやすいのだと、教えられることばかりだった。

萩原さんは本社のベストセラー「一億人の昭和史」シリーズに刊行当初から終了まで8年間、編集顧問として参画した。初代編集長、高原富保さん(夫人は前セ・リーグ会長の故須美子さん)と、三高時代の親友だった縁で引き受けた。当時、昭和史編集部員だった私は、部を離れたあとも資料調べの手伝いをしたり、寄稿をお願いしたりと、長くおつきあいが続いた。小さな交流もおろそかにしない温かい夫妻だった。

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三高終焉のころ 久米 直之

これから記すのは同窓会誌に発表されたものではない。久米直之先生は三高の卒業生で三高自由寮の焼失、また三高終焉の時に立ち会われた。三高の本質をマスターしておられた先生は三高がなくなってからも多くの同窓会員の支柱であったし、三高歌集の正しい編纂も指導された。夫人も先生とともに三高生を可愛がってくださったが、平成四年八月二十四日白血病で亡くなられ、その後一年半後平成六年一月二十四日には先生ご自身が後をお追うように八十五歳で世を去られた。生前の先生ご夫妻を敬慕する人たちの寄稿を編纂して平成八年一月「久米先生ご夫妻追悼録刊行会」から466ページの立派な「久米先生ご夫妻を偲んで」が出版された。玉稿81編の寄稿文とややフォーマルな久米先生を偲ぶ4編が収録されているが、海堀氏がご恵送くださった。この本から此処には久米先生ご自身の文章を収録させていただく。仮名遣いを新仮名遣いにしているのは先生に申し訳ないのだがお許し願いたい。


着  任

私は昭和二十一年、終戦の翌年の四月から三高がなくなる二十五年の三月三十一日まで三高の教師を仰せつかりました。満四年であります。私が来ました頃には軍学徒や外地引揚学徒等が加わるなど、いろいろの理由で、三高生の総数は千名を大きく越える大世帯となっておりました。
私はこの戦争、終戦までちょうど満六年間仙台に居りました。東北帝国大学理学部の生物学教室というところにおりました。昭和二十年の七月十日夜、仙台は大空襲をうけまして、下宿は丸焼け。私も相当落ち込んでおったのであります。その年のすなわち終戦の年の十月に珍しく石橋先生から手紙が参りました。先生は例の唐紙の巻紙に無類の達筆で、要するに結論は「お前は三高へ戻ってこい」と、命令形ではございませんでしたけれども先生の顔を思い出しますとこれはもう「帰ってこい」みたいな感じがしたんであります。私は三高へというより、三高の陸上部へ入学しまして、石橋さんが陸上部長だったもんですから生物の教室へは時々お邪魔をする訳です。そうするとそこに一年の時植物の講義をしていただいた鈴木(チンクシャ)先生が居られまして両先生の所へですね、河野与一先生であるとか中村直勝、深瀬さん、一瀬雷信先生、若いところでは秋月・古松、その他に理学部の先輩で今西錦司、小野喜三郎とか、芦田譲治というような、その当時は新進気鋭の学者がみえて居りまして、この教官室の空気というものは非常に、この何といいますかアカデミックでありまして、非常にいい空気だったわけです。それでまあ私は、それに打たれたといいますか、こんな所でしゃべることが出きるようになったらなと夢想したことはあります。たまたまその石橋先生から「来ないか」という手紙でございましたので、一も二もなくもう私の心は京都へ飛んでいたわけです。
礼をつくして、改めて三高からもらい受けの手紙をいただきましたので、仙台の教室でも快くお聞き届け下さいまして(注:先生は当時助教授でした)、昭和二十一年の三月の末に仙台をはなれたのであります。京都へ着きまして大変落胆したのは京都の街が、何かゴタゴタとして、しかも非常に殺伐としておる。すなわち三高の北側一条通りの塀のそばの歩道が掘り返されて菜園になっている。グラウンドの周りも、中央館の南側の芝生も全部野菜畑になっている。ネギやえんどうが植えてある。このネギやえんどうはその後、私が教室で独り身の生活をするようになりますと、今日もそこら辺に来ているようでありますけれども悪餓鬼共が「先生、牛肉買ってくれたら、野菜はこちらでちゃんとします」と言います。その野菜の産地はどこかというと、つい目と鼻の先の三高菜園だったようです。あれでまあ職員がよく怒らなかったもんだと思いますが、あの謹厳な安部晴先生なんかも教授会のはじめなどによく「今日もやられましてなあ」と言われるのですが、その顔がちっとも怒ってないんで、ニヤッと笑っておられたのを覚えております。

さて、一番最初、校長のところへ挨拶に行けと言うので、私は石橋先生に連れられて校長官舎へ行きました。前田先生が出て見えまして、最初の御挨拶が「君も変わってるね」といわれたんです。あとで考えると、とにかくせっかく東北大学にちゃんとその職を得ているのに、高等学校の教師になって来ることはないじゃないかということだったんじゃないかと思います。この前田先生の言われた「も」の意味ですね。だいぶん経ってから判ったんです。それは当の前田校長って方は、医学部の教授をしておられまして、京都帝国大学の総長候補の筆頭であるという話だったそうであります。ところが森総さんが病気になられまして、その後釜と言うことで、これまた石橋先生が前田先生と三高で一緒だったよしみで、かつぎだしに行きまして、とうとうその総長候補が三高校長になって帰ってみえた。三高へ戻ってみえたことで、僕が変わってるなら前田先生はもっと変わってるじゃないかということに気がつきまして、「も」という字の意味がわかったような気がしたわけです。その時が三十七歳と五ヶ月でありますから、教授会に出てみてまたびっくりしました。私が三高の時に習った先生がまだ現役で十人位おられた。教授会へ出ていっても若造扱いであります。飛んでもないところへ来たもんだなァという感じで三高の教師業というものが始まったんであります。ところでまだ驚いたことがあった。私が初めて教授会へ出ましたのが二十一年の五月頃だったと思いますが、その教授会で私を紹介されて、その後すぐ前田校長が「突然だけれども私はいろいろ考えて校長を辞めることにしました。長いことご迷惑をかけて恐縮でした」と言い、さっさと退席してしまわれた。教授会はそれで終わり、生物の教室へ帰る道すがら今度は石橋先生が「前田君が辞めたんでわしも辞める。お前が来たから、ま、ええじゃろ」。こういうことで、正に晴天の霹靂と申すべきか、上からのつっかい棒というのはありませんけれども、上からのつっかい棒が急にはずされたような感じをうけたのであります。
そこで教授会は後任の校長を探さなきゃならんことになり、何人かのお名前がでました。その中で多分ドイツ語の高安君の発案だったと思いますが、落合さんという名前が出たんです。ところがそれからの話がちょっと愉快なんでありまして、この話を生徒が聞き付けまして、萩原延寿とかあるいは林幸正であるとか、そういった諸君が「あの人は一高の先輩である。一高の先輩が三高へ来て勤まるかどうか、ワシ等で一遍テストをしよう」というので、丁度その頃落合さんは東京に滞在中でありましたが、東京まで押しかけていろいろ話をしたらしいんです。その時に落合さんは「諸君といろいろと付き合いをして行く上では、 モノローグではなくて、ディアローグで行こうじゃないか」と言われた。まあとにかく相談づくで学校を運営していこうじゃないかというような事を言われたらしいんです。モノローグとかディアローグという言葉を落合さんが言われたことに三高生が気をよくしたわけです。あれなら大丈夫だと、鬼の首でも取ったような顔で帰ってきたのです。そういう事で生徒の方も大納得でございまして、校長更迭の正式な辞令が出たのは昭和二十一年十二月の終わり頃である御用納めの直前と記憶して居ります。
落合さんという人は多分に一高的なところがありまして、なかなか頑固で、よく言えば古武士的な風格がある人であります。しかし非常にさっぱりした人でありまして、よく怒るんでありますが後を引かない。それから議論をするとすぐに大きな声を出す人でありましたが、しかし相手が良い事を言うなと思うと、すぐそれに理解を示すというようなところがありまして、非常に付き合い易いタイプの先生であったようです。落合さんご自身が、自分が一高出であるという事で、一高の欠点というものを良く知っておりまして、三高的になろうと努力をされていたようです。その一つとしまして、二十二年の一月に生徒の主催で落合さん歓迎会を新徳館でやった。その時に弁論部のキャップテンをやっておった倉田君が歓迎の辞を述べたのでありますが「お前は一高の卒業生だから三高にはむかないから、早々に荷物をまとめて帰れ」というような事を言ったんです。落合さんは知らん顔をしておりました。ところが、それから二人が非常に肝胆相照らすようになりまして、これは落合さんが亡くなるまで、非常に優れた師弟愛を保っていったようであります。

 
中山生徒課主任

私が三高に来た時に生徒課主任は中山治一君でありました。中山君は三高で私より一年か二年か下でありまして、西洋史の専門家ですが、生徒課主任としても、きわめて有能な立派な人物でありました。終戦後一遍に政治形態が変わり、それに乗じて一部の思想的な襲撃と言いますか、啓蒙運動というものが非常に盛んになりましたけれども、これに極めて上手に対処されて、そして中山君が辞められる迄、三高にはさして大きな波風は立たなかったのであります。
中山君はいろいろと良い習慣を三高の中に残してくれております。何しろ終戦直後で物資不足の折からでありました。まあ例えば学校内で紙が不足いたします。仙花紙というペラペラのすぐ破れるような紙しかないわけであります。校内の試験用紙は選抜試験の答案用紙、これは非常に上質の紙を使いましたから、これの裏を利用して、学期末試験の問題が刷ってあるわけです。
そんな時でも方々で紙を上手に調達してくるような事をされましたり、いろいろの事をされたのでありますが、その他にいろいろの思想運動や政治運動が日本中の学校をおそってまいりました。それに対して中山君は西洋史の先生でありますから、思想的な流れというものについては、非常に深い学識を持っておりまして、いくら学生が議論を持ち込んでも、到底中山君とは理論闘争が出来ないという点もありまして、騒ぎもほとんど起こらない。その代わり連絡会議というものを創りまして、生徒の自治会の代表と、教授会の代表、教授会は始め五人でしたが、終いには七人くらいになりました。生徒の方は十五、六人出まして、定期的には月一回位やったんですけれど、あくまでも生徒側と教授会との意志の疎通の機関である。これが非常に大きな一種のバッファー・アクションをいたしまして、大きなもめごとも、起こらなかったんじゃないかと思います。

中山君の主任の時にひとつ大きな問題がありました。進駐軍が京都にもだいぶ居りまして、GI共が三高のグラウンドへ来て、野球をやる。はじめはまあ夕方だけというような事で使ってたのでありますが、それがだんだん嵩じて来まして、二十一年六月頃になりますと、朝からグラウンドを使わせろと言い出したんです。そこで怒ったのは野球部であります。これも面白いんですが、野球部のその当時の教師の方は割合引っ込み思案でありまして、生徒の方が向こう見ずで、その時のマネージャー三人、海堀と鳥海と三輪であります。この三人が何とかして食い止めようというわけで、海堀と三輪が日本文の趣意書を作りまして、それをその当時三高きっての英語使いであるといわれた鳥海が英訳をしまして、それをもって府庁にありました司令部へ出かけて行ったわけであります。ところが、出て来た将校がそれを読んでえらい怒ったそうです。訳わからんので、その時は鉾を収めて、その原本を持って山修さんのお宅へ相談に行った。山修さんそれをざっと見て、「なるほどこれでは相手が怒るのは無理ないわ」という、まあ非常に失礼な言葉を使ってあったらしいんです。山修さんがチョコチョコとその原文に手を入れて下さって、これを持って再度行ったんです。今度は割に物わかりがよかったのかどうか知りませんけれども、「よしわかった、考えておく」というような事で、その後二ヶ月あまり交渉を重ねたそうでありますが、とうとう、「以後GIはあそこへは入れさせない」という事で決着。三高のグラウンドを進駐軍から守り抜いたわけであります。
その後野球は一高戦に、二十一年には負けましたけれども、二十二年、二十三年と連勝しまして、そして四部完勝を成し遂げた大きな原動力になったという意味で、これは三高の歴史にとっては、ひとつのエポックになったんではなかろうかと僕は思うんであります。

自由寮炎上

私は京都へ来ました時に、下宿も家もないし、一人でありますから、寮へ泊まっておれというので、寮にもぐって居ったわけであります。いかにも荒涼としておりますので、やがて僕は生物学教室で椅子を四脚づつ向かい合わせに八脚並べまして、その上に布団を敷いて寝て居ったんであります。そういう事をして居りまして、寮へはよく遊びに行ったわけです。南舎の四番に海堀が室長しておりまして、なかなか快男児が揃っていました。いろいろと歓待されたのか冷やかされたのかわかりませんけれども時々遊びに行きました。寮の玄関から南舎の方へ行く廊下に配電盤がありまして、そのスイッチボックスのヒューズを入れてある位置がボーッと赤熱しているのです。昼間見ますとヒューズの入れてある遮断器の入っている場所に二十番位の銅線がグルグルと巻きつけてある。これはいかんと思いまして中山君に言いまして、中山君もすぐ校長に進言したのです。その頃寮生の方からも寒くてしようがないからスチームを入れてくれないかという要求があったというので、事務の方でこの交渉をしているうちに、残念ながら寮が焼けたのであります。寮が焼けました直接の火元は中舎の東に南北の廊下を隔てて隔離用の静養室という部屋でした。 その部屋は伝染病患者などが出た時にそこで静養させるので普段は使っていなかったのであります。ところがそこが社研かなんかの溜まり場になりまして、天井のソケットから蛸足配線をやりまして、二つか三つ五〇〇ワットの電熱器を使って暖をとる。普通照明灯のキャパシティーは非常に小さいですから、オーバーロードになりまして、天井のところで火が出た、というのが原因であるということであります。それで寮は一晩のうちに焼けてしまったんであります。
私等が三高生であった頃、すなわち昭和の一桁の初めでありますが、その頃寮の受付に、木村君と藤田君と言う二人の中年のおっさんが来ました。そのうちの一人藤田菊蔵、通称阿弥陀二世の家は東寺の南にあります。三高へ出勤するのには、市電で一時間前後かかるわけです。彼は一月二十六日の晩は非番で翌朝六時頃に家を出て近衛で降り、京大の学生集会場の門を入りましてすぐ、塀沿いに三高の陸上競技場の隅へ出るわけです。彼はいつものようにそこへ入って来て、曲がった腰を伸ばしてああヤレヤレと東の方を見たところ、目に飛び込んで来たのが大文字山であります。寮があると大文字山は見えにくいのです。彼はびっくりしてどうしたんだろうと思って、目を落としてみたら寮が無くなっているのです。彼は陸上競技場の雪の上に尻モチをついて、へたばって居ったのでした。彼はその話が出る毎に、「もうほんまに、こんなびっくりした事おへなんだデェ」と言って涙を浮かべるのであります。その驚きというものは全く三高の驚きであったわけであります。

三高は昔から、全く火事のない所でありまして、明治元年の舎密局以来失火というものを経験していないんであります。それが最期にえらい事をやったわけです。これはしかしどうも新制に移行する時に、我々がいろいろと悩み考えして居りましたのに、「グズグズするな」と言って、天が我々に最期の決意を促してくれたのではないかという気もして居ります。この寮の後始末でありますけれども、あの寮は私共が居りました所謂旧寮とは違いまして、昭和九年に室戸台風で旧寮がやられまして、時の溝渕校長が急遽上京されまして、陸上競技場のところに寮を建てるという事を文部省と交渉されて実現したものです。
当時は満州国が出来たりしまして、金が沢山要った時で、そんな時に高等学校の寮なんてものに何十万という金を出す事は、これはなかなか出来ぬ状況にあったようでありますが、それを実現して昭和十一年に出来たのであります。自由寮は建坪が一,一七八坪、二階がありますので総坪数にしますと二,〇三八坪、この建築費が総額二十万三千円。焼けた時に建築士さんに試算してもらってるんですが、二十三年一月の時価にしてだいたい五千万円位だろうという事だそうであります。

焼け出された寮生の落ち着き先や身の回りのほか、緊急に樹てなければならぬ対策や問題も山積していますので、失火対策委員会というのを作って、いろいろの事をやったわけです。こういった応急対策の中心になったのが、中山君と野口事務官であります。

女子三高生

さて、二十二年の終わり頃になりますと、「高等学校が女子学生を採らんというのはけしからん」と再三に亘りGHQから文句が来ました。二十一年・二十二年は高等学校令の第一条に「高等学校に於いては、男子の高等普通教育を完成するを以て目的とする」と書いてあると突っ張りましたが、二十三年の時には落合さんが「もう採らざるを得ないだろう。下手をすると『お前とこぶっつぶすぞ』と言いださんとも限らん」と言うのでとうとう女子も募集したのです。二十三年度は志願者が文科が一、〇三三人で理科が一、六七七人、合計二、七〇七人。その中で女子は文科が三十二人、理科が二十三人、合計五十五名という志願者がありました。その中で男子に混じって入学の栄冠を得たのは女子がたった一人であります。この人は非常によく出来まして理科の合格者二二六名の中のだいたい頭から三分の一位のところの成績を収めた府立第二高女の八木貴代子という生徒であります。一人ではかあいそうだからという教授もおりましたけれども、女子の二番目が不合格の中の六十番以下にしかいない。そうするとそれまでの男子の六十人余りをどうするか、という事になりますので、この女子一人になったわけであります。たった一人の女子が入ってみますと三高生は、本当に、私らもそうでありますけれども、女に弱いんであります。この女子学生は、その後新制の京大理学部へ入りまして、数学を専攻、後に、去年教養部の教授を定年で辞めた河合良一郎君の奥さんになられました。三高の女子学生が他の高等学校の方と結ばれずにすんだ。「数学に於けるユニーク・ソリューションだ」といって特に数学の先輩方は非常に喜ばれたそうであります。その奥さんとなった八木女史の話をごく最近ご主人から聞いたのでありますが、三高生は女の子を敬遠して自分たちの仲間に加えなかったというんです。その頃の三高生は八木貴代子生徒をスミに置いておきまして、彼女から机を一列離れて坐ったというんです。そして碌に言葉もかけない。また、この八木さんという人が非常に口数の少ない人でありまして、おとなしい人であります。そんなこんなで学校生活も非常に寂しかった。ということを河合君から聞きまして、実は四十余年後にやっと覚った次第で、本当に申し訳ない事をしたと思うんであります。しかし幸い河合君が全三高生を代表してというとおかしな言い方になりますが、今は立派な家庭を築いておられます。お子さんも三人居られて立派な家庭が出来ておりますので、これはまあ、せめてものことであります。

それからもひとつ。学生が騒ぐようになりますと、学生の思想攻勢に対処したり情報交換をする目的で、京都市内の大学・専門学校の学生部関係の教職員で月曜懇談会というものができました。京大と三高とが幹事校みたいな形になりまして月に一回ずつ会合を開きました。
そのころ同志社女子大の学生課長をやっておられたご婦人の教授が、私に、「私のところの寄宿生は他の大学か専門学校の学生さんがやって来てもあまり気にしない。ところが三高さんがやって来ると大騒ぎになる。そして帰ってからも興奮してなかなか寝つかない。何とかしてもらえませんか」と言う。これには私もちょっと困りました。ところがですね、その際、私はふとむかし私が総代部屋に居った頃のことを思い出しました。ある時、森外三郎校長から寮の役員が校長室へ呼び出されました。校長は一通の手紙を我々に見せられたのです。府立一女の校長さんから森(外)校長への手紙でありました。開けてみますと、「三高の寮生が深夜に下駄をはいて木造の廊下を走り回って、大きな声で歌をうたう。これは非常に安眠妨害になる。ことに寄宿舎の生徒が、あれは三高だと言って騒いで仕様がない。何とか止めさせる方法はないか」とこういう。深夜のことで遙かに離れた府一の寄宿舎まで響くのだそうです。さっきの同志社女子大の先生と同じことを、二十数年も前に既に森外校長の所へ抗議文が来ているわけであります。森外先生はそれを我々に読ませて「見たな。わかったな。渡したぞ」と、こう言うてニヤッと笑われただけであります。止めろとも止めさせろとも何とも・・・・。こちらも「はあ、わかりました」と言って帰って来ただけでありますが、ストームは依然としてその後も続いたようであります。危うく忘れるところでしたが、その同志社女子大舎監先生への返事は、「なるほど、ごもっとも!ところで、私共は校門内の出来事は絶対の責任を負いますが、お宅の寄宿舎でのことはお宅様で然るべくどうぞ!」と、少し虫が良すぎますかしらん。

生徒課を預って

寮の焼けた事の責任を取って、校長以下が、進退伺を出しました。それに対する処分令が八月三十一日付けで参りまして、落合太郎校長は譴責、中山治一生徒課主任と野口義人事務官は戒告、これで文部省側の処分が終わった事になって居ります。生徒に対しては、寮生一般に校長の名前で二月七日付で「一年間自由寮の閉鎖を命ずる」という、自由寮がないので、こういう処置が取られたんでありますが、これは八月三十一日に責任者の処分が決まりましたので、その後、繰り上げて、十月の三十日だったと思いますが、解除になり、第80回の紀念祭を同窓会全国大会と兼ねて尚賢館と新徳館を連ねて開催しました。実は炎上のあと、私は中山君のあとをついで生徒課主任ということになります。
選挙で私が生徒課をやらんならんという事に決まった直後に、中山君に主任業についての指針を請うたんです。中山君は非常に懇切丁寧に、約三十ヶ条位の、いわばマニュアルを教示してくれたのであります。私はそれによって曲がりなりに、生徒課を運営して行く事が出来たのであります。それから満二年間生徒課主任をやったのでありますが、概して言いますと、生徒の方は自治会が中心になって活動しましたが、あとの一年間はどうしたわけか、自治会の役員というのが、一月毎位に繰り返し替わるのです。顔も覚えないうちに、また新しい委員が出て来るというような事が、三年だけしかいない三高生の中でありました。それから生徒自治会のリーダー達に対抗して、自治研究会というものが名乗りをあげ、三高本来の是々非々の態度で、生徒会を運用していこう立場の諸君が出て参りました。これらの両者の生徒大会などがありますと、論戦は、なかなか華やかなものでありました。私はもっぱら聞き役でしたが、概して平静でございました。
私が生徒課を預かって居る間に、二十三年六月にゼネストがありまして、イールズなんていうのが、わけのわからん改革案を「国会で議決せよ」と言い出したり、藪から棒に授業料値上げを言い出して大騒ぎになる。そうすると全学連は六月二十四日にジェネラル・ストライキをやるという。これがわかったのは連絡会議でした。それが結局はこれまた教授会にも非常な知恵者が居りまして、「そんなんやったら一週間夏休みを繰り上げたらええやないか」その知恵が全国の大学、専門学校で、どこも浮かばなかったようで大騒ぎになる。三高は秘かにそれを決めまして、「お前行って文部省の意向を聞いて来い」と、私はまあ仕方ないので夜行で文部省へ行きました。その時の大学学術局長が日高第四郎先生で三高の教授から文部省へ戻られた方です。視学官に大城冨士男というよく知っている先輩が居られました。このお二人に会い、探りを入れたわけです。
ところが、文部省は「生徒に負けたらあかんぞ」という一点張りで「そうですか、三高は、京都はご存じの通り食糧不足でしてなあ」と暗に繰り上げ話をほのめかしたんですけれども、「学校は負けたらあかん、生徒に負けたらイカン」といいながら、後ろ手でヤレ!ヤレと言ってくれるように僕は思った。それでそれを持って帰り、教授会にはかってその翌日「事情により夏休みを二十三日からに繰り上げる」という掲示を出したんです。生徒の方はえらい怒りまして、裏切ったとか、何とか言って「授業をやれやれ」と集まって来るわけです。二百五十人も三百人も出て来て「授業ヤレヤレ」とシュプレヒコール等をやる。それでこっちはちょっとヒントを得まして、応援団長を呼びまして、応援歌の練習をやろうやないかと。そしたらまたみんなやってくれと、と言うのです。グラウンドの東側のレンガの上へ私が立ちまして、グラウンドのダイヤモンドへ生徒が集まりました。当時、三高の応援団は勝った時の歌は「凱歌」だけしか知らないんです。もっと景気のいい歌は二つあるんですが、そのうちの一つ「征塵萬里」というのを叩き込んだ。どうやら皆歌えるようになって、これを持って一高戦を克ち取ろうとの意気を植つけたのでした。そしてとにかくその場も事無きを得たわけです。集まって来たマスコミの連中が、「これ一体何ですか」と言うから「何ですかと言うことあらへん、これはストライキでなしに同盟出校やないか」と言ったら、それをまた新聞社が「三高生の同盟出校」と書いたので、大笑いになったことでありました。

嶽水会

最期に少しだけ終戦後の私が生徒課をやっておりました時に、生徒がどんな事をしておったかという事を述べて見ましょう。(注:最期になった三高嶽水会の運動部、文化部の一覧表が載せられているが省略)みんな苦労して居りましたが、一部で思想運動やなんかで狂奔して居る生徒諸君が居りました。しかも、その生徒諸君も一方で学校を目の仇にしながら、他方では、自分らがいくら騒いでも、最期の所は学校が何とかしてくれるわいという、良く言えば学校に対する信頼でありますが、ちょっと意地悪く考えますと、一種の甘えみたいなものがあったようであります。多くの三高生は文化部と運動部に分かれて、非常に活発な課外活動をして居るので、二十三年度は文化部は三十ばかり、登録人数五百十八名、運動部が十三〜十四あり、部員総数が三百三十七名あります。終戦後の、あの食うものも碌に食わないで、しかもこういう文化活動、スポーツ活動をやって来たという事は、これはまことに、ここに三高生の偉さというものが示されていると思います。また先生方の中に卓球をやる先生が二十人近く居られまして、ある時に生徒と教師の卓球の交歓試合というのをやりました。十八組やりまして、10対8で生徒が勝っています。その先生の名を見ますと、山修を始め、吉川泰ちゃん、小堀、阪倉(これは篤義君ですね)、それから羽田君とか、あるいはこんな人がと思われるような人がやって居られて、その中でも田川君とか、石田ツェー・ハー氏とか、それから石田君という英語の先生、これがまた達人でありまして、こういう人が卓球をやって居られたのであります。またある時は、無名会というこれは生徒の中で多額納税者の連中のグループのようでありますけれども、それが教師に野球の試合を申し込んで参りまして、これもやりました。これは7対7で仲良く引き分けました。こういう次第で短い間ではありましたけども、みんなで、文化的または体育的な活動をして居ったのであります。特筆すべき事は一高戦を復活しまして、二十三年には、四部が全部勝ちまして、三高の歴史では比較的珍しい四部完勝という事をやったのであります。一方では、学校が無くなるという非常に暗い悲しみの中で、みんなが勇気を出して一生懸命で元気を出してやってくれたという事もあるわけです。

終 焉

三高の終焉というものは、実は一寸複雑であります。先ず二十四年の三月に、一修の、すなわち二十三年に入学した三高生は新制へ移って行きます。それから二十四年卒業の諸君も、三月三十一日で三高を去ったのでありまして、二十四年の四月一日からは三年生だけが後へ残るわけです。これが全部で四百人ばかり、二十五年卒業の諸君は、文科百五十七名、理科が二百六十三名、合計四百二十名であります。
さて、解散式の話で終わる事にします。二十五年の一月二十四日に三年生の卒業試験が終わります。その日の午後、豫餞会というのを、学校の主催で開く事になって居りますが、この年は物資不足の時でありまして、恒例の紅白の饅頭が作れないわけです。寺町二条に、我々が学生時代にずうっと行っておった鎰屋という、非常に立派な和菓子の老舗がありまして、鎰屋には男の京大が三人か四人おりまして、そのうちの三人が三高を出たと思います。そのうちの一番下の四郎君というのが、当時の鎰屋の主人でありまして、その四郎君に談じ込みましたところが「よっしゃ」というので、昔の紅白饅頭には比べる事が出来ませんけれど、とにかく徽章の判を押した紅白の饅頭を、諸君の卓上に供える事が出来たのであります。一月二十四日に生徒がみんな出ていってしまいますと、三高はもぬけの殻になるわけであります。
それから後は残った教師も島田校長はじめ旧い三高先輩方、すなわち山修、深瀬、古松、それから石川さん(三高ではないですけど)とか、私と相前後する羽田君、村上君、阪倉君とかいうような者が毎日のように校長室の隣の事務官室を校長室にしまして、そこに島田先生がおられまして、そこへみんな集まって、お通夜みたいな日が約二ヶ月近く続いたわけであります。

三月三十一日に、丁度天気が悪くてショボショボと雨が降り出した頃に、解散式というのを新徳館でやりました。それが終わりまして、玄関の所へみんな集まり、玄関の左脇に掲げてありました高橋是清大先輩の書かれた「第三高等学校」の校銘板を島田先生が降ろされました。
その後そこで「しづかに来たれ」と「紅もゆる」を歌い、今度は小雨の降るグラウンドへ集まりまして、大かがり火を焚いて、それを囲んで全国から集まった三高生と先輩方、それから三高の終焉を惜しむ京都の方々が集まって下さって、最期のファイヤーストームをやったのであります。「序歌」に始まって、「行春哀歌」それから「我は湖の子」「祈念祭歌」「春東山の」「覚醒の歌」最後に「紅もゆる」というように・・・・。だんだんと雨が強くなってまいりまして、その晩の十二時に、門柱にかけてあった「第三高等学校」という小さい木の門標を降ろしまして、これが三高の最後という事になったわけであります。私が官舎に居りましたので、門標降下の後、教官が十名ばかりと、有志の諸君がやはり十名ばかりと併せて二十人位が官舎へ集まりまして、官舎でまた火を焚いて、夜通し、三高のお通夜をしたのであります。

最後に僕は三高の歴史の中で特徴の一つではないかと思うんでありますが、学校と生徒の間に心の通い合うものがあった。これは職員も同じでありまして、職員が三高生を皆自分の息子みたいに思って大事にしてくれた。その代わり悪いことしたりすると真剣になって怒ったものであります。我々の生徒の頃も戦後の諸君も皆そうだと思いますけれども、三高中で一番怖いのは門衛さんと小使さんである。その次が職員で教師は友達だとこういう。教師はちょっとも怖くないんだと。ただ試験の済んだ後で、点をもらいに行く時だけ恐れ入ったような顔をして行きますけれども・・・・。三高生活というものは、悲しいことの中に非常に愉快なことの連続でありました。

(三高自昭会刊「神陵文庫」・第十巻による)


「感想」を寄せてくださったメールを一通紹介させていただく。

拝啓。 私は,製薬会社に勤務しています53歳の会社員です。出身は,京大大学院(薬・博)です。京都の近衛中学時代(1960年代)のお友達に,久米由紀子さんという大変美しいお嬢様がおられました。彼女は,勉強があまりにもよくお出来になるので,我々男子学生は,彼女に近寄りがたく,陰で,彼女のことを“閻魔様”と言っていました(ゴメンナサイ)。
その久米由紀子お嬢様のお父様が,当時,京大の教授(久米直之先生?)をされておられたので,先生のご専門は,なんでいらっしゃったかを検索しているうちに,このぺージに来ました。非常にくわしく記述してありましたので,昭和20年代のことがよく解りました。特に,三高の寮の火災の所は,面白く読ませていただきました(失礼)。
ところで,私の卒業した近衛中学で,当時,私たちが使用した机,椅子,数学で使う大きな三角定規には,墨で「第三高等学校」と大きく書いてあり,そのときは,三高のことは何も知らず,不思議に思っていました。このページを読んで,三高のことがよくわかり,かっての三高で使用された品々を使わせてもらって勉強できたことを,今になって,大変,名誉なことだと思っています。
今後も,面白いお話を載せてください。

山田敏英(神戸市須磨区在住,2002年8月9日 記)

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