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「美女と野獣」
Beauty and the Beast
1991年・アメリカ
○監督:ゲーリー=トゥルースデイル/カーク=ワイズ○脚本:リンダ=ウールヴァートン○作詞作曲:アラン=メンケン○製作:ドン=ハーン○製作総指揮・作詞:ハワード=アッシュマン
ペイジ=オハラ(ベル)、ロビー=ベンソン(野獣)、リチャード=ホワイト(ガストン)、ジェリー=オーバック(ルミエール)、デビッド=オグデン=ステイアーズ(コグスワース)、アンジェラ=ランズベリー(ポット夫人)、ブラッドリー=ピアース(チップ)、レックス=エヴァーハート(モーリス)、ジェシー=コーティー(ル・フウ)ほか




 最近は地上波TVの映画番組が消えゆく傾向にあるなか(あの「日曜洋画劇場」まで模様替えしちゃったし)、何を思ったかTBSが映画番組枠を復活させた。その第一回を飾って放映されたのがこのディズニー版「美女と野獣」だった(ディズニーのCGアニメ新作とのタイアップ企画でもあった)。僕は公開時に見ているのだがそれっきりで、実に22年ぶりの鑑賞となった。いやぁ、それにしてももう20年以上も過ぎたのか、この映画から。
 特にアニメ好きというわけでもなく、ましてディズニーなんてどっちかというと敬遠している僕なので、今もってなんでこれをわざわざ劇場に見に行ったのか不思議。たぶんすでに評判になっていたので、なんとなく行ったんじゃないかと思う。そして結局いたく感心してしまい、忘れ難いアニメ映画の一本となってしまった。実際当時は大変な評判で、アニメ映画としては初めて米アカデミー賞の「作品賞」ノミネートを果たし(なお、この年実際に作品賞をとって多くの人が驚愕したのが「羊たちの沈黙」)、この作品の成功でディズニーは「第二黄金期」とまで呼ばれる時期に突入し、僕も「アラジン」「ムーラン」なんかはつきあったのだけど、結局は「美女と野獣」だけが際立ってたなと思う。90年代後半以降はアメリカでのアニメというとCGアニメってことになっちゃったし(あれはあれで良いものは良いと思うけど、いっしょくたに「アニメ」とされるのはやっぱり抵抗がある)

 ディズニーアニメのかつての黄金期というと創設者ウォルト=ディズニー当人が引っ張った時期、とくに1950年代ということになるんだろうか。最初の長編「白雪姫」なんて1940年に作ってるんだもんねぇ。僕は以前イギリスに飛ぶ長時間ヒマな飛行機の中で「白雪姫」を座席モニターで全部見ていて、実は古いディズニーアニメを全編見たのはその時だけだったりするのだが、「美女と野獣」はこのディズニー最初期の名作の雰囲気をかなり引きずっている…というより「伝統」として尊重してるようにも思えた。ヨーロッパの昔話に題材をとり、それをお子様向けに大きくアレンジして歌あり踊りありのミュージカル仕立て、中世風ファンタジーで、魔法があって、お城があって、「いつか王子様が」という要素もあって、と挙げてみれば重なる点は結構多い。そして「白雪姫」や「ピノキオ」などの物語がディズニーアニメのイメージで一般に流布してしまったように、この「美女と野獣」もこの物語の原作とはずいぶん異なるにも関わらず普遍的なイメージを流布させる「古典」となってしまった。その点については問題も感じるんだけど、それだけよく出来ていたのは間違いない。

 もともとの「美女と野獣」の話はフランスの民話で、それを近代になって読み物としてまとめた(再話した)もの。「美女と野獣」という言葉自体がこのアニメよりずっと前から慣用句として使われたくらいよく知られたものだ。このディズニーアニメでは「美女」のベル(仏語の「美女」そのまんまなのだが、フランスではどうしてるんだろ)一人しか登場しないが、元の話では三姉妹の末娘で上に二人の姉がいる。三人姉妹もしくは兄弟の末っ子が主人公として成功者になるというのは洋の東西の昔話のパターンの一つなんだけどその要素はばっさり削除されちゃったわけだ。なお、宮崎駿「もののけ姫」は80年代に構想されていた段階ではもともと「美女と野獣」の翻案企画でちゃんと三姉妹要素もあり、三番目の末娘が主人公だった。だから実際に作られたまったく違う話のアニメ映画でも姫の名前が「サン(三)」になっていたりする。宮崎駿が当初の構想を大きく変えた原因の一つはディズニーが作っちゃったから、というのもあるんじゃないかな、と思う。

 さて「美女と野獣」の映画本編はまず王子が「野獣」に変えられた経緯をざっくりとナレーションで説明、それから主人公のベルの紹介部分に入る。彼女のキャラクター説明を当人や町の人々の歌と踊りで説明しちゃうところがディズニー流ミュージカル仕立て。いちいち歌って踊って芝居をするミュージカルというやつに、どうしても僕はなじめないのだが、まぁアニメだとなんとなく納得させられるというか(笑)。ただ劇場公開時は字幕、今回のテレビ放映では日本語吹き替えで見ているので、歌の雰囲気はずいぶん違うようにも感じた。あれでも結構うまく訳してるんだろうけど、歌だけにかなり「意訳」「超訳」感がある。
 冒頭の歌で全部説明されちゃう主人公のベルの性格は、一言で言っちゃえば「変人」(笑)。少なくとも村人たちからは完全にそう見なされ「きれいな娘なのにもったいない」とまで言われるほど。大の本好き、物語好きで、それこそ「いつか白馬に乗った王子様が」と夢見る妄想癖の強い女の子だ。最終的に「野獣」と恋に落ちなくちゃいけないのでこういう変人設定にしたのだろう。最初この点が面白いなと思ったのだけど、観終わってみるとそれほど生かされてなかったという気もする。そういえば父親のモーリスも発明家という「変人」設定だ。
 そんなベルにしつこく結婚を迫る悪役がガストン。村の女の子たちがメロメロというイケメンモテモテキャラなんだが、ただの筋肉バカ(言っちゃなんだが明らかな体育会系で)で性格も悪いためベルには徹底して嫌われる。アニメで描かれると露骨に悪役ツラなのでどこがイケメンなのかと思ってしまうのだけど、アメコミにも見えるように筋肉ムキムキのマッスルタイプがあちらにおける二枚目ということなのかな、と漫画文化的感覚差を感じなくもない。

 感覚差と言えば、よく言われていることだが、この映画も含めあちらのアニメはとにかくよく動く。もうチャッチャカ、チャッチャカ、一秒たりとも止まらずひたすら動き回っている。これが止め絵口パクの多い日本アニメを見なれた者にはそれこそ目が回って「酔う」ほどの違和感を与えるし、キャラがやたらとフワフワ、ペラペラの軽い物体に感じられてしまう。どっちがいいというものでもなく感覚の違いということなんだろうけど、正直なところそこまで細かい芝居をしなくても、と思わされるところもある。お城の中のファンタジーキャラたちはそれでいいのだろうけど、村の普通の人間たちはそこまでしなくてもとは思う。

 さて、そのお城の中のキャラクターたち、魔法で家具に変えられてしまった城の召使いたちがこのアニメ最大のキモだろう。もちろん原作にこんな連中はおらず、ディズニーのオリジナル。過去のディズニーアニメでも作品を彩りにギャグ担当のわき役キャラがいるのがお約束のようになってたが、「美女と野獣」はそれを家具にして総動員しちゃった形。この映画が成功したかなりの部分は彼らの設定と活躍によるところが大きかったはず。これぞアニメならでは、というやつで。
 燭台に変えられたやたらににぎやかな執事のルミエール(これも仏語の「光」そのまんま)に、時計に変えられた小うるさいコグスワース(仏語の「時計」)のコンビの漫才状態。ティーポットに変えられた母性たっぷりのメイド長は名前もそのまんまのポット夫人(声が「ジェシカおばさん」のアンジェラ=ランズベリーだったことに公開当時驚いた)、そしてティーカップに変えられてる子どものチップ(これ、よく見ると他の兄弟たちもカップになっているんだよね)。他にも洋服ダンス、調理台、ハタキなどなどなど、あらゆる家具がみんな「元人間」でとにかくあっちゃこっちゃで細かくギャグ芝居をやっている(ルミエールと物影でイチャつくハタキが「やけどしちゃう」なんてあまり子供向きでないギャグもあったな)。それだけでも面白いのに、最後の大決戦で家具たちが総出で奮戦するのにはもう観客大喜び(笑)。ラストでみんな人間に戻っちゃうのがもったいないと思っちゃうくらいで。

 一方の主役である「野獣」の方はデザインに苦労したんじゃないかなぁ。見るからに醜く恐ろしい姿にしなくちゃいけないわけだけど、観客に不快感を与えてはいけないし、アニメ的に愛嬌も必要になる。結論から言えばそれが見事に解決されてるわけだけど、やはりそのぶん「醜さ、恐ろしさ」はだいぶ軽減されたと思う。これで結局ベルに愛してもらって元の姿に戻ることになるんだけど、僕は公開当時に見ていて「すっかり姿が変わっちゃってベルに『あんたなんか知らん』とか『野獣の野性味がよかった』とか言われたらどうするんだ?」などと意地悪くツッコんでいた(笑)。そこらへんは作り手も一応考えたようで、その純粋な青い目だけは変わらず、ベルはそれで相手が「野獣」当人であることを認識するさりげない演出が入っている(途中で引き裂かれた元の顔の肖像画が映る場面でも「青い目」は印象的な伏線になっている)
 そこらへん「うまい」と思ったのは確かなんだけど、この話って本来「人を外見で判断してはいけない」ってテーマの話なんだが、結局野獣の正体は美男子の王子様なんだよなぁ(笑)。ま、そこにツッコんでも、ということでもあるし、あそこで貧相なブ男が姿を現したらどうなるのか想像してみるのも一興。

 今回改めて見てみると80分程度の内容の中にずいぶん手の込んだ伏線を張ってるんだなぁとシナリオに感心した。短い時間内に話を進めるために、タイムリミットを告げる魔法のバラの花、遠くを見る魔法の鏡、馬のフィリップ(さりげなくこいつが結構話の展開をとてもスムーズにしている)、モーリスの発明した薪割り機などなど、細かい小道具や脇役キャラがあちこちに配置され、うまいこと話をポンポンするめて行くのだ。やや詰め込み気味の感もあって、この最終的な形になるまでにシナリオが相当二転三転したんじゃないかな、と思わせるところもあるけど、全体的なテンポのよさ、悪役ガストンと村人たちの城への攻撃(これも今回見ていて魔女狩りをはじめとする洋の東西のデマによる集団リンチの歴史をしっかり踏まえた描写なんだな、と思わされた)によるクライマックスへの話の盛り上げ方など、実に巧み。

 あと当時話題になっていたのがCGの導入だった。この映画ではまだまださりげない使い方だけど、中盤の盛り上がりである美女と野獣のダンスシーン、セルアニメでは難しい空中をグルグルまわるCGを駆使した3Dカメラワークはとても印象的で、流れる主題歌と見事にマッチしてこの映画を象徴する名場面となった。アニメに限らず映画にCGがどんどん入ってくるのがちょうどこのころからで、今にして思うとディズニーの「漫画映画」なアニメは末期の段階に入っていたのだった。この映画のあのシーンにはそんな歴史も象徴する場面だ。(2013/4/11)



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