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「チベットの女イシの生涯」
益西卓玛/Song of Tibet
2000年・中国
○監督:謝飛○脚本:ザシダワ/謝飛○原作:ザシダワ○撮影:傳靖生○音楽:張千一
テンジン=ドカー(イシ・老年)、ラクチュン(イシ・青年)、オンドゥ(ギャッツォ・老年)、チンチェン=トゥンドゥプ(ギャッツォ・青年)、ツェリン=ジョジェ(クンサン・老年)、パサン(クンサン・青年)、チュンペー=ロサン(サムチュ・老年)、周鉄海(サムチュ・青年)ダトゥン(ダワ)ほか




 なんとなくタイトルと新聞テレビ欄の簡単な紹介記事を見て、NHKBSの放送時に録画しておいたもの。結局実際に再生してみたのは半年以上後のことで、冒頭の部分で「重そう」な気配を察したため、ズルズルと後回しにし、ようやく全編見たのは放送からかれこれ9ヶ月は経ってからだった。すでに「なんでこれを録画する気になったんだろ?」と当時の記録すら怪しくなったのだが、実際に全編を通してようやく納得。チベット現代史が物語に絡んでいたから「歴史もの」の関心から一応チェックしてみる気になったのだった。

 チベット…というとどうしても中国からの独立志向とその弾圧、といった政治的な話が絡んで来て面倒になる。とくにここ十年ばかり激しい騒ぎが何度も起きているし、この文章を書いてる時点でもチベット仏教徒の焼身自殺のニュースが相次いで流れたりしている。もちろん深刻な問題ではあるのだが、どうもチベットが絡むと欧米人を中心に妙に思い入れを持って熱くなる人たちがいて、正直そちらにもあまり感心していない。
 この映画は製作が中国ということもあり、政治的プロパガンダ映画じゃないのか、と身構える人もいそうだが、内容的にはその要素はほとんどない。もちろん中国映画として製作された以上独立問題とか政治的なことは巧みに回避しているが、原作がチベット人の小説であり、俳優も大半がチベット人で、ロケ地もチベット。チベット伝統文化も色濃く描かれた内容となっていて、製作されたのがチベットが比較的落ち着いていた時期ということもあってか、「中国色」はほとんど感じられない。物語もあくまで一人の女と、彼女をめぐる三人の男の愛憎物語という普遍的なものだ。

 映画は20世紀末の現代チベットから始まる。ポタラ宮を抱えるラサの町では昔ながらの伝統的、宗教的光景も見られるが、外国人観光客も多くなり、若者たちは「現代的」な文化・生活になじんでいる。主人公の老婆イシの孫娘ダワが北京の大学から帰ってくるが、ノートパソコンにインターネットを駆使するまさに「現代っ子」(祖父・祖母の家の電話回線でネット接続しようとする場面は僕にも覚えがあって「時代」を感じますな)。大学で彼氏とつきあって妊娠するが外国へ留学する彼に黙って堕胎しているなど、こういうところも「現代的」で、チベット人の伝統的な感覚からいえばビックリのものだろう。こういった急変する社会と伝統的文化のギャップもこの映画の一つのテーマになっている。
 主人公イシの夫ギャッツォはチベット仏教の経典の文字を石に掘る仕事をしているが、すでに末期の肺ガンに犯されていてもう先も長くない。しばしば体調を崩して病院に担ぎ込まれるが、そのたびに脱走を繰り返す頑固じいさんだ。そんな夫に従順に付き添い、いかにも昔堅気のおばあさん、というイシだが、孫のダワに夫とのなれそめを語り出すと、意外な過去が明らかになってゆく。

 ここから映画は現代の部分と、イシの回想部分とが交互に描かれてゆく。回想は1950年代、まだチベットがダライ・ラマを頂点とする昔ながらの宗教王国を維持していた時代にさかのぼる。貧しい農民の娘イシはチベット民謡の巧みな歌い手で、その美しさを大地主の息子クンサンに見初められ、その妾とされそうになる。そこへ山賊みたいな放浪の無頼者ギャッツォが流れて来て、これまたイシを見初めてしまい、クンサンと争ってイシを「略奪」し、既成事実を作ってしまう。このあたり、なんだか日本の江戸時代の時代劇を見てるみたいで面白いが、その前に老後の彼らを見ているだけに、とくにギャッツォ、あの枯れ果てた頑固じいさんが若いころはこんなにカッコいい乱暴者だったのか、とそのギャップに驚かされてしまう。

 一昔前、それこそ文革期以前のプロパガンダ映画だったら、大地主の息子クンサンは女たらしの悪役、義賊っぽさもあるギャッツォが「正義の革命闘士」に描かれ、「階級闘争」状態になっただろう。しかしこの映画はそうはいかない。ギャッツォは子供まで作ったイシをほったらかして放浪を続け、イシは生活上やむなくクンサンのところへ戻ってしまう。そしてそっちとの間にも子供を作っちゃう。クンサンだって決して悪い人には描かれないのだ。
 やがて中国の政策に反発して暴動が発生、ダライ・ラマはじめ宗教指導者や地主層の多くが国外へ亡命し、クンサンもイシとの間にできた子を連れて亡命してしまう。このくだり、直接的描写ではないもののその経緯に触れただけでも検閲がかなり甘めだったと分かる。そういえば文革期であることを示すために町中に「造反有理、革命無罪」のスローガンが張られている光景もあったっけ。

 
クンサンに息子を連れ去られたうえ、ギャッツォも娘を連れてどっかへ行っちゃうし、踏んだり蹴ったりなイシ。しかし女は強い。一人で過酷で遠い道のりを旅してギャッツォのもとへ向かうのだ。その途上で行き倒れになりかかったところを、幼馴染で僧侶になっていたサムチュに助けられる。映画の最初の方で伏線が張られていて、このサムチュが実はイシが淡い初恋をした相手であり、生涯における「第三の男」になるわけ。良い雰囲気まではなるのだが、もちろんそこは僧侶なのでサムチュは修行のためにイシを遠ざけちゃって精神的な関係に終始するけど。

 このイシをめぐる三人の男が最終的に「集合」し、個人的にも時代的にもいろいろあったけど、みんな和解して丸く収まっちゃう、とまとめてしまうとそういう映画なのだが、別に歴史的有名人でも何でもない一人の女とその周辺の人たちが、時代劇状態からネット社会の時代までの激変の時代のなかでそれぞれの人生を生き抜いたことが実感できるラストはやはり感動を呼ぶ。ま、ちょっとあの終わり方だけは全体的にリアルな話の中で「作り話」感が強すぎた気もするけど。演じている俳優さんも、特に老後の人たちは俳優とは思えないほどリアルな存在感があった(中国映画ではときどき素人さんが演じてることもあるので…)

 監督は謝飛(シェ・フェイ)。見終えてからこの文章を書くために調べて気付いたが、ずいぶん前この監督の「䔥䔥(シャオシャオ)」という映画を見たことがあった(中国史仲間でビデオ鑑賞会をやったのだ)。湖南の山岳地方だったか、古い習慣にのっとってかなり年下の男の子と、その「子守」がてら結婚させられた少女の一代記といったような映画で、かなり重い映画だった。これも伝統社会と「現代化」のギャップがテーマの一つだったような。この監督のフィルモグラフィーを見ると他にもモンゴルなど少数民族を扱ったものが多く、この映画もその流れの一本のようだ。
 最後に、映画中何度も出てくるイシの歌うチベット歌謡が実に美しい。英題が「チベットの歌」とされたのも納得だ。(2012/4/21)
 

 

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