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「真昼の暗黒」

1956年・日本
○監督:今井正○脚本:橋本忍○撮影:中尾駿一郎○音楽:伊福部昭○原作:正木まさし
草薙幸二郎(植村清治)松山照夫(小島武志)矢野亘(青木昌一)牧田正嗣(宮崎光男)小林寛(清水守)左幸子(永井カネ子)内藤武敏(近藤弁護士)飯田蝶子(植村つな)ほか




  タイトルに関しては知名度抜群の作品で、以前から見てみたいと思っていたんだけど、独立プロダクション製作映画ということで長らくソフト化されず、なかなか見る機会が得られないでいた。そして先日「ショージとタカオ」を見たのをきっかけに「冤罪事件といえば」と本作のことを思い出し、アマゾンで調べてみたら2007年にDVD化されていたことを知った。そして中古が一件ひっかかったので、それっと注文してしまった。
 で、ようやく初めて見る機会を得たのだが、DVDが汚れていたのか、それとも若干反っていたのかわからないが、映画の後半になって来るとしばしば再生がストップするようになる。パソコンで見ていたのだが、だましだましどうにか先へ進めても、肝心のラストの裁判の判決シーンになるとピタッと再生が止まってしまったのだ。それも裁判長がまさに判決文を読もうと髪を手にして持ち上げるシーンで止まるという物凄さ。判決の内容はわかってるんだけどそれをなかなか見せてもらえず、ストレス満杯に。試しに他のDVDプレーヤー、プレステ2やHDD-DVDレコーダーで再生してみたが、パソコンよりも前の所で再生不能になる始末。困ったもんだと試すうちにノートパソコン用に買った外付けDVDドライブだけがなぜか見事に、何の問題もなくラストまで再生してくれてようやく最後まで見ることができたのだった。こんなこと市販品のDVDでは初めてのことで、DVDディスクとドライブの相性なのかも、と思いつつもこれだけ再生できないってのはやはり欠陥品じゃないかと思うのだった。
 中古品だったからなのか、たまたま不良品にぶつかってしまったのか…それとは別に古い映画とはいえ画質・音質がかなり悪い気もする。オリジナルの保存状態があまり良くないんじゃないかという気もした。

 とまぁ、映画の内容に関係ない話から入ってしまったが。
 「真昼の暗黒」は日本で冤罪問題を扱った社会派映画の代表作というだけでなく、実際に起こった事件をモデルに、しかもその裁判係争中に製作・公開されたという異例の作品ということでも映画史に記憶されている。モデルとなったのは1951年に山口県で発生した老夫婦殺害および強盗事件である「八海事件」で、この映画が製作された段階ではその二審の判決が下り、最高裁へ上告されているところだった。この事件の弁護を担当した正木ひろしが冤罪性を主張する「裁判官」という本を出してベストセラーとなり、これを原作として社会派監督として知られる今井正(この時期すでにキネ旬ベスト10上位の常連監督であった)が映画化することになる。
 脚本はすでに「羅生門」など黒澤映画で名を上げていた橋本忍に依頼されたが、当初今井監督やプロデューサーらは裁判進行中の事件ということもあって「冤罪っぽいけど真相は分からない」ぐらいの線を狙って映画化をする気だった。しかし裁判資料を読みこんだ橋本忍は「これは間違いなく冤罪。無実とはっきりさせないなら引き受けない」と主張、今井監督らもこれに同意して「冤罪」と断定する内容にすることに決まったという。このためこの映画は今井正監督作品というだけでなく橋本忍の代表作であるとも言えるのだ。

 映画は老夫婦殺害現場が発見され、警察による捜査が開始されるところから始まる。その現場の凄惨さから刑事達は「単独犯ではない」と確信、これがその後の捜査の誤り、ひいては冤罪を招くことになる。
 冤罪事件と言っても、真犯人はすぐに捕まるのだ。映画では「小島」とされる青年(さすがに登場人物の名前は全て仮名になっている)が大金を所持して遊郭にあがっていたところを刑事達にあっさりと逮捕される。そしてこの小島が尋問に対して犯行に至った経緯を詳しく語り、その様子が映像でも描かれるのだが、刑事達は「お前一人じゃなかろう」と決めつけ、小島に激しい拷問を加える。他の冤罪事件でも見られることだが、とにかく刑事という人種は「こうだ」と決めたらそれに合う話を相手がするまで絶対に許さないらしい。この事件の場合、真犯人がありのままに話してるのに刑事達がそれを信じず、「共犯がいるだろう」と責め立てるという摩訶不思議な構図がある。この時代は禁止されてる拷問も平気でやってたのは事実のようで、小島は耐えかねて友人四人の名前を「白状」してしまう。もっとも事実の方ではこの真犯人の人物は拷問もさることながら共犯者を立ててそちらを主犯にした方が死刑にならずに済むからと「渡りに船」で刑事の話に合わせた、というところもあるらしい。
 小島の「自白」に基づいて主人公になる植村清治(草薙幸二郎)ら四人の友人たちが警察に逮捕される。彼らにはアリバイがあったので家族達は「すぐに釈放になる」と楽観視していたが、家族達の証言では信用されない。結局植村たちも激しい拷問を受けてやってもいないことを「自白」させられてしまう。

 ここで映画はいきなり一年ほど時間が飛ぶ。あえて一審の経過は見せずに二審の段階から裁判を描いてゆくのだ。一審では主犯とされた植村が死刑、他の四人は無期懲役という判決で、被告側はもちろん検察側も全員死刑を主張して控訴していた。ここで冤罪事件をいくつも扱っている近藤弁護士(内藤武敏)が弁護を引き受けて事件の調査に乗り出し、事件の疑問点を洗いだしてゆく。それと同時に被告人4人の家族たちの、無実と信じながらも世間体を考えねばならない葛藤・苦悩が描かれ、主人公・植村の内縁の妻カネ子(左幸子)も家庭の事情から植村と別れ、別の男性と結婚することになる(これは映画用のフィクションという気もするけど、確認はしていない)
 裁判で検察側は刑事達の拷問を一切否定、「虚偽は述べない」と誓う宣誓の場面が笑いさえ誘ってしまう。そして弁護側が調書の矛盾をつついていくと、真犯人であるはずの小島に検察側があれこれと入れ知恵して供述を二転三転させ、植村主犯説をなんとしても立証しようとするという本末転倒な事態に。
 映画の中で圧巻なのは弁護側が事件調書の時間的矛盾を突いてゆき、それが「こうでないと説明できない」といちいち映像化される部分。ここはまさに映画ならではの表現で、みんなでマラソンしながらの犯行相談、まるで早送りのようなスピードで進められる犯行、きわめつけはどうしても集合場所に間に合わないっていうんで、忍者よろしくポーズを決めて「ええいっ」とひと声、ポンッと瞬間移動してしまう(忍者にもそんなことはできないけどさ)という「特撮」まで出て来て、法廷だけでなく観客も爆笑してしまうことに。

 この公判を見て、被告人たち、その家族達も二審での無罪判決を確信する。喜びに満ちて法廷に集まった彼らに、裁判官は無情にも一審と全く同じ判決を言い渡す。いったい弁護側の主張した笑っちゃうような矛盾はどうなったのか。実際の事件の公判でどうだったかは知らないが、現実の冤罪事件でも裁判官たちは信じられないほど検察・警察の主張をうのみにした判決を出すものなのだ。
 二審判決を受けて、植村は母親と面会する。黙り込んで悲しげな顔をするだけで、何も言わずに立ち去る母親に、金網の向こうから植村が叫ぶ。「おっかさん、まだ最高裁があるんだ!」このラストシーンはこの映画を象徴する名場面となり、当時の流行語にまでなったそうである。

 この映画、製作段階から司法界の圧力がかかり、完成してからも大手映画配給会社からは扱ってもらえず、自主上映会という形で全国展開された。これがかえって話題を呼んで映画は大ヒット、あの「まだ最高裁があるんだ!」のラストシーンを見た観客はこれが実際にいま最高裁で審理中の事件であることに慄然としたに違いない。この映画を見て心を揺さぶられた別の事件の真犯人が警察に自首してくるという珍事までがあったという。そしてこの年のキネマ旬報ベスト1など各映画賞を総なめにしてしまっている。
 結果的に、この映画がこの事件の公判にある程度影響したことは否定できない。最高裁は翌年この裁判を事実誤認があるとして高裁に差し戻し、一度は高裁で真犯人のみ有罪、他は無罪とする判決が出ている。しかしその後また最高裁が差し戻し、今度は高裁でもう一度全員有罪判決、それをまた差し戻して、結局最高裁が真犯人以外の無罪を確定させたのは1968年のことになる。今も変わっていないが、日本の裁判ってなんでこうも時間がかかるんだろうか。

 最後に「真昼の暗黒」というタイトルについて。これはハンガリー出身の作家アーサー=ケストラーがスターリン時代のソ連における自白強要による粛清の実態を明らかにした著作「真昼の暗黒」のタイトルをそのまま拝借したものだ。今井正監督と言えば日本共産党員の左翼系映画監督であるが(山本薩夫も有名)、ソ連の実態を暴いた著作のタイトルをそのまま持ってきたところが面白い。ちょうど同じ1956年にソ連でスターリン批判が始まっていたことも影響したのかなと思ったが、映画の製作自体はそれより前から始まっているので特に関係はなく(タイトルがいつ決まったかが問題だが)、「自白強要」という権力による暗黒政治という点でまさにストレートにそのまま使えると思ったものかもしれない。
 この手の話って、決して「昔話」ではない。今の日本でもまだ「真昼の暗黒」は再生産されている、と思わざるをえない現状がある。半世紀も前の映画ながら、非常に今日的なテーマの映画として鑑賞しなければならないのだ。(2011/10/5)



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