映画のトップページに戻る
「笑の大学」

2004年・フジテレビ・東宝
○監督:星護○原作・脚本:三谷幸喜
役所広司(向坂睦男) 稲垣吾郎(椿一)ほか




 先日何の映画を見た折だったか忘れたが、本編前の予告編で妙に気になり、公開後さっさと見に行って来た。この映画の「原作」となった舞台の評判もすでに聞いていたところだったし、やはり同じ原作者による舞台劇から映画化された「十二人の優しい日本人」「ラヂオの時間」といった傑作を過去に見ていたことも大きい。そしてもう一つ付け加えるなら、この物語の舞台設定が、「喜劇」でありながら昭和十五年という日本がまさにこれから破綻に向かっていく異常な時代に置かれていることも関心を引いた。

 ストーリー自体は舞台が評判になった際におおまかな輪郭のみだけど批評で目にしていた。さらにこの映画の宣伝特番(「ラヂオの時間」「みんなのいえ」同様にフジテレビ作品のため大々的にやっていた)をついつい見てしまったため、映画の見せ所、舞台裏までも事前にしっかり知ってしまい、わざわざ映画館に行く必要があるんだろうか、と自問しかねない状況で結局見に行っちゃったわけだ(笑)。見終えた感想から言うと事前知識がなかったほうがやっぱりよかったという気がする。
 そのストーリーだが、映画宣伝でさんざん言われているまさにその通りの内容。当たり前だろと言われそうだが、つまりこの映画、それだけストーリーを簡潔にまとめて紹介することが出来る、かなり単純な構造になっているのだ。もともと舞台劇、しかも「十二人の優しい日本人」「ラヂオの時間」のような集団密室劇ではなく、ほとんど全編が「密室二人芝居」の内容である。よく映画にする気になったもんだ…と思うばかりだが、企画が上がったとき原作者も監督も同様の感想を抱いたというんだから…。

 昭和十五年(劇中でも触れているが、「皇紀2600年」ということで国威高揚を煽った年である)、警視庁の演劇検閲官の向坂(さきさか)は芝居の台本を細かくチェックし、あれこれと難癖をつけて修正させ、あるいは上演中止に追い込んでいる。そこへ劇団「笑の大学」の座付作家・椿一(つばき・はじめ)が向坂の検閲を受けにやってくる。椿の台本は「ジュリオとロミエット」なる劇中劇パロディ(?)だったが、向坂は大真面目に「シェークスピアの『ロミオとジュリエット』に良く似ている」とのたまうぐらいで、「パロディ」なるものが全く理解できない。そもそも「笑い」について完全に無理解。それどころか時局柄こんな浮ついた芝居など根絶するべきと考えている。向坂は「舞台・登場人物を全て日本に変更せよ」と命じるのを皮切りに、次々と無理難題を椿に要求する。頭を抱えて帰る椿だが、翌日には向坂の要求を呑んだ上で巧みにそれを笑いの種にし、もっと面白い台本を書いてきてしまう。そうこうしているうちにいつの間にか向坂自身も乗ってきちゃって、二人で協力して台本修正を薦めていくようになる…
 …といったお話である。ストーリーを聞いた第一印象は「ああ、『ラヂオの時間』のパターンだな」と僕も含めて多くの人の抱くところだと思う。物作りの現場で様々なトラブルが起き、元の形がドンドン変わって行ってしまう大騒動が生み出す笑い、という点では「ラジオの時間」も「みんなのいえ」も同じ構造を持っている。『ラヂオの時間』の際に三谷氏自身もよく発言していたことだが、仕事上の実体験がヒントになっているのだろう。『笑の大学』の作家・椿がどんな無理難題を出されようと投げ出すことなく(投げ出すことの潔さ・カッコ良さに誘惑されつつも)、なんとかして形にしてやるのだ、という姿勢は『ラヂオの時間』の某登場人物のセリフにも似た形で出てくるもので、作者・三谷氏のポリシーなんだろうなと察せられる。
 恐らくは作者の分身という側面もある劇作家・椿を演じる稲垣吾郎の配役はかなり当たりだったと思う。舞台は見ていないが映画のこの配役は三谷氏自身の指名だけにかなりピッタリ。いかにも「普通の人じゃない雰囲気」を漂わせてるし、若さと純粋さと、そして真面目にやればやるほど笑いをとってしまう容姿とどこか悲劇的な影のあるキャラクターをうまく表現できていたと感じた。

 さてやはりこの『笑の大学』のミソは舞台を昭和十五年に設定、軸となる「無理難題」を当時のムチャクチャな検閲制度に求めている。三谷氏自身今回の映画化に当たって椿一のモデルをエノケンの座付作家だった菊谷栄と明かしているが、僕は演劇関係はまるっきり知らないので当時の演劇検閲の実態がどんなものだったかは分からない。ただ、黒澤明が自伝「蝦蟇の油」で当時の映画検閲の件に触れていて、検閲官たちの芸術への無知ぶり、それでいて「時局がら」とか「お国のため」とか権力を振りかざして横暴な修正要求連打を繰り広げる(はっきり言って嫌がらせ以外の何ものでもない)有様に激しい怒りをぶつけていたのを読んではいる。黒澤明のデビュー作『姿三四郎』だって凄まじい難癖をつけられ、どうにか公開したもののその後一部を削除され現在もその一部削除版しか鑑賞できない状態だ。
 これらのことを見るだけでも「戦中は決して暗い時代じゃなかった」などとタワゴトを言う連中は本当にどうかしていると思う。『笑の大学』の椿も「自由に芝居がうてない世の中はなんかおかしい」という主旨の発言をしていたように思うが、これは古今東西、今現在だって深刻に存在する普遍的なテーマだ。そうした深刻なテーマを底に沈めてあくまで「喜劇」として描いてみせたところがこの作品のうまいところで、単なるドタバタ騒ぎである『ラヂオ』とは一線を画する点だと思う。笑いや娯楽を否定する異常な社会状況、それこそがハタから見ていると「お笑い」なんだというのは、昨今北朝鮮ネタをTVで見て笑っている日本人を見ていても分かるが、つい先ごろにも身近にあったことなんだよな。

 まぁこの映画自体は(劇の方は未見なので映画の話に絞る)特にそうした社会状況を強く打ち出そうとはしない。当時の演劇街をなめる繰り返しシーンで当時の世相はさりげなく描き出されていくが(ほんの一週間の話なのにドンドン「軍国化」していくのが分かる)、あくまでメインの取調室でのシーンはいつでもどこにでもありうるやりとりになっている。そもそも検閲官の向坂が結局のところ「いい人」状態なので、権力による検閲の不条理さ、異常さはそれほど強調されてはいない。むろんこの映画としてはその辺で折り合いをつけるべきだとは思う。
 ただ中盤から向坂が次第に喜劇台本づくりにのめりこんでいってしまうあたりになると「このまま終わってしまうと甘い作品だなぁ…」と思い始めてしまった。どうせなら検閲官ももっとヤな奴にしてもっと葛藤があるほうがいいんじゃないかな…などと思っていたところ、さすがは、お話はそう甘い展開にはならない。



以下、ネタばれ注意報!






 そう、甘くはないんだよね。すっかり意気投合した向坂と椿だったが、椿がつい気を許して「喜劇をなんとしても書くことが体制にたいする自分の戦いなんだ」という本音を明かしてしまう。それを聞いた体制側の末端の人間である向坂はやっぱりこれを許すことが出来ない。二人の緊張関係はもとに戻り、向坂は「笑いの要素を全て抜いた喜劇を書いてみろ」と究極の無理難題を出す。「やってみせましょう」と言い放ち、帰る椿。
 そして翌日、椿が持ってきた台本は全編が壮絶な笑いに満ちたものだった。向坂は爆笑しながらこれはどういうことだ、と問い詰める…ここ、個人的にはもそっとひねりが欲しいなと思ったところ。「笑いの要素を全て抜いた喜劇」という課題をトンチ的にクリアしたものが来るんじゃないかと期待したところもあったので…つまるところ召集令状を受け取った椿がこの世の名残にこれまで吸収したことの全てを投入した喜劇だったというオチなんだが。

 ラスト、椿は「お国の為に死んでまいります」と劇中でさんざコケにしたセリフを吐いて去ろうとし、その文言を入れさせようとしていた向坂が「生きて帰って来い!」と絶叫して見送る。かなりしんみりとしたラストシーンは、戦地へ赴いた椿がそのまま帰ってこなかったことを暗示している。このラストについては監督側からは「椿が生還する希望の持てるラストにしたい」との意見もあったが、三谷氏がこの椿のモデルである菊谷栄が喜劇に思いを残しつつ戦死という悲劇に終わっていることを理由にそれに反対したという話がパンフレットに載っていた。これはやはりこの形で正解だろう。これで生還しちゃったらここまでの展開が台無しになっちゃったと思う。

 見終えた感想だが、正直なところ「映画にする必要があっただろうか…?」という出発点に戻って来てしまう。まぁ映画のほうが人の目に触れる機会も多かろうし、実際僕もそれで目にしたわけだが、やはり演劇的な設定の話なんだよね、これ。映画としても決して悪い出来ではない、いやむしろ良く出来てる部類だと思うが、映画を見て原作の舞台の方を見てみたくなったというのが率直な感想。(2004/11/10)  
 


映画のトップページに戻る