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「ザ・マジックアワー」

2008年・日本・フジテレビ/東宝
○監督・脚本:三谷幸喜○撮影:山田英夫○美術:種田陽平○音楽:荻野清子○製作:亀山千広/島谷能成
佐藤浩市(村田大樹)、深津絵里(高千穂マリ)、妻夫木聡(備後登)、小日向史世(長谷川謙十郎)、綾瀬はるか(鹿間夏子)、伊吹吾郎(鹿間隆)、戸田恵子(マダム蘭子)、浅野和之(清水医師)、寺島進(黒川裕美)、西田敏行(天塩幸之助)、柳澤慎一(高瀬允)ほか


 

 もはや三谷幸喜映画、というジャンルができちゃってる。監督第一作となった「ラヂオの時間」は公開当時劇場で見て大ウケし、当サイトでもかなり古い「鑑賞日記」が書かれているが、実を言えばその後の「三谷映画」にはそれほど付き合いがいいわけでもない。「みんなのいえ」「素敵な金縛り」「清須会議」は公開時に劇場で見てるけど、それ以外はTV放送時に初めて見ている。それでも僕としては最近の映画監督の中では付き合いがいいほうだ。
 さて、この「ザ・マジックアワー」は公開時に見のがしたクチ。なんで見なかったのか思い返してみると、一言でいうと「この話には無理がある」という、「ラヂオの時間」のセリフそのままの理由だった。売れない役者を「映画撮影」とだまして本物のギャングたちの前で殺し屋を演じさせる――という設定を聞いた時、「そりゃ無理やろ」となぜか関西弁でツッコんでしまった。映画館で見ていて話が破綻しないかヒヤヒヤして見るサスペンスなんぞ味わいたくない。というわけでなんとなく敬遠したのだ。興行的には成功してるみたいなんだけどね。
 NHKのBSシネマで放送してたので「じゃあ見てみるか」と録画、そのまんま9か月ほどほったらかしにして先日ようやく鑑賞した。結論から先に言っちゃうと、やっぱり笑うところは笑ったし、筋が気になってなんだかんだ言いながら最後まで見ずにはいられなかったし、そこそこに楽しませてはもらった。でもやっぱり公開当時に危惧していた部分はやっぱり予想通りで、「話の破綻」に対するサスペンスで居心地のわるいドキドキをさせられるハメになってしまった。なんか、こういうの、ヘソがムズムズしてくるんですよね(笑)。

 映画は冒頭から、舞台となる港町「守加護(すかご)」のセットから始まる。この町、「シカゴ」のひっかけてるのは明らかだし(そういや「ラヂオの時間」でも「ギャングといえばシカゴ」って言ってたっけ)、西田敏行が演じる「天塩(テシオ)」の名前もイタリアマフィアっぽい。そもそもその西田敏行の服装から部屋の内装まで、どう見ても「ゴッドファーザー」だ。妻夫木聡のホテル支配人の役名も「備後(ビンゴ)」だし、キーとなる殺し屋の名前も「デラ富樫」(このいかにもウソくさい名前を考えるの得意だよなー)とか、全体的にえらくアメリカンな設定の人たちがいっぱい出てくる。
 東宝の大ステージにまるごと作ったという「守加護」の町の大セットもおよそ日本とは思えない街並み。三谷さん自身映画マニアだろうし、特にアメリカのコメディなんかが好きだからそうなったんだろうなとも思ったが、そもそも設定上、「いかにも映画のセットみたいな町」でなければいけない、という事情もあったんだ。ただこの、あまりにも日本離れした、「いかにもセット」な街並みの中で、「映画の中での現実」が進行するので、見ている側としてはあまりに話が絵空事に見えちゃって(ま、そりゃ映画の内容は基本的に絵空事なんだけど)なんだか落ち着かなかった。さらにその話の中で「映画を撮る」という「架空の話」が展開される二重構造になってるもんだから…その面白さを作り手としては狙ったんだ、というのも察するんだけどね。

 マフィアのボスの愛人に手を出してしまい、危うく殺されかかった備後は、有名な殺し屋「デラ富樫」を連れてこなければいけなくなる。どうしても見つからないので備後は顔を知られていない三流役者を映画の撮影だとだまして「デラ富樫」を演じさせて急場をしのぐ奇策を考えつく。どう見ても怪しい話なんだけど仕事のない三流役者の村田(佐藤浩市)はかねて演じたがっていた「殺し屋」役だということで乗ってしまう。そして完全にだまされたまま本物のマフィアのボスたちの前で「迫真演技」をやってしまい、これがボスたちに本気にされてしまったから話はいよいよややこしくなる(笑)。
 こういう各自の思惑の齟齬が雪だるま式に混乱をふくらませていくのは三谷喜劇の王道みたいなもんかも。それにしても…と気になっちゃったんだけど、撮影と思い込んでいる村田が自己紹介演技を繰り返して「またそこから?」と言われてしまうところなんかは、一般人はあまり知らない撮影現場の実態とうまくかみ合わせたギャグで、僕も結構ウケてしまった。食事場面で実際には食べてないところとか、「カット!」の一声が入ると…といったところなんかも笑えたところだ。本物の銃撃戦を撮影と思い込んで大暴れしちゃうところもこういう設定ならでは。

 とまぁ、ツッコみつつも結構笑って見てたんだけど、話が後半に行くとかなり「失速」が目立ってくる。「デラ富樫」の正体がばれるか、村田が撮影じゃないと気付くか、妻夫木聡もハラハラしてるんだけど、それをさらにスクリーン外から見ているこちらはバレるサスペンスよりも話の破綻のほうにハラハラしてしまう。いや、このまんま全部バレずに最後まで話をもっていったらすごいぞ、と思い始めたあたりで、さすがに村田は「これは撮影じゃない」と悟ってしまう。これ、その後のクライマックスへ向けてそうする必要があったんだとは理解するんだけど、僕自身の希望としては最後までみんなだまされたままの方が面白かったと思うんだよな。それこそ大変なシナリオ作りになっただろうけど。そもそもこんな町全体じゃなくってもっと小さい舞台にした方がそれは可能だったんじゃなかろうか。ウソの話にだまされてる主人公たちの周りはウソっぽくないような舞台にした方が効果的だったんじゃないかなぁ…などと。
 ラストのクライマックスも、予想外の展開部分についてはうまいな、と思ったんだけど、「本物」との決闘で、ネタバレは書かないけどアレはないんじゃないか。一応序盤の撮影現場部分で裏方さんたちが登場して伏線は張ってるけどやっぱり唐突感が否めなかったし、こんな小細工、「本職」相手じゃすぐバレバレでしょ?なんかもっと、「映画」を生かした逆転劇はできなかったもんかなぁ。

 いいところを挙げれば、作品全体に漂う「映画愛」だろうか。タイトルになった「マジックアワー」という言葉、映画の冒頭で佐藤浩市自身が説明してくれるように、日没直後の黄昏どきには光線の具合で素晴らしい映像を撮れる時間帯がある。僕はこの言葉を、マイケル=チミノ監督の大作「天国の門」でその時間帯を使った撮影シーンが多いことから知ったのだが、この「天国の門」という映画がまた、作り手の映画愛がこうじすぎちゃって映画会社ひとつを身売りに追い込むほどの大損害(「災害」とまで言われた)を出してしまったいわくつきの一本で、どうも「マジックアワー」という言葉を聞くと僕なんかは「映画愛」と同時にとてつもないトラブルを連想してしまう。三谷監督がそこまで考えたとは思わないが、内容とマッチしてるような気はした(笑)。
 映画というのは見る人に「夢」を見させる一種のマジック。そのマジックを可能にする時間が「マジックアワー」なわけで、この映画ではでっちあげたウソが「本物」の光を放ってしまうドタバタとしての「マジックアワー」と、売れない三流役者の村田や、彼が少年時代に見たB級ギャング映画の主人公を演じた老人役者たちが待ち続ける「自分たちが輝く瞬間」としての「マジックアワー」とが重層的に掛け合わされて、作り手が映画愛を観客に語りかける。少なくとも語りかけようとした。狙いはそういうことだったと思うんだけど、後半の展開ではそれは正直うまくいってなかったと思う。
 いや、実は僕は、最後の最後に、町が本当にセットで、後ろからスタッフがゾロゾロ出てきて、「実は今までの話も全部『映画』」とやらかすような楽屋オチ(というのは変かな)をするんじゃないか?と疑っていた。「幕末太陽伝」のラストにそんなことにする予定があった、なんて話もあるじゃない。

 主人公の村田が少年時代に見て役者の道を決め、劇中で何度か出てくる架空映画「暗黒街の用心棒」は、タイトルから察すると岡本喜八監督の初期の暗黒街ものを思わせるが、黒澤明の「用心棒」も混ぜちゃってるよな。というか、そもそも岡本喜八の「暗黒街の顔役」は「用心棒」と話の構造がおんなじ、というのはマニアには知られた話。そして村田がお守りにしている毛布の切れ端について「三船敏郎が使ったかも」と口にしてるが、その「暗黒街の顔役」「用心棒」の両者で主演したのが三船当人という構図。
 そしてこの映画の中で撮影風景が出てくる映画「黒い101人の女」(元ネタを知る人は爆笑)を演出してるのが市川崑監督当人だ。晩年は禁煙してたと聞くが、この映画ではトレードマークとなってたその姿のままにタバコをくわえている。村田役の佐藤浩市が市川監督にあいさつする場面もあるが、実は「浩市」の「市」の字は市川崑に由来している(「浩」は稲垣浩に由来)。それを知ってる僕なんかは感慨深いものがあったカットなのだが、たぶん三谷さん、知っててやってるんだろうな。
 そしてこの映画が、監督作ではなく出演作だけど、市川監督の「遺作」となり、映画のラストで追悼の言葉が捧げられている。市川監督の監督作としての遺作である「犬神家の一族」リメイク版には旅館の主人役で三谷幸喜が出ていたというつながりが。こういう「お遊び」も映画愛の表れということで…(2015/9/27)

 
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