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「ペンタゴン・ペーパーズ
/最高機密文書」
The Posti


2017年・アメリカ
○監督:スティーブン=スピルバーグ○脚本:リズ=ハンナ/ジョシュ=シンガー○撮影:ヤヌス=カミンスキー○音楽:ジョン=ウィリアムズ〇製作:エイミー=パスカル/スティーヴン=スピルバーグ/クリスティ=マコスコ=クリーガー
メリル=ストリープ(キャサリン・グラハム)、トム=ハンクス(ベン・ブラッドリー)、サラ=ポールソン(トニー・ブラッドリー)、マシュー=リス(エルズバーグ)、アリソン=ブリー(ラリー)、ボブ=オデンカーク(バグディキアン)、トレイシー=レッツ(ビーブ)、ブラッドリー=ウィットフォード(パーソンズ)、ブルース=グリーンウッド(マクナマラ国務長官)ほか




 スピルバーグの社会派路線映画の一本。この人も次から次へとコンスタントに映画を作ってる人だが、特にこの「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」とバーチャルゲーム世界を舞台にした娯楽作「レディ・プレイヤー1」とは立て続けの製作・公開となって、スピルバーグ映画の常連音楽監督ジョン=ウィリアムズはこの「ペンタゴン」に集中するため「レディ」の方は降板している。出演俳優でもこちらの方がメリル=ストリープトム=ハンクスと豪華だ、

 原題は「ThePost」で、物語の舞台となる有力新聞社「ワシントン・ポスト」はもちろん、機密文書の「投稿」の意味もかけているのだと思われる。洒落たタイトルだとは思うんだけど日本人にはピンとこない、ということで「ペンタゴン・ペーパーズ」という実際に使われた名前を邦題に持ってきた。だからオマケのように「最高機密文書」と説明用のようなサブタイトルまでついてしまった。最近の邦題って、どうもこういう「しつこいほどに説明的」なタイトルが多すぎる気がするな(邦画のタイトルにも一部あるな)

 時はベトナム戦争のさなかの1971年。アメリカ・ニクソン政権のマクナマラ国務長官(演:ブルース=グリーンウッド)は、ベトナム戦争の戦況が泥沼化し、全く先行きが見えなくなってしまっているとの報告を見て激怒するが、記者会見では表情をにこやかに一変して戦況が好転していると発言する(「大本営発表」ってのが日本の専売特許でないことがわかりますね)。あとの部分で出てくる話だが、ベトナム戦争が泥沼化した時点で、「なぜ戦争を継続するのか?」の理由に政権では「東南アジアの共産化を防ぐ」といった建前論以上に「負けを認めるわけにはいかない」という本末転倒な理由が挙がっていたとのこと(これまた大戦末期の日本と似てるなぁ)

 そんな国務長官の態度に怒ったのが、政府系シンクタンクのアナリストであったダニエル=エルズバーグ(演:マシュー=リス)という人物。政府がベトナム泥沼化を百も承知でありながらメンツで戦争を続けている、という事実を、政府系シンクタンクという立場を利用して大量の国防総省の機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」をコピー、それを有力全国紙「ニューヨーク・タイムズ」にリークしてしまうのだ。
 しかし映画の「主役」になっているのはそのライバル紙「ワシントン・ポスト」のほう。ワシントン。ポスト編集局長ベン・ブラッドリー(演;トム=ハンクス)は「ニューヨーク・タイムズ」が何か特ダネを報じるらしい、という気配をつかみ、自社社員をこっそり「ニューヨーク・タイムズ」の編集部に紛れ込ませる(完全にスパイ活動だな)など、あの手この手で何が特ダネなのかつかもうとする。日本の新聞社の間でも繰り広げられているドラマであるが、とにかく新聞記者というのは「他社に特ダネを抜かれる」ことを最大の恥辱と感じる生物なのだな。映画の前半は社会派ウンヌンよりも新聞社同士の仁義なきスッパ抜き合戦の様相が面白い。
 結局特ダネが何か判明するのは、「ニューヨーク・タイムズ」が朝刊で「ペンタゴン・ペーパーズ」の内容の一部を掲載したとき。「ワシントン・ポスト」編集部は当然大いに悔しがり、負けてなるかと自分たちも同じネタを追いかけ始める。

 しかし、この「ペンタンゴン・ペーパーズ」の報道に、ニクソン政権からの圧力がかかる。政府側の言い分は、味方の兵士たちを危険にさらすような軍事機密の報道を制限する「機密保護法」に触れる、というもの。ニューヨーク・タイムズの報道はこれにより法廷闘争になって、「ペンタゴン・ペーパーズ」の報道自体も一時的に止まるのだが、その隙を突く形で「ワシントン・ポスト」が同ネタを取材、政府の圧力に抵抗して報道をすることになる。まぁ見ようによっては他社のスクープの横取りに見えなくもないですが(笑)。

 さてこの映画の一応の主役は、「ワシントン・ポスト」の社主をつとめるキャサリン・グラハム(演:メリルストリープ)だ。彼女は夫の自殺により社主の地位を引き継いだもので、本来は経営も報道も素人。当時のことだから女性社主というのはかなり奇異にも見られたろうし、風当たりもいろいろあっただろう。しかし夫から引き継いだ新聞社を一流の高級紙に押し上げようという夢を持ち、自ら他社から引き抜いたブラッドリー編集長と何かとあれこれ口ゲンカをしつつも同志的結束のコンビとなっている。
 おりしも「ワシントン・ポスト」は株式上場という経営上の一大イベントを目前ん位控えてもいた。株式上場により会社の資金力を強化もできる和田が、金を出す人は口も出す。こんな時に政府相手に大喧嘩の報道なんてやってられるのか、という問題が出てくる。だいたい報道の元ネタが差し止めをくらった「ニューヨーク・タイムズ」とおんなじなので、それではマズイことになると顧問弁護士が心配する場面も出てくる。
 また社主のキャサリンは上流階級ではよくあることだが、以前からマクナマラ国務長官ほか政府高官と私的に交流がある。それを利用した情報入手とか、あるいは逆にそこをつけこまれた報道への圧力といった問題も浮上してくる。こうした事情は日本でもおんなじで、とくにここ最近のマスコミ上層部と政権の関係を連想させるところがあって、作り手の意図とは別だろうが面白く見てしまった。そうそう、ラストでニクソン大統領がワシントン・ポスト関係者の出入り禁止を指示してわめているくだりで、彼の妻をあれこれイベントに出すな、というようなセリフがあって、これもちょうど日本でも首相夫人をめぐってあれこれ騒ぎが起きたことを連想してしまった。

 報道の自由、報道と政府権力との距離、といった問題はこの事件だけでなく古今東西の普遍的問題だが、スピルバーグがこの時期にこの作品を作った動機は、名言はしてないのかもしれないけど、2017年に発足して以来、何かと自分に批判的なマスコミ報道を「フェイクニュース」tp騒ぐトランプ大統領の言動にあるのだと思われる。
 映画は、史実どおりではあるんだけど、主人公たちは敢然と「報道の自由」を守るべくニクソン政権に立ち向かい法廷闘争となる。ベトナム反戦運動の後押しもあって裁判所には若者を中心とした支持者が押しかけ、政府側の人間で「情報源」となる若者もサラリと出て来て、「この国もまだまだ捨てたもんじゃない」感を見せてくれる。考えてみるとスピルバーグ自身、これら若者世代だったんだよな。トランプ政権がやらかすあれやこれやに若者たちの抗議行動が報じられてもいるが、この映画、そうした動きと重ね合わせてみることもできるだろう。

 そして映画のラストは、1972年6月17日に「ウオーターゲート・ビル」の民主党本部に何者かが侵入、警備員に発見されるシーンとなる。そう、のちにニクソン政権を崩壊に追い込む「ウォーターゲート事件」の発端となる場面である(トランプさんの選挙疑惑が「ロシアンゲート」と呼ばれるのもこれに由来)。ここで急に終わるんで、知らない人には「?」な終わり方だが、これは「ウォーターゲート事件」における記者たちの戦いを描いた名作「大統領の陰謀」(1976、アラン=J=パクラ監督)があるからで、「あとはそっちで見てね」ということである。あれも「ワシントン・ポスト」の記者たちの話なので、こちらの映画には登場こそしないけど、あの「ポスト」編集部のどこかにダスティ=ホフマンとロバート=レッドフォードがいるんだよなぁ、と妄想して楽しむこともできるわけだ(笑)。(2012/7/1)



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