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「風の谷のナウシカ」

1984年・徳間書店、博報堂
○製作:徳間康快、近藤道生、高畑勲○原作・脚本・監督:宮崎駿○作画監督:小松原一男○美術:中村光毅○音楽:久石譲
島本須美(ナウシカ)辻村真人(ジル)納谷悟朗(ユパ)松村洋治(アスベル)榊原良子(クシャナ)ほか




 「監督・宮崎駿」の名をこの一作で脳裏に刻みつけたアニメファン・映画ファンは圧倒的に多いと思う。もちろんこれ以前に「未来少年コナン」や「カリオストロの城」で高い評価(後者は興行的には散々だったが)をすでに受けてはいたものの、やはり「ナウシカ」で「宮崎駿」に対する世間の認知度が急激に高まった事は確かだと思う。僕は中学の時これを市民会館(ロードショウが終わったアニメなどがたまに来る。市内に映画館がないもので)で観たが、その時点ですでに世間の話題になっていたことが記憶にある。映画が終わりエンドマークが出た瞬間、館内に拍手がわき起こった事も強烈な印象となって残っている。映画館で拍手なんて日本じゃあまりお目にかからない光景である。それだけ衝撃的な登場をした作品だった事は確かだ。

監督自身の手になる原作漫画の存在などは後で知った。僕にとって単に「ナウシカ」と言った場合アニメ映画作品の方を指すのはそういう経緯のせいもあるだろう。だが世間一般でもやはりそういう雰囲気がある。それだけこのアニメ映画の完成度は高かった。これについても「原作を越えた」という表現を使いたいところなのだが、原作がアニメの後も書き継がれ、かなりの時間をかけて完結していることもあるので、この辺りは両者は一応切り離して考える必要がありそうだ。単純な優劣論は意味がないと思う。

一つ言えることは監督の宮崎駿は、原作者でありながら大幅に原作をいじっている(一部のキャラは設定自体がかなり変えてある)ということだ。よく見るとテーマすらも違うのではなかろうか。この改変はなぜ行われたのか。映画「ナウシカ」製作が、あくまで「アニメ映画」作品としての高い完成度をひたすら目指している事にその原因があるように思える。ストーリーを語る事は同じだが、「アニメならでは」の演出がふんだんに「映画ナウシカ」では使われている。よく言われることだがメーヴェで飛ぶナウシカの描写は圧倒的にアニメが勝っていると言わざるを得ない。そしてクライマックスの王蟲の大進軍、巨神兵の復活などのスペクタクルシーン、そして感動のナウシカ復活の「金色の野」。これらはもうアニメの独壇場である。

それとプロデューサー高畑勲も書いていたが、全体に非常に密度の高いアクションシーンを散りばめている。そしてビシッと引き締まった無駄のない構成。一本の長編アニメ映画として、とても大長編の原作があるとは思えぬ仕上がりである。もっともそれを優先させたために原作の持つドロ臭さ、重厚さや哲学性がとり除かれ、ナウシカが一人で世界を切り回し、死んでもあっさり復活するという安易さが目立つ、との指摘も多い。ただ、繰り返すが一本の映画としての完成度の高さは明らかで、だからこそアニメ映画作品の方が世間一般でも「ナウシカ」と認識されているのだろう。

さて、アニメ作品本体の内容自体の話にようやく入るが、これについてはもう世の評論家どもに語り尽くされている感がある。そこで自分なりに一番感じたところを一つだけ書くことにしたい。この映画の世界設定の見事さである。

「核戦争後の未来」「衰退した人類」なんてのはもう嫌ってほどありとあらゆるパターンで描かれている。しかし「ナウシカ」はなおも人を驚かせる世界像を用意した。毒を吐き、人類を追いつめる「腐海」と「蟲」たちという存在。それが実は汚染された地球を浄化していたという、驚くべき「逆転の発想」だ。初めて観た時、中盤でこの真相を知らされ「ガツーン」と来たものだ(ドンデン返しが個人的に大好きなのだ)。しかも単なる観客の裏をかいた「逆転の発想」ではない。これが作品全体のテーマ、自然と人類の関わりという問題に強烈に食い込んでくるのだから参ってしまう。「このアイデア一つで名作ができちゃうよなー」などと変な感心をしたものだ。この部分は原作も同じなのだが、何だかアニメで見た方が印象が強烈である。出すべき時に解答を出し、インパクトを強めてるようだ。

とかく重いテーマを持たせてしまうと、映画はどんなに趣旨が素晴らしいものでもお説教調の駄作となりがちだ。これを宮崎駿監督は一本の映画としての完成度を高め、娯楽性豊かに仕上げることで見事に解決した。そして中盤とラストにドーンとテーマをぶつけてくる。テーマ性と娯楽性の両方を最も見事に融合した作品とよべるだろう。(98/4/17)


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