久米先生ご夫妻には大変お世話になった.思い出を書くとなると「何から話したら」と困惑するほどの量になるが、他の人との重複を避けて、二、三の話に止めることにする
生物の石橋教授が決心され、請われて東北帝大助教授から三高に着任された先生は、生物学教室の標本室に寓居を構えておられた。初めて間近にお目にかかったのは昭和二十一年十一月、自由寮の一室、南寮四番に「海堀君は居ますか」と訪ねてこられた時で、当時の様子は誰かが書くだろうから端折る事にする。ただ、主として独逸歌曲など教えに寮へお出でになった先生に、食べ物をお勧めしたのはいいが、あの戦後の食糧難時代のこと「いや、あれには閉口したよ」と後に聞かされた事柄がある。真っ赤に焼けた達磨ストーブに水をかけると、パチパチと灰や塵を撥ね飛ばしてくれる。こうして消毒と清拭の完了したストーブの蓋に、水で溶いたメリケン粉を延ばすと綺麗に焼き上がる。勿論、油など不要である。また「どうせ食べる時は皮を剥くのだから」と薩摩芋を洗わずに、土の付いたまま飯盒で茹でたら煮詰まった汁がベチョ泥になって固まっていた。当時は何ほどの事ともおもわなかったが、いま考えると聊か過激に過ぎたかも・・・・。
昭和二十二年三月、海堀昶、三高卒業。私も名目上は寮を出て、叔父の所に下宿とあいなったが、殆ど中寮七番ヂンヂロゲ部屋に入り浸っていた。三輪佳之が室長で松尾心空と松井克允が海堀の部屋から移って副室長−−久米先生も南寮四番から此処へ部屋替えである。
年明けて昭和二十三年一月二十六日の夜、東大路叡電交差を西へ川端通りに出たところにあった下鴨消防署の望楼から「百万遍出火」の大声が響いた。思わず「百万遍のどっちですか」と叫んだら「南東、京大方向」の返事。息を切らせて走りに走るその耳に、三高本館の「自由の鐘」が聞こえてくる。やっと寮の前の第二グラウンドに辿り着いた時には、中寮は紅蓮の炎に包まれていた。秋月先生が久米先生が、そして多くの教授が生徒が、口々に何かを叫び泣いていた。『私が人間として生まれ育った寮が、今、目の前で燃え尽きて行く』−−それから、何ほどの時が過ぎたか知らない。寒い冷たい夜であった。ホースで撒かれた水が氷になって張り付いていた。行方不明の後呂も心配だったが、「生物教室で待機しよう」との久米先生のご好意でひとまず引き上げた。みんな言葉もなく、焼失して仕舞った自由寮のお通夜であった。
この時、旒旗もリーダー旗も応援旗も、そして大太鼓も全部、寮と運命を共にした。
昭和二十三年早春、三輪・森ピン達が卒業するので、生物学教室の準備室(教官室)で「追い出しコンパ」をすることになった。私と倉内が裏庭の流し場で葱を洗っていたら女の人の影がチラチラする。教室助手の女の子でもなし、「誰かな」と気になるが、部屋に入っていくと姿が見えぬ。これが久米夫人との最初の出会いであった。
先生の所へ行くと美味しい紅茶が飲めた。これだけが目的であったわけでは無いが、寮と外への行き帰り、頃合いの場所にある生物教室にはよくお邪魔をした。奥さんが上洛されて暫くの間、御夫妻の新居は標本室であった。私達が夜襲すると、深夜もいいとこで時には午前様になり、この間「私は一人寂しく此処に居るのよ」と等身大の骸骨がブラ下がる人体骨格標本横のベッドを示されたのを思い出す。標本もベッドも隅っこの方へ持っていったら、たまたま一緒に並んでしまったのであろうが、なるほど気味が悪かろう。言われるまで気づかなかったが、とんだ「新婚生活のお邪魔虫」であったわけだ。
学制改革によって旧制高校は消滅することになり、三学年全員が揃うのはこの年(昭和23年度)が最後であった。自由寮の炎上は、日本の歴史を背負ってきた旧制高校の最後を悼む「送り火」であったのか。しかし「高等学校に寮生活が無いのは考えられない」と三高東門の辺りに崩れかけた長屋を借りて寮と称し、焼け残りの机を運び込んで生活をしたり、堀川丸太町の小学校へ行って大太鼓を貰って来たりした。イソイソと大八車を引っ張って受け取りに行き、太鼓を積んで帰る途中、嬉しくて嬉しくて、早く叩きたくて、吉田二本松町まで待ち切れずに京都御所で初叩き、「紅もゆる」を一発やって引き上げてきた。自分達の才覚で手に入れたように思っていたが、後に「あれは、学校からちゃんと御挨拶しておいた」と久米先生から聞かされた。何もかもお見通しであったのだ。
現在、三高会館にある大太鼓がこれで、序でに、この太鼓に纏わる話を続けてみよう。
この年限りとなった最後の一高三高戦に、有志を募って応援団を組織し、東大グラウンドでの野球に勝って四部完勝を果たした顛末は、以前、同窓会報(一九五一・一〇・五)に書いた。この太鼓も東征に参加すべく、東一条から市電に乗せようとしたが、乗降口が狭くて入らない。やむなく、木枠を外して太鼓だけを東京まで運ぶことになる。
午前零時一分京都駅発、元応援団長・天坊裕彦大鉄局長差し廻しの臨時列車に乗り込む前に、在京都の応援団の連中と駅前広場で「紅もゆる」を始めた途端、MPが警官と一緒に飛んで来た。太鼓の音で目を覚ましたのか、米軍に接収されて居た駅前ホテルの窓の明かりも一斉に点灯した。MPにはリーダー旗が赤旗に見えたのかも知れない。「すぐに止めろ」と言ってきた。『折角始めたんだから、最後までやらせろ』と旗を振る手を休めずに答える。「オーケー」と案外ものわかりがいい。少々気にはなったが、エイままよ、続いて『東征歌、一発』と始めたら、やがてMPが腰の拳銃に手をやるのが見え『ヤバイ』と思った途端「ちょっと来い」と引っ張られた。丁度パンパン狩りをやっている部屋に入れられ「一つと言ったのに、何故二つ歌ったのか」−−おっしゃるとおりです。約束を破ったのは私で−−『あれは二つに聞こえたかも知れないが、組み合わせて一つの歌になっている』と強弁して押し通した。警官はよく分かっているからニヤニヤしていて、その内「もういいから、行きなさい」。半分諦めていた東京行きの列車に乗ることが出来た。「のぞみ」の所要時間二時間十四分に較べて見ても記憶は心許ないが、品川駅が午後二時頃、約十五時間の旅だったように覚えている。
京都へ凱旋して久米先生に報告に伺ったら「まあ、一杯やろう」との仰せである。ワインの瓶らしき物を持ち出してきて、ポンと勢いよく栓を抜かれた。シューッと泡が立って「シャンペンかいな」−−いや驚いた。私のグラスのみならず、自分のにも注がれる。有名な下戸の先生が、である。今までアルコール飲料を舐めるはおろか、口の端まで持って行かれるのも見たことがない。「乾杯」と杯をぐいと飲んでびっくり、「砂糖水じゃないか」。しかし一寸口を付けられた先生は真っ赤になり「心臓が苦しい」とおっしゃる。栓を抜く音もしたし、泡も立っていた。アルコール発酵はしていたらしい。お尋ねすると「大学の教室から酵母を貰って来て、今日のために仕込んでおいた」とのことで、ささやかながら密造酒でありました。
昭和二十四年、毎晩酒を飲んで日を送り、裏寺町辺りで酔っぱらって終電に乗り遅れ、四条河原町から北大路千本を通って鷹ヶ峰の下宿まで、歩いて帰るのは大変だった。こんな生活を続けていたら大学へ入れない。「家へ来い」と先生に言われたのが十二月の半ば過ぎ、「勉強はしても、しなくてもいい。とにかく机の前に座っておれ」−−一日中部屋に居たら退屈で、本を読むより仕方が無いじゃありませんか。それを勉強といいます。しかし最初の内は「岡本が缶詰になって可哀そうだから呼び出して息抜きさせてやろう」と考えた友達がいました。自分で電話するのは憚られ、下宿の女の子に掛けさせる。奥さんが取り次がれる時は女の声、私が出る時は友人に変わっており、言葉使いは当然友達との遣り取り−−「一寸出かけてきます」。何回かそれが続いた或る日、先生と奥さんに叱られた。「フラフラ出歩かないで。何のために此処に居るか分かっているの。アノ電話の女の人は、あんな友達言葉で話すほど親密な関係なの。私はあなたを弟だと思っているのに、期待を裏切らないで下さい」。いや、これには参りました。以後「呼び出すな」と友人に伝え、専ら本を読み、時にボンヤリし、夜十二時「岡本、お茶が入ったぞ」で先生と雑談して、やがて寝る生活が続きます。
昭和二十五年三月、直明君誕生の前後、奥さんが京大付属病院へ入院されて、一歳になったばかりの由紀子ちゃんのお守り役です。先生曰く「由紀子は、岡本の歌が一番よう眠れるようだ」。喜んでいいのか、悲しむべきなのか。最高の子守歌すなわち「聴いてると眠くなる歌」だ。お二人共ご他界されて、私の美声を改めて御披露するすべもないが、お墓の前で独唱する自信は−−無い。
ついでに、大学受験の恥を曝しておこう。旧制最後のチャンスであり、在学中は殆ど授業に出ておらず、独学に等しい二ヶ月ほどの勉強で、合格はおぼつかなかった。「新制も受けておけ」と言われて、既に終わっていた進学適性検査の追加試験を受けた。ほぼ直感的に反応するより仕方がないと思われる問題の波状攻撃には面食らった。初めて出会う種類のブッツケ本番の試験であった。
私は『気が弱い』と先生に思われていた。京大・新制大学の入学試験、早く入場しているとアガッテしまうと心配された。そこで「そろそろ、受験生の点呼が始まるぞ。スタート」で東一条の三高官舎を出て、医学部の試験場へ向かう。部屋へ入ると、私の番号はとっくに呼ばれ終わっている。最後に「あとから来た者は居ないか」「ハイ、○○番」これが三度目になると百人余の笑いがドッと来た。その次からは、点呼の最後に「○○番来てますね」に変わった。
語学の試験は一カ国語で助かった。「ドイツ語で受ける人は居ますか」『ハイ』と手を挙げたら「ウワー」と来た。ドイツ語が得意だからではない。戦争中の教育で、敵性語廃止の尻馬に乗って英語が全く出来ず、新制高校からの受験生と差があるのはドイツ語くらいのものである。もし得意な学科であれば、京大の近衛通りの寮にいた海堀に「明日、入学試験だからドイツ語の文法の本を貸してくれ」と頼みに行って、郷里から来て泊まって居た彼の後輩を驚かしたりはしない。他の学科でも何の準備もしなかったが、蓋を開けたら、合格していた。
旧制阪大の入試は全部万年筆で答案を書いた。ドイツ語だけは二行、線を引いて書き直した。医学部長の面接試験があった。「君は欠席が多いですね。病気をしていましたか」『何日くらい出席していますか』「九十数日です」『そんなに出席になっていますか』「キミ、百日を切っているのですよ」『毎日学校へは行ってましたが、教室へ出なかっただけです。出席を採られない先生がおいでですから出席になったのでしょう』のんきな会話でありました。
合格発表は三月三十日、三高が校銘板を降ろす前日で、発表をすっかり失念していた。前夜祭・寮歌祭と、リーダー旗を持って走り回り、夜も更けた時刻、久米先生から合格した事を伝えられました。「京大にするか。それとも阪大へ行くか」『阪大は旧制で二年少なくて済みますから、大阪へ行きます』。京大にしたら、三高時代の先生方にまた二年間ご厄介になる事、そうしたら留年々々で何時になったら学部に進めるか保証の限りにあらず、てな事になりかねない。「君子危うきに近寄らず」−−これ名言である。「そうだなぁ、大阪へ行くか」。
やっと、京都との縁がひとまず切れました。
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2005年2月09日岡本利彦氏のご子息紀彦氏からメールを頂いた。ここに掲載させて頂く。
私は、昭和60年京大医学部卒の産婦人科の医師です。
父の利彦は、貴ホームページのコンテンツにも採用してもらっているように、
三高、旧制阪大医学部卒です。
私が幼い頃、父が語る学生時代の思い出の95%以上は三高のことで、
阪大のことはほんの少ししか話しませんでした。
毎年“ちもと”で開催される三高の会で、嬉しそうに三高の旗を振り、
「紅もゆる」を唄っている父を観て育ちました。
その結果、私は京都大学を志望し、一浪後、無事入学しました。
しかし、私が本当に行きたかったのは、京大ではなく、三高でした。
父は私よりはずっと器の大きい人間です。
持って生まれたものもあるでしょうが、
三高時代の師や友人との触れ合いで形成されたものではないかといつも思います。
京大は随分その様相を変化させました。
建物も、学問に対する姿勢も、学生に対する教育も変わりつつあります。
それでも、三高の流れは変貌する京大の中にも脈々と流れていると信じています。
小学生の息子も可能であれば、京大に行かせたいと思います。
駄文で失礼しました。 |
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