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「アレキサンダー」
Alexander
2004年・アメリカ
○監督:オリバー=ストーン○脚本:オリバー=ストーン/クリストファー=カイル/レータ=カログリディス○撮影:ロドリゴ=プリエト○音楽:ヴァンゲリス
コリン=ファレル(アレキサンダー)、アンソニー=ホプキンズ(プトレマイオス老年)、アンジェリーナ=ジョリー(オリンピアス)、ヴァル=キルマー(フィリッポス)、ジャレッド=レト(ヘファイスティオン)、ジョナサン=リース=マイヤーズ(カッサンドロス)、クリストファー=プラマー(アリストテレ


 

  「歴史映像名画座」なんてものをやってるから、歴史映画とみればとびつく僕だが、この「アレキサンダー」はなんとなく敬遠してきた。まず劇場公開時だが、公開前から評判がかなり悪かった。3時間近くもある歴史大作、主人公は誰もが知る有名人、監督は巨匠オリバー=ストーン、とこれだけ「売り」になる要素がありながら、海外から聞こえてくる情報は悪評ばかり。作中にアレキサンダーの同性愛描写があるとギリシャ人たちが問題視し(あとで触れるがそういう非難自体はお門違い)、法的措置がどうのと騒ぎながら試写会やったら「騒ぐに値しない映画」と、ある意味もっとひどい評価で騒ぎが鎮静化した、なんてニュースまであった。それを受けてか、日本での興行側の宣伝ぶりも今一つ力が入っていない感じ。そんなわけでとうとう劇場に足を運ばなかった。これが特に注目もされてない作品だったら急いで見に行ったんだろうけど、なまじメジャーなところが敬遠の原因だった。

 その後、レンタルでリリースされて他のと一緒に借りたのだが、最初の方だけチェックして「あとで見よう」と止めた。そして他の数本を見終えた頃には返却期限が来てしまったので結局「アレキサンダー」は見終えないまま返してしまった。そんなこんなでどうもこの映画とは縁がない。そして今回、ようやく他の2本と一緒にレンタルして公開から8年にして全編見ることになったわけだ。「歴史映像名画座」にこの時代をテーマにしたものがすっぽり抜けているのはやっぱり変だったし。

 映画は紀元前323年、アレキサンダー大王コリン=ファレル。正しくはアレクサンドロスだが、ここでは英語読みに従う)がバビロンで急死するシーンから始まる。手を大きく上に挙げ、赤い宝石のついた指輪を差し上げるようにして、ついに力尽きてその指輪を床に落とす。伝記物映画の定番の一つ、主人公の死をまず描き、伏線となる小道具を出しておいてそれがラストで結びつく、という「市民ケーン」方式である。よくある構成だとは分かっているが、あまりにストレート、というか見え見えなんで困ってしまった。
 そこからいきなり数十年後のエジプトに飛ぶ。かつてアレキサンダーの部下で、現在はエジプト国王となっている老プトレマイオスアンソニー=ホプキンズ。歴史映画ファン的にはこいつの子孫がエリザベス=テイラーとかのクレオパトラになるんだ!と喜んでしまうところ)がアレキサンダーの思い出を回想し始める。映画でも言ってるようにプトレマイオスはアレキサンダーの部下として共に戦った戦友であり、大王死後の後継者争いでエジプト国王になるという成功者であり、伝説ではアレキサンダーの遺体を奪取してエジプトに葬った(その墓探しはまだ行われている)という人物で、クローズアップするには確かにいい人選だ。
 ただ、彼をナレーション役にしてアレキサンダー大王映画をやろうというのはやっぱり無理があったと思う。映画はプトレマイオスが書記にアレキサンダーの物語を語る部分と、それを映像化したアレキサンダー中心のドラマ部分とが交互に描かれる構成になっていて、それ自体は伝記映画によくある方法なのだが、この映画の場合この場面切り替えが「話の腰を折る」結果にしかなっていない。とくに老プトレマイオスがしゃべるパートは彼一人が延々しゃべってるだけで書記や従者たちがちょっとリアクションするだけなので退屈だ。

 アレキサンダー大王といえば両親のキャラクターも強烈。父親フィリッポスヴァル=キルマーもさることながら、母親オリンピアスアンジェリーナ=ジョリー…コリン=ファレルと「母子愛」の噂が流れたっけな)が史実でも相当な魔女なので、この映画でもその存在感はたっぷり。この両親の確執がアレキサンダーのトラウマになっていた、というのがこの映画の実質的テーマで、アレキサンダーのあの大遠征は「母親から逃げるため」という屈折的マザコンが動機になっていたかも、という解釈。それはそれで面白いのだけど、どうもこの映画、ヘンにはしょってるせいもあってそれに説得力がないんだよな。
 幼少期のアレクサンダーの家庭教師として、有名なアリストテレスクロストファー=プラマーが登場している。目立つ出番ではないが、ギリシャ文化の優位を唱えてペルシャを野蛮と呼び、世界の構造(それは情報不足で間違っているのだけど)などをアレクサンダーに教え、もう一つの大遠征の動機を与える役割だ。また、アレクサンダーに「男性同士の純粋な愛情」が至高のものであることを語る場面もあるが、これは当時のギリシャインテリ界における常識でもあった。
 先述のようにこの映画ではアレクサンダーの同性愛的描写があり、そのお相手がヘファイスティオンジャレド=レト。これは決してこの映画オリジナルの設定ではなく、実際に史実として伝えられているもの。ギリシャでの批判の声に配慮してかなりカット・編集したとの噂もあるが、完成した映画でも両者の関係はあくまで精神的かつソフトなものにとどめられている(といっても「最後の夜だ…」なんて言いつつ抱き合うやりとりもあったりする)。映画の冒頭とラストで二度あるアレクサンダーの死の場面は直前に死んだヘファイスティオンの後を追うような描かれ方になっていて、この二人の関係も映画の軸の一つとなっている。

 有名人の伝記映画なので少年時代に荒馬を乗りこなした逸話から始まって、ダレイオス3世の家族とのやりとり、東方へ進出したあとの暗殺未遂や反乱、部下の殺害など有名どころのエピソードは結構おさえている。その一方で「ゴルディアスの結び目」がなかったり、イッソスの戦いがカットされてガウガメラの戦い一本に絞るなど、特に前半を中心に急ぎ足。作者はアレクサンダーの栄光よりも暗い影が目立ってくる遠征後半に焦点を当てたかったらしいのだが、後半の暗さを強めるためにも前半はもっと輝かしく描いても良かった気もする。
 前半の部分で謎なのは、彼の生涯で大きなキーポイントとなるはずの父フィリッポスの暗殺のシーンがまるごとカットされ、ナレーションで済まされていること。アレクサンダーがコリン=ファレルに交代して父との逸話がいくつか重ねられた直後、いきなり暗殺と遠征開始がナレーションで語られ、一気にガウガメラ戦に飛んでしまうのだ。「あれれ?」と思ってみていたら、後半でアレクサンダーが自分を批判した部下クレイトスを殺してしまい悔恨するくだりで唐突に回想に入り、ここでフィリッポス暗殺シーンが詳細に描かれるのだ。これ、どう見ても当初のシナリオでは年代順どおりになっていたのを編集段階で変えたとしか見えず、作り手としてはそのほうが効果的と思ったのだろうが、観客はそれこそ「話の腰」を折られ、行ったり来たりする展開に戸惑うだけ。見終えてから頭の中で年代順通りに再編集して脳内再生をやってみたのだが(笑)、明らかにその方が映画としてまっとう。オリバー=ストーン、何を血迷ったんだ?

 そんなわけで映画の後半、中央アジアやインドを彷徨いながら暴走泥沼状態になっていくアレクサンダーの描写は結構見どころ。でも観客の多くは正直そんなの見たくないんじゃないかなぁ。最後に暴走するアレクサンダーが部下たちにより暗殺されたことを示唆する描写があるが、一つの可能性としては否定できないと思いつつ、中途半端に描かれるだけにかえってモヤモヤしたものが残る。最終的にはプトレマイオスがアレクサンダーを偉大な人物と称えて終わるのだけど、そこまでの描き方が描き方だけにそんな着地をされてもちっとも説得力がないのだ。(2012/5/3)




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