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「紅の豚」

1992年・日本・スタジオジブリ/日本テレビ/日本航空
○監督・原作・脚本:宮崎駿○作画監督:賀川愛/河口俊夫○美術:久村佳津○背景:男鹿和雄○音楽:久石譲
森山周一郎(ポルコ・ロッソ)、加藤登紀子(ジーナ)、岡村明美(フィオ)、大塚明夫(カーチス)、桂三枝(ピッコロ)、上條恒彦(マンマユート・ボス)ほか




  春と秋の番組改編期は金曜ロードショーでジブリ大会、というのはほぼ例年のお約束。あれだけ何度も放映し、ソフトもさんざん売られ、レンタルされてるのに視聴率が高いんだからしょうがない。まさに「国民的アニメ」というやつなのか、放送してるとみんなついつい見ちゃうのだろう。実際僕もこのところの「天空の城ラピュタ」とこの「紅の豚」のTV放映をついつい見てしまい、宮崎アニメ熱を少し再発させてしまった。もうそこれそ劇場公開以来何回見たか分からないほど見ているはずで、ストーリーはもちろんセリフの隅々まで百も承知のはずなのに、ついついまた見てしまう。
 1992年公開の映画だから、もう初見から20年が経ってるわけだ。ということは僕の年齢も当然初見時より20年重ねているわけで、初見時と今とでは見る気分もだいぶ違う。いや正確に言えば、他の宮崎アニメ、例えば「ナウシカ」「ラピュタ」については今だって初見時同様の気分で見られるのだが、この「紅の豚」は違うのだ。公開当時もさんざ宣伝された通り、この映画は「仕事に疲れて脳味噌が豆腐状態になった中年男に見てもらう漫画映画」として企画されたもので、見る側も「対象年齢」にきちゃったのである。疲れて脳味噌が豆腐になったりはしてないが、やはりある程度年齢を重ねてくると、この映画を見ていていろいろ思うところが出て来たのは確かである。

 説明不要だろうが、そもそもこの「紅の豚」は宮崎駿がモロに個人的趣味に走った映画だ。飛行機オタクであり軍事オタクでありメカオタクである宮崎駿がプラモデル雑誌に不定期連載していた漫画「雑想ノート」の一部が原作となっているのだが、僕はこの映画公開の直前だったと思うがその「雑想ノート」の単行本を読んでいる。この「紅の豚」の原作にあたる部分はなかったのだが(むしろ「ラピュタ」の原型のようなのがあった)、多くが第二次大戦を扱ったもので一件実録と思わせてよく読めば完全なフィクションと分かるという、そのバランスが楽しかった覚えがある(特に漁船が軍に協力させられ出撃する話は秀逸。途中まで半分本気にして読んでると船の名前が全て中央線の駅の名前だったので大ウケしてしまった)。実はこの映画の原作となった「飛行艇時代」だけは未読だが、そのもととなった雰囲気はなんとなく分かる。

 時と場所は1930年代のイタリア。アドリア海では「空賊」たちが暴れ、それと戦う賞金稼ぎが主人公ポルコ・ロッソ。かつてイタリア空軍のエースとして第一次大戦を戦ったが、戦争を嫌って自身に魔法をかけて豚の姿となり、軍を離れた一匹狼の飛行艇乗りとなっている。戦い合っている空賊と賞金稼ぎだが、どちらも飛行艇乗り同士、一定の共存関係もあり、ホテル・アドリアーノの歌手マダム・ジーナの歌を聞きには敵味方共に集まる。ジーナはポルコ・ロッソが豚になる前の時代を知る数少ない旧友の一人で、お互いハッキリとは表に出さないがひそかに意識し合ってる微妙な関係。そこへアメリカからやって来た腕利き飛行艇乗りカーチスが空賊たちに雇われてポルコに挑戦してくる――

 こうやってあらすじをまとめてみると改めて思うのだが、イタリアの飛行艇乗りの話ながら構造的にはジョン=フォードあたりのクラシックかつ抒情的な西部劇のノリである(と書いて気が付いたが、劇中の時代がジョン・フォード映画の時期に近い)。主人公だけ豚になっているのは魔法と説明されてるけど周囲は特にヘンには思わずごく自然に受け入れてしまってるし、ファンタジーといえるほどのものでもない(そういえば「千と千尋」の両親はホントに魔法で豚にされてたな)。「豚」は中年のオッサンの極端なデフォルメということなんだろうが、一瞬魔法がとけたポルコの姿、少なくとも顔は結構二枚目なんだよな。それになんだかんだでモテモテだし(笑)。この辺もオジサンの「夢」なのかも。

 今回ウン年ぶりかで改めて見てみると、セリフのはしばしや舞台の背景に、世界恐慌当時のムッソリーニ政権下のイタリアの世相が、これまで思っていた以上に濃厚に散りばめられてることに気付いた。現地イタリア人が見るとどんな感じなんだろう?とも思うが、そこは宮崎駿、そこそこリアルに再現してるんだろう。ただし「空賊」はもちろん「空軍」の設定も全くのフィクション。登場する飛行艇自体はほぼ実在するもの、あるいは実在モデルをもとに適度に改造したやつではあるらしい。この史実とフィクションが微妙にない混ぜになって独特の雰囲気を出してるあたりは、「雑想ノート」の他作品にも共通するところだ。

 宮崎アニメ直撃世代である僕なんかはどの作品でも映像が流れていると何度も見てるくせについつい見入ってしまうのだが、今回は自分でも驚いたほど「紅の豚」に見入ってしまった。冒頭の女学生たちを誘拐した空賊とポルコのギャグ満載の空中戦、女ばかりのピッコロ工場とそこからの川を使った強行飛行、クライマックスのカーチスとの決闘(とそのお祭り騒ぎ)といった名場面を繰り返し再生してしまったのだ。こちらの年齢のせいなのか、これらのシーンが生理的に心地よくなってしまったような…。特に見た当時はそれほどウケなかった気がするギャグが、今になるとかなり笑える。
 キザでカッコつけたセリフが多いのだが(もちろん意識してのことだろうが)、その直後に照れ隠しのようにズッコケ場面が入るのもいい。別れ際にフィオがキスした直後にポルコが機体に激突して足だけ残して水中に沈むカットなんて、何度も見てたはずなのに今回初めて笑い、強く印象に残ってしまった。

 もう一つ書くと、この映画、「悪人」が一人も出てこないんだよな。一応ファシスト連中は「悪」なんだろうけどあくまで職務でやってることだし個々人のキャラが描かれるわけでもない。序盤の敵である空賊連中だってドジでいいヤツばっかりだし(「ラピュタ」のドーラの息子たちの発展形)、カタキ役であるカーチスだって根はいい奴。それがまた心穏やかに、安心して笑って見ていられる理由になっている。
 公開当時のパンフレットに宮崎監督自身が書いてるが、この映画製作時にアドリア海に面した旧ユーゴスラヴィア連邦が崩壊して深刻な民族紛争が起こった。かつて「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、二度の世界大戦でさんざ殺し合いをした連中が懲りずにまたやるのか、と宮崎監督もショックを受けたという。この映画の空賊連合は実は旧ユーゴ各国の連中が集まっている設定で、当初はよりノーテンキに見られるドタバタ映画にするつもりが、現実の民族紛争を目の当たりにしてそうはしていられず、国家や民族を絶対的に持ち出すファシズムへの批判をこめたシナリオに変わったとの話もある(ほどほどなのでそう強烈ではないけど)。空賊連中やポルコが国家や戦争を否定する自由人で、みんな「根はいい奴」に描かれているのもそういう思いの発露だろう。ワルが誰も出てこない予定調和のお遊びのような展開に食い足りなさを感じる人も少なくないようだが、そういう歴史的背景もふまえて「こういうのもなかなかいいじゃない」というのが最初に見た当時の僕の感想。だけどこうして20年も経ってから見るとより良い印象を持ってしまったところをみると普遍的な面白さが確かにあるのだと思う。

 中盤、ポルコとフェラーリンが映画館で飛行機もののアニメ映画を見ながら「ひでぇ映画だな」「いい映画じゃないか」とやりとりする場面もなんかイイ。かかっているアニメ映画はジブリで作ったオリジナルなんだろうけど、ミッキーマウスやベティ・ブープなど当時の古典白黒アニメがモデルなのは明らか。時代設定にひっかけた古典アニメへのオマージュであると同時に、作り手自身の「漫画映画」(あえてアニメと言わずにこう書くとニュアンスが出る)というものの本質の問いなおしなのだと思う。(2012/5/3)



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