注 九条改憲の動きのなか注目集める幣原喜重郎  

牧俊太郎さんからメールが届きました。このメールについては御本人のコメントもありますので、それを先ず記します。

  拙文への早々のお目通しありがとうございます。私は憲法の専門家でもないので名前はどうかと思います。これまで類書を読んで、 おそらく幣原の積極的、自立的関与があったと実感しています。その真実は彼が書き残していないため確認出ませんが、「首相として 9条の戦争放棄、戦力不保持を決断した」ことは厳然たる事実であり、その後の彼の言説もそれを貫いています。そのことは立場を超えて 確認できる、大事なことと考え、拙文に書いた次第です。
「 」の趣旨を生かしていただけるなら結構です。
なお、私はこの拙文を「大阪民主新報」紙8月20日付に投稿していますので参考のため付しておきます。牧俊太郎

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  九条改憲の動きのなか注目集める幣原喜重郎
   ――自民党など改憲派の逆行を浮き彫りにする「保守」の見識

 戦後第二代目の首相・幣原(しではら)喜重郎は、唯一の大阪出身宰相として、大阪ではよく知られ関心が持たれてきた。最近では、憲法九条改悪の動きにも関係して、「軍縮・国際協調外交」を進めた外交政治家、「戦争放棄・戦力不保持」を決断した首相として、注目と関心を集めている。
注目のなかには、幣原を「日本国憲法をつくった男」と全面評価するものもあれば、今日の日中外交のゆきづまりと関連させて、中国に対する幣原の「不干渉外交」が中国をのさばらせ対米英戦争に導いた、彼こそ「A級戦犯だ」と極論する否定論もある。私が見る限り、終戦当時の幣原与党℃ゥ民党は黙して語らず、語れずである。そこに幣原を巡る「今の時代」の議論の中心があると考える。

   幣原外交と「あの時代」

 幣原は、一八七二(明治五)年、現在の門真市の豪農の次男として誕生。一九二二(大正十一)年締結のワシントン軍縮条約交渉に全権委員として関わり、二四年の護憲三派内閣から三一年の第二次若槻内閣まで通算約七年、外相を務めた。この間、対英米協調外交を推進する一方、内戦状態にあった中国に不干渉の態度をとり、三〇(昭和五)年には、ロンドン海軍軍縮条約を手がけた。
 幣原が活躍したこの約十年間は、二二年の日本共産党創立、水平社・農民・労働運動などの活発化、第二次憲政擁護運動、普通選挙の実施など国民の権利と民主主義を求める運動が発展。その一方、治安維持法の制定(二五年)とそれに基づく共産党員一斉検挙など、警察権力による民主運動への弾圧が激化、軍部の独走が強まっていた。大正デモクラシーから昭和のファシズムへ激変する潮目≠フ時期であった。
 このなかで、幣原らの軍縮・国際協調を「軟弱外交」と攻撃する流れが軍部を中心に強まる。とくにロンドン海軍軍縮条約について、軍部・政友会は、天皇の軍事大権の侵害(統帥権の「干犯」)だと攻撃、幣原は騒然とする予算委員会で、この問題での天皇の関与の経過を説明し反論、批准にこぎ着ける。その一年後、幣原は内閣総辞職に伴い外相を辞任、一線を退く。六十歳であった。満州事変勃発はその直後である。このあと三二年5・15事件、三三年国際連盟脱退、三六年2・26事件、日独防共協定などを経て、日中全面戦争、四一年日米開戦へ転げ落ちていく。

   戦時下の幣原と「最後の御奉公」

引退後の幣原は、どうであったか。2・26事件の際は身の安全のためとの警察の要請で都外へ避難。大政翼賛会への入会を拒絶、事務局の要請、憲兵の「注意」にも「その決心を変える意思は毛頭ありません」との態度を貫いたという(幣原「外交五〇年」)。
 この幣原が、なぜ生き延びられたか。彼は「天皇主義者」であり、外交の功労で「男」の爵位を与えられた貴族院議員であり、三菱財閥創業者・岩崎弥太郎の娘婿ということが考えられる。
戦後日本が、軍国主義の除去・政治の民主化を柱とするポツダム宣言を受け入れ、その実行が迫られるなかで、幣原が天皇の「親任」で首相に担ぎ出されたのには、以上見た彼の経歴と政治信条からうなずける。ポツダム宣言に凝縮された世界の情勢、占領政策上天皇制存続を必要としたアメリカの思惑などを見れば当然の成り行きと言える。  幣原は、そのときすでに七十四歳であり、「あごをがたがた」させている老人となっていた。本人もそれを自覚し、強く固辞するが天皇の懇願を拒否できず「最後の御奉公」と言って受ける。幣原は四六年四月に首相を退いたあとも、各所で九条に対する反対や疑問に答えつつその意義を説いている。
たとえば、同年八月の旧貴族院での国務大臣答弁で幣原は「…ある範囲の武力制裁を合理化せんとするがごときは、……もはや我が国の学ぶべきところではない。文明と戦争は結局両立し得ない」と明言し、「私はこのような信念を持ってこの(明治)憲法改正の義にたった」と述べている。各所の演説でも「我が国を他国の侵略より救う自営施設は徹頭徹尾正義の力である」と断言し、この「正義の大道」を邁進するならば、「『祈らぬとも神や守らむ』と確信する。……遠路のように見えても、実はもっとも確かな近道であります。我が国の対外関係が終始これを基調として律せられむことを切望して已まぬ」と戦争放棄・戦力不保持の意義と展望を語った(「演説草稿」・幣原喜重郎平和財団編)。

   幣原ら「保守」政治家の見識と世界の流れ

 幣原のこうした主張は、他の保守政治家たちの言説とともに、その後六十年間の世界史の進展に裏打ちされより現実味を帯びている。そして今の自民党など改憲派の逆行ぶりをあらためて浮き彫りにする。
 
 最近、「しんぶん赤旗」紙上に、議会政治の父≠ニいわれる尾崎行雄の「憲法観」(四七年五月の憲法記念集会祝辞)と同記念財団の活動が紹介された。尾崎はこの「祝辞」のなかで「九条の戦争放棄が花=vだと述べ「この憲法を正しく使いこなしてゆきさえすれば、日本が世界中から親愛される、立派な平和国家になれる」と語っている(五月二十日付)。
 中曽根内閣の官房長官を務めた元副総理・後藤田正晴氏も改憲に批判的であった。氏は一年半台湾に応召し、三十一歳で終戦を迎え、〇五年九月九十一歳で没した。生前、雑誌のインタビューで、改憲論の「中心は平和主義の大原則である憲法九条」だと指摘し、「普通の国」「国際貢献」論は「血を流して軍事的に貢献する」という意見であるが「これは人類が向かうべき目標、理想ではない」と断言。加藤周一氏との対談で、憲法調査会の「報告」や自民党の意見を読んで「これはいかんな」というのが「私の率直な感想だ」と述べ「過去の歴史から今の日本の指導者は本当に学んで反省し、考えているのだろうか」と疑問を呈した。氏は死の一週間前、不破哲三共産党議長(当時)の著書「私の戦後六〇年…」(新潮社)贈呈に対して「我が身と思いをあわせてゆっくり拝読させていただきます」との「返書」を送っている。(〇五年十二月刊「岩波ブックレット」)。

  九条改憲ノーの基盤と現実性、展望

     九条改憲ノーは世論の六割を占める。その基盤は、いま見た「保守」の見識とも共通する。紛争の武力決着から外交的解決への流れは、日本共産党の綱領も分析しているように、二〇世紀から二一世紀への世界の現実の変化である。イラク戦争で有力な同盟国からさえ孤立する米国の姿が象徴的に示す。それは、大江健三郎・澤地久枝氏らが呼びかけた憲法九条を守る一点での共同の草の根的広がりとともに、九条改憲阻止の大義と現実性、展望を裏付ける。
 現在の自民党をはじめ改憲・逆流派は、奥深い世論はもちろん、自らの先輩たちの見識からさえ遠く離れ、米軍基地の存続・米国のイラク戦争支持など卑屈な対米同盟一辺倒と、靖国参拝・「愛国心」教育復活など戦前回帰的発想の塹壕≠ノはまり込んでいるというべきではないか。そこからは大局観や展望は出てこない。

 明治以来、終戦までの七十七年間の日本は、十五年戦争、日清、日露、第一次世界大戦をあわせ、都合四回、約二十年が戦争であった。それと対比して現憲法下の六十年の意味は大きい。最近私より十年若い、「戦争を知らない世代」に属する音楽家・さだまさし氏が、「本気で言いたいことがある」という著書(新潮新書)を出し、「今の世の中は、僕の好きな日本とはあまりにも違ってきてしまった」として徴兵制の危険にもふれ、子や孫の代にも「平和な日本・地球を残していく」ことの大切さと決意を自らの経験と言葉で語っている。
 同時代に生きるあらゆる人々に心を寄せ、草の根から平和の力を築くことの大事さは、七十七年の歴史の教えるところである。その条件は主体的にも客観的にも戦前と比べるべくもなく広がっている。(〇六・八・八記:2006年8月20日付「『大阪民主新報』に掲載)

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grenz

注 深尾贇之亟について−−名前の読み方−−

岩辻賢一郎氏から次のメ−ルが届いたので、そのまま紹介させて頂く。

深尾贇之亟の書き方・読み方諸説あるようですが、
以下の私の質問に国会図書館は以下の回答をしてきました。
ご参照下さい。

三高同窓会としては、やはり、ご意見を述べておくべきだと思います。
私はウタノジョウを押します。本人がそのように就職先の履歴書にフリガナを書 いたのですからそのように読んでもらいたいという意思表明でしょう。
しかし、奥さんも二通りの読み方を併記して、ウタノジョウが入っていないとこ ろを 見ると、親からはウタノジョウと言われ、本人はこれを嫌って、奥さんには ヒロノスケ、ヒロノジョウどちらでもいいなどと言っていたのでしょうか?

私の質問
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原本代替請求記号
YD5-H-501-128 (マイクロフィッシュ)
タイトル
天の鍵
責任表示
深尾贇之丞著
責任表示
深尾須磨子編
出版地
東京
出版者
アルス
出版年
大正10
形態
1冊 肖像 ; 19cm
全国書誌番号
43035394
個人著者標目
深尾, 贇之丞 (1886-1920) ‖フカオ,ヒロノスケ
個人著者標目
深尾, 須磨子 (1888-1974) ‖フカオ,スマコ
NDC(6)
911.5
本文の言語コード
jpn: 日本語
深尾, 贇之丞 (1886-1920)について丞は、お墓では亟になってい ます。

手元の『天の鍵』でも、亟ですが、Sに横一本線が入ったような字も見えます。 亟と丞とは異なる漢字と思いますが、いかがでしょう。
三高名簿は贇之丞となっていますが、戦後版なので誤記でしょう
三高時代のペンネームは巣阜(ただし旧字)です。

読み方:
貴図書館ではヒロノスケになっていますが、国鉄時代提出の履歴書ではウタノ ジョウ。
岐阜市史(全十三巻)ではヒロノジョウ。
戸籍には読み方までは記載しませんから、 自分でみずから履歴書に書いた、ウタノジョウが正しいかもしれません。

以下、国会図書館の回答
1)は別件で省略
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岩辻賢一郎様

 国立国会図書館 書誌部書誌調整課 データ整備係 〇〇と申します。
 このたびは、当館ホームページをご利用いただきましてありがとうございま す。
 2007年3月2日および3日付でwebmaster宛てにお問合せいただいた件について回 答いたします。

2.深尾贇之丞の読みについて

 「天の鍵」資料現物を確認しましたところ、  ご指摘のように「丞」の字は無く、また、資料に表記されている  漢字とは関連字でもないようです。  したがって、標題紙に表記されている漢字(Sの中央に横一本線)に  訂正したいと思います。

 ただし、漢字入力上の制約のため、  修正後当館のOPACの表示上は「深尾贇之〓」となります。  ご了承ください。

 よみについて、こちらでも調査したところ、
 「深尾須磨子 女の近代をうたう」(当館請求記号:KG536-G123)では
 「ヒロノジョウ」と「ヒロノスケ」という呼び方があるとの記述がありまし た。
 「詩歌人名事典」(当館請求記号:KG2-E41)では「インシキョク」とあり、  また、東京大学総合図書館のweb-opacでは「インノジョウ」とあります。  諸説あり、どれを採用すべきか悩ましいところですが、  当館で当時この典拠を作成した際に根拠とした  「新潮日本文学辞典」(当館請求記号:KG2-E3)の「ヒロノスケ」のよみのま まに  したいと思います。

 この訂正がNDL-OPACに反映されるのは、3/19になります。

 ご指摘いただきありがとうございました。
 今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

  国立国会図書館
  書誌部書誌調整課データ整備係
  

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grenz

注 海堀氏の指摘する『琵琶湖就航の歌』(飯田忠義著第二版)問題点

簡単な脱字については省略した(編集子)


  ページ 行 数        問     題     点
 4          琵琶湖の地図         多景島など記事関連の場所の記入が欲しかった
 40 左から1    対抗選手           対校選手とした方が意味が通った
 41 左から3    海岸線            湖岸線
 42 左から1    対抗レース          対校レース
 42 左から4    益なしてせんや        益なしとせんや
 61 左から6    海岸に砂浜に         海岸の砂浜に

 80 左から7    四月に開かれた・・      (校内大会の)何かが脱?
 81 左から6    スライディングの艇庫     当時はそのような艇庫は無かったから「後に作られた」か何かを補足?
 94 左から5    昭和二年以降         大正十四年以降
 120                      このアイディの内容が時代を遙かに超越したものであった事、実現するまでに半世紀
                                                    以上の時間が必要であった事などを書いて頂ければ空理空論でなかった事が実証で
                                                    きたのですが・・・・。                          
 154左から4    大鹿地区          おおしかと振り仮名があった方が後々読みやすい  
 171左から3    森田穣二に         「三高23文乙卒」を加えておいて頂きかった。

 187左から4    吉田文庫(198頁にも)  とは何か?  
 193左から8    じっと刺しておいて     意味不明 さしておいて?
 194左から2    高田耕(?)安医師
 218と219    作曲者名・・インガソル   インガルス?
 220左から3                  「商業ベースのこの歌は・・」とありますが、四高で追悼歌を作ったのが先で、
                          東海林太郎の「哀歌」はズッと後に出来た。すなわち四高の追悼会で「哀歌」
                                                    が歌われないのは当然。反骨精神を持ち出すまでもない話。
 248左から8    風烈しく空歩いて居れば   何か脱字?
 283左から2    諏訪清稜高等学校      他では清陵


 



注 岩辻氏に堀準一夫人から贈られた手書き原稿

<

この原稿は大正十年五月一日発行三高歌集の奥付の余白に記されており、三宅正雄氏(大正13年文甲卒)所蔵であった。()内が現行。
岩辻さんは現在「古城」の部分が「湖上」になっているのに驚いたといわれている。


(われ)は(湖)の子さすらひの
旅にしあればしみしみと(しみじみと)
めぐる(昇る)狭霧やさざ波の
しが(志賀)の都よいざさらば

松は緑に砂(“は”はない)白き
小松(雄松)が里の乙女子(は)
暗い(赤い)椿の森(蔭)に
はかない恋に泣くとかや

(波)のまにまに漂へば
赤いとまり灯(泊火)なつかしみ
くへ(行方)定めぬ(波)枕
今日は今津か長濱か

瑠璃の花園珊瑚の宮
(い)傳への竹生島
佛の御手にいだかれて
ねむれ乙女子安らけく(やすらけく)

矢の根は遠く(深く)埋れて
夏草繁き(しげき)堀のあと
湖上(古城)に独り(ひとり)佇めば
比良も伊吹も夢のごと

西國十番長命寺
穢れ(汚れ)の現世とほく去り(遠くさりて)
白い銀(黄金の)波(に)いざこがん
語れ(我)が友あつき(熱き)心

注 「最後は投降を」知事の言葉胸に  

「女、子供に敵は何もしないから君たちは最後は手をあげてでるんだぞ」。沖縄戦の組織的戦闘が終結したと言われる1945年6月23日の直前、当時の島田叡知事=兵庫県出身=から掛けられた言葉を胸に、県警察部職員だった山里和江さん(85)=沖縄県うるま市=は戦後67年間を生きてきた。島田知事はその後、沖縄本島南部・摩文仁の軍司令部壕に向かい、消息を絶った。語り部として戦争の悲惨さを訴え続ける山里さんは言う。「知事は私に『絶対に生きろ』と言ったんです」

45年5月、沖縄守備軍司令部が置かれたほど近い県庁壕に、海軍から県庁職員を看護要員として派遣するよう要請があった。県警察部職員だった山里さんはすぐに応じた。「どうせ死ぬ命。少しでも役に立って死にたいと思った」

だが、たどり着いた海軍壕(豊見城(とみぐすく)市)は「地獄」だった。病棟には薬も包帯もない。治療どころではなく、壕外に放り投げるため死体を載せた台車を押すのを手伝った。空爆で外に出られなくなると、壕内に死体置き場を設けるようになった。

「そのうちに回復の見込みのない人も生きているうちに投げ込むようになった」と山里さんは振り返る。「僕はまだ生きているよ。助けてくれ。頼む、頼む、まだ生きているよ」。悲痛な声は今も耳に焼き付いている。

6月初め「県庁から借りた職員は知事の下に返す」と告げられ、知事らがいた糸満市の「轟の壕」に移動した。6月15日か16日、山里さんは壕の入り口で鉄かぶとを肩からさげた知事に出合った。「絶対軍と行動を共にするんでないぞ。最後は手を上げて出るんだぞ」。知事は山里さんの肩をたたいて出て行った。

国のために命をささげるつもりだった。「今になって、捕虜になれと言うのですか」。悔しくてたまらなかった。だが、その後壕に逃げ込んできた日本兵が泣きわめく子供を銃で射殺したのを目撃し、変わった。「友軍なんてこんなものか、絶対に生きてやろうと思いました」。知事の言葉通り、投降して生きた。

知事や県職員を慰霊する摩文仁の「島守の塔」を今月も訪れ、手を合わせた。「なぜ自分だけがいかされたのか」。そんな罪悪感にも似た思いは今も抱き続けている。それでも「戦争の苦しさや悲しさ、悔しさを、もっともっと話してこいと、亡くなった友人たちが言っているのかもしれませんね」。

  本土復帰40年を迎えた沖縄だが、基地負担は減らず、墜落事故が相次ぐ垂直離着陸機オスプレイも配備されようとしている。山里さんは言った。「本土での戦いを遠ざけるためなるべく沖縄で足止めしておけということで沖縄戦は長引いた。いつまでこの小さな島が苦しめられるのか」【佐藤敬一】

注 沖縄球児、戦時の「島守」知事しのぶ 母校・兵庫高訪問  

 沖縄県の最後の官選知事で、いまも「島守」として慕われる島田叡(あきら=1901〜45)をしのび、沖縄県内の高校の野球部員14人が8日、神戸市長田区にある島田の母校、兵庫県立兵庫高校(旧制神戸二中)を訪れた。学生時代に野球の名選手として活躍し、沖縄戦で命を落とした先人の故郷で、平和の大切さをかみしめた。

 沖縄県高校野球連盟が今年始めた研修旅行の一環。14人は、3年生引退後に発足した14校の新チームの主将や女子マネジャーらで、夏の甲子園を観戦するために7日に大阪入りした。

 島田は神戸市須磨区生まれ。旧制神戸二中、旧制三高(現京大)から東京帝大(現東大)に進み、内務官僚になった。45年1月、沖縄に知事として赴任。同年6月26日、沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)の壕(ごう)を出て消息を絶った。この間、疎開や食料確保を進めて多くの県民を救ったとされる。

部員らは、この夏の兵庫大会を最後に兵庫高校野球部の監督を勇退した中井秀樹教諭から島田の功績の説明を受け、正門近くにある顕彰碑を訪れた。沖縄県立向陽高校の具志龍門(ぐしりゅうと)君(2年)は「島田さんは『命を大事にしろ』と呼びかけていた、と祖父母から聞いた」。

 島田は学生時代、「俊足巧打」の選手として知られ、8月にある沖縄の新人戦の優勝校には「島田杯」が贈られる。宮古高校の田村海知(かいち)君(1年)は「島田さんは故郷でもない沖縄に来て県民を助けてくれた。いま野球ができるのは島田さんのおかげ」と話した。(笠井正基)

注 島田叡氏の足跡しのぶ 那覇に顕彰碑建立 最後の官選知事  

琉球新報 2014.09.27日(土)7時7分配信

顕彰碑を除幕した井戸敏三兵庫県知事(左から3人目)や翁長雄志知事(右から3人目)ら関係者=26日午前、那覇市奥武山公園(諸見里真利撮影)  米軍上陸が迫る沖縄に最後の官選知事として着任し、住民保護などに奔走した島田叡氏の顕彰碑が那覇市の奥武山公園内に建立された。命日とされる26日、除幕式が開かれ、約400人が完成を祝った。翁長雄志県知事ら県内関係者に加え、島田氏の出身地の兵庫県からも井戸敏三知事や久元喜造神戸市長らが出席し、足跡に思いをはせた。

 県内の野球関係者を中心とした有志による「島田叡氏事跡顕彰期成会」が2013年から協力を呼び掛け、3万人超の署名と1千万円近くの寄付が集まった。顕彰碑は高さ2・8メートル。琉球石灰岩の台座に「魂」や「和」をイメージしたステンレスの球体を組み合わせた。顕彰碑と併せ、隣接する多目的広場に「兵庫・沖縄友愛グラウンド」との名称を付け、名前を記した碑が除幕された。

 気温31度の夏空の下に開かれた式で、井戸知事は「没後70年の今年、あらためてその深い人間愛や郷土愛、最期まで県民を守ろうとした生きざまを学び、次世代へと語り継がなければならない」とあいさつし、島田氏にちなんだ自作の歌を読み上げた。翁長雄志沖縄県知事は「兵庫県と沖縄県の友愛の絆がさらに深まり、島田氏の功績が語り継がれていくことと思う」と語った。

琉球新報社