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「第五福竜丸」

1959年・近代映画協会・新世紀映画
○監督:新藤兼人○脚本:八木保太郎/新藤兼人○撮影:植松永吉/武井大○美術:丸茂孝○音楽:林光○製作:山田典吾/絲屋寿雄/若山一夫/能登節雄
宇野重吉(久保山愛吉)、乙羽信子(久保山しず)、稲葉義男(見島民夫)、小沢栄太郎(静岡県知事)、千田是也(木下博士)、永田靖(衛生部長)、三島雅夫(清川博士)、浜田寅彦(熊谷博士)ほか




  ビキニ環礁の水爆実験といえば、冷戦真っ盛りの1954年3月1日に行われたもの。この水爆実験で「死の灰」を浴びてしまった日本の漁船が「第五福竜丸」で、その乗組員のうち一名が死亡したことで、広島・長崎の原爆投下以来の核兵器の記憶を呼び覚まされた日本では反核運動が盛り上がるきっかけともなった。またこの水爆実験をヒントに怪獣映画「ゴジラ」が企画され、その年のうちに公開されたことも有名だ。
 この映画「第五福竜丸」は事件からわずか5年後の公開。当然事件の記憶も生々しい時期であり、原水爆禁止運動との連動で企画されたのは確実。監督の新藤兼人はすでに「原爆の子」を撮って高い評価を得ていて、このテーマを扱うにはうってつけとみられたはずだ。製作会社も新藤らが作った独立プロ「近代映画協会」で、大手映画会社では扱いにくい社会派作品を製作するには適していたろうし、このテーマが当時としては注目を集めるだろうから商業的にも一定の成功が期待できる、という事情はあったと思う。
 この事件を扱った映画が存在していること自体は新藤兼人監督のプロフィールで見て以前から知ってはいたが、鑑賞したのはようやく先日のこと。それも社会派的な関心もさることながら、事件から間もない時期に製作された映画であることに特に興味を覚えた。事件から半世紀以上が過ぎた今になってみると、当時は「現代」を描いていた映画もしっかり「歴史映画」の範疇に入ってしまうことになるわけで、その点これはどうなのかな、という興味があったのだ。ああ、それとたまたまネット上で公開当時のポスターが紹介されていて、「宇野重吉が『たまや〜』と言ってるみたい」とツッコまれていたのが気になった、というのもあった(笑)。どういうことなのか興味のある方はネットで画像検索でもしてみてくださいな。

 さて、映画の方を実際に鑑賞してみると、事前に予想していたような「反核」を熱く唱えるような、水爆への怒りを前面に押し出したような映画では全くなかった。最初から最後まで、おおむね静かで落ち着いたトーンで映画は展開され、かなり淡々とした語り口という印象を受ける。劇映画なのだが、かなりドキュメンタリー映画にノリが近い。もっと正確に言えば、ドキュメント調に事件を再現した劇映画、セミ・ドキュメントタッチというやつだろうか。製作当時、当然ながら事件の直接的関係者はほぼ全員が存命であり、事件の詳細を当人たちから聞くことができただろうし、逆に下手な脚色がやりにくいという事情もあったはず。それならいっそ、徹底して証言をもとに事件を再現、観客に「目撃者」になってもらおう、という狙いになったのではないかと。作り手の訴えんとしているテーマはもちろんあるし、静かなトーンの陰に強く込められてもいるはずだが、あくまで淡々と「事実」を描いて、観客各自に深く考えていただこう、という姿勢なのだ。

 映画は第五福竜丸が母港の焼津からの出漁準備を進めているところから始まる。当たり前だが乗組員も船主も漁協も大事件が起こるなど夢にも思っておらず、マグロ漁がうまくいかないと借金だらけになることを心配したり、家族や恋人とのしばしの別れに時間を割いたりと、ごく当たり前の日常がしょっぱなから淡々と描かれてゆく。
 ようやく出航となり、福竜丸は太平洋の真ん中へと乗り出してゆく。このときもどこで漁をすれば利益があがるかが彼らにとって最大の問題で、当初は他のマグロ漁船が向かう南太平洋ではなく、もっと「穴場」の東側でカジキマグロを捕って稼ごうとする。しかしこちらは結局当てが外れてしまい、このままでは漁が赤字になってしまうと恐れた一同は、本来向かう予定だった南太平洋へと進路を変える。これが結局あだになってしまうわけだが、僕などはテーマから離れて遠洋漁業が一か八かのギャンブルでもあり、失敗すれば大赤字で借金を抱えてしまう厳しいものであるという事実に強く興味を持ってしまった。いや、実は本業の研究テーマの「倭寇」と重なり合うものを感じてしまって…最近の日本の沖合漁業でもアジア各地からの出稼ぎ人が乗組員の多国籍状態が目につくとの話を聞いていて、その辺も「倭寇」っぽいなぁ、と思ったこともあったもので。完全に脱線だが、映画ってのはひょんなところで思いがけないつながりを見つけてしまうことがある、ということで。

 第五福竜丸は新たな漁場へ向かう途中、西の空が突然明るくなるのを目撃する。「太陽が西からあがった」と思ってしまうほどの閃光。観客はそれが水爆実験であると承知しているわけだが、福竜丸の乗組員たちは最初のうちは良く分からず、特にビックリするでもなく、「なんだろう」とぼんやりしている感じ。これも恐らく実際の乗組員たちの証言をもとに再現したものと思われるが、実のところ人間あまりのおおごとに遭遇するとそんな反応なのかもしれない。
 ややあって「もしやピカでは?」と気づいた直後、轟音と共に船が衝撃を受ける。福竜丸は大急ぎで反転、できる限り遠くへ逃げようとする。光を見てから音が聞こえるまで7〜8分だから、と爆発地点を計算する場面もあり、これは雷の光と音の差で距離をはかる理科の問題みたいなもの。核実験だと悟った彼らは無電を打たず、飛行機に警戒しながら現場を離れる。結局焼津に帰るまで実験目撃を隠していて、これは時節柄米軍に「スパイ容疑」をかけられ拘束されるのを恐れたためであったことは映画中でもセリフで語られている。
 これを見ていて分かるが、当時日本の漁船もビキニ水爆実験を全く知らなかったわけではなく、ただその規模について正確な情報を与えられていなかった(米軍でも規模を読み誤っていたらしいが)。当時は第五福竜丸ばかりが注目されたが、最近になってほかにも多くの漁船が被ばくしていた事実が確認されつつあり、長期的にみてその被害はかなり大きかったのではないかと言われてもいる。
 
 現場で雪のような「死の灰」を浴び、3月14日に焼津に帰港した第五福竜丸の乗組員たちはまるで「南洋の土人」のように顔が真っ黒になっていた。一応医者にも見せに行くが、それほどおおごととは思わず、みんな家族や恋人に会いにゆき、夜の店にも繰り出して楽しく日常を過ごしている。ところが噂を聞きつけた新聞記者が特ダネとして本社に報告(夜中に写真屋を叩き起こして目的を隠したまま福竜丸の写真を撮るドタバタが妙に可笑しい)、翌日の朝刊にデカデカと「水爆に遭遇」の記事が福竜丸の写真付きで出て、当の乗組員たちがビックリ。マスコミが焼津に押しかけ、ガイガーカウンターがあちこちで不気味な音を発し、「放射能」騒ぎに発展。乗組員たちの相手をしたホステスたちもパニックになり、乗組員の一人の恋人は親から「キスしたのか!」と問い詰められる始末。乗組員たちの髪を刈ろうにも散髪屋がノイローゼで拒否、マグロにも放射能があるとなって食べた人もパニックになる。
 この大騒動の描写、今見るとどうしても東日本大震災と原発事故直後の不確かな情報から起きた過剰な風評被害のパニックを思い起こしてしまう。それでも描写自体はどこかユーモラスでもあって、作り手としてはそれが「過剰な風評被害」と理解したうえでやってることがわかる。

 やがて乗組員たちは東京の病院に移され、日本の最高レベルの専門医たちによる手厚い治療を受けることになる。はじめは詳しい情報を教えられず医療陣に不信感も抱いた乗組員たちも、医療スタッフの誠実な態度を見て和解、ともに治療に取り組むこととなる。事件は全国民の注目を集め、彼らは一躍「時の人」にもなって多くの人々から応援や励ましを受ける様子も描かれる。その一方で調査にやってきたアメリカ人の研究者スタッフの事務的、かつ責任問題を回避するための政治的な動きもさりげなくではあるが挿入されている。また脱線してしまうが、この第五福竜丸事件で日本で反核運動が盛り上がったことをきっかけにアメリカは日本の原子力発電推進を後押ししたとされていて、ここでも原発の話とリンクができてしまったりもする。

 乗組員たちのほとんどは快方に向かっていくが(映画でみる限りでは、当人たちには皮膚のやけど以外の自覚症状はあまりないみたい)、主人公の宇野重吉演じる無線長の久保山愛吉だけは年齢のためか肝不全を起こすなど容体が悪化してゆく。何度か重態に陥って「体の下に高圧電線があるみたいだ」といった苦痛を訴え、ついに静かに息を引き取ってしまう。僕はむかし何かの本で久保山さんが「核兵器の犠牲者は私を最後にしてほしい」と遺言した、という話を読んだ覚えがあるのだが、この映画では一切そんなことは口にしない。たぶんそれが関係者証言からの「史実」ということなのだろう。この映画では一応主役とはいえ特に目立つ場面があるわけではなく、乗組員たちのなかで唯一家族との描写があるだけの、いたって普通の人という描かれ方で、「悲劇の英雄」みたいに祭り上げることは慎重に避けられている。

 久保山の死後にも映画は時間を割いていて、遺骨が遺族らによって列車で焼津に運ばれ、その盛大な葬儀の模様まで淡々と映してゆく。盛大になってしまったのはもちろん水爆実験の犠牲者として「時の人」になってしまったためだが、当人がごく普通の人に描かれているだけにそのギャップは静かな怒りを見る側に伝えてくる。米国大使が参列して弔辞を読み、「真の平和と自由とが栄える世界、このような悲劇が二度と起こる必要のない世界の実現」を誓うくだり、そのまま素直に受け取ることもできるが、同時に欺瞞も感じさせ不愉快になる人もいるだろう。恐らく実際に読まれた弔辞をそのまま再現していると思われ、登場人物がそれに対してリアクションをする場面もなく、その判断はあくまで観客に任されている。作った側のスタンスとしては批判的な意図を持っていたとは思うけど、あくまで抑えに徹した演出だ。

 この映画は独立プロの製作ということもあって主役夫婦の宇野重吉と乙羽信子を除けば特に大スターが出演することもなく、当時無名の新人俳優たちが大勢出演していて、それがかえってリアリティを増すことにもつながっている。だけど今見ると端役乗組員に田中邦衛(若いころから一発でわかりますね)井川比佐志の姿があるなど、別の意味で「時代」を感じさせる発見も楽しめもするのだ。(2015/11/13)



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