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「カツベン!」

2019年・日本
○監督:周防正行〇脚本・監督補:片島章三○撮影:藤澤順一○美術:磯部典宏○音楽:周防義行〇プロデューサー:天野和人/土本貴生〇企画:桝井省志
成瀬凌(染谷俊太郎)、黒島結菜(栗原梅子)、永瀬正敏(山岡秋聲)、高良健吾(茂木貴之)、音尾琢真(安田虎夫)、井上真央(橘琴江)、山本耕史(牧野省三)、池松壮亮(二川文太郎)、森田甘路(内藤四郎)、酒井美紀(梅子の母)、徳井優(定夫)、田口浩正(金造)、正名僕蔵(耕吉)、成河(浜本祐介)、竹中直人(青木富夫)、渡辺えり(青木豊子)、小日向文世(橘重蔵)、竹野内豊(木村忠義)ほか




 周防正行監督の映画を劇場で見るのはかなり久々。「それでもボクはやってない」以来だから…と調べてみたら実に12年ぶりだ。最新作のこの「カツベン!」は、周防作品ほかいろいろな映画で助監督についている片島章三さんのオリジナル脚本で、「カツベン」すなわち「活動写真弁士」の世界を描いている。まずその素材が面白そう、ということで映画館まで足を運んで見た次第。
 なお、偶然ながら先日の「決算!忠臣蔵」に続いて全編関西弁映画の鑑賞となった(笑)。

 映画はその草創期、日本では「活動写真」つまり「動く写真」として見世物にされたわけだが、日本においてはそこに「活動弁士」と呼ばれる説明役がついていた。当時の映画は白黒、音声なしの「サイレント映画」というやつで、ストール―の説明や一部セリフなどは映像の合間に文字列画面をはさんで観客に伝えていたが、日本ではそれ以前からあった講談や落語などの話芸の伝統が組み合わさって、映画の状況説明やセリフを一人で話して観客を盛り上げるプロたちがその「活動弁士」だった。この映画でも描かれるように、この活弁士次第で客の入りが変わったり、活弁士自身がスター性を持つようにもなった。この映画の時代設定である大正時代から昭和初期までが彼らの全盛期だ。
 
 しかし音声を同時に出せる「トーキー映画」の登場と、スーパーインポーズによる外国映画の字幕表示の導入により、彼ら活動弁士は一気に失業してしまう。有名どころで黒澤明の兄は須田貞明という芸名の人気活動弁士だったが、そうした状況の変化に追いつめられ死を選んでしまっている。創作作品だが、横溝正史の金田一シリーズの「悪魔の手毬唄」でも登場人物の一人が活動弁士でやはり失職してしまったことが事件の背景に盛り込まれている。市川崑監督の映画版ではこの点、当時の「モロッコ」などの映画を示して印象的に説明されていた。
 活動弁士も絶滅したわけではなく現在でも細々ながらプロがいて、古いサイレント映画の上映や放送時に彼らの「説明」を聞くことができる。僕は1925年版「ベン・ハー」がNHKのBSで放送された際に弁士がついた状態で鑑賞したことがある。あの戦車競走シーンで「おのれ〜おのれ〜にっくきメッサーラ〜」などと時代がかった調子でシーンを盛り上げていたものだ。こうした現在活動中ん活動弁士たちはもちろんこの映画にも協力していて、弁士役の俳優たちに始動もしている。

 さて、この映画「カツベン!」は、そんな活弁士たち全盛の時代、つまりは日本映画の黎明期を描く「映画史映画」ということになる。映画が始まるとすぐに、大正時代はじめの映画撮影風景が出てくる。時代劇のロケ撮影だが、女役を男性が演じていたり、どうせセリフの録音はできないので「いろはにほへと」とか適当に口を動かして演技、撮影中のハプニングで犬が走ったり子供が飛び込んだりしても撮影続行、という正確には知らないがまぁ当時はこんな感じだったんだろうな、という黎明期の撮影風景だ。監督を演じてるのが山本耕史だとは気がついたが、あとでパンフを見たら役名が「牧野省三」でビックリ。「日本映画の父」とまで呼ばれる、あの実在人物その人という設定なのだ。映画の後半に登場する映画監督・二川文太郎(演:池松壮亮)も調べてみたら牧野省三の弟子筋の実在人物だった。

 この牧野監督が顔見せ程度に出て来るオープニング部分で、主人公の俊太郎と梅子の子供時代の出会いが描かれる。このあと一気に十数年の時が流れて、俊太郎(演:成瀬凌)は泥棒グループに属し、少年時代に覚えた活動弁士のモノマネ能力を生かして泥棒行為に一役買っていた。つまり流しの映画興行を打って彼が弁士をつとめて盛り上げているスキに盗みを働くという作戦を繰り返しているのだが、盗み先からの逃亡時にグループの大金の入ったトランクと一緒に俊太郎はトラックから転げ落ち、これを機に泥棒から足を洗って少年時代からの憧れであった映画館の仕事になんとかありつき、紆余曲折の末に活動弁士の技能を発揮することになる。

 俊太郎が流れ着いた映画館「青木館」は、周防作品常連の竹中直人(周防作品では毎度「青木さん」だ)渡辺えりの二人が夫婦役で経営している、江戸時代以来の芝居小屋を改造した老舗。なるほど、初期の映画館は芝居小屋の延長上にあったんだろうな、弁士がスターみたいに活躍したのも無理もないと思えた。
 劇場経営者夫婦も個性派なら、そこに勤める人々も曲者。かつて俊太郎があこがれ真似をするようになったスター弁士・山岡秋聲(演:永瀬正敏)は今は飲んだくれの役立たず。入れ替わりに若手スター弁士として活躍する茂木貴之(演:高良健吾)は特に女性観客をメロメロにさせる名調子と流し目が売り。もう一人の専属弁士・内藤(演;森田甘路)はものすごい汗っかきで説明しているうちに汗をかいて服を脱ぎだすというヘンな人。多くの同業者が他の映画館に引き抜かれるなか、三人だけ残った楽士たち(当時は音楽は劇場内で生演奏だった)。そして最大の裏方といえる映写技師・浜本(演:成河)は当時の手回し式映写機を弁士の解説に合わせてスピード調整、足で回してしまう神業も見せ、同時にフィルムの切れ端をひそかにコレクションする映画ファン。このキャラクターには「ニュー・シネマ・パラダイス」に通じるものを感じて楽しかったな。

 主人公の俊太郎はこの青木館にもぐりこみ、ひょんなことから弁士の代役を買って出て才能を発揮。青木館を盛り上げることになるのだが、ライバル登場に焦る茂木の策謀でのどをつぶされそうになったり、大金を取り返そうと追いかけてきた泥棒一味の安田(演:音尾琢真)に命を狙われたり、映画館に入り浸る敏腕刑事の木村(演;竹野内豊)は俊太郎を含めた泥棒一味を織っていて、町の裏の有力者でライバル映画館の経営者である橘重蔵(演;小日向文世)があれこれ暗躍、その娘の琴江(演:井上真央)は俊太郎のファンになってしまい…と、登場人物いろいろ入り乱れてなかなかに盛りだくさんな展開。見ていると分かるが、この本筋の話自体が当時のドタバタ映画を彷彿とさせる、かなり非現実的な「映画みたいな話」という構造になっている。狙ってる通りにうまくいったかは微妙、という気がしたけど。もうちょっと整理した話にしてテンポを良くした方がよかったかな。

 さて忘れていたわけでありません。肝心かなめのヒロイン・梅子(演;黒島結奈)が女優の卵となって美しく俊太郎の前に再登場。梅子は大正時代ならではの女子大生卒業式ファッション(笑)で、これが実に似合う。僕はこの黒島さんの出演作は初めて見たが、本作ではまさに適役、顔も声もよく通る可憐な美少女であると同時に不幸な生い立ちと男たちに翻弄される状況に置かれた暗さもある。
 中盤の見せ場、のどをつぶされ高い声が出せなくなった俊太郎を、梅子がサポートして二人で活弁をこなしてしまうシーンは強烈。リアリティとかは通り越して、この時代の、弁士がキモだった時代の映画館だからこそ成立する名場面だ。素材が弁士だけに弁士役出演者たちは本職の指導も受けてそれぞれなかなかの名調子を披露してくれている。リアルな当時を知ることはできないが、こんな感じの盛り上がりだったのではないかな、と実感させるものはあった。

 当時の再現と言えば、鑑賞後に知ったことだが、この映画の中で上映される内外の無声映画の数々は、実は当時のものではなくこの映画のために新たに撮影され「再現」されたものだ。一作だけ全くのオリジナルだそうだが、そのほかの「椿姫」「十誡」などの作品はオリジナルを参考に微妙に変えたりして再現したとのこと。「十誡」の「紅海真っ二つ」の特撮シーンも竹中直人がモーセを演じて再現されたものだったのには驚いた(カット、アングルは有名なリメイク版の方を参考にしたという)。他の再現映画でも草刈民代さんやシャーロット・ケイト・フォックスさん(この人やっぱり日本でばかり仕事してるような)が出演して再現がなされている。当時のものをそのまま使うとフィルムも傷んでるから「新作」のように劇中で使うようにすると、かえって手間がかかるということもあったろうな。、

 前述のように活動弁士たちの全盛期は大正時代から昭和初期までの短い期間。文字通りの動く写真の見世物である「活動写真」が、次第に芸術性を評価される「映画」になっていく過程が、この映画の中でも永瀬正敏演じる山岡秋聲のセリフで語られている。売れっ子弁士だった彼が飲んだくれになってしまった一因もこれで、「映画が自分で語り始めてしまった」とぼやくセリフも印象的だ。変な連想だが、アーケードゲーム黎明期にマンガ「ゲームセンターあらし」を描いた漫画家すがやみつる氏はファミコン時代以降にそうした漫画を描かなかった一因に「ゲーム自身が物語を語り始めた」というようなことを言っていたっけ。
 トーキー登場以前の段階で映画の作り手たちは映画の語り口、文法を確立させてゆき、弁士の説明なしでも成立する作品に仕立てるようになってくるのだ。映画の作り手としては弁士の腕次第(口次第)で観客に受けたり受けなかったりするようなことでは困るだろうし。



 以下、映画の終盤のネタばれを含みますので未見の方はご注意を。





 
 映画のクライマックス、青木館が荒らされて大半のフィルムが使用不能になってしまい、どうにか使えるフィルムを異なる映画だろうとおかまいなしに無理矢理つなぎあわせ、ハチャメチャな「映画」を上映することになり、それを俊太郎が弁士として名調子でなんとかしてしまう、という展開には大爆笑。これはこの時代の映画館ならではの展開だし、この映画のドタバタ描写の究極形として大いに楽しめた。まぁどうせこれをやるなら、メロドラマの途中にいきなり「十誡」の紅海真っ二つシーンが突然入って無理矢理話をつなげたらもっと爆笑だったかな、と。

 この盛り上がり部分とか、フィルムが発火して映画館が燃えちゃう展開には、やっぱり「ニュー・シネマ・パラダイス」の影響を感じる。別にそれはそれで構わないのだけど、ハチャメチャ上映の盛り上がりのあと、泥棒一味がやって来てのドンパチがらみの追いかけっことか、どうもテンポが悪いい印象で…あれだけ盛り上げてからの展開がどうもショボくて見ている方が冷めちゃうんだよな。
 俊太郎と梅子の関係も、「現実は映画のようにはいかない」とでも言いたげな展開で、まぁこれはこれでと思わなくもなかったけど、終わり方としてはやや寂しくもあった。このエピローグ部分はプロローグ部分と呼応してるんだけど、どちらも微妙に長くて、バランスが悪い印象もあった。青木館周辺の話に絞ったり、大金とか泥棒一味のくだりを思い切りカットしちゃう(極論するとなくても良かった気が)という方法もあったんじゃないかなぁ。。(2020/1/20)
 

 
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