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「墨攻」

2006年・中国/日本/韓国
○監督:ジェイコブ=チャン○撮影:阪本善尚○音楽:川井憲次○原作:酒見賢一/久保田千太郎/森秀樹
◇主な出演◇
アンディ=ラウ(革離)アン=ソンギ(巷淹中)ファン=ビンビン(逸悦)ワン=チーウェン(梁王)チェ=シウォン(梁適)ニッキー=ウー(子団)ほか




 この映画、製作経緯とその体制を説明するのが非常に面倒くさい。もともとの原作は古代中国物を多く書いている日本の小説家・酒見賢一の同名小説なのだが、それを下敷きにして久保田千太郎のシナリオ・森秀樹の絵による漫画版が作られ、映画の直接の原作はその漫画版ということになっている。このため原作小説→漫画→映画と媒体が変わる過程でキャラクターやストーリーに変化が生じ、それぞれ同じ話のはずなのにかなり受ける印象が違う作品となった。とくに映画版はアンディ=ラウという大スターを主役に据えたために、小説・漫画よりさらに別物の印象が強くなった気がする。

 また、この映画は「どこの国の映画なのか」の説明がまた大変。舞台は中国であり、撮影も中国で行われているが、原作は日本の小説&漫画、監督は香港、撮影と音楽は日本、という状態。そして主演のアンディ=ラウは香港、ヒロインのファン=ビンビン(范冰冰)は中国本土、ニッキー=ウーは台湾と中国系でも入り混じる上に、敵役の巷淹中を韓国の大御所アン=ソンギ、梁適を韓国のアイドル系チェ=シウォンが演じるという、多国籍状態だ。とくにアン=ソンギといえば昨今の「韓流ブーム」なんぞ起こるはるか昔から韓国映画を見ていた人には「なんかいつも大物役で出てる人」という印象の名優で、彼が本来韓国とまったく縁のない古代中国ものに重要な役で出演する(それも大物として招待したと思われる)というのは大変なことなのだ。中国語のセリフは吹き替えなのだが、現場では口の形を合わせるために中国語セリフに近い音になる韓国語で演技をしていたという。画面からはそんな苦労も全く感じられない貫禄ぶり、さすが国民的名優である。 
 その昔丹波哲郎が香港映画の「水滸伝」に主役並みの盧俊義役で出たことがあり、その時もセリフはデタラメにしゃべって「雰囲気」で演技し、吹き替えのセリフがかぶせられたとのことである。
 
  この「墨攻」に前後して、中井貴一が出演した「ヘブン・アンド・アース」とか、真田広之チャン=ドンゴンが出演した「プロミス」(陳凱歌監督)高倉健主演の「単騎、千里を駆ける」(張芸謀監督)中村獅童が出演し一時は渡辺謙や韓国スターの出演も噂された「レッドクリフ」(ジョン=ウー監督)など、大げさに言うと東アジア共同製作みたいな映画が多く世に出た。いずれも中国映画であることが共通点で、近年急速に発展して映画の市場も資本も大規模化した中国において、日本や韓国のスターを出演させることで大作感を出し、さらには日本や韓国でも売り込もうという商売上の狙いも感じられる。この「墨攻」もその一例だが、日本人俳優は出演せず、製作スタッフに日本人が入っているのが特徴だ。
 この映画は中国古代史ものだが、かつて日本で「秦・始皇帝」だの「楊貴妃」だの「敦煌」だの、最近でも「蒼き狼・地果て海尽きるまで」なんてのが作られたことを想い浮かべると、そのうち逆に中国・韓国のスタッフ・スターによる日本史もの映画が出来るんじゃないのかな、とこの映画を見た時に思ったものだ。

 さて、この「墨攻」は中国の戦国時代に実在した思想集団「墨家」をテーマとしている。墨子によって創始された墨家集団は「兼愛」(無差別の博愛)「非攻」(侵略戦争の否定)を掲げ、戦争を否定するために侵略された側に助っ人について自衛のための戦闘集団として戦うといった、中国のみならず世界思想史上においても異色の集団だ。守りに徹することを意味する「墨守」という言葉もここから生まれ、酒見賢一はその言葉をひっくり返してこの「墨攻」というタイトルをひねり出している。
 戦国時代、大国・趙の軍隊が小国・梁を攻撃する。なすすべがない梁は墨家集団に救援を求めるが、やってきたのはたった一人の墨家・革離(アンディ=ラウ)だった。革離は大軍の攻撃におびえる王や貴族たち、そして城内の民衆を組織して、あの手この手の策を繰り出して防衛にあたるが、敵の将軍・巷淹中(アン=ソンギ)もさる者で、これまたあの手この手の謀略を駆使して梁を攻め落とそうとする。この二人の知力合戦がストーリーの主軸になっているのは原作・漫画と同じだ。
 小説・漫画では中年以上のオッサン風の革離だが、映画ではアンディ=ラウなもんだからグッと若く、カッコイイ。まずここからして「映画は別物」という印象だ。革離が初めて登場する場面、その風体が「ジェダイの騎士」そのまんま(笑)なのも、「映画的」な点だろう。まぁ確かに史実の墨家集団もジェダイっぽい存在と言えば言える。

 革離が青年になってしまった分、映画では革離が禁欲的な墨家集団に属しつつ、普通の青年の一面も見せて多少の葛藤が描かれる。とくに原作にはないオリジナルのヒロイン・逸悦(ファン=ビンビン)を登場させ、彼女との淡い恋愛関係がストーリーの軸の一つになっている。恐らく原作にまったく女っ気がないからと、中国語圏トップ人気の美女スターを持って来ちゃったのだろうが、どう話に絡めようかと困ったあげく「女武将」という現実にはありえない設定になってしまったと思われる。彼女が革離に接近、革離の方は禁欲的にそれを斥けるのだが、それが墨家の「兼愛」の精神と絡んできて、というあたりは考えたもんだとは思うのだけど、やはりこの話に美女を絡めるのはもともと無理だったんだと言うしかない。

 革離と巷淹中の攻防戦はおおむね原作に沿っている。だが映画の方はより泥臭く、容赦なく凄惨な戦いになっている。とくに庶民たちがしたたかで、生き残るために手段を選ばないところなどは原作にない観点。これは中国映画の戦争描写がもともとそう言う傾向があることや、墨家のテーマ「非攻」をより強調しようという意図もあると思う。
 趙軍が「飛行攻撃」をかける場面は、原作漫画では発射台+パラシュートという趣だったが、この映画ではなんと「気球」によるものとなっている。当時実際に気球があったとは思えないのだが、中国では日本の灯篭流しみたいに小型気球を飛ばして霊を慰めるという習慣もあるので、漫画の描写よりは説得力があるとも思える。ラストの水攻めも原作にあるものだが、映画はよりぶっとんだ描写になっていて、こちらの方がかえって現実味を欠いている気もした。
 原作漫画には動物的な奇形の持ち主として登場するキャラクターが、こちらでは西洋人を思わせる風貌の人。その容貌ゆえに差別された、といった設定は映画ではほとんど生かせていない。


 以下、ラストに向けてのネタばれこみ。
 
 ラスト、原作同様に革離は水攻め作戦によって巷淹中を逆転、梁城を勝利に導く。しかしヒロインの逸悦はタッチのすれ違いで助けられない。あの救出に向かうシークエンスの長さから、ハリウッド映画だったら確実に救出されるなと思っていると、それをはぐらかすかのように結局助けられずに終わる。戦いには勝利したけど空しさが…みたいな結末を狙おうとしたのかもしれないけど、あのすれ違いぶりにはなんでそこまで描かなきゃいけなかったかな、と。だいたいファン=ビンビンさん、本当に溺れかかってて大変じゃないかと(笑)。総じて彼女の出演じたいに無理があったのだと思う。
 映画の冒頭で出てくる戦災孤児のモノローグがラストに来て映画として円環を描いてまとまる形になってるんだけど、これもその子たちが途中でほとんど描かれていないので構想倒れ。その後革離が戦災孤児たちを養って暮らした、というラストは映画オリジナルで原作も小説と漫画で異なるのだが、あまりうまく生かせているとは思えない。

 総じて辛いことを書いてしまったが、中国歴史ものの醍醐味、大掛かりな人員動員のスペクタクルシーン、激突と表現するにふさわしい激しい戦闘シーンなど、見どころは結構多い。この時代の専門家ではないのだけど雰囲気的には時代考証もかなり正確なように思う。そのぶん暗くて地味で派手さがないけど。
 わざわざ招聘したアン=ソンギの、老練な将軍ぶりは確かに堂に入ってるのだけど、正直なところ彼にわざわざやらせる意味がどれだけあったのか、という気も。(2011/10/2)




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